第7話 方べきの定理
梅雨が明けてから、美咲は再びHair Salon HIROを訪れた。今回も平日の午後に予約を入れていたので、家で簡単に昼食を済ませてきた。
「今日はカラーもか……」
「うん。生え際だけで良いかなぁと思うんやけど」
「どうやろなぁ……。全体的にやったほうがいいと思うけど……前はやってないから二ヶ月は放置してるやろ? だいぶ色落ちてるで」
裕人は美咲の髪を見ながら言った。毎日見ているとわからないけれど、カラーはだいたい一ヶ月程で落ちる。気になりだした白髪に至っては、一週間ほどで目立ってきてしまう。
「じゃあ、全体してもらおうかな」
「はーい。じゃあ、ちょっと待ってて。カットは染めてからにするわ」
裕人が準備している間に雑誌を見ていると、女性アシスタントが話しかけてきた。いまの時間は美咲以外に客はいないらしい。
「小山さんと店長って、仲良かったんですか?」
「どうやろう……。クラスメイト以上友達未満……みたいな?」
「ははは、未満? 店長ー、友達未満やったって言われてますよ」
アシスタントは笑いながら裕人のほうを見た。美咲がいないときに、過去のことを少し話したらしい。
「まぁ──そうやな。友達ではなかったよな。話はよくしたけど」
二人の関係について、美咲と裕人の認識は一致していたらしい。
裕人がカラー剤を持ってきたので、アシスタントは少しだけ離れた。美咲はまだそれほど白髪がないのでおしゃれ染めで大丈夫なようだ。
「店長、私やりましょうか?」
「いや、俺やるわ。このあと予約が──」
アシスタントに指示を出している裕人を見て、美咲はまた過去のことを思い出していた。あのときの、あんなだった人が、今では従業員を抱える店長だ。
中学時代はバカやってたけど立派な大人になってますよ、と当時の彼らに教えてやりたい。
「よし、そしたら塗るで」
「え? あ、うん」
ピチャ、という冷たい感覚があって、同時にアンモニアの臭いが鼻をついた。店内はエアコンが効いているけれど、ナイロンのクロスとタオルを巻かれているのでどうしても暑い。それでも頭だけなんとなくひんやりして気持ちいいような、でも臭いがあるから良くはないような。
「あのな……今日はトモ君が来んねん」
裕人のその言葉が一瞬、理解できなかった。
「あ──えっと、山口君?」
「うん。ちょうど、紀伊と入れ替わりくらいちゃうかな?」
山口朋之とは二年の時に同じクラスになって、もちろん塾でも一緒だった。ただ、彼は美咲や裕人よりも成績が良かったので、塾ではだいたい違うクラスだった。
高校もやはり裕人より上のところに行って、大学卒業後、いまは有名企業でサラリーマンをしているらしい。
「今日は休みなん?」
「週末に出勤したみたいでな。代休やって」
「ふぅん……。私もそんなんやったなぁ」
美咲が結婚前に働いていた会社は、カレンダー通りではなく、週休二日制でもなく、月日数によって休日数が決められていた。部署によっては土日出勤は普通だったので、友達と休みが合わないことも、出勤日の交代を依頼されることもいつの間にか慣れた。
結婚してから仕事は辞めたので、一週間のリズムは今では毎週同じだ。
「あの頃──どうやったん?」
「どうって、何が?」
「いや……何て言うか、俺らいつの間にか仲良くなってたやん。どう思ってたんかなぁと思って。もともと佐方と仲良かったんやろ?」
「あ──うん……。一年ときに一緒やって、二年なってから、塾一緒、っていう人を紹介された、ような? あの人も、この人も、って。近くの席になったりして話すこと増えたんかな?」
中学二年になってしばらくしてから、美咲は彩加の紹介で塾に行くようになった。美咲の入塾試験の結果が良かったようで上から二番目の裕人と同じクラスになり、同じ頃に行われた塾内のクラス分けテストで一番上のクラスにいた彩加と朋之はクラスを一つ落とし、結果、美咲の塾生活最初のクラスは学校かと思うほどの顔ぶれだった。
「大倉君とか山口君とかは良いとして……なんで高井君と話すようになったんかがわからんのよなぁ。大倉君と話してたからかな?」
「あー、三年ときか。そういえば、俺ら一緒の班のときあいつ違う班やったのに、横におったな」
「やろ? 急に、
方べきの定理って何やったかな、と笑いながら、裕人はカラー剤を置いて美咲の頭にラップをした。カラーが馴染むまでの時間、アシスタントがアイスコーヒーを持ってきてくれた。
「難しそうな話してますね。数学ですか?」
「方べきの定理? うん。中学のとき塾で習ったんやけど……学校でも習ったかな?」
そんな話をしていると店に客がやって来たので、アシスタントは対応をしに行った。裕人も別の用事をしているので美咲は一人になり、コーヒーを飲みながら置かれた雑誌を見た。時短やズボラの料理本があったので、しばらく読んでいた。
カラーの待ち時間のあとシャンプーとドライヤーはアシスタントが担当してくれて、最後のカットで再び裕人が来た。単なる同級生なはずなのに、なぜか他の美容師よりも安心してしまう。
裕人は全体を調整して最後に毛先を整えてから、鏡に映る美咲のほうを見た。
「それで何やったっけ? 方べきの定理って」
「……円の上に点A・B・C・Dがあって、直線ABとCDの交わる、円の上にはない点Pとで、PA×PB=PC×PD、ってやつ」
あの日、佳樹に聞かれたときは答えられなかったけれど、そのあと調べてからずっと覚えていた。
「そんなんやったなぁ。全く使わんけどな」
裕人とは違う声がした。
声のほうを振り向くと、美咲とは一つ席を開けて男性が座っていた。首があまり動かせないのではっきりとは見えないけれど、美咲は彼を見たことがあった。
「えっ、山口君? いつの間に」
朋之は、美咲がドライヤーをしてもらっている間に席に着いたらしい。美咲も人の気配は感じていたけれど、誰かまでは気にしていなかった。
「紀伊さん──いま小山やったっけ? 久しぶりやな。こないだは話さんかったからな」
「うん……ビックリした……」
驚いている美咲を置いて、裕人は美咲からクロスとタオルを取った。自由になってから朋之のほうを見ると、彼は少し笑った。
「またな。いま会ったばっかやけど」
「うん……またね」
美咲は鏡に映る朋之に小さく手を振って受付のほうに向かう。裕人が既に待っていて、面白そうに笑っていた。
「同じ時間やったら話せたやろうけどな。──そうや、今度メシでも行こうや」
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