死憶の異世界傾国姫

偶然に抗う縁

　ガラガラと轟音を響かせて、大きな馬車がこちらに向かって来る。

　四頭立ての豪華な馬車。

　緑の車体は金の装飾も煌びやかで、淡い朝の日差しの中で強烈に主張していた。

　間違いない。グプロス卿の馬車だ！

　なぜ卿の馬車が門へと爆走しているのか？

　決まってる！　この街から脱出する気だ。

　シノニムさんの活躍で、グプロス卿の数々の悪事が露見した。まして罪状が帝国への寝返りと来れば、自害で済めば温すぎる。恐らくは一族郎党が断頭台送りに違いない。

　てっきり帝国の援助を頼りに籠城するつもりかと思ったが、何らかの事情でそうも行かなくなったのだろう。

　そして、兵に囲まれる前に逃げを打ったと言った所か。

　絶好のチャンス！

　狙うべき相手が向こうから来てくれた。

　しかしその幸運に歓喜するどころか、俺は追い詰められ、浅い呼吸を繰り返すだけ。

　――体が！　動かない！

　同じ広場、同じ馬車に轢かれ、ライル少年は死んだ。

　その死の記憶に引きずられる様に、当時のライル少年同様、恐怖に体が固まって動かない！

　パルメスの記憶から蛙の幻影を追って湖で溺れた時は、御側付きのピラリスが居た。

　シルフ少年の記憶で、薬草の幻に足を踏み外そうとした時は、妹のセレナが助けてくれた。

　成人の儀の祠では、プリルラ先生の死の間際の記憶で頭を抱える俺に、田中が声を掛けてくれた。

　考えてみれば今まで俺は、一人で記憶がもたらす死から逃れられた事は無い。全部、周りの人間が助けてくれたんだ。

　記憶から来る死は危険だ。

　普段なら強固な運命が死を遠ざけてくれる。

　だけど、死の記憶が現実と重なる時。かつての死が今の運命と重なり、運命すらも俺を死へと誘導する。

　『偶然』と『運命』

　その両方を敵に回し、俺の死へ事象が収束していく。

　記憶の中の馬車と現実の馬車は今やぴったりと重なり、轟音と死を運んでくる。

　恐怖で固まったライル少年は、轢き殺されて死ぬその瞬間まで、一歩も動けず、自分を轢き殺す馬車を呆然と見ていた。

　だから死の原因も知っている。そこから目線が外せない。

　見たくないのに、見てしまう。

　轍（わだち）だ。往来激しい広場、どんなに固い石畳でも、人や馬車の通り道だけがすり減って溝を生む。

　この轍にライル少年は殺された。轍で跳ね上がった馬車に無惨に踏み潰されたのだ。

　石畳の様子は当時と微妙に異なっている。

　きっとあの事件を切っ掛けに石畳は交換されたのだろう。

　しかし、三十年の年月が経ち、再び同じ場所に轍が刻み込まれていた。

　あの時と全く同じ形で。

　偶然ではなく、運命が俺を殺そうとしている。

　その事実にゾクリと背筋が凍る。

　死の宣告は確実に履行されて行く。

「どけぇ！　どけぇ！　道を開けろー」

　御者の叫び声。そうだ、あの時のライル少年にも御者の叫びはハッキリと聞こえていた。

　御者はあの時とは全くの別人。

　だが叫ばれた言葉は全く同じ。

　コレだけのスピードだ、平民を避ける為、事故を起こしたとなれば責任問題。怒鳴ってどかせるのが普通だが、相手がショックで動けないと見るや、慌てて御者は馬車の制御を試みる。

　あの時も、そして今この瞬間も。

　だが、ぐいっと引かれた手綱も虚しく、石畳に彫られた轍（わだち）がジャンプ台の様に車輪を浮かせた。

　超重量の馬車、その腹となる底板が見上げた視界一杯に広がり、空転する車輪が目前に迫る。

　――グチャリ

　自分をミンチへ変える音こそが、少年の最期の記憶。

　そして、俺の最期でもある。

　……ハズだった。

「なん……で？」

　死の恐怖に耐えきれず、蹲り、目をつぶってしまった俺が、恐る恐る目を開けた先には横転した馬車。嘶く四頭の馬。

　――ゴロゴロゴロ

　……カラン。

　俺の目の前。転がった末、壁へと衝突し、乾いた音と共に石畳へ倒れたのは……馬車の車輪であった。

　思えば轍を踏んだ瞬間、ガコンと何かが外れる音がして、そこから馬車の姿が二重にブレた。

　その時点で、俺の運命は変わってしまった。

　俺を無惨に轢き殺した馬車と車輪はライル少年の記憶が生んだ幻影。

　本当の車輪は轍の衝撃に耐えきれず馬車から外れ、馬車は無残に横転していた。

「なんで？　ありえない！」

　何たる偶然、何たる幸運と快哉を叫ぶ気になれない。

　『偶然』は常に俺を殺しに来ていたハズだ、ここぞと言う場面でデレるなどあり得ない。

　だったら何が？　何が俺を守ってくれたんだ？

　そんな僅かな逡巡（しゅんじゅん）は、横転した馬車の窓から這い出す人物を見た瞬間掻き消えた。

「どうした？　何が起こった！」

　でっぷりした腹に豪華な服、愚鈍な様子で窓から這い出すと、バランスを崩し無様に地面に転がる男。

　見覚えがある。

　グプロス卿に間違いない。

　俺は杖代わりにしていた槍を手に取り、一目散に駆け寄っ……れなかった。

「グッ」

　槍が異様に重い。杖代わりに地面に立てていたから気が付かなかったが、穂先に重量の有る何かが突き刺さっていた。

「ゲッ！」

　死体だ、立てかけられた穂先に貫かれ、恐らく即死。

　良く見れば、馬車の御者に違いない。横転する馬車から投げ出され、俺の槍の穂先に偶然に飛び込んでしまったワケだ。

　……いや、ただの偶然じゃない。

　これも俺のもたらした『偶然』だ。

　もし俺が槍を杖代わりにして蹲っていなければ、吹っ飛ばされた御者は俺を巻き込んでいただろう。

　少なく見積もっても60kgは有る御者の体が直撃すれば、40kgも無いだろう俺の体は無事では済まない。

　下手をすれば……いや多分下手をして死ぬ様に吹っ飛ばされたのだ。『偶然』に。

　俺が槍に縋りついて蹲ったから助かったに過ぎない。

　だとすれば、『偶然』はやはり俺を狙っている。

　そして、地下室で何気なく手に取ったこの槍が、俺を守ってくれたのだ。

　俺は今更に、手に取った槍をジッと見る。

「そっか、そう言う事か」

　やはり俺は守られていた。俺は穂先から死体を外し、かつて教えられた様に腰だめに槍を構える。

「ヒッ！　ヒィ！」

　その様子を見たグプロス卿は、腰が抜けたように後ずさる。そのあんまりな様子に思わず笑ってしまう。

「なんだよ、つれないな。あんなに熱っぽい視線で見ていたくせに」

　よく見れば俺の体は血（ち）塗（まみ）れでこれでは恐怖するのも仕方が無い。

　御者の血を浴びて全身がビチャビチャだ。死の幻影に怯え、そんな事すら気が付かなかった。

　ようやく色と臭いを取り戻した世界で、最早恐怖も震えも無く、軽やかに足が動いた。

「や、ヤメッ！」

　グプロス卿の叫びも気にならないし、まして魔法だって必要無い。

　気負いも無く、習った通りに体が動く。

　――下段の構え。

　本当は脚を払って転がった相手を突く型だが、既に転がった相手にも勿論有効だ。

「ィヤァァ！」

　練習通りの掛け声。そして踏み込みと共に突き出された槍は、真っ直ぐにグプロス卿の心臓を捉えていた。

「練習通りに出来たよ、ヤッガランさん」

　血に塗れの槍を見て、俺は笑う。

　この短槍は、まだ見習いだった頃のヤッガランさんが好んで使っていた物だった。

　ライル少年が槍に悪戯し、こっぴどく怒られた。

　その時の傷が、まだ残っているのだ。

　隊長になったヤッガランさんは、もっと別の立派な槍を持っていたが、この槍は後輩へと大事に受け継がれていたに違いない。

　だけど、きっと受け継がれた誰かはゼスリード平原で死んだ。

　犯罪組織の連中が死体を漁るのはよくある事。なんの因果か、それこそ運命か。俺の手に収まり、そして俺を守ってくれた訳だ。

「しかし、結局ライル少年に仇を取られちまったな」

　ライル少年の復讐は果たした。

　だが、俺は田中の借りを返せていない。どこか不完全燃焼。

「いや……その心配は無いか」

　スフィールの領主グプロス卿が、たった一人で逃げ出すハズがなかった。

　馬車の横転、嘶く馬。窓から惨状を窺い、悲鳴をあげる市民の声。

　あまりにも目立ち過ぎた。

　馬蹄を響かせ駆け付けたのは、騎士鎧に身を包んだ男達だった。

「あーあ、隊長！　見て下さいよ。あんなにスピードを出すから、転がっちゃってますよ」

「しかも止めまで刺されて、ツイて無いですねー」

「えー？　でも俺らもヤバく無いスか？　グプロス卿死んじゃって、コレからどうします？」

　騎士姿に似合わぬ軽い調子でニヤニヤと笑う男達。見えるだけでも五騎。立派な鎧に反して、一見してロクでも無い人間どもだと解る。

　現に、こちらを窺っていた市民たちすら、木窓をピシャリと閉めて引っ込んでしまった。

　こいつらスフィール市民にとって関わってはいけない人間なのだ。

　札付きのワル。

　騎士達は馬上のまま、遠巻きに俺の周囲をグルグルと周り、ニヤニヤと笑う。

「いやいや、この娘でしょ？　グプロス卿と帝国が狙っていたって森に棲む者（ザバ）の姫って、帝国に逃げるならサイコーのお土産でしょうが。あんなオッサンの元で腐るよりよっぽどオイシイ展開ですよ」

「ええっ！？　森に棲む者（ザバ）ってヤバく無いですか？　帝国兵百人からを返り討ちにしたんでしょー、ヤーバイッスよぉ」

「無傷で生け捕りにしようとするからですって、なんでも死に掛けの人間でも、魔法で治せるらしいですよ？　手足の一本や二本千切ってしまいなさいな、僕たちの得意分野でしょう」

「俺、いっつも殺しちゃうんですよねー、死んだら流石にマズイでしょ？」

「うーん、それでも手ぶらよりは良いんじゃないですか？」

「それもそっスねー」

　馬鹿な会話だ。だがその間も馬の脚を止めず、一切の隙が無い。態度に反してかなりの腕と思って間違いない。

　加えて、その数も五騎では済まなかった。気が付けば追加で十五騎。

　合計二十セットの人馬がゲイル広場を占拠していた。

　……コイツらが破戒騎士団か？

　田中すら恐れた、ヤバい実力者集団。

「マズイ……な」

　聞いた時から嫌な予感はしていた。俺の『偶然』はマメなんだ。そういうイベントを外しはしない。

　やたら引っ張りやがって。いよいよ出て来やがった！

　しかも最悪のタイミングで！

　馬は人間以上の健康値の塊だ。今の魔力値なら大抵の人間の健康値なら突破出来るが、馬が相手ではそうも行かない。

　城に忍び込めれば、あとは魔法でどうとでもなると思っていた。

　しかし、相手が馬ではズーラー相手にやって見せた様に、高速移動で体ごと槍で突っ込むみたいな捨て身の攻撃しか通じない。

　アレだって逃げる相手だから上手く行ったに過ぎない。

　騎士相手に同じ事をやったなら、突っ込む勢いのままに串刺しになるのは、俺の方になるに違い無いのだ。

　再び俺は動けなくなった。

　先程と違い、恐怖に身が竦んだ訳では無い。

　ゆっくりと包囲を狭める騎士をどうするか？　俺には何一つ思いつかなかったからだった。