第19話 緊張を解いてくれるもの

 十月半ばのコンサートの朝、美咲は朝食を済ませてからすぐに家を出た。裕人がヘアセットをしてくれる、という話を航にすると、航は店の前まで車で送ってくれた。同僚が通っているので話をしようかな、と言っていたけれど、車から降りずにそのまま帰ってしまった。

「ごめんね朝早くから」

「ええよええよ。この辺が良いかなぁと思うんやけど」

 美咲が鏡の前に座ると、裕人はヘアセットのカタログを見せてきた。その中から派手すぎないものを選び、あとは裕人に任せる。

「コンサートって昼からやろ?」

「うん。そうやけど、午前中にリハーサルで、他のとこと順番あるから」

 コンサート会場にはホールの他に会議室もたくさんあるので、そこが出場団体の控え室になっているらしい。ピアノが置かれている練習室は限りがあるので、時間が来るまではアカペラで練習だ。

「俺も行きたかったなぁ。久々に紀伊のピアノ聴きたかったわ」

「ははは。またいつでも聴きに来て」

 そんな話をしていると、店の扉が開いた。

「おっす。もう終わるけど……そのへん座っといて」

 やってきたのは朋之で、美咲は彼と車で向かうことになっていた。メンバーはほとんどが大人なので、何台かに分かれて乗ることになったらしい。美咲と一緒に行きたいと言った人がいたけれど、他のメンバーより時間が早いと言うと渋々諦めていた。

 ヘアセットが終わり、美咲は立ち上がる。ステージ衣装は特に決めていないので、自前の秋っぽい服だ。靴も履き慣れたペタンコのものを選んだので、ペダルを踏むのも苦労しないはずだ。

「ありがとう! 今度なんかお礼する!」

 店の前に停めてあった朋之の車に乗り、見送ってくれる裕人に美咲は手を振った。駅前のロータリーで方向を変えて、朋之はアクセルを踏む。

「山口君は今日は誰か聴きに来るん?」

「いや……誰にも言ってない。近くに友達もおらんし……。きぃは?」

「旦那と、義理の両親が来るんやって」

 コンサートでピアノを弾くという話をすると、場所も近くなので行こうか、という話をしていた。三人は合唱には特に興味がないようだけれど、美咲の演奏を聴きたいと言っていた。有名な曲を義実家で弾いていたときも〝わからん〟と言っていた義両親は、果たして合唱についてこれるのか疑問だ。

「知ってる人おったら、緊張するよな」

「うん。全然知らん人だらけのほうが気が楽」

 でもピアノは客席のほうを向いていないからまだマシかな、と美咲は笑うけれど、会場が近づくにつれて緊張は増していく。代わりが誰もいないから、間違えてはいけない。普段とは違う髪型をしているのもあって、妙に落ち着かない。

 車を駐車場に停めて、中に入ると玄関ホールで井庭が待っていた。

「小山さん、顔、かたいで」

 井庭に笑われて、思わず両手で覆う。くちゃくちゃにしかけたところで、化粧が落ちると思い出して慌てて手を離す。

 それからあとの事は、はっきり覚えていない。

 井庭と朋之と簡単に打ち合わせてから他のメンバーと合流し、会議室で軽く練習をした。もちろん美咲はピアノがないので、脳内で再生させる。いつの間にか歌も覚えていたので、ときどき歌ってみる。

 持ってきた昼食を食べてから、練習室でリハーサルをした。時間が限られているので全てはできず、途中で終わってしまう。『時間です』と係の人に誘導され、開演前のステージ裏へ向かう。前の団体の演奏を聴きながら待ち、そのあとステージでメンバーたちは立ち位置を確認する。

「美咲ちゃん。また久しぶり」

「あっ、篠山先生……」

 舞台袖で待機していると声をかけられた。美咲に続いてステージに上がる井庭の後ろに『えいこん』が待機していた。

「ステージ久々やから緊張します」

「ははは。私も何回も立ってるけど、毎回緊張するわ」

「あのぉ、もしかして……紀伊先輩ですか?」

 おそるおそる近づいてきたのは、えいこんで一緒にソプラノを歌っていたメンバーだった。学校やクラブで一緒になったわけではないけれど、単に美咲が年上なので先輩と呼ばれていた。残念ながら、彼女の名前は思い出せない。篠山が『実はこんなことが』と話し出すと同時に、美咲たちはステージに呼ばれた。

 諸々の確認をしてから一旦控え室に戻り、最後のアカペラの練習をしてから出演の順番を待つ。リハーサルと同じ順番なので、舞台袖で聴いているのも先程と同じ曲だ。ひとつ違っているのは、開演しているので観客がたくさん入っていることだ。

「よし、Go!」

 井庭がそう言ったのを合図に、男声のバスから順番に照明を浴びる。テナー、そしてアルト、ソプラノ、美咲が入って最後は井庭だ。

『俺は、きぃは仲間やって信じてるで』

 ふとその言葉を思い出して美咲が顔を上げると、グランドピアノの譜面立ての向こうに朋之が見えた。落ち着いてやれば大丈夫だ──、と言い聞かせ、井庭のほうを見た。手が上がるのを見て、美咲はピアノに神経を注いだ。


 終演まで残る必要はなかったので、美咲は用事が済んでから篠山が出てくるのを待った。メンバーはほとんどが帰ってしまったけれど、朋之と井庭は一緒だ。

「もうそろそろやと思うけど……。あ、篠山先生、お疲れ様です」

「あら、どうも、ありがとうございます。お疲れ様でした」

 井庭と篠山が話を始めたので、美咲と朋之は待った。前を通るえいこんのメンバーが美咲に気付き、『先輩、お久しぶりです!』と挨拶をしていく。たまに隣の朋之を『彼氏ですか?』と聞かれるので、違うことを説明しておいた。

「美咲ちゃん、ピアノ上手くなったね。うちでやれへん? ──あ、出禁にしたんやったわ、ははは。またね」

 篠山は笑いながら美咲に手を振り、朋之や井庭にも挨拶して駐車場へ向かう。ちなみにえいこんのメンバーは若いので、半分ほどは電車で帰るらしい。

 美咲も井庭に挨拶して、朋之の車に乗る。一気に緊張が解けてきて変な声が出た。

「なにその声、あくび?」

「はは、なんやろ? 疲れたんかな?」

 外は少し暗くなっているので、車の中も暗い。眠くなってくるけれど、寝るわけにはいかない。今後のスケジュールの話をしながら朋之は車を走らせ、やがて美咲のマンションに到着した。美咲は航と外食の予定なので、部屋で航が待っているはずだ。

「ありがとうね。今日はゆっくり休んで。明日は仕事やろ?」

 車を降りてから美咲は振り返る。

「なぁ、きぃ、あのさ……」

「ん? どうしたん?」

 美咲は助手席の窓から朋之を見たけれど。

「いや──なんでもない。お疲れ。またな」

 朋之はハザードランプを消して走っていってしまった。何を言おうとしたのか思い当たることはいくつかあったけれど、美咲は敢えて聞かないことにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る