まぼろし藤四郎
西紀貫之
まぼろし藤四郎
ふたつの一期一振
第1話『ふたつの一期一振』
忍者が死んでいる。
暗闇の中、忍者が死んでいる。
板の間に仰臥し、ふた振りの白鞘を抱えるよう、濁った眼で天井をにらみながら死んでいる。目出し頭巾から足の先まで濃緑。着物と袴は袖や脛を絞るようにまとめてあり、指先もつま先も、ぴくりとも動かない。
左の鎖骨から刀の柄が生えていた。忍者の命を奪った脇差である。切っ先は心臓を斬割し、肺を貫きおろし、切っ先が腸に達するほど鍔元まで埋まっている。その柄に頬を寄せるように息絶えた忍者の体内は血の海であろう。が、差し込まれた鎖骨付近からは一滴の血潮も漏れてはいなかった。手練れの業である。
武士が座している。
暗闇の中、武士が座している。
死体の頭の傍らで大仏のように胡坐をかいている。その目も伏せがちの半眼で忍者を見ながら、座している。脇差が鞘だけであるのを看ると、どうやらその中身は忍者から生えているそれであろうと思われた。この一室において狼藉者を誅した男である。総髪を茶筅に結い、厳つい造りの顔だが、仏像のようにほどいていおり、自分が殺した者を前にしてなお穏やかなものであった。
ふと明るい差し込みが漏れ入り、月明りも届かぬその部屋に分厚い木戸があったことに気づかされる。どうやら廊下の奥から燭台を手にした者が近づいてきているらしい。か細い灯りの先触れと、二、三名の足音が武士に教えている。
ずかずかという足音が燭台を受けた影とともに現れる。
「光徳をよべ」
老境の男である。寝間着姿のままその部屋に入って来るや、ちらりと忍者が抱えるふた振りの刀、その白鞘を一瞥し背後の者へとそう言い渡す。ひとつの気配が遠ざかり、燭台を受け取ったもうひとりが姿を現す。
「天の御櫃を開けられましたな」
几帳面を絵にかいたような顔の男であった。彼は武士を見ようとせず、鼻をすんすんとさせながら室内に火を灯していく。室内ほか血の漏れと臭いを感じぬと目と鼻で確認したのち、ようやっと武士に目を向け、頷いてみせた。
寝間着姿の老爺が明るくなった室内を見遣り、そのまま開けられた櫃の中を覗き込みながら忍者の足元に腰を下ろす。
「どう見る三成」
三成と呼ばれた男は、その几帳面を崩すことなく「十中八九は上杉かと」と断じ、燭台の火を吹き消し出入り口の木戸のそばで腰を下ろす。
「殿下のご推察どおりでございましたな」
「恨み骨髄ということであろうな」
殿下と呼ばれた老爺は視線を忍者の抱えるふた振りの刀、その鞘に落とす。片方に鞘書きというものが書き込まれているが、もう片方にはない。それが意味するところを考えながら、フムゥと口髭を摘まみ捩じる。
老爺の名は、豊臣秀吉。
几帳面は、石田三成。
ふたりは忍者も武士もいないもののように深く息を吐き、沈思黙考へと入る。武士も武士で、その相好は冷たくも和らいでおり、じっと胡坐姿で……いや、いつのまにかつま先を立て膝を開いた正座へと変じている。その変化にふたりは気が付いていない様子だ。気に留める必要もなかったのだろう。
武士は忍者から視線を外し、
ここは刀蔵。大阪城内の東北に位置する名物を収めるために作られた蔵である。七つある櫃には厳選された名刀の数々が収められているという。
天の櫃。最上位の幾振が収められているたったひとつのそれが開けられている。忍者の仕業である。忍び込み、その中からひと振りを取り出すまでは生きていた。
雲の櫃。惜しくも天に入らぬ次点の名刀が収められるふたつの櫃である。こちらは手を付けられてはいない様子。
風の櫃。出来、来歴、世間の評価こそ高いが秀吉好みではない名物の数々が収められるよっつの櫃。褒章用としての価値を見出された名刀が収められているこちらも手が付けられてはいない。
次いで秀吉を見る。太閤、豊臣秀吉。いわずもがな戦国の世をのし上がり天下人になった傑物である。この日本において最高権力者であろう。
石田三成。秀吉の懐刀であり、秩序の切れ者である。やや悪名のほうが幅を利かせている男だが、私心なく豊臣家に尽くす姿だけは表裏とも否定する者が皆無であろうと噂されるほどであった。事実そうなのであろう。
死体含め、四者がじっと黙り込む。唸り声もしわぶきもなく、ただただかすかな呼吸のみ。
待つことしばし。
逸るような足音が近づいてきた。
「光徳、まかりこしてございます」
光徳であった。
本阿弥光徳は豊臣秀吉に仕える技能者で、重要な宝物である刀の手入れほか、並みならぬ知識を以ての鑑定を仕事としている。そんな男が、未だ夜も明けきらぬ暗いうちから、秀吉の使いに呼び出されたのだ。なまなかな事態ではないだろうということは彼も察していたのだろうが、勝手知ったる城内本丸の刀蔵に来るや、目にしたのは件の光景である。
「誰に断って櫃をお開けに」
しかし漏れた言葉はそれであった。秀吉を責める色こそにじんでいるが、しかし他のものは目に入っていない様子であった。
「よぉ来た光徳。まずはこれを見ィ」
あごで忍者の抱えるふた振りを示すと、心得た光徳は死体のそばに正座する。
死体を囲むよう北側には天の櫃、東側足元には秀吉、南側は光徳、そして西側頭側には武士。三成はかわらず戸のそばである。
「改めまする」
最高権力者への物言いに三成も文句をいわない。この本阿弥光徳なる人物、こと、刀に関しては秀吉も黙らせる。体液の飛沫が飛ばぬよう、しわぶきも許さぬ一瞥を受け、みな息をしていないかのように静まり返る。
袱紗を膝に、光徳は鞘書きのひと振りを手にする。クンとかすかにはばきを覗かせると、ゆるりと抜き放つ。
――この刀と会うのも久しぶりだ。
「小板目肌がヨォ詰み、梨地肌と見紛うほどの地沸の細やかさ。小乱れ交じりの直刃ぁあ嗚呼……」
最後は嘆息である。刀を錆びさせる飛沫を天下人にも禁じさせる男だが、自分だけは闊達に口を開く。本阿弥家秘伝の呼吸話法である。
「紛う方無き粟田口藤四郎――吉光が太刀、『一期一振』にございます」
柄を外し
刀枕がわりに畳んだ袱紗を死体の胸元に敷き、一期一振りを横たえる。
問題はもうひとつの刀である。
光徳は慣れた手で鯉口を緩め、はばきを覗かせる。「ッ――」と、鞘を支える手を返したときの重心に、ふと息を呑む。
抜き放ったとき、行灯の明かりを返す刀身に目を落としたまま、本阿弥光徳は両の耳から血を滴らせながら見開いた目を痙攣させている。
「ばかな」
光徳の絞り出すようなか細い絶叫に、秀吉は「――か」と自分の懸念が当たったことを知る。
「い、『一期一振』ッ」
呼気を刀身に振れさせぬ本阿弥家秘伝の耳からの呼吸が乱れに乱れ、血潮がぽたりと肩を濡らす。まさに、うりふたつの刀身がそこにはあった。鎌倉の世に打たれた古の鉄の風味を、光徳が間違えるはずはない。それはまさに一期一振であった。
秀吉も、傍目でそう看た。
「……いや」
しかし、ふた振り目の一期一振の茎を露わにした瞬間、電撃に打たれたかのように光徳は震えた。
同じだった。
銘も、鑢目も、形も。
同じであったのだ。
ただ、ひとつだけ。
ひとつだけ違いがあった。
「新しい。新しすぎる。茎の錆味ばかりは経年の手入れでしか生まれませぬ。この一期一振――そういっても宜しいか分かりませぬが、こちらのほうは新しい、新しすぎる、まるで昨今に打たれたばかりのような新しさ。ばかな、この鉄味で……」
茎は経年で発生する黒錆をわざと浮かせて、酸化から保護させている。このふたつめの一期一振には、その黒錆はなく、真新しい――しかし古の鍛えを臭わせる鉄の鈍色が生々しく残ったままである。
「光徳、真正とみるか」
「真正でございましょう――と、いいたいところではありますが」
光徳は真新しい一期一振を死体の上に横たえると、ふたつの一期一振にじっと目を落とし、秀吉に首肯する。
「四百年前の鉄を再現できる者がいると?」と秀吉。
「四百年前の鉄を再現できる者がいるのでしょう」と光徳。
「一期一振の影打ちではなく、藤四郎に匹敵する打ち手がいると」
「一期一振の影打ちではなく、藤四郎に匹敵する打ち手がいるのでしょう。信じられぬことですが、古の鉄を作る
ピヒュウと、光徳の耳孔から固まった血液により笛のような呼気が漏れる。信じられぬといった具合に、光徳は押し黙る。
「殿下の藤四郎好きは広く知れた話、天の櫃の筆頭、『鯰尾藤四郎』につづく『一期一振』、これの贋作がいくつも作れるもの、作られてしまうものと知れ渡れば、豊臣の威信は地に墜ちるでしょう」
三成が表情も変えずに呟く。呟きにしては、全員の耳に「そうであろうな」という説得力を持って響く。
「毛利か、はたまた上杉か」と秀吉。
「殿下の慧眼、恐れ入りましてございます。先んじて潜入させていた者が、何か掴んでいればよいのですが。――」
三成が「いや、それでは遅いか」と思い至るに、秀吉が膝を打ち、ひとこともなく黙って控えていた武士へと目をやる。
「……
三成が眉をひそめて「殿下」と言葉を差すが、ふと、この武士の来歴を思い出す。秀吉の親族に当たる小早川中納言が面白いやつだと見出した食客である。武者修行をしていた武芸者を拾ったとかで、上洛の際の共として大阪城に連れてきたという。
確か、名は――。
「柳生宗章」
声に出していた。三成は知れず、かの武士を呼ばわった。
宗章はそれに目礼し、秀吉に向き直ると平伏する。
「越後で上杉をつつき、事の次第を調べぃ。なぁに、柳生にはもってこいじゃろうて」
「柳生宗厳が一子、宗章。承知仕った」
宗章は面を上げてにっかりと笑う。面白さを前にした男の顔だった。
***
老爺が死んでいる。
夕焼けの山中に、老爺が死んでいる。
獣道の藪に倒れ伏し、無念の表情で泥濘んだ地をにらみながら死んでいる。木こりか炭焼きか、薄汚れた木綿の着物で腰には鉈、しかし手拭いはどろりとした血に濡れている。断たれた頸動脈からの血潮だろうか。その体はぴくりとも動かない。
「治部少輔の犬か」
忍者が立っている。
夕焼けを背に、忍者が立っている。
いましがた男の首を切り裂いた短刀の血を拭い、腰の鞘へと納めながら、ため息をつきつつ死体へとしゃがみ込む。目出し頭巾から足の先まで濃緑。着物と袴は袖や脛を絞るようにまとめてあり、指先からつま先まで、猫のようにしなやかである。
「
そんな忍者にひと声掛けて、獣道の先からひとりの少女が現れる。
忍者――佐助は死体を検分しながら背後に声を向ける。
「ここまで入り込むとは、親父どのはしくじっているやもしれぬな」
「覚悟の上。けど、あれを見ればびっくりするだろうね」
「鬼柴田が無念、晴らさでおくべきか。おぬしもふた振りめ、いや、三振りめを急げ」
佐助が促すと、少女は踵を返す。それを見、佐助も立ち上がる。
死体はそのままにすることにした。
動き自体が疑われこうして密偵が放たれていたということは、あの治部のてによって、自分らが大阪城にて成そうとしてる謀も阻止され、いずれ、この越後に新たな密偵がやってくるだろう。
その者に備えねばならない。
「みておれ秀吉。いずれその首――掻き斬ってくれる」
天正十六年、西暦一五八八年の十月。
越後に刀刃の予感、沸き立ちたり。
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