第26話 例のあの人

 それからしばらくの間、美咲は練習に顔を出さなかった。妊婦三ヶ月に差し掛かり、つわりがひどくなった。食べ物もあまり受け付けず、寝ていることが増えた。匂いにも敏感になって、料理は出来なかった。車が無理だった。今までは無香だと思っていた航の車も、良い香りだと思っていた朋之の車の芳香剤も、どちらも受け付けなかった。

 体調が良いときに、美咲は頑張ってピアノを練習した。日曜日のHarmonieの練習は代役のお陰で何とかなっているようで、美咲は自分と子供のことだけ考えた。

 華子にはまだ伝えていなかったけれど義母を通して伝わったようで、週末にわざわざ訪ねてきてくれた。

「何が良いんかわかれへんから、とりあえずレモン持ってきた」

「ありがとう……助かる」

 市販のレモン果汁は冷蔵庫にあるけれど、添加物が気になって口にしていなかった。実家で採れたというので傷はあるけれど無農薬らしい。

 航が在宅だったので華子は早めに帰ったけれど、それでも美咲には良い気分転換になった。練習を休みだしてから航の顔しか見ていなかったので少し飽きていた。と言うと航に怒られてしまう。彼は今まで家事は食器洗いくらいしかしていなかったけれど、美咲の妊娠が分かってから進んでいろいろしてくれるようになった。食事も外で済ませて美咲にはお願いしたものを買ってきてくれているので、随分と楽だった。

 一ヶ月ほど経つと体調も落ち着いてきたので、美咲は久々に朋之にLINEした。気になっていた練習の仕上がり具合を聞いてみると、順調だと返ってきた。コンサート当日まで数週間になったので、そろそろ練習に出たい。

『匂いとか、人混みは大丈夫か?』

『うん。車も何台か乗ってみたけど全部大丈夫やったよ。そろそろ安定期やし、動きたいし』

 朋之の車も大丈夫だったので、美咲は一ヶ月ぶりに練習に参加した。美咲の代わりに伴奏をしていたメンバーが安心するのを見て、必要とされているんだなと嬉しくなった。体調を考えて力強く弾くのは避けたけれど、本番もこれで大丈夫だ、と井庭も頷いた。

 それから何度か練習に出て、四月になってからコンサートがあった。会場は公民館から近いので時間まで公民館で練習して、全員で歩いて会場へ移動した。美咲は腰でリボンを結ぶワンピースと、靴はもちろんペタンコのものを選んだ。メンバーは揃いのポロシャツを着ていたけれど、美咲には不都合だった。それが不憫と思った女性メンバーが、同じ色のリボンを髪に着けてくれた。

「ここまで来たけど、無理やったら言いや」

 井庭は美咲に、辛くなった場合はステージから下りることを約束させた──けれど、その心配はなく美咲は最後まで伴奏を勤めあげた。会場に楽屋は用意できなかったので公民館に戻り、簡単にミーティングをした。お疲れさま、というねぎらいと、今後の予定、それから最後に美咲が休みに入る話だった。

「いま三ヶ月? 四ヶ月に入った?」

「はい。四ヶ月です」

「そしたら──順調にいけば、生まれるのは秋頃やな。あ、そしたら秋のコンサートは……誰かに頼もか」

 伴奏が必要な曲を減らしてアカペラにするか、という話をしてから、井庭は美咲にプレゼントがあると言った。

「頑張って、元気な赤ちゃん生んでな」

「え……ありがとうございます」

 Harmonieが過去に演奏した曲を録ったCDと、大きな寄せ書きだった。バレンタインのお返しも兼ねて、全員で作ったらしい。嬉しすぎて、泣いてしまった。

 朋之の車に乗ってから、彼は美咲に小さな袋を渡した。簡単に折られているだけの神社の紙袋を開けると、安産守と書かれたピンクのお守りが入っていた。

「俺にはそれくらいしかできへんから」

「ううん、ありがとう」

 仲間に恵まれているなと感謝して、絶対にHarmonieに戻ると改めて決意した。篠山から『井庭に迷惑をかけないように』と言われているので、余計にそう思う。何があっても今の気持ちを忘れたくはない。


 十五分ほど電車に揺られ、懐かしい景色が目に入ってきた。念のためにマタニティマークをつけているけれど、下りなのもあって乗客はあまりいない。

 途中の駅で特急との接続があったので、美咲は乗り換える人を眺めていた。学生のときや仕事をしていたときは毎日がこうだったな──と見ていると、見覚えのある人が電車に乗ってきた。

「あれ──紀伊?」

 乗ってきたのは、高井佳樹だった。大きなスーツケースをひとつとビジネスバッグを持っている。

「海外出張帰り?」

「──なんで知ってん? 誰に聞いたん?」

「大倉君。と山口君。なんか……高井、そのまんまやな」

 裕人と朋之は立派な大人になっていると感じたけれど、佳樹は文字通りそのままだった。

「え? ヒロ君? と山口? え? 紀伊、どういう関係なん? 俺の知らん間に何があったん?」

「それは言われへんわ」

 電車のドアが閉まって動き出したので、佳樹は『あいつら俺に何の連絡もくれてない』とわめきながら美咲の向かいに座る。そして美咲がつけているマタニティマークに気付いた。それで実家に帰るのか、と呟きながら、やはり美咲と男二人の関係が気になったらしい。

「紀伊って、ヒロ君とこ行くとか言ってたよなぁ。行ったん? あ、てことはあの辺に住んでんの? そしたら山口の家も近所……」

「山口君、引っ越したで」

「え? なんで? ちょ、紀伊なんでそんな知ってるん?」

 一人で混乱している佳樹を置いて、美咲はスマホを出した。『電車で高井と遭遇』とLINEを送った相手は裕人だ。裕人は休みで家にいたらしく、既読をつけてから佳樹に連絡していた。

「くそっ、ヒロ君も秘密やとかぬかし言いやがった。山口……あいつは仕事中やな」

 佳樹は質問の相手を裕人に変えたけれど、何も教えてもらえなかったらしい。

 同窓会で会ってから帰国の知らせがあるまで、裕人も朋之も連絡していないと言っていた。簡単になら、話して良いのだろうか。

「あの二人は……何やろな。何から話して良いかわからんから、黙っとくわ」

「ええっ、ちょ、おい……もっかいLINEしよ。じゃあな」

 佳樹は不満そうな顔をしていたけれど、駅に到着したので一人で降りていった。美咲が降りるのは隣の駅なので、ようやく静かになれてほっとしていた。『高井がうるさかったけど何も教えんかった』と裕人にLINEすると、『俺もそうしよ』と返ってきた。

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