第39話 凹む準備 ─side 朋之─
美咲が離婚になりそうだと聞いたとき、すぐに〝再婚〟の二文字が浮かんだ。しかしそれを言うには時期が早すぎた。離婚は俺のせいな気もして、余計に言えなかった。それでも少しでも側にいたくて、何かにつけて理由をつけて彼女に会いに行った。
航を訪ねたのは、自分に活を入れるためでもあった。航は本当に俺を責めてはいなかったし、逆に俺の背中を押してくれた。美咲と美歌を幸せにできるのは俺だと笑っていた。だから俺は、もしも再婚になったときは養育費の振り込みは止めてくださいと頭を下げた。美歌との関わりを絶たせるのはさすがに心が痛んだので、たまに会うことやプレゼントは美咲次第で受け入れることにした。
美咲にいまの気持ちを確かめると、俺のことは大好きだと言った。嬉しすぎて、口から心臓が飛び出すかと思った。しかし、やはりと言うべきか、再婚は断られた。本当に真剣だと伝えて、考え直してもらいたいと言った。
『マジで? おまえも健気やなぁ……。二号店オープンの日に来てくれるから聞いてみるわ』
裕人にLINEで状況を教えると、そんな返事が来た。そして実際に聞いてくれたようで、美咲の答えは〝考え中〟に変わっていた。裕人には黙っていたのかも知れないが──、それからも返事がもらえないまま数ヵ月が経った。俺は美咲には待つと言ったのでいつも通りに接していたが、本当は早く返事が欲しくて仕方なかった。練習に集中していないと、おかしくなりそうだった。
そして、美咲が本格的にHarmonieに復帰して、秋のコンサートが近づいてきていた。もちろんこれはHarmonie単独での出演で、えいこんも出演はするが完全に別だった。歌うのは春に美咲が泣いたエールを送る曲と、以前にもやった秋っぽい曲だ。最初は他の曲で予定していたが、美咲の調子に合わせて弾いたことがある曲に変えた。
「これ、またギターやるん?」
「ううん。今回は無し。だからきぃ、任せたで」
「えええ……責任重大やん……」
家ではヘッドフォンをつけないと子供が驚くので、たまには思いきり弾かないかと言って久々にスタジオに誘った。もちろん返事を聞くのではなく、本当に練習のためだ。本番に弾くのはグランドピアノなので、鍵盤のタッチも慣らしておいたほうが良い。
美咲のピアノは感情が入っていたが、指がまだまだ動いていなかった。Harmonieの曲ではないピアノ教本も持ってきて、必ずそれを最初に弾いていた。
「久々にギターも聴きたかったけどなぁ……」
練習の合間に美咲が呟いた。
それは単純に俺のギターを聴きたかったのか、それとも自分のピアノと合わせたかったのか。泣いてしまった曲なので、思うこともいろいろあるだろう。俺ももちろん弾きたかったが、彼女の伴奏で歌いたいのも事実だ。
「最初に弾くのも、復帰で弾くのも、どっちも秋のコンサートやな」
「そんなん言われたら、また緊張してくるやん」
「いけるいける。コンクールちゃうし」
俺はできるだけ平静を装って練習を続けた。知っている曲ではあるが前回から数ヵ月経っているし、秋のやつは二年経っている。美咲も練習に力を入れて、なるべく返事のことは考えないようにした。
日曜の練習に、美咲は少しだけ遅れて来ることもあった。それは美歌の世話のためなので特に問題はない。弾いてもらいたい時間には到着していたし、来る度にピアノも上達していた。返事は相変わらずもらえていなかったが、少しでも早く帰れるようにと彼女を家まで送った。美咲は普通に接してくれたし、俺も黙って待った。
二年前、美咲は裕人にヘアセットをお願いしていたが、今年は自分で何とかしてきていた。美歌の世話があったので少し遅めに迎えに行き、世間話をしながら会場へ向かった。
「今年は順番逆なんやね」
ステージリハーサルのために舞台裏に待機しに行くと、先にステージに上がるえいこんが既に並んでいた。今までは二年続けてHarmonieが先だったが、今年は逆だった。
「えいこんの上手いの聴いたら、うちのやつら
「はは、大丈夫大丈夫。合同練習でみんなレベルアップしてるから。美咲ちゃんは? ──あ、後ろにいてるね」
篠山と一緒に後ろを覗くと、井庭と話しながら顔を押さえている美咲が見えた。おそらくあれは緊張しているのだろう。
リハーサルのとき、美咲はピアノを間違えてしまっていた。だから控え室に戻るときに声をかけた。
「きぃ、リラックスな。間違っても、俺らは歌い続けるから」
逆に余計にプレッシャーを与えてしまったように見えたが、美咲は本番はとても上手く弾いた。これなら俺もギターを弾けば良かったと思うくらい、彼女の伴奏は完璧だった。もしかしたら美咲は、本番に強いタイプなのだろうか。
ミーティングを終えてから外に出ると、篠山が俺と美咲を待っていた。
「美咲ちゃん、急に上手くなったよなぁ? 何かしたん?」
「何もしてないです。何かもう、わけわかれへんかったから、とりあえず楽しんで弾こう、って思ったら……ああなりました」
「そうなん? ほんまに完璧やったで」
子供の頃にしていたように、手元よりも楽譜、楽譜よりも指揮をちゃんと見ていた。俺も指揮を見ながら美咲を見ていたが、楽しそうな表情をしていた。
帰っていく篠山を見送ってから、俺もそのまま駐車場へ向かう。運転席に座って美咲が乗るのを待ってからエンジンをかけようとすると、美咲に止められた。
「出る前に、ちょっと良い?」
話がしたいというので近くの公園を提案したが、彼女は車の中で良いと言った。
「こないだの返事……して良い?」
真面目な顔をしていたので、車で良いと言ったのもあって悪い予感がした。
「ごめん、遅くなって……ずっと考えてた。考えてたというか、わりと早くに答え出てたんやけど、なかなか言えんかった」
「うん……ええよ。待つって言ったの俺やし」
「それで、答えやけど……やっぱり」
凹む準備をした。
「自分を信じることにした。だから、美歌のパパになってもらえる?」
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