第3話

ぼくは昔、母親に「お前はどうしてそんなに自信がないのかなあ」と言われたことがある。この言葉は今でもぼくの胸に突き刺さっている。自信、ということで言えばぼくは自分の考えや言葉に自信を持ったことはない。今ですら、ぼくは自分に自信があるとは思っていない。ぼくの持論だけど、人間は誠実に自分について考えれば考えるほど自分のことを疑ってしまって、できることもできなくなってしまうものなのではないかと思う。考え始めると自分が自然と行っている呼吸のタイミングひとつだってつかめなくなってしまう。どこかで疑うことや考えることを止めて、身体に任せることが大事なのではないかと思う。


ぼくの持論をもうひとつ言うと、ぼくは英語をハートに喋らせている。頭であれこれ文章を頭の中で組み立てて話すのではなく、ポッと頭というか意識の中に浮かんだこと、ハートが喋りたいと思ったことをそのまま語らせているんだ。意識に上るより先に自分自身が喋りたいと思ったことがありうる(人間は意識するより先に自分の中の何者かが決断して行動している、とベンジャミン・リベットという人物が実験で証明しているそうだ)。ぼくはその「もうひとりのぼく」のことを信頼する。もちろん失言をしたらこのぼくが責任を取らなければならなくなるので難しいけれど、大抵は「もうひとりのぼく」がうまく立ち回ってくれる。


「もうひとりのぼく」と一緒にぼくは今日も英語を喋る。clubhouseで言語交換のグループに行ってみて話し、ブログで日記を英語で書く。そうした対話や記述の場所というのは自分自身を見つめ直すことができる場でもあり、ぼくは「もうひとりのぼく」の意外な顔に驚き、「もうひとりのぼく」を愛おしく思い始める。このことから考えるに、自分に自信を持つとはこうした「もうひとりのぼく」、このぼくに自信があろうとなかろうとお構いなしにぼくの内側から自己主張を始める「もうひとりのぼく」を信頼することではないかと思っている。もちろん失敗はする。恥はかく。でも、それでも信頼することができるかどうかだ。


もう一度書くと、ぼくは英語は頭で喋るものではないと思っている。身体で喋るものだと思うんだ。全身に英語を刻み込む(つまり、それなりに英語を読み書きして覚える)。身体中に浸透させた英語が、近い将来浮かび上がってくるまで待つ。自分自身とはその意味で闇鍋のようなものだ。自分自身のことだから一番よくわかっているようで、実はわかっていない。自分自身とはその意味で単純なようで謎だ。だけど、ぼくの経験則から言うと自分を大事にしてつきあっているとその「もうひとりのぼく」はぼくを裏切らない。自分を大事にすること、そこからぼくは自信を得るヒントを掴めたように思う。今日もぼくは英語を喋る。

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