第32話 お気に入りの声

 二月下旬になり、美咲は生活に少し余裕が出来るようになった。美歌は五ヶ月になって離乳食に切り替わり、夜にまとめて寝ていることも増えた。夜泣きがあるので突然起こされることもあるけれど、それでも美咲は少し楽だった。

 美歌は身の回りのものに興味を持ち始めたので、音の鳴るおもちゃを持たせてみるとキャッキャッと喜んだ。美咲がCDをかけていると、音に合わせて手足を動かしたりしていた。

「きぃと同じ顔になってきたよな」

 美咲がえいこんに顔を出してから、朋之はときどき訪ねてくるようになった。少し遠いしHarmonieの練習もあるので毎週ではないけれど、えいこんの練習に参加するときや週末三連休のときに、裕人や佳樹の話題と一緒にHarmonieで練習中の楽譜を持ってきてくれた。美咲はまだ復帰の予定はないので、曲を頭に入れておくだけだ。

「人見知りはするん?」

「どうやろう……知らん人が急に来たら泣くけど、そんなにかなぁ。山口君にも泣けへんし」

「……ほんまやな。旦那さんには? 会った?」

「ううん」

 美咲はまだ、離婚届にサインをしていない。航に会うのはなんとなく怖くて、美歌の顔を見せには行けなかった。それでも成長を報告したくて、写真を撮ってLINEで送った。

 航は離婚を決意したことは既に両親に話してあるらしい。もちろん反対されたけれど、航が決めたことなら仕方ない、と諦めたと聞いた。

「そろそろ出そうとは思ってるけどね……なかなか決心つけへん」

 別居になってから、航は養育費を振り込んでくれていた。美咲の誕生日プレゼントや美歌のおもちゃも、送ってきてくれた。今日こそ書く、と思っても、手が震えてしまう。

「俺は、元嫁とは喧嘩別れみたいやったからな。そうやなぁ……辛いよな。……あっ、きぃ、美歌ちゃんが」

「え? あ! がんばれがんばれ!」

 美歌は手足をバタつかせて、左右にゴロゴロしていた。もう少しで寝返りが出来そうで、ギリギリのところで戻ってきてしまう。

 美咲の声を聞いて母親と祖父母が駆けつけ、美歌が寝返りするのを応援していた。途中で美歌が諦めて指をしゃぶっていたけれど、改めてゴロゴロするのを見ていると寝返りに成功していた。

「やったぁ美歌、出来たねー!」

「キャハハ」

 見える世界が逆になって、美歌は笑った。その先はまだ動けないけれど、寝返りが出来ただけでも大きな成長だ。美歌は回りの大人の顔を順番に見て、祖父が変な顔をするのを見てから泣きそうな顔になった。

「じいさん、しょうもないことせんとき」

 祖母に言われて美歌から遠ざけられ、美歌は泣かずに済んだ。残った大人を改めて見て、最後に朋之をじっと見てから、エヘヘヘ、と笑った。

「美歌ー、それはパパじゃないよー」

 美咲は美歌を抱き上げ、自分のほうを向かせた。朋之は複雑そうな顔をしているけれど、美歌の寝返りを見れて嬉しそうだ。両親は美歌の寝返りを動画に撮れて満足したようで、リビングを出ていった。美咲は撮っていなかったので、後で送ってほしいとお願いした。

「もしかしたら、勘違いしてるかも」

「何を? ……俺のこと?」

「妊娠中ずっと貰ったCD聴いてて、あれ……ソロのもあるやん?」

 美咲が一番お気に入りだったのは、途中に朋之のソロがある曲だ。それを何回も聴いていたので、美歌は声を覚えたのかもしれない。生まれてから最初に反応したのも、その曲のソロの部分だった。美咲はいつもリピートで聴きながら、いつの間にか眠ってしまっていた。

「よく来てくれてるし、この声は……、ってなってんやろなぁ。美歌ー、ママどうしたらいい?」

 美歌は何も言わず、指をしゃぶりながら美咲の服を握る。ときどき朋之のほうを見ているけれど、美咲から離れようとはしない。

「来月には離婚届出すつもりやけど……それからどうなるか、こわい」

 航のことを、忘れてしまうのだろうか。

 美歌には父親の存在を知らせるべきなのだろうか。


 美咲は中学のときに、朋之のことは家族には話していない。友達ではなかったし家も離れていたので、そもそも話題にならなかった。幼稚園や小学校で一緒だった男の子の話はたまに出たけれど、それもたいして話は広がらなかった。

 朋之とHarmonieで一緒のことは、既に話していた。裕人が髪を切ってくれたときに同窓会の話をして、三人が来たときによく会っているメンバーだと話した。

「それにしても、美咲が男の子と仲良くなってるって」

 子供の頃には考えられなかった、と母親は笑う。

「学校では普通に話してたし、塾も一緒やったし……」

 そもそも当時は、そんな話は家でしたくなかった。小学校の同級生は見飽きていて、新たに出会った人たちが新鮮だったのか、と思った時期もある。

「あの子、航君よりイケメンちがうじゃない? 髪切ってくれた子も」

「うん……」

 美咲も何度もそう思ったので、同意するしかない。もちろん裕人は結婚しているし、朋之は独身になっているけれど美咲は航のことが忘れられないので、どちらも恋愛対象にはならない。なったとしても、朋之が何を考えているのか美咲にはわからない。

 それから数週間経って美咲はようやく離婚届にサインした。書きたくなくて手が震えて、涙も止まらなかった。航との日々を思い出して、Harmonieに入ったことを後悔してしまう。

「仕事のついでに出しとこか?」

 父親が聞いてきたけれど、美咲は断った。

 自分で航宛に投函するか役所に提出するか、たっぷり一週間悩んだ結果、直接窓口へ持っていくことにした。

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