逆回転恋愛思想 ~ナチュラルラバー・スピンオフ~

宇月朋花

第1話 こんがらがった糸の先

大きくて節ばった、けれど馴染みのある手が頬を撫でる。


躊躇いがちに、まるで壊れものに触るときのように。


大事に、大事に。


くすぐったい気持ちで目を開けようとするけれど、重たくて瞼が持ち上がらない。


耳元で優しい声がする。


ちゃんと覚えている、よく知っている声だ。


何度も聴いた、低い声。


「・・・・・からな」


呟きは小さすぎて、聴き取る事が出来ない。


けれど、その声があまりにも心地よくて、少し笑えた気がする。



いつもそんな風だったらいいのに。


そうやって、優しくしてくれたなら、きっともっと上手に。


私はこの気持ちを伝えられるのに。





★★★★★★





金曜の午後22時半。


繁華街は週末の開放感に満たされて大いに賑わっていた。


行き交う人は皆上機嫌で、やって来た金曜の夜を満喫している。


駅近の大型チェーン店の居酒屋も例にもれず大盛況だった。


話し声と笑い声が飛び交う店内で手にしたビールジョッキをテーブルに戻して、もう殆ど回らないろれつを、必死に回転させる、お疲れモードのOLがひとり。


「だから・・・っ私だって言ってやったんです・・・がんばってんのはぁ・・・・みんな・・・一緒でしょおおお?間違ってますうぅ?」


無駄に長くなる吉田真里菜の語尾に、向いの席に座った後輩と、隣の席の先輩が呆れ顔で相槌を打った。


「わーかったから!!ね、真里菜ちゃん!!とりあえず、もうビールはやめとこ!」


有無を言わせずジョッキをテーブルの端に追いやって、先輩OLは望月南は溜息を吐く。


まさかこんなに酔っ払っうなんて、想定外だった。


ちょっとした社内トラブルが無事に解決されたのでお疲れ様会を兼ねて、同じ部署の後輩を誘ったのだが。


まさか、こんなにお酒弱い子だったなんて・・・


個人的に飲みに誘ったのは初めてだったので、どれ位飲めるのか分からずに放置してしまったが、乾杯以降はソフトドリンクを勧めておくべきだった。


南は腕時計で時間を確認する。


そろそろタクシーを拾って解散した方が良さそうだ。


「久実ちゃん、お開きにしよっかぁ。私、タクシー頼んでくるから。お家、西方面だったよね?」


自分と、真里菜とは逆方向なので2台呼ばなくてはいけない。


席を立った南に、久実が慌てて声をかけた。


「私帰れるんで大丈夫ですよー?」


カクテル2杯しか飲んでいないので、ほろ酔い程度の久実は平素と全く態度が変わらない。


「でも、駅からお家遠いでしょ?もう結構遅いし・・・・あ・・・」


ふと思い当って言葉を止める。


確か彼と同棲してるって言ってたっけ・・・


「もしかして・・・迎えに来てくれてたりする?」


南の言葉に、久実が頷く。


「はい・・・23時に駅前って・・・すみませんっ」


それなら安心だ。


「ぜんぜんいーのよ。こっちこそ、気を使わせちゃってごめんね。駅まで一緒に行こうか?ひとりじゃ危ないし・・・・」


夜道の一人歩きは絶対危険だ。


幼馴染の兄と、何かと口煩い恋人から口を酸っぱくして言われてきた。


「駅前だし、大丈夫ですよー吉田さん、1人で送れますか?」


「だいじょーぶよ。酔っ払いの相手は慣れてるの。こっちのことは気にしないでいいから。あ、ちゃんと彼氏と会えたらメールしてね。心配だから、念のため」


先に店を出る久実に伝えると、可愛らしい笑顔と共に、素直な返事が返ってきた。


ふと、妹の笑顔を思い出す。


ふわふわの綿あめみたいな陽だまりのような女の子。


ここのところ忙しくて、家にあまり帰っていない。


巧弥の部屋が仕事場からかなり近いってのも理由のひとつなんだけど・・・


「あー・・・ひなた欠乏症だわね・・」


今頃旦那様と楽しく団欒しているだろう、最愛の妹を思い浮かべる。


ちょっと早く嫁にやり過ぎたかしら??


ウェディングドレス姿も、そーりゃーもう一等綺麗だったけれど・・・・ちょーっと、和田君に殺意を覚えちゃったわ。


「次はお前だな」


さんざん泣き明かしたお式の後、真っ赤な目の南を見て、まるで決定事項のように言ったのは巧弥だ。


「誰と、誰の?」


一応訊いてみたら、鼻で笑われた。


「婚姻届がいるなら、明日貰いに行ってやるよ」


勝ち誇ったような男の言葉に、悔しくて二の句が紡げなかった。


相手が作家という職業柄、なかなかじっくりと相談する時間が取れず。


もちろん、南が出版社勤務というのも大きな理由ではあるが、せめて今、受け持っている担当の新作が無事に出版に漕ぎ着けたら、籍を入れようと決めてから早や半年。


鉄は熱いうちに打てと勢いで入籍しなかったことをほんのちょっとだけ後悔していたりも・・・する。


「結婚ってタイミングよねえ・・・」


温くなったビールを一口飲むと、机に突っ伏していた真里菜がもぞもぞと起き上がった。


さっきまでの熱い担当魂が嘘のように、いつも通りのおっとりした表情に戻っている。


「真里菜ちゃん、帰れそう?タクシーで気持ち悪くなったりしないかな?」


爆睡なら、仕方ないので実家に泊めるつもりだった。


幸い、妹ひなたの使っていた部屋が空いている。


もともと、幼馴染が入り浸る家だったので家族も、気にすることはない。


問われて真里菜は、吸い込まれそうな漆黒の瞳をくるくると動かして、にっこり笑った。


「タクシーですかぁ?んんー・・・酔うかもー・・・」


「えっ!そうなの?どーしよ・・・」


駅から南の家まではとてもじゃないが歩ける距離ではない。


かといって、執筆真っ最中のピリピリムード全開の巧弥の部屋に転がり込むわけにもいかない。


「誰か、お家の人とかに連絡した方がいい?真里菜ちゃんが信頼してる友達とか・・・」


南の言葉に、うーん、と少し考える素振りの後、真里菜はスマホを取り出してどこかに電話を架け始めた。


家族・・彼氏・友達・・?あれ、でもここ数年彼いないって・・・聞いた気が・・・


南の疑問をよそに、真里菜は繋がったらしい相手に話しかけ始めた。


それもすっかり酔っ払い口調で。


「もしもーしい?河野さぁん?お疲れ様でーすう」


側で聞いていた南は不安になって、真里菜からスマホを取り上げる。


相手が誰か分からないが、こんなに酔わせたの誰だ!とか怒鳴られたらどうしよう・・・


コホンとひとつ咳払いして、仕事用の声色で口を開く。


「もしもし?申し訳ありません、吉田さん少し酔ってしまったようでして・・・私、同じ会社の望月と申します」


「こちらこそ・・・ご迷惑おかけしてすみません。すぐに迎えに行きますんで、場所を教えてもらえますか?」


聞こえてきた声は、男性のものだった。


感じの良い受け答えに、南はほっとしつつ店の名前を伝えた。


「15分ほどで行きます、ですって」


彼女の雰囲気に良く似合うメタルピンクのスマホをカバンにしまってやる。


すっかり夢の中の真里菜は可愛らしい寝顔で眠り込んでいる。


入社当時から可愛いと噂になっていた吉田真里菜は、南ほど高嶺の花ではない、社内のオアシス的存在だ。


南と一緒に仕事をした人間は、彼女がただの近寄りがたい美人ではないと思い知るが、そうでない人間は、遠巻きに眺めてはうっとりする。


望月南は観賞用、吉田真里菜は気易く話せるアイドル扱いだ。


・・・絶対ひとりで置いとけないわね・・・


どうしてこうも、自分の周りには手のかかる美人ばかり集まるんだろう。


学生時分の人間関係を思い出し、南はほうっと溜息を吐いた。


店中の注目を誰よりも集めているのが、自分だとは気づきもせずに。


30分も経たないうちに店にやって来た人物を見て、ピンと来た。


この人が、河野さんだ。


南が軽く会釈すると、キリッとした表情を少しだけ緩めて、笑みを浮かべる。


わーお。男前ー。


美男美女に耐性のある方で良かった。


もしそうじゃなかったらちょっとドキっとしてしまったかもしれない。


それ位、魅力的な人だった。


「先ほどご連絡しました望月です」


つい仕事の癖で立ち上がってしまう。


「真里菜がご迷惑おかけしてすみません。河野です」


彼も同じように丁寧に頭を下げて来る。


雰囲気からして営業職なのだろうか。


「ごめんなさい。お酒弱いの知らなくって・・」


まさか中ジョッキでオネムになるとは思わなかったのだ。


「いえ、こいつが悪いんで・・・真里菜、おい、真里菜? 帰るぞ」


真里菜の肩を掴んで軽く揺さぶる。


気安い態度からして、男友達の一人というところだろうか。


彼女の性格からして元彼とは連絡を取り合っていないような気がする。


「あの・・・タクシー酔うから乗れないって言ってたんですけど・・・どうやって帰るんですか?」


15分なら、歩いて来れる場所なんだろうか?


「そこのパーキングに車停めてるんで。って・・・そんなこと言ってたんですか?初耳だなぁ・・・」


呆れた顔で真里菜を見下ろす河野。


その表情にピーンと来た。


「吉田さんに、誰か、信頼できる人いるって訊いたら迷わずあなたのところへ電話したんですよ」


南の言葉に、河野は一瞬目を丸くする。


「そうなんですか?」


「ええ。だから、最初はご家族かと思いました」


「・・・後輩・・なんです」


「そうですか。頼れる先輩がいて、助かりました。最悪、私の家に泊まってもらおうかと思ってたんです」


「月曜日、こってり絞ってやってください」


苦笑交じりに言われて、頷く。


これは、絞る、より、追及する、ほうが面白そうだ。


「どうします?車まで連れて行くなら手伝いますよ?」


南の言葉に、河野は首を振った。


「背負って帰るんで大丈夫ですよ。申し訳ないんですけど、荷物だけお願いしていいですか?」


そうして、熟睡状態の真里菜の腕を引っ張るとひょいと真里菜を背負って見せた。


すらりとした長身は決して筋肉質ではないのに、真里菜を負ぶっても微動だにしない。


呆気にとられた南を置いて、河野は店の外へと出て行ってしまう。


慌てて真里菜のカバンを手に立ち上がる。


「すいません、お勘定」


店員を呼びとめると、にこりと笑顔でお支払い済みですと伝えられた。


「さっきの男性のお客様が」


やられたー!!!


たまにはいいカッコしようと奢るつもりで来ていたのに、フライングだ。


助手席に真里菜を下ろす河野の背中に声を掛ける。


「おごっていただくなんてできません!」


「コレの迷惑料ってことにしといてください」


にこりと笑って南の手から荷物を受け取ると次の言葉を待たずに運転席に乗り込む。


「本当にご迷惑おかけしました。もし良かったらお送りしますけど・・」


その申し出は丁重にお断りさせて頂く。


何処からどう見てもお邪魔虫は南の方だった。

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