死憶の異世界傾国姫
ぎむねま
序章
エルフの姫
深い、深い、森の中。
何人も寄せ付けぬ天然の要塞にして、静謐な空気に守られし大森林の最奥。
そこに『彼ら』の宮殿が有った。
『彼ら』とは?
……果たしてなんと呼ぶべきか。
異なる世界の話となれば
北欧神話の名で彼らを称するべきではないだろう。
……ないのだが。
森に住み
魔法と弓が得意な
耳が長い種族
ここまで揃えば、彼らを呼ぶに
『エルフ』
よりも通りのよい名は見当たらない。
彼らエルフは人を寄せ付けぬ大森林で、独自の文明を築いていた。
その最たるモノがこの宮殿。
彼らの宮殿は、樹木によって出来ている。
木造と侮るなかれ。
この威容を目の当たりにすれば、貧相とは口が裂けても言えないハズだ。
木で造るという考え方が、まず違う。
木が造る。それが正しい。
なにせ、この宮殿は
大樹が自ら宮殿と変じたような威容。
ひとたび目にすれば、たちまち圧倒されるに違いないのだ。
……もっとも
只人がこの宮殿まで辿り着く事は決してないのだが。
そんな神聖なる宮殿のさらに奥。
離宮と呼ばれる空間。
切り取られたかのように光差す場所に、ひと組の
「ほらいい子ね、ユマちゃん。お腹にお耳を当ててごらんなさい、赤ちゃんの音が聞こえない?」
「んー? わかんない!」
穏やかに語り掛けるのはエルフの王宮が誇る、輝く金の髪も麗しき王妃、パルメ・ガーシェント・エンディアンその人である。
娘の前では笑顔を絶やさぬ王妃であるが、彼女は三つの憂いを抱えていた。
ひとつは、これから生まれてくるお腹の赤ちゃんの事。
出産の不安である。
しかし、コレばかりは仕方が無い。出産を控えれば、誰でも不安と喜びがない交ぜになるものだ。
だから本当の悩みは、残りの二つ。
そのどちらも、目の前で小首を傾げる、銀の髪を持つ娘の事だった。
もうすぐ三つになる娘、ユマは実の娘ではない。それどころか純粋なエルフでもない。
人間とのハーフである。
だからと言って可愛くない訳じゃない。
むしろ逆、パルメは血の繋がらぬ娘ユマにこそ、誰より幸せになって欲しかった。
なれど、ユマは健康とは言い難い子供であった。
それこそがふたつめの悩み。
すぐに熱を出すし足元も覚束ない。そのせいかユマは引っ込み思案で知らない人が居るだけで途端に何も言わなくなる。
ある日突然パタリと倒れて、そのまま死んでしまうのではないか。
パルメは不安で仕方がないのだ。
医者達はこのままでは成人する事もなく、家名のガーシェントを継ぐ前に死んでしまうと口を揃えた。
人間には大森林の気候が合わないのだと、せめて大森林の外周で育てるべきだと警告された。
けれど生まれの複雑さも相まって、王の血を引く娘を里子に出すには危険に過ぎた。
パルメは娘をどうするべきか悩み抜いていた。
最後の悩みはユマの『頭』の問題だ。
頭と言っても知能の問題ではない。
まして、魔力の問題ではない。
そりゃあ人間の血が混じったユマの魔力量は少ない。でも、それは誰もが覚悟していた事だ。
だからユマが心配されているのはそんな事じゃない。
「もうすぐユマちゃんはお姉ちゃんになるのよ? 楽しみ?」
「うん、たのしみー」
「そうよね、でもお姉ちゃんになるのに、自分の名前を言えないのは恥ずかしいわよ?」
「そうなのーー?」
そうなのだ。
娘はまだ自分の名前を言えない。
しかし、パルメは知能に問題があるとは思わない。なにせ、ユマは自分の名前以外は言えるのだ。
それどころか、十人以上も控える侍女の名前を決して忘れない。大人顔負けの記憶力に舌を巻くことも少なくないのだ。
なのに自分の名前が言えない。
いくら呼びかけても『ユマ』と言う名が自分のモノだと認識出来ない。
知能は問題ないのに、ただソレだけが理解出来ない。
まるで、そこだけぽっかりと欠けてしまったように。
もう三歳だ、人間でもちょっと遅いかな? となる年齢。
ましてエルフは成長が早く寿命も長い。それこそが選ばれた民の証だと思っている長老たちなぞは「蛮族の血が混ざるとあのザマだ」と吹聴して憚らない。
それだけでも許せないのに、パルメとは血を引かない娘だからと、ご機嫌伺いのつもりでパルメの目の前でユマをあげつらう者まで居るのだ。
パルメにしてみればやりきれない。
彼女はどうしても娘に自分の名前を憶えさせたかった。大きな声でユマに自分の名前を宣言して欲しかった。
だから、パルメは今日も娘に名前を尋ねるのだ。
「じゃあユマちゃん。今日こそ自分の名前言ってみよっか?」
「うんー?」
小首を傾げる様はなんとも可愛らしい。
その瞳にはハッキリと知性が宿っている。
やはりこの娘の知能が低いなど、冗談でも言われたくないパルメであった。
「じゃあ、さんはい! あなたの名前はなんですかー?」
「えーとねー、わたしのなまえはー」
「あなたの名前はー?」
なんでもない質問だ。
もっと幼い子供でも快活に自分の名前を叫ぶ歳。
「うーんとね……」
けれど、娘はいつもココで言葉を濁す。
何か言いたそうにして、何も言えずに黙ってしまう。
しかし、今日は違った。
ここからが違った。
ジッとコチラを真っ直ぐ見つめる。
人が変わった様だった。
パルメはその目を覗き込んだ。
覗いてしまった。
そしてハッと息を飲む。
そこに宇宙があったから。
異様な世界の広がりを娘の瞳の奥に見てしまった。
娘の瞳が遙か彼方、果てなき世界と繋がってしまったような、そんな感覚。
その時だ、ユマがその名を呼んだのは。
「私の名前は『高橋敬一』」
「えっ!?」
意味が、解らない。
『タカハシケイイチ』
そんな単語をパルメは聞いたことが無かったし、別人みたいなあの子の瞳が怖かった。
思わず目を逸らしてしまうほど。
そうだ、そもそもにしておかしい。
目が合ったのだ。
内気なあの子が人の目をあんなにハッキリと見つめる事など有っただろうか?
もう一度、娘を見つめる。
その目はやがて焦点が合わなくなり、パチパチと二、三度瞬くと、ゆっくりとその場に崩れ落ちた。
「ユマ? どうしたの? ユマ?」
王女が呼びかけるがユマは答えない、彼女は深い眠りについていた。
そう、とても深い眠りだ。
ある意味で、ユマという少女はもう二度と目を覚ます事は無かったのだから。
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