10年後に教え子の子供が教え子になる話
ひみつ
第1話
夕焼けに色を浴びた教室。そこには満道という教師と、カンタという――どちらかというとヤンチャな生徒が、対面していた。
教師は教壇ではなく、生徒用の椅子に座り、同じ目線で話せるよう、意識していた。これは授業じゃない。
なんでも、進路について悩んでいるようだ。
それも、二択。
進学するか、就職するか。
成績が悪いのであれば、早いうちから就職するのも一つの手かもしれない。だが、彼の成績は決して悪くない。むしろ良い方だ。
せっかく私立に入ったのだから、進学すればいい。大卒した者と高卒の者では、生涯年収が違う。そう助言するつもりだった。しかし、彼は強く、強く言うのだ。
「俺、金稼がないといけないんだ」
「なら、進学だな」
「なんでそーなんだよ! ミッチー頭良くなかったっけ?」
「だから何度も説明しているだろう。大卒と高卒では――」
「しょーがいなんたらでしょ! それはわかったって! そうじゃなくて、今稼がないといけないの!」
この問答を、かれこれ三十分は繰り返している。
教師として譲れず、生徒として譲れず。
夏といっても、どうも水掛け論は熱くなってしまう。
「なぁ、カンタ……なんでそんなに急いでいるんだ? 何か理由でもあるんじゃないのか?」
「それは、言えない」
カンタは俺から目を逸らした。こういうのは、事情があるのだろう。家庭的なものが一番多いだろうか。
「まさか、遊ぶ金が欲しいなんて言わないだろうな」
「だったら進学してバイトするわ! 俺こんなに悩んでるんだからその発想はないっしょ!」
うぅむ、確かに一理ある。
失言に反省し、切り替える。
彼の――カンタの、目の前の生徒の悩みとはなんだ?
親族が病気? なら何故理由が言えない?
一人親の元で育って小さい弟妹がたくさんいて、彼らの学費を稼ぐために――いや、これも理由はすんなり言えるはずだ。
亡くなった父親の借金か? いや、そんな話聞いてないし、最近三者面談で会ったし……漫画の読みすぎか?
「……なら就職するか?」
「いやー……それもさあ……」
「お前な……」
いったい何がしたいんだ。
思わず、ため息が出る。
そしてぐっと、自分の拳を握りしめた。
目を凝らし、カンタを観察する。
彼はいつも通りの、楽観的な態度。それに変わりはない。椅子の座り方、丁寧ではない喋り口調も、クラスメートと話す場面と同一。
なんだ、何があるんだ。
カンタの中に、どんな悩みがあるんだ。
そして、いつまで満道という新米教師は、パッとしたことを言ってやれないんだ。
とてもとても悔しい。
婚約者に振られてまで、ようやく夢のスタートラインに立てたというのに。
それに加え、自分の進路に悩んでいる生徒なんて、いくらでもいる。だがカンタは、数いる教師の中から、自分を選んで、信頼して相談をしてくれているのだ。
ミッチーに、相談したいことがあるんだけどさ。他の人にはちょっと相談できなくて。
そう言ってくれた生徒に、なんて声をかけてあげればいいのかも、何で悩んでいるのかも見つけてあげることができない。
悔しい、悔しい。
「ミッチー? どした?」
気付くと、カンタが声をかけてくれた。
奥歯の方から、疲労感が伝わる。きっと、無意識に歯を食いしばっていたのだろう。
いけない、力みすぎては。
一番緊張し、不安に感じているのは、カンタなのだから。
「いやいや、なんでもない」
「ならいいけど……保健室行く?」
「大丈夫だ。それより、なんで就職は嫌なんだ」
「いやぁ、それはさ……」
また目を逸らした。
この子は何かを隠そうとすると、視線を外す癖があるな……。今度、卒業する前にこっそり伝えておいた方がいいだろうか。
「誤魔化しが多いな……」
「いろいろあんだよー、難しいお年頃なの! ミッチーにもあったでしょ?」
自分にもあったかどうか。
その声に、音に、苦い味がした。
「教師になるって言ったら婚約者に振られるって……」
「その話はいいだろ」
「どんだけ教師になりたかったのさぁ。目の前の幸せ取らない? 普通」
目の前の幸せ。
あの時の満道光秀にとっての幸せは、果たしてどっちだったのだろうか。
婚約者と結ばれること?
夢を叶えようとすること?
今となっては、と言えば都合よく逃げれるのだろう。しかし、それでは自分の決断に失礼だ。今の自分を、否定したくない。
「いいだろ。これは俺の意志。誰になんと言われようと、これが俺の道だ」
「ふーん……まあ、かっこいいとは思うけどさ、そういうの」
「そ、そうか?」
「うっわ、女子に言われたならまだしも、野郎に言われてニヤけんなって」
嗤われてしまった。
嬉しかったんだから、仕方ないだろう。口には、出さなかった。
「そういえばさ、ミッチー」
「ん? なんだ?」
なにか話題を変えようとしたのか。彼の真意は、未だに理解ができなかった。両手を頭の後ろで組み、橙色の空を眺めながら。
「ミッチーって、なんで教師になろうと思ったの?」
「教師になろうと思った……理由、ってことか?」
「そうそう。だって、婚約者蹴って夢叶えようとしたんでしょ? 相当な理由があったんだろうなあって思ってさ」
理由、理由、理由。
新米教師、働き始めてまだ一年も経ってない。
まさか、こんなにも早く、生徒に夢を語る日が来るとは、思ってもいなかった。
「実はな、まだ夢叶ってないんだ」
「まだ?」
「そう。教師ってな、人によるんだけど、だいたい三年くらいで転勤するんだよ。要は、転校だな」
話し出すと、カンタは組んでいた両手を外し、少しだけ前のめりになって、新米教師の話を聞く体制に入っていた。
「だけど、私立は違う。ずっと同じ学校にいられるんだ」
「でもつまんなくない? ずっと同じ先生と、ずっと同じ学校にいるわけでしょ?」
「そう思うだろ? でも、ちょっと想像してみてくれ。俺がここでずっと働いてたら、何年後かに、自分の教え子の子供が入学してくるかもしれないだろ?」
ん? と考えてから、カンタは黙ってしまった。
おそらく、話についていけなかったのだろう。
「例えばさ、お前が卒業して、結婚して子供作って……その子がこの高校に入ってくれたら、俺はすごく嬉しい。だってこれは、私立高校の教師でしか味わえない!」
気付けば、俺はカンタの両肩を掴んでいた。
「そうしたら俺、感動すると思うんだ! カンタの子供かぁって! 顔立ちとかは似てるだろうけど、癖とか性格とか、そういう比較もできる! それができるってすごくないか!」
熱弁すると、カンタは圧倒されていた。
おっと、と両手を離し、カンタの意識を確認する。うん、オーバーヒートしているだけのようだ。
「あぁ、ごめん。ついつい夢中に……」
「いやいやいいよ。俺が訊いたことなんだしさ」
目をぐるぐると回転させながら、カンタは答えた。
そしてピタリと止まると、ポン、と手を叩いた。
「じゃあ、俺の子供、行きたい高校なかったらここに入学させるわ」
俺はそれに、ポカンと口を開けて閉じることができなかった。
「そしたら、ミッチーの夢叶うべ?」
「いやまあ、そうだけど……まだ産まれてないのにそんなこと決められたらグレるだろ……」
「大丈夫っしょ。愛よりも自分の道を選んだ男の夢、俺も叶えるとこ見てみたいし」
それに、と続けて、カンタはにっこりと笑った。
「ミッチーがここにいるなら、大丈夫!」
この言葉が、どれだけ俺の心に響いたか。
カンタにとっては、嘘偽りの無い、素直な言葉なのだろう。
しかし、大人になると、そんな真っすぐな言葉が使えなくなってしまう。
『夢があるなら、別れましょ』
簡単な言葉。どれだけ俺の心が傷付いたか、貴女にわかりますか? 決断をしたのは俺だけど、枯れるほどの涙を流し、自分で自分を傷付けることまでした。
だからこそ、俺はカンタに、ちゃんと向き合わないといけないのかもしれない。
大人の言葉ではなく、真っすぐな言葉を、彼に。
「なぁ、カンタ。お前は何がしたい?」
「……どしたの急に。そりゃ金を――」
「多分、多分な! お前は俺にも言えない理由で悩んで、金を稼ぎたいって思ってるんだろ! でも、進学したい気持ちもあって、でも、でも」
言葉が詰まる。
呼吸が荒くなる。
ちゃんと、ちゃんと作れ。
一音一音、きちんと伝えるために。
言葉を、気持ちを。
「理由は、無理に話さなくていい! だけど、お前はこの二つに囚われすぎだ! もっと他にも方法があるはず――だけど、それが思いつかないだけなんだ!」
だから、だからこそ。
お前に訊く。
「カンタ、自分の意志を優先していいんだ。事情があるのはなんとなくわかった。けど、お前の意志を優先しても成功する道は絶対にある。だから、お前がどうしたいか、まずは考えてみろ。そしたらまた、一緒に考えよう。どうしたらお前の意志を貫けるか、問題を超えられるか!」
一気に、言葉が、気持ちが溢れた。
酸素まで持っていかれたようだ。息が持たない。伝えるのに必死で、全身で息をしていないと窒息するんじゃないかと錯覚するほどに、苦しい。
「……俺の意志、かぁ」
そう言って、カンタは天井を見上げた。
きちんと、伝わったかな。
伝わってくれてたら、いいな。
その後、カンタがどの道を選んだか、俺は知らない。
数日後に病で倒れ、入院していたのだ。退院したのは、彼が卒業した後の冬だった。
長い闘病生活と気温差に、俺はカンタのその後を尋ねる余裕も、手段もなかった。
あの言葉でよかっただろうか。
あの相談を受けたのが、俺でよかったのだろうか。
収まりがつかない気持ちを抱えたまま、気が付けば十年が経っていた。
そして十年ぶりに――彼と同じ、珍しい苗字を見かけた。
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