英語なんかこわくない

踊る猫

第1話

ぼくは毎日、日本語と英語で日記を書き続けている。この日記は300日を超えた。こんなふうに英語と日本語で日記を書いていると、時折英語がペラペラではないかと言われることがある。そんなことはない。ネイティブの読者からはいつも綿密に添削されてしまう始末であり、ミスはぜんぜん減らない。でも、ぼくは英語で表現するのが性に合っているというか、英語で考えるのがしっくり来るみたいだから書き続けている。このことは次の事実を証明している。つまり、ぼくの英語力は大したことがない。だけどぼくは英語が好きだ。この2つを確かめておきたいと思う。英語で表現するのにライセンスなんていらないから書き続けているというわけだ。


英語で表現するようになったぼくは、いつもマルマンから出ているニーモシネというメモパッドに英語で直に書き続けている。もちろん、時には日本語を英語に訳しようとしてどうしたらいいんだろうと考え込むこともある。だけど基本的には浮かんでくる英語をそのまま書く。これも、ネイティブが添削するわけでもないので好き勝手に書いている。そうすると(間違いがあっても……というか間違いだらけであっても)英語が自分の脳というか身体から自然と浮かんでくるのがわかる。一昨年からこの修練を始めたのだけれど、今はほとんど英語で考える癖がついたようだ。その癖がついたせいか今では英語をしゃべる時もナチュラルに英語が出てくる。


そうして英語で考える癖がついたことで、ぼくはどんな場でも自分の英語を信じられるようになった。もちろん失敗することはある。というか、失敗だらけで大恥をかくこともある。でも、その大恥を楽しめるようになったと言えば聞こえがいいだろうか。その余裕は、多分ぼくの中にあるぼくに見えないもうひとりのぼくが英語をしゃべってくれることを信じられるようになったからだと思う。今ではメモパッドを開くと自然と英語のセンテンスが出てくる。繰り返すけれど、ぼくの英語は間違いだらけだ。それはネイティブが証明してくれる。でも、その間違いも楽しい。ひょっとしたらものすごくシュールな英語をしゃべっているかもしれない、と考えると楽しい。


英語をしゃべるとか使うとかそういうことになると、人は身構えるようだ。いや、かつてのぼく自身が身構えていた。未来のぼくが英語で日記を書いているなんて、大学生の頃のぼくは信じなかったに違いない。でも、ぼくはこうした自分自身を信じること、自分自身の赤っ恥を楽しむ姿勢を英語で表現するようになって学べたように思う。英語はハートで語るものだ、というのがぼくの持論だ。ヘッドで語るものではない。大事なのは、自分自身がずっと今のままではありえないことを信じることだと思う。人は変わるし成長する。その成長はきっと、今日の勉強によって実現される。ぼくだってこう見えても毎日勉強しているんだから。少なくとも、そのつもりなんだから。

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