第52話 こぼれ落ちた幸せ⑯

 成瀬が病室を訪れると那津は体を起こし、窓の外を眺めていた。

「こんにちは。体調はどうですか?」

成瀬の声に振り向く那津は相変わらず寂しげに微笑む。

「今日も来てくださったの?」

「那津さんのお話、気になって。続きが聞きたいです。そういえば那津さんのお母さんは大丈夫ですか?」

「ええ。」

「施設に入られたの?それとも那津さんの代わりに面倒見てくれる人がいるとか?」

「成瀬さん、昨日の続きをお話しましょうか?」

はやる成瀬に那津は静かに続きを話し始めた。


「昨日は私が会社をやめて実家に戻ったところまで話しましたよね。すぐ仕事を探したんだけどなかなか見つからなかったんです。それで結局、浦原の奥さんに紹介してもらってスーパーで働くようになったんです。…」


 那津は実家にほど近いスーパーで働くようになった。大きなスーパーではなかったが、浦原の奥さんの紹介だったおかげで昼休みは実家に戻って母と昼食を取ることが許され、母の診察のために休むのも融通をきかせてもらえた。

だが、もも子は那津が戻ってきてからますますワガママになった。


 ある朝、睡眠不足の那津はうっかり寝過ごしてしまった。

「ゴメン、お母さん。寝過ごしちゃった。今朝はこれでゴメン。」

那津は温め直した昨夜のオカズとご飯、朝の薬をトレーに入れて出した。

「昨日の残りじゃないか!こんなものを親に食べさせようって?」

「もう行かなきゃいけないの。作ってるヒマないの。お願い食べて!」

もも子はオカズとご飯をのせたトレーを落とそうとしたが、ふと手を止めた。そしてもも子が朝食を落とすのではないかとハラハラしている那津にニヤリとした。

「お昼に海鮮丼を買ってきてくれるんなら、このマズイご飯を食べてやってもいいよ。」

「海鮮丼は千円もするんだよ!無理だよ!」

「しけたことばっかり言う子だよ、お前は。じゃあこんなクソ飯要らないよ!」

もも子はトレーをつかんだ。

「わかった!わかったから、買ってくるから。」

那津は玄関で履きかけていたスニーカーを蹴飛ばして、もも子の手を押さえた。勝ったとばかりにニヤニヤするもも子。

「買って来ればいいんでしょ!朝の薬、今、飲んで!早く!後でちゃんとご飯食べてよ!」

「ふん、初めから素直に親の言うこと聞いてりゃいいんだよ。」

もも子は那津の目の前で朝の薬を飲んでみせた。もも子の服薬を確認した那津は大きなため息をつくと玄関のドアを閉めた。

これで何回目?

また休日出勤しなきゃいけない。

那津は今日も朝からうんざりした。


もも子は前日の残り物のオカズや冷えた食事は食べない。薬も那津がすぐ飲めるように用意しないと面倒くさがって飲まない。今では自分の薬もよくわからなくなっていた。だから那津は昼休みも実家に戻り、もも子のために用意した食事を温め直し、食後の薬を用意して服薬を確認しなければならなかった。


 ままならない毎日だが、那津が実家に帰って来てからアキや正行から電話が何度もかかってきた。

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