【第7話 方べきの定理】 ─side 朋之─
※Hair Salon HIROにて。
店に入るといつものようにアシスタントに案内されて、すぐにシャンプーをしてもらった。裕人が俺のところに来たのは、鏡の前に座って少ししてからだった。
「あのな……左、紀伊やで」
入れ違いにはなるが美咲と会うかもしれないとは、予約のときに裕人から聞いていた。裕人にタオルを巻かれながら横を見ると、ドライヤーをしてもらっている女性がいた。アシスタントが間にいたのであまり見えず、彼女もドライヤーの音で周りのことは気にしていないらしい。
「ちょっと待っといてな、あいつ先してくるわ」
裕人が俺にクロスをかけて美咲のところへ行くのを見てから、手元にあった雑誌を捲っていた。会話が聞こえたので、聞き耳を立てた。
裕人と美咲は一緒に過ごした時間が長いので、いつの話なのかはわからない。佳樹の名前が出てきたということは、三年のときだろうか。
「塾でもうるさかったよなぁ。私、テストのやり直しか何かで居残りしてたら、こっちは早く帰りたいのに、隣からブツブツうるさいし、名前連呼してきたし……イライラしたわ」
「それ、覚えてるわ。紀伊が残ってるのビックリしてたよな。俺ら三年五組やって、五組、五組、五組、とか、他の学校の子にもクラス聞いてたよな」
「そうそう。それで、五組じゃなかったから、あかんわ、とか、意味わからんかった」
佳樹は高校は裕人と一緒だったが、塾に入って最初のクラスは美咲と裕人よりも下だった。同じクラスで雑談ができる仲ということは、佳樹の成績が上がった三年後半の出来事だろうか。
話しながら裕人は美咲の髪を整え、鏡のほうを見た。
「それで何やったっけ? 方べきの定理って」
聞いた記憶はあるが、思い出せなかった。
考えていると、美咲が答えを言った。
「円の上に点A・B・C・Dがあって、直線ABとCDの交わる、円の上にはない点Pとで、PA×PB=PC×PD、ってやつ」
「そんなんやったなぁ。全く使わんけどな」
思わず声に出してしまった。美咲はやはり俺の存在には気付いていなかったらしい。
美咲は数学が大の苦手だったはずだが、どうして覚えていたのかは不明だ。塾に入ってから一度だけ、全国規模の試験で数学で一位を取り、同じ学校の奴ら全員で驚いた記憶はある。塾長から〝数学の成績優秀者向けの特別講座〟の案内をもらっていたが、場所も遠かったし行ってはいないはずだ。
美咲はカットが終わったので立ち上がり、店を出ていった。別れ際に鏡越しに手を振ってくれた。俺には嫁がいるが、思わずドキッとしてしまった。
「あいつの記憶力すごいやろ。俺も忘れてることいっぱい聞いたで」
美咲を見送って裕人が戻ってきた。俺のこともいろいろ覚えているのではないか、と笑う。
「記憶もやけど、成績も極端やったよな。それくらいわかるやろ、ってやつ答えられんかったこともあったし、塾の試験の数学で、全国一位とかとってたやろ? あれビビったで」
「……あったなぁ! そうやそうや」
美咲は一番上のクラスではなかったのに、一番上のクラスでも全国ランキングでは最後のほうに載ればラッキーくらいだったのに、そんな奴らを押さえて一位だったということは、ほぼ満点だったということだ。
「一番ビックリしたのは紀伊やろうけどな。聞いてみる? さっき、今度メシ行こうって誘ってん」
返す言葉が一瞬わからなかった。俺が困っていると、裕人は続けた。
「同窓会ときもあんまり話さんかったし……そうや、トモ君、ピアノ弾ける人探してたやん。誘ったら?」
「あ、そうそう、それ同窓会ときから思っててん。あいつ上手かったし……聞いてみよ」
美咲は結婚しているので、三人では来てくれないかもしれないと思ったので、同級生女子を誘ってもらうことになった。誰になるかはわからないが、俺と裕人が知っている人を選んでくれるはずだ。
「俺あとで連絡しとくわ。あ、店も決めとくで。個室が良いよな」
全て裕人が決めてくれるようで、面倒なのでお願いすることにした。詳細は美咲ともう一人の都合を聞いてから決めることになった。
美咲にピアノの話をするのはいつが良いだろうか。待ち合わせでは到着時間がわからないし、話す時間があるかもわからない。飲み会中では──他の二人に申し訳ない。ということは、住んでいるところが近いので帰りの電車だろうか。
そんなことを考えて、いつのまにか俺は沈黙していたらしい。
「トモ君、何考えてるん?」
「え? あ──いつ言おうかと」
鏡越しに裕人は不気味に笑っていた。
「俺の感やけどな──紀伊たぶん、トモ君のこと好きやったで」
「えっ、そうなん?」
裕人はいつも、美咲の行動を観察していたらしい。美咲は俺と友人たちが騒ぐのをいつも冷やかに見ていたが、視線は俺を追っていたらしい。
「たぶんやけどな。聞かなわからんで。あとな──これも、俺の感やねんけどな」
「うん?」
「トモ君もあいつ好きやったやろ?」
思わず俺は鏡の中の裕人をじっと見た。しばらく黙って見つめていたが、裕人はなかなか負けてくれなかった。
「そうやな……」
仕方ないので観念して話すことにした。
「いつの間にかな」
「やっぱり? でも俺には教えてくれんかったよな」
「言うわけないやん。気になりだしてから、クラスも違ったし」
俺が美咲を好きになったのは、学年が終わる頃だ。裕人は休み時間は寝ていたし、そもそもそんな話をする奴は周りにはいなかった。三年はクラスが離れたし、俺も一緒にいる奴が変わった。
「三年とき、クラスに紀伊のこと好きな奴がおってな」
それは初耳だ。
「いろんなことしてアピールしたり、音楽の先生の耳にも入ったから合唱コンクールでそいつに指揮やらしたり、俺らも協力したりしてたんやけど、あいつ全然気付かんかってな」
「……鈍感やったん?」
「どうやろな。ほんまに気付いてなかったか、遊ばれてると思ってたか、……そもそも眼中になかったんちゃうかな。だからな、誰かを好きやったはずやねん。何もなかったら気付くで?」
それが誰なのかはわからないが、裕人の感では俺が有力らしい。もっと早くに知っていれば美咲と付き合っていたかも知れないが、それはもう無理な話だ。
だからせめて週末だけでも一緒に過ごせれば良いな、とそのときは思った。
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