第2話 指名された理由
さて、どうしたもんか。伯爵家に到着した翌日から、毎日僕はそんなことを思っている。
そのことに気づいたのは、到着した翌日の朝だった。
朝、いつも以上にだるい体を無理やりベッドから起こして身支度を整えた僕は、前夜と同じ大きなダイニングルームで伯爵様とスピネル様の三人で朝食を食べた。
朝から豪勢な肉料理が出てホクホク顔だったんだけれど、上に乗っかっているキノコが、もしかしなくてもトリュフじゃないかってことに気づいて口が引きつりそうになった。それにソースからはニンニクの匂いもしていた。
(トリュフなのにニンニクって、香りをぶち壊してないか? ということは、まさか……?)
思わずそんな疑問が浮かんでしまったのは、思い当たることがあったからだ。
トリュフには生殖機能を活性化する成分が含まれていると言われていて、ニンニクは言わずもがな元気いっぱいになれる食材だ。さすがにトリュフは一般的じゃないけれど、同じ成分が含まれるキノコ、それにニンニクは健康増進の食材として勧めることもあるから、僕たち医者にも割と馴染みがある。
さらにパンには松の実とカボチャの種が入っていた。
松の実は体を温めたり体調を整えたりすると言われている食材だけれど、寝る前に十数粒食べると精力旺盛になると昔から言われている。カボチャの種は男女問わず生殖器官に効果的な成分が含まれていて、この国ではそういう目的で食べられることがあった。
朝っぱらからどれだけお盛んなんだと突っ込みたくなる料理の数々に、少しばかり遠い目になったのは仕方がないだろう。
極めつけはデザートで、真っ赤な粒々のザクロの果実をたっぷり使ったゼリーが出てきたときには目眩がした。
ザクロは疲労緩和に効果があって、甘酸っぱい味から老若男女問わず好まれる果物だ。ただ、新婚夫婦が初夜から七日間、このザクロの実を食べるという習慣もあって、それはまぁ、そういう効果があると言われているからでもある。
(新婚じゃないっつーの)
それだけスピネル様を心配しているということなんだろうけれど、さすがに朝からこれではげんなりしそうだ。
そういう食事はたまたまかと思っていたけれど、どうやら朝昼晩関係なく精力増強食材がたっぷり使われるのは決まりごとのようで、毎食これでもかというくらい精力増強させられている。まぁおいしいから僕はかまわないんだけれど、一体どのくらいの間こういう食事をしているのか考えるだけで、ちょっと引きそうになった。
スピネル様自身がどう思っているのか気になって毎回観察してはみるものの、感情が読めないすました顔で食事をするからさっぱりわからない。
(どう思ってるかは別としても、毎回こういう食事っていうのもなぁ)
体に害はないだろうけれど、まだ三十歳のスピネル様には結構酷な状況じゃないだろうか。
(だって、溜まるもんは溜まるだろうし)
それも強制的に溜まり続ける状況だ。潔癖気味じゃなければ選り取り見取りな美貌と家柄なのに、一人で発散なんて……、そう思うとなんだか不憫に思えてくる。
(でもって伯爵様も同じものを毎日食べてるんだけど、大丈夫なのか?)
スピネル様以上に伯爵様の体のほうが心配になる。だって、年齢から言っても伯爵様には少々、いや、結構過激な食事だと思うんだ。
それを一体どうやって発散しているんだか……、と考えたところで、城でチラッと耳にした噂話を思い出した。
『サンストーン伯爵様は若い愛人が数人いらっしゃって、いまでもお盛んらしい』
……なるほど、噂話の原因はこれだったのか。あるいは元からお盛んなのかもしれないが。
たしか伯爵様はもう六十を超えたお年のはずだけれど、見た限り肌の張りも血色もいい。スピネル様よりよほど精力的で、まだまだ子どももうけられそうな感じがする。
(まぁ伯爵様のことは置いておくとして、問題はスピネル様だよなぁ)
伯爵家に来てから五日が経った。
毎日スピネル様の部屋で結構な時間を一緒に過ごしているけれど、僕はまだ一度もスピネル様の脈を測れていない。この状態なら、心臓の音なんてはるか先の話なんじゃないだろうか。いや、明らかな病気というわけではないんだろうから、脈も心音もこの際後回しでかまわない。
それよりも会話にならないことのほうが問題だった。このままじゃ状況を把握できないし、スピネル様自身がどうしたいのかもわからない。
これでは親父に話をすることも、後任の医者を手配してもらうこともできないじゃないか。診察内容を書き留める紙はほとんど白いままで、いつまで経っても引き継げないなぁとげんなりする。
(せめて僕を名指した理由だけでもわかるといいんだけど)
理由がわかれば後任に必要な条件もわかる。女医は無理だとしても男の医者はたくさんいるし、最終目標はそういう方面の玄人にお願いする方法もあるはずだ。
「んー、でも簡単に教えてもらえそうにはないしなぁ」
……しまった、心の声が口から漏れてしまった。独り言なんて滅多に言うことがなかったのに、伯爵家に来てから明らかに増えたような気がする。
(……そりゃそうか。だって話し相手が誰もいなんだからな)
伯爵様とは親しく話すことなんてできないし、じゃあ従僕や侍女の皆さんと話せるかといえば、たまにしか姿を見かけないから話しかけるタイミングすらない。彼らも人を近寄らせない雰囲気のスピネル様だとわかっているから、周りをウロウロするわけにはいかないんだろう。
そんなスピネル様の部屋の隣をあてがわれてしまったせいで、僕もポツンとなる日々を送らざるを得なくなってしまった。そのせいで日々、独り言が増えているんだけれど、だからといってスピネル様と会話になるかと言えば、そんなことはない。ただ……。
「……何が知りたい」
本当に小さな独り言だったのに、やっぱり聞いていたか。
まともに会話をしようとしない割に、スピネル様はつい僕が漏らしてしまう独り言を耳ざとく聞いていたりする。完全に僕を無視しているわけじゃないようで、こうして反応することが何度かあった。
(反応したからといって、会話に繋がるってわけでもないんだけどさ)
だから今回も「どうせ答えてくれるはずがない」と、期待しないで気軽に話を続けてみることにした。それに、これくらいしか誰かと話す機会がないんだから、話しかけるくらいは許してほしい。
「いえね、どうして僕を指名したのかなぁと思いまして」
「……」
チラッとスピネル様を見ると、すでに視線は膝に置かれた本に戻っている。
ほら、やっぱり。話しかけると途端に反応がなくなるんだ。これじゃあスピネル様を診察できるようになるまで、どのくらい時間がかかるかわかったものじゃない。
やれやれと思いながら今日の診察内容を紙に記入した。といっても今日も書くことはほぼないわけで、医者としての仕事すらままならない。今日はもうお終いかなと思い、ペンを片付けようとしたときだった。
「…………きみしか、思い浮かばなかったんだ」
「……はい?」
「先ほどの問いの答えだ」
おっと、まさかの答えが返ってきた。
そっかー、僕しか思い浮かばなかったのかー……って、いやいや、僕とスピネル様は会ったことがないですよね? 見習いのときから貴族に会う機会はあったけれど、サンストーン伯爵家のどなたにもお目にかかったことなんてない。
それとも、やっぱりどこかで会ったことがあるとか? 僕が忘れているだけなのか……?
「どこかでお会いしましたっけ……?」
訊ねたところで返事なんて返ってこないだろうに、僕ったらなんてお間抜けさんなんだ。今度こそ無視されるだろうと諦めていたけれど、またもやスピネル様の声が返ってきて驚いた。
「……随分と昔のことだ」
うん、これは質問への返事で間違いない。
「まさか、会話が成立するなんて」
「どういう意味だ」
「あ、いえ、こっちの話です。ええと、随分昔にお目にかかったことがある……。申し訳ありません、ちょっと記憶になくて」
「……だろうな。わたしが一方的に見ただけだ」
おっと、それは会ったとは言わないんじゃないかな。
「あー、随分昔と言いますと、僕がまだ王宮医になる前のことでしょうか」
「王宮医だったかはわからない。だが、城で見かけたのは間違いない」
「城で……」
「…………十年ほど前の話だ」
十年前ということは、僕が王宮医見習いだった十四歳の頃だ。医長だった親父の助手をしていたから城には頻繁に行っていたし、どこかで見かけていてもおかしくはない。
でも、それだけで「きみしか思い浮かばなかった」というほど記憶に残るとは思えなかった。
「十年前というと、僕が十四歳のときですね。まだ王宮医見習いのときですが、医長だった父の助手として城には通っていたので、そのときでしょうかね」
もう少し会話が続くかと思って言葉を続けたけれど、スピネル様はグゥッと眉を寄せて口元に拳を当てながら考え込んでしまった。美形がそんな顔をすると迫力が増してちょっと怖い。
しばらく返事が来るか待ってはみたものの、やはり会話は続かなかった。
(うーん、残念)
これで会話が続けば、もう少しスピネル様のことがわかったかもしれないのに。
(僕がお役御免になるのは、まだまだ先かぁ……)
せっかくだから会話の糸口を広げたいところだけれど、ここで無理をして臍を曲げられても困る。そう考えて、仕事道具を部屋に置きに行こうと紙の束をまとめ始めたとき、「きみは……」と声が聞こえて、またまた驚いた。
スピネル様のほうから声をかけてきたのは初めてじゃないだろうか。驚きすぎて取り落とした紙の束が、バサバサとテーブルの上に散らばってしまった。慌てて片付けたけれど、スピネル様の言葉は続かない。
(……僕の聞き間違いか?)
そう思いながらも、少しばかり待つことにした。
「……あのとき、きみは、……馬のフンを踏んでこけた子どもを治療していた」
おっと、ちゃんと話が続いている。なんという時間差、長すぎる間。スピネル様って会話自体が苦手だったりするんだろうか?
……いや、ろくでもない命令を聞いてから慌てて集めた情報では、「サンストーン伯爵家は第二夫人を排出しただけでなく、次期伯爵様も聡明で優秀な方だから安泰だ」なんて評判だったはず。聞いた話とはえらく違うんだけどと疑問に思いながらも、言われた内容を思い出そうと記憶を遡った。
「ええと、馬のフン……フンを踏んで怪我した子ども……。あぁ、あのときの」
思い出した。たぶん、あのときのことだ。
城に行くのが二度目だった僕は、いろいろ珍しくて親父の目を盗んではあちこち探検していた。そのとき、馬小屋の近くで馬丁の子どもが転んだところに出くわしたんだ。大した怪我じゃなかったから綺麗な水で傷口を洗って、いつも持ち歩いていた塗り薬を塗っただけだったけれど、それをスピネル様が見ていたってことか。
「そういうこともありましたね」
でも、それだけで忘れられなくなるなんてことが、あるだろうか?
「それにしても、十年前のたったそれだけのことなのに、よく覚えていますね」
優秀だって噂は本当かもしれない。十年前のわずかな瞬間の出来事を覚えていて、そこから僕を指名するなんて記憶力がいいにも程がある。
おかげで僕は、こんなろくでもない命令を受けなきゃいけなくなったわけだ。
「…………馬のフンだったからな」
「はい?」
いつもよりずっと小声だったけれど、いま「馬のフンだったから」って言ったような……? それって、馬のフンがあったから覚えていたってことだろうか。それはまた、えらく珍しい覚え方だ。
でも、これで僕を指名した理由はわかった。やたら記憶力のいいスピネル様は、十年前に馬のフンと一緒に覚えていた僕を思い出して、今回指名したってことだ。
(うわぁ、それじゃあ僕は丸っきり巻き込まれただけじゃないか)
なんという貧乏くじ。しかも仕事の最終目標は、ろくでもない内容だ。これはやっぱり早々に後任を考えたほうがいい気がする。
ちょうどいま、奇跡的にもスピネル様と会話が成立している。よし、今後のことについて話すのはいましかない。
「スピネル様、じつはちょっとご相談が……」
「わたしは子どもの頃から馬のフンが苦手なんだ。いや、憎んでいると言ってもいい」
「……は?」
何を突然、告白し始めたんだ? というか、まだ話は続いていたのか。ええと、これは黙って聞けってことなのか?
オレンジ色の目は空中を見ているけれど、席を立つことも話の腰を折ることもできそうにない雰囲気だ。
「きみはあのとき、馬のフンにまみれた子どもに嫌な顔ひとつせず、自分が汚れることを
(そうだったっけ……?)
あー、でも傷口を洗わないといけないと思っていたから、馬のフンなんか気にしていなかったかもしれない。
「それどころか傷の手当てまでしていた。しかも、…………微笑んでいた」
「相手は子どもでしたし、痛くないよーって言っていたんだと思います」
「たとえ子どもであっても、馬のフンにまみれていれば微笑まれたりはしない」
スピネル様の声が急に険しくなった。不快そうな声は怒っているのかもしれない。ええと、いまの会話のどこに怒りの要素が……?
「あの、スピネル様、…………あ、もしかして」
僕の言葉にスピネル様の肩がビクッとした。あー、なるほど、そういうことか。
「もしや、馬のフンにまみれましたか」
「うるさい」
当たった。そうか、スピネル様は小さい頃、馬のフンを踏んでこけたかどうかして、フンにまみれた経験があるに違いない。しかも、それをからかわれたか笑われたかしたのだろう。
だから同じような状況にあった子どもに視線が向いて、そこに現れた僕のことも覚えていたということか。
……ん? でもだからと言って、それが今回のことで僕を指名した理由になるだろうか。いくらなんでも、あの依頼内容で僕を……というのは、やっぱりおかしい。
「僕のことを覚えていらっしゃった理由はわかりました。でも、今回のことで僕を指名したのはどうしてかなぁと、新たな疑問がですね……」
あ、スピネル様がそっぽを向いてしまった。うーん、これは……怒っているんだろうなぁ。そりゃそうか。子どもの頃のこととはいえ、貴族にとって恥を知られるのは耐えがたい屈辱のはずだ。
でも、最初に馬のフンの話をしたのはスピネル様のほうだ。僕の察しがちょっとよかっただけで、僕が悪いわけじゃない。
「ええと、僕を覚えてくださっていた理由はわかりましたが、やっぱり今回の依頼内容だと、僕を指名した理由がさっぱりわからないんですよね」
医者は多少強引なんだ。せっかく会話が続いているんだから、ここで確認しないなんて選択肢はない。怒っていようがどうしようが今後の診察にも関わることだし、しっかりと話を聞かせてもらおうじゃないか。
「…………きみは医者だ、だから香水の匂いがしない」
「まぁ、そうですね。でもそれなら、僕じゃなくても他の医者だって香水はつけませんよ? 女医だって……」
「女は駄目だと言っただろう」
おっと、香水は関係なく根本的に女性が駄目ってことか。
でも、これで一つスピネル様のことがわかった。女性は問答無用に駄目で、香水も駄目。ということは、香りを使った癒しという治療法は除外したほうがいい。
「王宮医は皆、落ち着いている。市井の医者はうるさい者が多くて駄目だ。それに王宮医のほうが身綺麗にしているから、同じ空間にいても不快になることがない」
それは市井の医者への偏見だと思うけれど、たしかに王宮医は貴族や王族と接することがほとんどだから身なりにもそれなりに気を遣っている。とくにシャワーは絶対で、毎日必ずシャワーを浴びることが義務付けられているくらいだ。
(薬品を扱うから、命令なんてなくても僕は毎日シャワーを浴びたいけどね)
「父からは『今回は絶対に逃げることは許さない。この際だ、性別にはこだわらん。そのどうしようもない状態が改善されるまで側に置く者をつける』と言われてしまった。性別にはこだわらないと言っていたが、絶対に女性を連れてくるとわかっていた。だから先手を打って、きみを指名したんだ」
ちょっと待ってくださいよ、それって……。
「それにきみは医長の息子だ。医者としての腕もわかっていたし、父もそれならばと許可した。これが、……わたしがきみを指名した理由だ」
……本気か。それって結局、身綺麗にしていて香水をつけていない男の医者で、王宮医ならなおのこと良い、ってだけじゃないか!
「……それって、僕じゃなくてもよかったってことですよね!?」
思わず叫んでしまった僕を、オレンジ色の目が驚いたように見た。
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