第12話 7年前の自転車事故

 話は中学二年の三学期に遡る。

 その年も美咲は合唱コンクールで伴奏をすることが決まっていて、少し前から練習をしていた。当時の本来の音楽の先生は産休を取っていて代わりの先生が来ていたけれど、三学期から復帰してきた。その最初の授業のあとで、友人・彩加と教室に戻ろうとしていると呼び止められた。

 コンクールでの伴奏を少し弾いてほしいと言うので、最初の何小節かを弾いた。大丈夫だろう、と言われたので帰ろうとすると、こんなことを言われた。

「紀伊さん、七年前──小学校一年生のとき、自転車とぶつかって怪我したでしょ?」

「小学校一年のとき……? ……あっ、した!」

 美咲はあの日、家を出るのが遅くなってしまい、通学路を走っていた。車道横の歩道で少し狭く見通しも悪いところがあって、そこを通るときに正面から来た自転車の女子中学生とぶつかってしまった。痛かったし、中学生も心配してくれたけれど、美咲はそのまま学校へ急いだ。

「出勤してきたら女の子らが、小学生の女の子とぶつかってもぉたーどうしよう! って慌ててて、名札見たら平仮名で〝きい みさき〟って書いてたって」

 先生は小学校に電話して、その後、美咲のところに保健の先生がやって来た。美咲はいつも通り授業を受けていて、大怪我をしていることには気付いていなかった。

「もうすぐあの子が入学してくるんやなぁ、って……産休明け間に合って良かったわ」

 それが、美咲と篠山の出会いだった。

 美咲と彩加は篠山との距離が近くなり、いつの間にか敬語を使うこともなくなった。篠山は他の先生と比べても話しやすかったので、嫌っていた生徒も少なかったと思う。


 井庭がなぜか知っていたのは、美咲のその事故だ。

 篠山との話を彩加は聞いていたけれど、教室に戻ってから誰かに話した記憶はないし、ましてや当時は特に親しくはなかった朋之にも話すはずがない。

「篠山先生は──私の教え子やからね。ときどき相談も兼ねて、飲みに行ったよ」

 井庭のその発言で、美咲は粗方の事情を理解した。

 美咲が事故に遭ったとき。篠山が結婚して、子供が出来たとき。産休が明けてから、美咲を受け持つことになったとき。それから自身が代表を勤める合唱団に美咲が入ったとき。

 その話を井庭は篠山から聞いていて、そして今、朋之から伴奏に同級生を誘ったと聞いてピンときたらしい。

「篠山先生のとこをフェードアウトしたのは、あかんかったけどな」

「私がここにいること、篠山先生は知ってるんですか?」

「あ──山口君が同級生に声かけた、とは話したけど、誰とは言ってない」

 でも何となく気付いてるやろな、と井庭は呟いた。

 それから荷物の中から楽譜の束を出してきて、いま練習中のものを美咲に渡した。敬老の日のステージは、伴奏無しのアカペラにするらしい。予定しているのは一般に知られている曲や美咲も知っている簡単な合唱曲だったけれど、美咲はその日は雑用係で参加することになった。

「秋に近くのホールでコンサートあるんやけど、来れるかな?」

 美咲にはその日の伴奏を頼みたいようで、井庭は先に楽譜を渡してくれた。メンバーたちには今日の帰りに配る予定らしい。

 井庭から渡された楽譜は美咲の知らない曲だったけれど、特に難しそうなものではなかったし、コンサートの日も今のところ予定は入っていない。

「何それ? あ──次のやつ?」

 声をかけてきたのは、朋之だった。練習は一旦止めて休憩になったようだ。

「うん……コンサートのやつやって」

「これは……まだやってないやつやな」

「ごめん小山さん、これもやわ」

 井庭が慌てて美咲に楽譜を一つ持ってきた。

「去年もやったから抜けてたわ」

 追加された楽譜を見て、美咲は思わず息を飲んだ。

「井庭先生、これ……」

「ごめん、いきなり難易度高めやな。……小山さん、曲は知ってるやろ?」

 タイトルを見ただけで、メロディが浮かんできた。美咲が伴奏をした曲ではないけれど、歌った記憶はある。以前いたえいこんでは、プロのピアニストが伴奏した曲だ。美咲の他に何名か伴奏担当がいたけれど、少々難しい伴奏はいつも彼女が担当してくれた。美咲がヒールを履いて後悔したステージも彼女が伴奏の予定だったけれど無理になってしまい、美咲ともう一人に声がかかって一曲ずつ弾いた。

「帰ったらすぐ練習せなあかん……」

「いけるって。まだ時間あるし」

 朋之はそう笑っていたけれど、美咲に余裕はなかった。家でも家事が待っているので、ピアノを弾いてばかりではいけない。航を仕事に送り出してから、ゆっくりしている暇はなさそうだ。

 練習が終わってから、女性メンバーの何人かが声をかけてきた。もし歌うことになったらどこになるかと聞かれたので、以前はソプラノだったけれど高い声が出なくなったからアルトかも、と答えた。実際、美咲は若いときに高音は難なく歌えていたけれど、結婚してから久々に歌うと笑えるほどに音が出なかった。

「それじゃ小山さん、次──来れるときで良いから、練習しといて。じゃ」

「はい……お疲れ様です」

 メンバーが帰るのを見送ってから、井庭も公民館の職員に挨拶して停めてあった車で帰っていった。美咲はため息をついた。

「お疲れさん」

「わっ、びっくりした」

 最後まで残っていたのは朋之だったらしい。朋之は窓口に部屋の鍵を返してから、美咲と外に出た。

「紀伊さん、電車?」

「うん」

「じゃあ、送るわ」

「え? あ──ありがとう……」

 朋之が車で送ってくれるというので、美咲は助手席に乗った。美咲は朋之の帰宅経路の途中の方向が変わるあたりで良いと言ったけれど、朋之はもう少し近くまで行ってくれた。

「歩いたら暑いやん。転んで手怪我してもあかんし」

 ははは、と笑うので美咲も釣られて笑い、道の広いところで車を停めてもらった。

 もう十年ほど早くにこうなっていたら──、と思ったけれど。お礼だけ言って車を見送り、そのままマンションに帰った。

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