第33話 一枚の紙切れ

 気候が穏やかになってきた頃、美咲は久しぶりにHair Salon HIROを訪れた。美歌は落ち着いてきたので両親に預け、一人で電車に乗った。店のドアを開けて中に入ると、裕人が待っていた。

「久しぶりやな。──紀伊、ちょっと痩せた?」

「そうかなぁ? いろいろあって……痩せたかなぁ」

 体重計に乗っていないのでわからないと言いながら、荷物を預けてシャンプー台に座る。アシスタントが担当になって最近のことを聞かれたので、いろいろあって実家で子育てしていると伝えた。妊娠・出産したことは、裕人から聞いているらしい。

「店長、あの話したんですか? 二号店の……」

「あっ、それ秘密っ……」

「えっ、ごめんなさいっ!」

「二号店? お店、増えるん?」

 シャンプーが終わって起き上がると、裕人が気まずそうな顔をしていた。アシスタントは口を閉じてしまったので、美咲は裕人に聞くことにした。

 鏡の前に案内され、要望を伝える。美咲はまた髪を伸ばそうと思っているので、毛先と量を整えてもらう程度だ。

「あと、そろそろカラーもせんとヤバイな」

「家で見えるとこだけ塗ってたんやけど、限界やわぁ」

 前に染めてもらったのがいつだったかは、もう思い出せない。妊娠中は放置していたので毛先と根元の色が違うし、白髪も増えている。家で過ごすときは諦めていたけれど、外出するときはヘアマスカラで何とか隠していた。

「あのな……前、俺の知り合いの店で切らしてもらったやろ? あそこ、もらう予定やねん」

「ええっ、そうなん? へぇー。大倉君は、あっちに行くん?」

「しばらくはそうやろな。向こうは佳樹が来てくれるんかな。こっちもたまに来てるけど……あいつ、お見合い結婚して実家で暮らすみたいで」

「ええっ、それは、初耳やわ」

 美咲のところに朋之が来ていることは裕人も知っていた。裕人から聞いた話を美咲に伝えてくれていたけれど、佳樹の話はしていなかったらしい。

「そもそも、トモ君と佳樹はそんなに仲良くなかったからな。用事あるとき喋るくらいで……」

「高井……よく相手見つかったなぁ。どんな人か気になるな……どっかで会えへんかな……」

「紀伊は……落ち着いたん?」

 航から離婚届を渡されたことも、朋之から伝えてもらっていた。

「ショックで何もできんかったけど、こないだやっと決心ついて……このあと出しに行く」

 美咲は今日、鞄の中に離婚届を入れてきていた。駅から役所までは距離があるので、マンションに寄りたいのもあって先に店に来た。

「そっか。てことは……あっ、紀伊も江井市に住んでたら、向こうの店に来てや。車じゃないと不便やけどな」

「ほんまやなぁ。坂道きついなぁ」

 二号店の場所は駅からも美咲の家からも徒歩では遠く、最寄駅から車で五分はかかる。最寄駅も美咲の実家とは違うので、その一駅が電車で数分。店は徒歩では駅から二十分ほどだと地図アプリに出るけれど、駅から上り坂なのでそれ以上かかりそうだ。

「トモ君……家で何話してるん?」

 裕人は笑っていた。

「え? 楽譜とか持ってきてくれて、練習の話とか、大倉君の話とか……あとは美歌と遊んでるかな。山口君の声をお腹の中で聞いて覚えてたみたいで、美歌が喜んでるわ」

「ははは! そうなんや」

 朋之の姿を見つけるといつも、美歌は笑顔になった。手足をばたつかせて、朋之に抱いてもらって彼の服をよだれで汚してしまったこともある。

「あれは申し訳なかったわ。車で帰るから良かったけど……」

「頑張ってるんやな。明日からも、負けるなよ」

「うん。ありがとう」


 美咲は店を出て、まず役所へ向かった。市民課の窓口に離婚届を出して、すぐに受理された。近くに義実家があるので寄っていこうかと思ったけれど、まだこれから用事があるし、美歌と家族が待っているのでやめた。

 マンションの鍵は持っていたので、いつものように中に入った。平日の昼間なので航は仕事に行っているし、車がないのも既に確認している。掃除は何とか出来ているようで、特に散らかってはいない。

 気になっていた冷蔵庫の中身は食べたのか捨てたのかわからないけれど美咲が作ったものは全て無くなっていた。野菜室にも野菜はなく、唯一、冷凍庫に肉や魚の下味冷凍したものがあった──戻ったときに美咲が作ったものだ。

 洗濯物もなかったということは、実家に頼っているのだろうか。二人で並んで寝ていた布団には、枕は一つしかない。

 美咲は大きなバッグを持ってきていたので、残っていた必要な衣類はすべて詰め込んだ。雑貨類も詰め込んで、鞄はすぐにいっぱいになった。好きで使っていた食器もたくさんあったけれど、持ち帰るのはやめた。

 忘れ物はないかと何度も確認して、最後に航に手紙を書いた。

 ──航へ。離婚届を提出してきました。服とかは持って帰るけど、ドレッサーとピアノは無理なので、すみませんが私の実家に送ってください。料金は、航の引き出しに入れておきます。冷凍庫のお肉と魚、味付けしてるので焼いて食べてね。美歌は一人で座るようになりました。父親は航だと伝えたいけど、迷ってます。もし航が嫌じゃなければ、いつか会わせてあげたい……。マンションの鍵は、気付いてると思うけどポストに入れておきます。何かあったら連絡ください。美咲──

 手紙と結婚指輪、婚約指輪をテーブルの目立つところに置いて、美咲は部屋から出た。エレベーターで一階に降りてから、最後にポストに鍵を落とした。

 終わらせてきたよ、と裕人に報告しようと思っていたけれど、美咲は涙で顔がぐちゃぐちゃだった。駅に近づいても止まらなかったので、そのまま電車に乗った。

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