第33話

 そこに立つのは、ヴィクターを連れたジルニトラの姿だった。

 

 いつもと変わらない、足首まである深緑のドレスめいた服にジャケット。

 今日は普段と違い、同色のレース付きトーク帽を被っている。

 手には黒いレースの扇子を持っていて、ジルニトラの顔はよく見えなかった。

 

「お集まりの紳士淑女の皆様、お待たせしたかしら?」

 

 可紗がジルニトラの姿を認めて歩み寄ろうとした瞬間、汀とウルリカが強い力で彼女を両側から押さえ込んだ。

 行くなと必死に訴える二人の顔色は、夜であることを考えても酷く青白く、緊迫しているように見えて、可紗は驚いて目を瞬かせる。

 

「……え、ど、どうしたの? 二人とも……」

 

「馬鹿! アンタどうかしてるわよ!!」

 

「アレが魔法使い? 違う、そんな次元のモノじゃない……!!」

 

「えっ?」

 

 彼らの声は、怯えているようだった。

 驚いた可紗は二人に視線を向けた後、再びジルニトラへと戻す。


 そこには彼女が知るジルニトラがいるだけだ。

 

 彼女はただ、立っているだけにしか見えない。

 月明かりの下、どことなく神秘的な雰囲気すら纏っているかのような、可紗の名付け親の姿。

 そんなジルニトラから、子どもたちを守るかのように大人たちが立ちはだかった。

 彼らの様子にジルニトラは不快そうにするでもなく、ただただ穏やかに笑みを浮かべているだけだ。

 

 彼女のエメラルドグリーンの瞳が、夜でもキラキラとしているように見えて可紗は「綺麗」と小さく呟ていた。

 その声が聞こえたのか、ジルニトラは可紗へと視線を向けて、唇が弧を描く。

 

「アタシの可愛い可紗。待たせたかねえ」

 

 ジルニトラが、可紗を呼ぶ。

 その声にいつもと変わらない優しさを感じて、可紗は汀とウルリカの手を振りほどき二人に笑顔を見せた。

 

「あのね、汀くん。明石さん。あの人は、……うん、確かにただの魔法使いじゃないと思う。あの人は私の魔法使い、私の名付け親。私にとって大切な家族なの」

 

 可紗の告白を聞いた二人の表情は、なんとも言えないものだった。


 彼らが怯える理由を、彼女は知らない。汀とウルリカは互いに〝人ならざる者〟同士、そうだとわかるのだというからきっとジルニトラについてもなにかを感じ取ったのだろうと可紗も思う。

 

 だが、可紗にはわからない。


 わからないけれど、彼女にとってジルニトラはもう大切な〝家族〟だ。可紗には、それで十分だった。

 

 可紗は彼女たちを庇うようにして立っていた大人たちの間をすり抜けて、ジルニトラの方へと歩み寄って、差し出された手を躊躇うことなく取った。

 

「大丈夫です、私もさっき着いたばかりですから!」

 

「……なんだか驚かせちまったようで申し訳なかったねえ、アタシが面倒くさがってきちんと説明しなかったのがよくなかったかしら」

 

 扇子で隠した口元からため息が漏れる姿は純粋に困っているようで、何故こんなに穏やかなジルニトラを彼らが警戒するのか理解できずに可紗は首を傾げた。

 

「もし」

 

 そんな中、緊迫した空気を跳ね返すように汀の母親が声をあげて一歩前に出た。

 凜とした様子ではあったが、それでも緊張しきった顔には汗が滲んでいて、可紗はそれを見て驚いてしまった。


 だがなにも言わなかった。

 

「あなた様が、柏木さんの仰った魔法使いだと、そうなのですか」

 

「ええ、その通りよ。みずちの一族のご当主」

 

「純粋なる竜種、それも異国のお方にお目にかかるのは初めてですが、誠にご協力いただけるので?」

 

「アタシの愛し子が願うのならば、当然のこと」

 

 可紗を見つめてふわりと笑ったエメラルドグリーンの瞳が柔らかく細められ、そのジルニトラの様子はなんとも機嫌が良さそうで可紗もつられて笑う。

 

 そんな可紗の様子を見て、汀の母親は納得したらしく頷いて一歩下がった。

 ウルリカの父親も、顔色は悪いが恭順の姿勢を見せていた。

 

 しかし、驚いたのはほかでもない可紗であった。

 汀の母親の言葉を噛み砕いて理解できた瞬間、思わず隣にいるジルニトラを見上げて大声をあげた。

 

「って、ええ!? ジルさんって竜なんですか!?」

 

「まあ、竜っていうのもジルニトラって名前も、全部あとからついたものだからねえ……そう呼ぶならそうなんだろう、くらいにしか思っちゃいないんだよ」

 

「え? うええ……、なんだろう、禅問答?」

 

「違うと思うが」

 

 可紗の頓珍漢とんちんかんな答えに思わずヴィクターが苦笑してツッコめば、視線が彼にも集まった。

 月光の下で微笑むヴィクターの目は赤く爛々と輝いていて、彼が可紗の横に立つと汀がきっとこちらを睨むのが彼女にも見えた。

 

「おや、可愛らしい子蛇がおれを睨んでいるな」

 

「ヴィクターさん?」

 

「さて、ご理解いただけたようなら始めましょうか。まずは人魚のお嬢さん、一歩前にお立ちなさい。不安ならご両親も彼女を支えてあげてちょうだいな」

 

 その朗々とした声に、怯えながらも両親に支えられたウルリカが前に出る。


 ジルニトラが胸の前で片手をくるりと動かすと、そこに突如として釘の刺さった人形が現れ、ウルリカが大きな声をあげた。

 

「ワタシの人形!!」

 

「安心おし。大した問題じゃあなさそうだしねえ、すぐに終わるよ」

 

 可紗の目に、あの日のようにエメラルドグリーンの瞳を輝かせたジルニトラが扇子をひらりと動かせば、泡のような緑の光が人形を包み込み、まるでシャボン玉のように宙に浮く。

 その瞬間、呪いのかかった釘がポロリとひとりでに抜け落ちた。

 

 からんと乾いた音を立てて落ちた釘が、今度はウルリカの目のような青色に染まったかと思うとじゅわりと溶けて消え去ったのである。

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