三月三日 ちらし寿司





「お疲れ様でした」

「はい。お疲れ様」


 祖母と孫はグータッチをしてお互いを労ったあと、孫は枯れ葉色のタイルが敷き詰められた床に寝転んだ。

 普段はできない事だが、今日だけは特別。


「ああ、疲れた」


 小さな呟きさえも響きを持つ空間の中。

 あまりにも遠い天井を見つめる内に、魂が上へ上へと引っ張られるような感覚に陥った。

 魂が肉体から抜け出そうとしているからか。

 瞼が、腕が、指先が重い。

 否。

 肉体が休息を欲しているのだ。


 家に帰って寝なければ。

 けれど、けれどああ。

 立ち上がる力がない。

 誰か、誰か、オラたちに力を。


「ぶつぶつ言ってないでほら」


 祖母に木桶を見せられた孫は、今からお湯を入れるのかと疑問でいっぱいになったが、微かに漂うコハダの酢〆の匂いに、カッと目をかっぴらいた。


「ほら、立ち上がって。お行儀が悪いけど、今日はここで頂きましょうか」

「今日って、ひな祭りだったっけ?」

「そう。すっかり忘れていたわね。お母さんがしょげてたわよ。今年は独りで雛人形を出したって。寂しかったって」

「ああ、それは悪い事をした」


 孫はコハダの酢〆の香力を吸収して、上半身を起こしてサッと胡坐をかいた。


「自分でよそう?」

「うん」


 祖母から竹皿を受け取り、ちゃぶ台の上に置かれた木桶からちらし寿司をしゃもじでよそった。


 祖母特製のちらし寿司。

 柑橘系の酢で煮込んだレンコン、砂糖醤油で煮込んだシイタケ、味付けをしていない赤橙の焼きシャケを酢飯に空気を含ませるようにやわらかくやさしく混ぜ込んでから、出汁の味が少しだけ濃い錦糸卵、茹でたエビ、市販のトビコ、コハダの酢〆をちらすのだ。

 色がふくよかで一目見るだけでワクワクが止まらない上に、絶品ときたもんだ。


「あ~~~生き返る~~~」

「ばあちゃん、そんなに喜んでもらえて嬉しいわ」

「私は絶対この味に出会う為に生まれてきたんだわ」

「そこまで言う?」

「言う言う。胸を張って言う」

「じゃあ、ばあちゃん長生きしないとね」

「うん」


 おかわりを竹皿によそったあと、孫は自分と祖母が手がけた桃の花をイメージしたタイル模様を見つめた。


 祖母の母から始まったこの銭湯は祖母の代で終わるはずだったのだが、祖母の子でもある孫の母が継いで、孫の妹が後継者を名乗り出ているのでまだ続けられるからと、今回、タイル職人に転職した祖母とタイル職人を目指している孫に孫の母と孫の妹から依頼が入ったのだ。

 壁のタイルの模様変えをしてほしいと。

 金額だけを提示されたあとは、すべてそちらにお任せすると言われたのだ。


 あれやこれやと準備に手間取って、施工に入ってからも少々問題が起こり、計画より遅れて今日、仕上がったというわけだ。





「元気が出た。よし、ばあちゃん。お祝いにスーパーでお酒を買って雛人形を見ながら飲もう」

「ええ。じゃあ、一杯だけだよ。ばあちゃんはもうクタクタ」

「あ、じゃあスーパーには私一人で行くよ。色々買い揃えるから」

「ううん。私も行くよ。スーパーに行くの楽しいし」

「うんわかった。あ。ばあちゃん。まだある?」


 空っぽの木桶を祖母に見せた孫は目を爛々と輝かせた。

 祖母は眉を下げて、明後日にまた作ってあげると言った。


 明日はどうせ一日中、祖母も孫も泥のように眠っているからだ。









(2022.8.7)



 

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