第2話 接近
「要するに匂いフェチってやつ?」
この言葉の次にくる単語はだいたいきもいだ。
俺が泥棒扱いを受けて人との距離を置く前、当時思いを寄せいていたクラスメイトに言われた言葉。何も変質者の様に嗅いでいたわけじゃない。そんなことすれば誰しも気持ち悪いと思うだろう。ただ、彼女が通り過ぎる瞬間の風をすっただけだ。
だから、沢渡さんに事情を告げて彼女から発する匂いの正体を暴いたら彼女に金輪際関わらないように暮らすつもりだった。
事件が起きてから、最初に手を差し伸べてくれたサラリーマンも次に気にかけてくれた女子高生もその周囲にいた乗客たちも、沢渡さんという身元引受人が現れてから何事もなかったかのように日常に戻っていく。それでも、こんな発言をしている俺に道行く人たちはぎょっとした視線で俺を見ていく。
それもまた苦痛なんだが、こればっかりは避けて通れない。
彼女はもしかしたら、この厄介な症状から解放してくれる天使かもしれないのだから。
「まぁ……そんなところで」
俺が精神を病んでいると知ったら彼女がどう思うのだろうか? やはりあの時同様きもいの一言であしらわれるのだろうか。
「まぁ確かにそういう人はいるって聞くけど、まさか小金井君がねぇ……。ちなみになんだけど、私からどんな匂いがするの?」
意外な質問だった。正直ラッキーと思えるほどの衝撃もあった。彼女の秘密を暴けたらいいなぁなどと希望的観測をしていた俺にとって渡に船だったことは間違いない。動揺しつつある心を噛み殺し、平静を保つ。
「実家に咲いていた桜の匂い、ですかね」
地元の河川敷には一キロほどの桜並木がある。毎年そこには花見見物に多くの人たちが集まる。植えたのは俺の両親で、発案者は地元の自治会の会長を務めていた親父だった。自宅の庭にも咲いていたソメイヨシノを見て、地元にも憩いの場所が欲しいといきり立っての行動だったらしい。
快晴の下の桜の匂いは地元に帰ってきたような安堵感を俺に与えた。
「桜の花の匂いって私そんな甘いにおいする?」
しきりに自分の衣服の匂いを嗅ぎだした沢渡さんを俺は制止する。
「なんていうか……その、うまくは説明できなんですけど春の匂いも少し混じってて……。実家に咲いていた桜の花を思い出すんです」
「季節によって匂いって違うの? 私今までそんな事思ったこともなかった」
そういう沢渡さんは眉間に皺を寄せることはない、どういうわけか俺の話に嫌な顔一つしない。
「じゃあ、今日家に帰ったら私どんな化粧品使ってるか見てみるから。小金井君も無理しないで今日一日を乗り切るんだよ」
そういう彼女は颯爽と階段を駆け上っていく。朝からホントに元気な人だ。
俺は工場で働いている。
なんも特別なことはない。一度みんなで集まって朝のラジオ体操をして、タイムカードを押す。そしたら自分の持ち場に行って、あとは流れ作業だ。人間関係に限界を感じていた俺にとってこの誰ともしゃべることのない環境は天国と言っていい。
朝出勤して適当に挨拶をして、仕事に入る。そして終業の時間にまた適当に挨拶をして帰る。それでいい。
だからその日も俺にとってなんの変化もない単調で味気のない平穏な一日になるはずだった。
その日は築30年のおんぼろ木造アパートから出てくる時は晴れていて、これなら電車に乗ることはあるまいと自転車できていた。天気予報だって降水確率30パーセントで、快晴でなんなら夏らしい入道雲も出ていて通勤時は気持ちよくペダルを漕げた。
のに、だ。
今、俺の視界では梅雨を思わせるような雨がしとしとと降っていた。
これでは帰るに帰れないので、仕方なく喫煙所の軒先で雨宿りをしている。煙草を吸うわけでもない、たばこを吸う連中となれ合うでもない俺はまさに煙たがれていた。
雨は止む気配がない。薄暗い膜が空一面に広がり、宵闇の雰囲気が増していく。
「小金井じゃん」
後ろから声を掛けられ、思わず振り向く。
「沢渡さん……!」
沢渡さんを引き連れた同期の伊藤が片手をあげて俺に挨拶をしていた。同期といっても挨拶を交わす程度の仲でしかない。
「なんだお前もう面識あんの? 意外とお前も隅に置けないやつだなぁ……で、そんなお前に朗報なんだが、これから沢渡さんの歓迎会をしようと思うんだけど来る?」
挨拶を交わすくらいしか日常の意思疎通のやり取りをしていない俺と伊藤の間に信頼が発生するわけもなく、俺はこいつに病気の話をしたことがない。するわけがない。
「沢渡さんもお前に話があるっていうしさ。でもあんま変な気ぃ使うなよ? みんな沢渡さん狙ってるんだから」
「もぅっ、伊藤君ったら」
傍から見ても二人は仲が良かった。だから、
「俺は、いい。これから用事もあるし」
逃げた。
もちろん嘘だ。そんな用事俺にあるわけがない。そんなに大切な用事ならこうして雨宿り何て悠長な真似するわけがない。俺には私的な用事なんてない。起こるはずも、ない。
「なんだよせっかく誘ってんだからさ。あ、お前あれか? もしかして俺たちに内緒でこっそり彼女でもいて、本当はその彼女に怒られるかもしれないから早く帰りたいとか?」
俺にそんな奇跡起こるわけ、ない。
「いるわけないだろそんなもん。……とにかく、今日は用事が」
「私がそんなにいや?」
懲りずに逃げようとする俺を沢渡さんは許さなかった。
「別に、そういうわけじゃなくて」
「じゃあ、行こうよ。ね?」
そういうと彼女は俺の腕に自信の身を絡ませて俺を逃がすまいと固定してきた。柔らかい感触が腕を伝い、脳に電気信号として走り抜ける。
「用事はまた今度にしろ? 無理に頼んで悪いんだけど、ちょっとさすがに新人歓迎会するにもごりごり系のおっさんたちだけじゃあさ……」
「……わかった。じゃあ、少しだけ」
「やった! じゃあ、私が前から行きたかったお店に行こう。今ねSNSで結構話題で、私もそこのお店の現物を見て見たかったの。でもさすがに私ひとりじゃ食べきれなくて、だからこの機会に、ね?」
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