第15話 彼岸(後)
窮地の真琴が逗留する奥多摩の温泉宿目がけて、具衛が夜の決死行に挑む事になる当日の朝。三月上旬の週末を迎えても尚、食事時以外は実家の一室で籠城していた真琴は、朝食後さっさと一人実家を出た。
辛気臭いったらありゃしないわ——。
真純拉致事件後、グループ企業内を粛清の嵐が吹き荒ぶその風上である実家の空気感は重い。
——身から出た錆じゃないのよ。
暗に高千穂を操り、無理に巨大な利権の獲得を目論んだ母美也子だったが、それが瓦解するやその変わりようは真琴を驚かせた。その変化の背景には、唯一の弱点である真純に牙が向けられた事情がやはり大きかったようだ。はっきり言ってしまうならば、どうやら相当堪えたらしい。見るからに毒気が抜けてしまっており、粛清の指揮こそ裏で糸を引いているようなのだが、その先の事を見据えているようには見えないのだ。その様は、まさに後始末をしているだけにしか見えず、事が収まれば引責辞任を仄めかしている父次任共々、明らかに引き際を模索しているようなのだった。
——あの女が?
己の信念のためには、何物をも利用しては策謀を巡らせて来た野狐のような女が、である。そうした悲痛めいた様子が俄かに家中にも伝播し動揺を誘っているようで、何処かしらそこかしこの足元が覚束ない。張り詰めていたものが弾けてしまい、何かにつけて
——締まらない。
そう思う真琴は、少なからず張り合いのなさを感じざるを得なかった。大方四〇年もの間、宿敵として屹立し続けた母である。その母がこうもあっさり、これまで築き上げて来たものを投げ出し、引き際を模索し始めるとは
——有り得ない。
予想外だった。それこそまさに、耄碌して人間を騙せなくなった野狐のようだ。以前であれば、その比喩を思いついた瞬間に高笑いした事だろうが、敵は大きく悪くなくては、安心して叩きのめす事が出来ないものだ。これはこれで面白くなかった。
権力者の最期とは、その力が大きければ大きい程見苦しく哀れなものだ。心身共に人ならぬ物にまで落ちぶれる例は、歴史的事象を紐解けば事欠かない。それを心得たものか、自ら引き際を模索するなど必要以上の無様を晒さない振舞は、認めたくもないが流石と言えば流石としたものだった。
が、それにしては、
——呆気ない。
何処か薄気味が悪い。
で、真純が企画した慰労会に乗っかり、荷物をまとめて早々に家を出たのである。寒波の襲来で実家周辺も朝から生憎の吹雪模様だったが、この時はまだ積もるような物ではなかった。奥多摩も着雪程度で、車で走れない事はないらしい。で、呼んでおいたハイヤーに乗ると一路温泉宿を目指した。愛車のアルベールで向かいたかったのだが、この日は生憎のリコールで、ディーラーが昼前には車を取りに来る予定だったのだ。で、ハイヤーを使って向かったのだったが、これが結果的に具衛の激走劇を生み出す事になるとは、この時の真琴は知る由もない。
高速も午前中は通常通り供用されており、中央道経由で向かったのだが、高速を降りて間もなく山道が始まると、予想外の積雪に見舞われた。然しもの運転に慣れたハイヤーの運転手も、途中でチェーンをつける事になる。山道は只でも道が険しかったのだが、加えてチェーンの影響でごつごつした小刻みな振動に長時間晒されたため、真琴は身体に思わぬ疲労感を覚え始めた。今思えば、この時既にインフルエンザが発症していたのだろう。真琴が自ら愛車を運転して来ていれば、スタッドレスを履いているとは言え中々の勾配である。ここで引き返しただろう事を思うと、何かの歯車が噛み合っていたとしか言いようがない。
結局、軽い積雪の中を、お馴染みの金属製チェーンをつけたハイヤーは、少し時間こそかかったが昼前には宿に着いた。
真純の企画とは言え、
「面子の中で、一番お金持ってるし」
と言う、その一方的な押しつけで全額負担させられるとあって、予約内容をこっそり変更していた真琴は、午前中から空いている部屋を押さえておいた事で到着するなり横になった。長時間の山道で、おまけにチェーンを履いた車で揺られたためか、珍しく少し気分が悪くなった。と、真琴本人は思っていたのだが、確かにそれもあったのだろうが、要するにインフルエンザの悪化である。この時の真琴は、まさかその症状がインフルエンザとは思わず、昼まで休んだが余り食欲もなく、頼んでおいた昼食も殆ど喉を通らなかった。
——あったまれば落ち着くか。
で、昼日中から温泉を堪能し始めた。殆ど病知らずで生きて来た身故の安直な迂闊である。悪い時には悪い事が重なると言う典型で、この如何にも古臭い長湯が真琴の体力に止めを刺したと言っても良い。実家に帰省以来約二か月と少し、ろくに部屋から出ず食事時以外部屋に籠り続けていた身である。いくら部屋の中で軽く運動していたとは言え、それまでの活力に満ち溢れていた真琴と比べると、活動レベルの低下は否めなかった。それに伴う運動不足もそうだが、生活の中で決定的に身体を動かす機会を失っていた影響は大きく、本人の想像以上に体力が落ちていたのだ。
それに加えて真琴は、実は少し思い当たる節があって、体力低下共々免疫力も落ちていたようで、そこへインフルエンザに罹患し更に弱った身体へ温泉である。典型的な湯あたりに陥ると、負の連鎖でインフルエンザの悪化を促進させてしまった。が、そこへ至っても、まだそれに気づかない程に病歴に乏しい真琴は、
の、のぼせた——。
昼下がりにほうほうの体で温泉から上がり部屋に戻ると、本人の甘い目論みとは裏腹に身動きが取れなくなってしまう。異常な悪寒に襲われ始めると、堪り兼ねて宿に頼んで早々に布団を敷いて貰った。昼日中からその中に潜り込んで震える様と言ったらなかったが、そんな事を言っている場合ではなく、とにかく呻き声を出しながら震えたものだ。結局、布団に潜っても病状の進行は止まらず、あっと言う間に殆ど前後不覚に陥ってしまった。後は、真純の依頼で医師が間接問診した通りである。
の、喉が痛い——。
空咳も出るようになって来て呼吸も儘ならなくなると、思考が散らかり始めたもので、急転直下とはこの事だ。意識を繋ぐ事すら面倒臭くなって来ると、時折何事か宿の関係者が呼びかけて来る声に、目を開けるどころか耳を傾ける事すら煩わしくなった。目を閉じていると、何処からともなくやたら荒い呼吸音が聞こえて来る。
う、うるさい——。
眠りたいのに耳について眠れない。
この期に及んで、まだ邪魔するヤツがいるのか。どんな面をしているのかせめて拝んでやろうと目を開けるが、照明の明度が抑えられた室内に、人影は見当たらない。
だ、誰も——
いない。
他ならぬ自分の呼吸音である事に気づくのに、どれ程の時を要したのか。今の真琴は、そこまで落ち込んでいた。
こうして最期は自分にも、
邪魔されるのか——。
世間で散々にちやほやされ、妬まれ続けた人生は、その実で人並み以上に思い通りにならない制約まみれの人生の連続だった。
地位も名誉も、
そんなもの——
望んだ事など一度もなかった。
生まれもって無理矢理貼りつけられたレッテルを剥ぎ取りたくて、もがき苦しんだ。自分の欲を満たすのは、一般的な家庭で充分だった。逆に少し貧しいぐらいが良かったくらいだ。親がどんな人間でも、自分なら勤勉に健全に、最終的にはそれなりの、人並みの生活に持ち込める自信があった。
事実、剥き身の悪意に晒され続けながらもそれなりに抗い、それに染まらず押し潰されず、強い意志をもって自我を押し通して来たのだ。そう言った邪な影響が少ない環境が期待出来る大衆層に埋もれてしまえば、自分はもっと伸び伸びとした自由な人生を歩めた筈だった。
しかし現実はそれを許さず、世間の偏見はそれを理解してくれず、孤独に苛まれた。自分だけが頼りだった筈なのに、最期は自分にも邪魔されるとは。
こんなもんか——
その情けなさや儚さが、おかしくも切なくやるせなく、涙が溢れた。泣くような水分がまだあったものか。不意に少し戻った意識で思ったが、水分が乏しいのか高熱の影響か、それが糊のように瞼に貼りつくと、目を開ける事も敵わなくなる。真琴はそのまま、今度こそ深い闇に引きずり込まれて行った。
それからどのくらい時が過ぎたのか。
真琴は、闇の中で横たわっている自分をしっかり認識していた。それは自分の中からであったり外からであったり、何故か落ち着かない視点だったが、不思議と周りは真っ暗闇だった。
何もない——
自分以外の物質的な物を一切感じない。清々しい程の
——真っ暗闇。
だった。
ひょっとすると、自分が求めて来た物の正体が
これなのか?
闇とはつまりは、
——無って事かしら?
煩わしい事物が一切ないそこは、音も光もなく、只自分だけがいて、何も存在しない分だけ寂しかった。こう言う世界は、普通はよく言われている
お花畑なんじゃないの?
と思ったが、これまでそれなりにやらかして来た身である。そんなに都合良く、極楽浄土と言う訳には行かないようだ。で、闇である事に何となく納得した。しかし、そうしたものなのであれば、この状況は死後の世界
——って事?
なのか。もしそうなら、余りにも呆気なくやって来たものだ、と溜息を吐く。今朝はどこもかしこも普通だったのだ。それがこうもあっさりと、
——死んだって事?
その認めたくないフレーズを口にすると、途端に寂しさが増した。
結局、腹を立てたまま人生が終わってしまった。結果的に敵ばかり作ってしまい、孤独のまま死んでしまった事に悔しさが滲む。死ぬ時ぐらい、安らかに迎えられなかったものか。素気ない死に方は、如何にも自分らしいと言えばそうだが、最期ぐらいもう少し何とかならなかったものか。思い浮かぶのは後悔ばかりだった。
原因は分かっていた。いつまでも自分の殻に籠って、世を恨んでいたからだ。そんな負の情念が
——今の有様なのか。
と思い至る。
が、未だに、ではどうすれば良かったのか。この期に及んでも答えは見つからない。敵意剥き出しの周囲に、どう対峙すれば良かったのか。闘わない、と言う選択肢がある事は分かってはいたが、それを受け入れる事は蹂躙を意味するのではないか。押してだめなら引いてみろ、と言ってみても、物には限度があるだろう。結局は死んでも、
この堂々巡りか——。
人一人の能力などこんなものだ。
悩みに悩んだところで、胸襟を開けなかった自分が到達出来る境地など、高が知れている。三人揃えば文殊の知恵と言うではないか。自分には決定的に、そうした味方が傍にいなかった。
それは、あえて作ろうとしなかった自分のせいだ。そこまで偏屈になってしまった自分の資質のせいだ。素直になれなかった自分のせいだ。他人を受け入れようとしなかった自分の
——弱さのせいだ。
つまりは狭量だった、と言う事だ。
女傑の異名で通っていた自分が、いざそれを突きつけられると中々抵抗が強かったが、つまるところそう言う事である。自分の弱さから目を背け続けた報いが、
——この死に様って訳か。
ああそう言う事か、と答えが出た時にはもう遅かった。
死ぬ前に一人、その声を許した男が
いたって言うのに——
惜しい事をしたものだ。
生来せっかちだったくせして、結局最期はぐずぐずしていたものだ。肝心要なところで思い切れなかったところなどは、
何処かの誰かさんとは大違いだわ。
やはり後悔しかない。
自分にないものを多く持つ愛すべき詐欺師は、やはり真琴の中で最期でも大きな存在だった。が、
もう会えない——
そう思うと、また目頭が熱くなった。
——またか。
ここ最近、よくこの男の事を考えては泣かされている。自分が他人を想いながら泣くなど大概に有り得なかったが、ここまで来ると自分の中では開き直ったもので、
そうよね。
自分の心はしっかりあの男を、
求めてたんだもの。
受け入れ認めたものだった。
では、それは一体
——いつから?
想いが膨らんだのは、ときめくようになったのは、いつからだったのか。と言う事になる。大体が、ときめきなどと言うフレーズを使う事自体が、普段の自分からして有り得ない。それを使っている段階で、随分往生したものだった。
この際どこまで、素直に自分に向き合えたものか。
そんな事——
頭の中ではもう認めている。
無理矢理蓋をして、その想いを抑え込んでいた分、蓋が壊れてからは随分素直になったものだ。その蓋は、初見から少し開けていたのだ。二人の社会的立ち位置の懸隔に怯み、無理矢理蓋をし続けた結果がこの様なのだ。少し興味を覚え、中から少しだけ蓋を開けて覗いていたら、その隙間から少しずつ、しかして確実に、ときめきが溜まり始めた。完全に蓋を閉じてしまっていては、興味が満たされないのだから仕方がない。でも少しでも開けてしまうと、確実に隙間から入って来ては溜まっていくときめきが、どんな事になるか分からない。
——どうしよう。
それは殆ど子供のような悩みだったが、当たり前と言えば当たり前だった。
だって——
真琴は剥き身の悪意から身を守るために、良し悪しの別を考えず蓋をし続けたのだから、どうしたら良いか分からなかったのだ。受け入れられない物であれば、吐き出してしまえば良いだけの話だったのだが、真琴に向けられる悪意は、その高過ぎる社会的地位のため並の物ではなく、それをいきなり子供の頃から一人で受け入れては吐き出すのは大変な労を強いられた事だろう。そうした時は、大抵の家庭では親が手助けするものなのだろうが、真琴の二親にそうした甘えはなく、それがまた不幸の一端と言えばそうだった。吐き出すのが大変なのなら、最初から受け入れなければ良い。その偏った思想のままに成長した真琴は、結果として、抵抗する事に対しては最強レベルの矛なり盾を持つに至った。が、その反面で、受け入れる事に関しては、子供のそれのままと言う、この女傑のそれとしては思いがけない体たらくのまま、ここに至ってしまったのだ。
知識として学習する事は出来ても、経験しないでそれを物に出来る者などそうはいない。知識や学習する事に関しては、稀有の才能を有したこの女傑の盲点は、経験する事をためらったが故の脆弱性だった。
そうした、実は軟弱な女の前に突如として現れたのが、意外性に富んだチグハグな男だった、と言う訳である。年の割に可愛らしい草食系男子のくせして実は骨太で、事ある毎に垣間見る妙な経験値の高さに興味が湧いた。気がつくと、ときめきがどんどん満たされており、窒息しそうになって、いつまでも自分の中に閉じ籠っていられなくなった。蓋の上に出ざるを得ず、恐る恐る身を晒したが、自分のどす黒い中身を知った後も男は変わらず柔らかく、そしていざとなると強かった。その優しさに都合良く甘えていると、蓋の中では確実にときめきが溜まり続けており、それに気づいた時には、抑えつけていた筈の蓋がいつの間にか無惨に壊れて、中身がだだ漏れになっていた。
始めは見た目と中身のギャップに興味が湧いただけ、の筈だった。それは確かだ。でも、心の何処かの片隅に、その中々の見た目に全く下心がなかったと言えば嘘になる。柔らかそうな形のくせして、何処か逞しさを思わせる筋骨に触れてみたいと初めて思ったのは、七夕の神社で一瞬だけ一戦交えた時だった。この軟弱そうな外観の何処に、それなりに武門で揉まれた自分を押し倒す力があったものか。修練の後半ともなると、肉弾戦で殆ど負け知らずだった真琴が、久し振りに一敗地に塗れそうになった瞬間に芽生えた感情は、自分でも驚いた事に、この男に
——触れてみたい。
と言う、殆ど性的欲求だった。
男の見た目の好みなど、この時までは既にあってないようなものだった筈が、この瞬間から一見して柔で軟弱そうなくせして、常に穏やかながらも実は多くを含んだ奥深い目を持ち、それでいていざとなると妙に腹の据わった立居振舞を見せるこの男のその形こそが、昔から好みだったかのように思えたものだ。
その後、その直感めいた欲求の外堀が埋められて行くかのように男の素性がじわじわと明らかになって来ると、家庭環境こそまるで正反対だが世に抗うと言う点において、自分に近い生き様をして来たこの男に、より一層興味を覚えた。世間に抗うため、その力を資格や知識などのステータスに求め、一方的に論破する事で自分を守り闘い続けて来た頭でっかちの自分。それに対して、裸一貫で思う様世間の混濁を浴び続け、地を這いずり回りながらも体当たりで経験値を積み上げ、泰然たる奇傑に成長した男。世間に抗う点では似ていたものの、その経緯や方法は自分とはまるで正反対。見た目にそぐわぬ泥臭さと体当たりの事上磨錬で年輪を重ね続け、意外にも程がある豪気な人生を生きて来た男の中に、自分にはない図太さと懐の深さを垣間見るようになると、真琴はみるみるうちに男に魅入られて行った。
それでも、だからと言って接近し過ぎてしまうと、自分に纏わりつく業を男に背負わせてしまう事になる。それは男にとってはとばっちりもいいところであり、沸々と湧き立つ欲を抑え続けた。が、土壇場に至ると、抑え続けた欲が頭の中で暴走してしまい、思いつく限りの観念が薙ぎ倒されると、後に残されたのは素直さだけだった。
自分が認めた男に、
——満たされたい。
自分が許したその手に、
——抱かれたい。
どうしようにもなく疼く身体を、その意外な逞しさで、
——鎮めて欲しい。
しかしてそれが成就すると、許されるものなら、受け入れて貰えるものなら、今度は自分が男を
満たしたい——。
出来る事なら、
寄り添いたい——。
この先もずっと
強く繋がっていたい——。
心身共に、一目散に追い求めるようになった。
後は——
頭でっかちの自分が考えそうな事ではあったが、それをどうにかして、
——形にするだけだ。
そう願っていた。
のに——。
周囲、特に母の動向がどうしても気になり、ぐずぐずしているうちにこんな事になってしまった、
と言うのは——
言い訳だ。
実際、確かに多少なりとも気にはなったし、幸福を求めるのであれば避けては通れない毒母は、少なからず注意していなければならない油断ならない相手ではあったが、結局はそれを理由に、また人のせいにしては、
逃げていた——
だけだった。
自分の卑下なら言うに事欠かない、このろくでもない年増女の何処を頼って、わざわざ好んで野に埋もれている虎のような男に
——言い寄れって?
言うのか。
そう言えば、出会った日に、虎がどうとか言った覚えがあった事を今更ながらに思い出し、その時の直感が意外にも確かだった事を思い知らされたものだ。男なんて最後は腕力任せの虎狼の輩ばかりだ、と言って柔に笑ったその男こそ、その時の印象そのままに、実は羊の皮を被った狼であり、紛れもない虎だったのだ。が、無差別無分別に荒れ狂うそれらとは明らかに一線を画した、しかしていざとなると不敵なまでにたぎらせたその力で、自己の信念に従い突貫する孤高。
——敵わない。
いざとなると迂闊を踏んで縮こまる自分と違い、有事にこそその本領を発揮する者こそ傑物の本懐と言うべきであり、自分など紛い物もいいところだと恥じ入るばかりである。
これまで散々に自信をたぎらせ押し通して来た人生において、小うるさくもろくでもない男共に追われ続けた立場から、いざ自分が追い求める立場になるや、かつてない程に揺らぎ動揺した。頼りにしていた自分のあらゆる物が、今更ながらに全く頼りにならないと気づかされると、とどのつまりが、
——自信がない。
情けない程に腰が砕け、震え、目の前の大魚に怯む日々が過ぎて行くだけだった。
辛うじて、その想いをどうにか伝える事が出来たと言えば、真純の事件の折の米軍輸送機内で、散々に泣いて喚き散らした子供染みた、
アレだけか——
余りにも稚拙で曖昧な心情の吐露だけと言う、まさに絵に描いたような体たらく振りである。が、それすら日を追う毎に、経験値のなさを露呈しただけの愚行のようにしか思えず、もう少し年相応の言い方があったのではないかと、また一つ黒歴史を増やしたような気がしてならなかった。
その時、男の方からも、この先の事を示唆するかのような言葉が聞かれたものだったが、
あの時の私を——
落ち着かせるための詭弁であった可能性がどうしても捨て切れない。それ程までに自分は、
余裕がなかった——。
文字通り、経験値の低い拙い子供だった。その拙い求愛が、現世で最大にして最期の心残りになってしまうとは。真琴はまた一つ、闇に向かって盛大に溜息を吐いた。
しかしそれは、全て結局、真琴の都合でしかない。引き続き先の世を生きる男にしてみれば、面倒な女から解き放たれてさっぱりしたもので、ちょうど良かったと思っているかも知れない。そんな男の事を本気で想う女であれば、死んだ自分の身などに囚われず、後の世を生きる者としての幸せを、更に言えばより良い伴侶が現れる事を願って
——あげなくては。
と、今度は小さい溜息を一つ吐き、小さく笑んだ。が、
そんな事——
そんなに器用に切り替えられる程、真琴は出来た女ではない。
——嫌だ。
忘れられない。
そんなに簡単に忘れられる
訳がない——。
今度の涙は軽々と目頭から溢れ、止めどなく両頬を伝い始めた。合わせて喉の奥から競り上がって来る激しい嗚咽が一つ漏れると、一瞬目の前が明るくなったように感じた。
それまで随分淡々と回想していた筈が、急に何かを思い出したかのように身体全体に猛烈な倦怠感を覚え始めた。嗚咽に空咳が混ざり、呼吸も儘ならない。更に俯瞰でも見えていた筈の闇が、横たわったレベルでしか見えなくなり、闇と光が混ざり合い始めた。極めつけに、何故か右肩が一定のリズムで叩かれ、それに合わせて何やら右耳元に音が聴こえて来る。
何——?
右肩の衝撃がより強くなり始めると、その余波で頭が軽く揺さぶられ、目の中に溜まっている涙がまた頬を伝った。
目が開かない——。
と思うと同時に、
——え?
目を開いていたものと認識していたのだが、
——閉じてるの?
と言う事に思い至る。
すると右耳元の音が、人の声に聞こえ始めた。
誰か——呼んでる。
名前が、呼ばれている。
誰——?
真琴、と呼び捨てにする男の声だ。
自分を呼び捨てにする男など、近頃の真琴の記憶では四人しかいない。フェレール家のアルベールとジロー親子、憎っくき元夫高千穂、そして父次任だ。
そうか——。
宿で急に体調が悪くなり、前後不覚に陥っていた事を思い出し、
まだ——死んでない。
どうしようにもない苦しさの一方で、同じくらいの嬉しさが胸を突くと、右耳にはっきりと
「真琴! しっかりしろ!」
今度こそ、男の声をはっきりと捉えた。が、呼ばれる覚えのある四人の声ではない。
「気をしっかり持て! 真琴!」
力強いその叫び声に、
——随分と図々しく呼び捨てるな。
と、少しばかり心外な気になったものだった。
「目を覚ませ! 真琴!」
その声が、少し揺れている。いつもはもう少し、感情薄くも飄々としている筈なのに。
——あ。
そう思い至ると、目に力が戻り、視界が開け始めた。
「真琴さん! 分かりますか!?」
すると、真琴の変化に気づいた声が急に呼び方を変え、今更ながらにさんづけをする。
さっきまで散々呼び捨てだった
くせに——。
涙目でぐずぐずになった視界の向こうに求めていた男の顔を捉えると、真琴は悪戯っぽく微笑んでみせた。のだが、これは自分がその気なだけで、
相当無様だろうな。
はっきりし始めた意識の中で、身体はまるで動かない事が自分でも理解出来る。恐らく相当弱々しい面をしたものだろう、と顔を背けようとした。が、それに気づいた男が、両手で真琴の両頬をゆっくり、しかし確かな力で挟んでそれを止める。
「私が分かりますか!?」
強制的に目の前の視野の大半が、無理をして切迫感を押し留め、真琴の返答を堪えながら待っている男の顔のそれになる。
何言ってるのよ——。
分からない筈がない。
これまでの人生で、最もその存在を求め、焦がれた人間の事だ。
相変わらず——
過度に心配しては間抜けな事を聞いてくれる、と脳内に皮肉を滲ませる一方で、そのいつも通りの穏やかな面に、闇の中で感じていた寂しさが取っ払われ救われて行くのを感じる。入れ替わりで、ほんのり小さな暖かみが胸の奥に灯るのを感じると、思いがけぬその確かさに安堵した。
が、意識がはっきりし始めると同時に苦しさが戻って来る。容体は酷く、呼吸も儘ならなくなっていたが、呼びかけに答えようと辛うじて動く頭を今度は縦に動かした。すると、それを見ていた男の目の表面が少し揺れたように見えたが、
「余り心配させないでください」
やはり期待通り柔らかく笑んだかと思うと、今後は額を合わせて来た。
「相当熱が高い」
かと思うと、急に冷静さを取り戻し額を離す。
——当たり前じゃない。
日頃しないような事をして来ようものなら、発熱も何割増しかになろうものだ。
この土壇場で——
中々やってくれるものだ。
意識は戻りつつあるが、身体はまるで動かないし、声を出そうものなら空咳が出て発声すら儘ならない。どのみち顔はぐずぐずだし、発熱で赤く火照っているのだろうから、恥じらいも何もあったものではない事が唯一の救いだった。
「真琴さん、状況を説明しておきます」
そこからの具衛の処置は、リモートで医師も加わりながら相当に手際が良かった。医師の指導の下、遠隔診察のサポートをしながらも具衛が言うところによると、大雪で孤立した宿で急激な体調不良に陥った自分を助けるため、麓の山道から歩いて登って来たらしかった。今は日付が変わって夜中になっている、とか何とか。それは分かったが、それにしても
大雪の山道を——
歩けるものなのか。疑問に思うと同時に、この男の過去をまた一つ思い出した。
ああ——そうだったな。
今日の具衛は、先日の拉致事件の検証で真純と一緒だった筈だ。そうなれば、自分の間抜けな窮地を打開するために、過去に難を極めた極寒の欧州アルプスで遭難救助経験を有するこの男が、手っ取り早く頼まれたのだろう事は今の真琴でも容易に思いついた。身体の状態は相変わらずだが、先程まで夢の中を彷徨っていた真琴が、意識レベルでは随分と取り戻したものだ。
それもこれも——
この、いざとなると頼りになる強くて優しい
——詐欺師のせいね。
と、胸を熱くする。「病は気から」と言う格言を、改めて身をもって痛感させられた格好だ。それは、昨夏のおたふく風の時も少なからず感じたものだったが、今はその比ではない。この詐欺師の存在の大きさを認めざるを得なかった。
それにしても、この土壇場で、
ずけずけと——
真琴真琴と連呼してくれたものだ。
実を言うと、二人の間での呼び名はややもすると未だに「仮名」と「先生」であり、具衛が真琴の名前を声に出して呼んだ事など、今日、今、この瞬間を除くと、真純の事件の時の米軍輸送機内で、クルーズ船に向かってダイブする直前のあの一回だけである。そう言う真琴も真琴で、面と向かって具衛の名前を呼んだ事など一度もなかった。
手紙のやり取りの中では、お互いに
真琴さん。
具衛さん。
などと、さんづけで呼び合っているが、やはり面前で呼ぶとなると、
——中々ハードル高いわね。
相当に照れが先行している。
それを、
この男と来たら——
周囲に宿の関係者やリモートで医師も見守る中で、随分とそのハードルを軽々と超えてくれたものだ。もっともそれはこの非常時の事で、真琴の意識を繋ぎ止めるための意識的なものである事も理解出来たが、例えそうだとしても、その許した声に名前を呼ばれる事は嬉しかった。
「やっぱりインフルエンザですね」
もやもやと浮かれている人ごとの真琴を差し置き、具衛が簡易検査結果を口にする。最も高熱が出るA型らしかった。加えて熱は、
「四〇度近い」
と言っている。ウイルス性肺炎を併発しかけているとも。
「とりあえず、薬を飲みましょう」
医師の処方で予め持参した、抗インフルエンザ薬を始めとする諸々の薬を
「飲めますか!?」
と具衛が尋ねて来るが、何かを口に含もうとすると空咳が酷く、合わせて焼けるように喉が痛いため、とても飲み込める自信がない。ろくに水すら飲めていなかった。
「とりあえず水を飲んでみましょう」
その真琴の様子を如才なく察し、てきぱきと手と口を動かす具衛が、持参した経口補水液を取り出しキャップを開けて真琴の口元に近づけて来る。背後に回り込み、やはり意外な逞しさで真琴の上半身を少しばかりお越した具衛が、力強く支えながらもペットボトルをゆっくり傾け、飲まそうとしてくれたのだが、
「ごふっ!」
真琴はそれを吐き出してしまった。
ダ——
ダメだ。咳も酷いが、とにかく喉が焼けて痛くて
とても——
飲めそうにない。
すると次に、宿から借りたスプーンで極少量を真琴の口に近づけて来て、口に含ませようとする。が、やはりそれすら吐き出した。思わず顔を顰めた真琴は、慌てて喘ぐ呼吸の中で、
——飲めない。
不甲斐無さを滲ませながら、辛うじて小さく首を横に振る。
「大丈夫。大丈夫ですから」
その、思わぬ衰弱に打ちひしがれる真琴のぐずぐずになった顔を、具衛が躊躇なくタオルで丁寧に拭き取ると、諦めたのかまた真琴を横にした。かと思うと、何事かをリモートの医師と確かめ、慌ただしく部屋を出て行く。
やっぱり——
死ぬのか。
孤立した状況下で、薬はおろか水すら飲めない程に弱っていては、誰がどう考えても絶望的である。そうなると、
さっきの夢が——
現実味を帯びて来る。
具衛がいなくなった途端に弱気になる自分。それは余りにも情けなかったが、一気に闇に飲み込まれそうになる真琴を救ったのはやはり具衛だった。慌ただしく戻って来ると、また真琴の上半身をお越し、先程よりもより一層身体を密着させて真琴の横に片膝立ちする。
——ち、近い。
その思わぬ近さに、真琴が思わず怯んで顔を背けようとしたが、あっさり片手で下顎を取られてしまい、また引き戻された。
「ちょっと我慢してくださいね」
やはりやんわりとして、はにかんだように見えた具衛が、突如として手にしていたペットボトルを煽る。頬が少し膨れる程度に経口補水液を含ませたかと思うと、
え——
そのまま口移しを始めたではないか。
ウ、ウソ——
虚な目が驚きで、久し振りに自分でもはっきり周囲が認識出来る程見開かれたようだったが、それでもやはりむせるものはむせる。無様にも二人の顔から液体が飛び散るが、それでも具衛は止めようとしなかった。
も、もう——
溢れるばかりで、汚れるばかりだ。
——いい。
自分がそうなるのは良いとして、具衛がそれにつき合う義務はないし、何よりインフルエンザをうつすかも知れない。
やめよう。
身体も言葉も儘ならない真琴が、躊躇して辛うじて顔を背けようとすると、またあっさり下顎を掴まれ、引き戻された。
「ダメですよ」
その突飛な行動にお陰で少し視野が定まると、相変わらず具衛はこの期に及んでやはり柔和だが、何処か目が潤んでいるように見える。気のせいとも思ったが、それにしては、あれ程にも土壇場に強い男のその声が、
「無理にでも飲まないといけません」
少し震えていた。
「あなたの人生は、これからなんですから」
顔にも少し余裕がない、ように見える。急に、
どうしたの——?
普段はどこ吹く風の如く飄々としているくせに、珍しく沈鬱気である。何を理由にそうなっているのか。只の病人に対して具衛のそれは、今の真琴でもはっきり感じとれる程、珍しくも些か感情が先走っていているように見えた。
それが、
「また山小屋で待ってます——」
その一言で、記憶が巻き戻される。
——あ、あの時の。
米軍輸送機内で具衛が口にしたそれが、一瞬にしてときめきを沸騰させ、胸を突き上げた。
「そう、言ったでしょう?」
それが何故、今、この状況と関係があるのか。
「私は誰彼構わず、誘ったりしませんよ」
人嫌いを公言していたこの男の事だ。と言う事は、
——ウソ。
かなりの好意として捉えても良いのではないか。
それを——
この場のこの状況で、どう受け止めろと言うのか。自分は身動きが取れず、口すら聞けないと言うのに。加えて状況を見守っている宿の関係者が、何処かしら照れ臭そうにしているではないか。
バカ。
そう言う具衛は、そうした人達に背中を向けているのだ。その視線は気にならないだろう。と思ったが、すぐに改めた。この男は腹が据わってしまえば、人目など気にしない。となれば結局、この状況でもあたふたさせられるのは自分としたものではないか。
クソ——
こう言う事は、流石に少しはTPOを考えて欲しいものだ。真琴は堪らず、しかし力なく目を泳がすと、それを具衛が逃がさず、また正面に見据えられてしまった。
——つ、捕まった。
そしてまた、真琴の額にその額を押し当てて来る。
「辛いでしょうけど、少し頑張ってください」
その額から小刻みな震えが伝わって来ると共に、その口が真琴の鼻の頭に殆ど覆い被さった。
う、うわ——。
まさか今度はその口で、どうしようにもなく詰まり、閉塞してしまっている鼻でも吸おうと言うのか。いくらなんでも流石にそれは、などと感情がじたばたし始めると、
「広島に帰って来て貰わないと——」
只ならぬ熱っぽい言葉と共にもたらされる吐息は、妙に清涼感を帯びている事に気づいた。鼻もぐずぐずで匂いも何も感じない筈なのに、
うがい薬か——
その強烈なミント香が、真琴の鼻の通りを少し改善させる。先程の一時的な出入りは、口移し前の消毒だったらしい。
「あなたがこの先も、健やかでないと——」
何かの感情の昂ぶりと合わせて鼻の奥が緩み鼻の通りが改善したかと思うと、鼻に鼻水吸引器を突っ込まれていた。鼻の通りが急に良くなると、渇いた喉に空気が触れてまたむせる。とにかく喉が痛みが際立った。
「待ってても意味がないんです」
ミントの香りを振りまく具衛が、
「嫌かも知れませんが、今は水と薬です」
口を膨らませ、また口移しだ。
クソォ——。
嫌な訳はない。ないのだが、これは、
恥ずかしいだろ!
瞠目結舌の女がなされるがまま、口移しの水を吐き散らすのだ。この男のせいで動揺しっ放しで頭の中がクリアになり始めると、只ひたすらに羞恥心が強くなる。まるで、言う事を聞かない身体の中に無理矢理意識が閉じ込められているかのようだ。それと同時に喉が痛くて、狭くて、酸欠寸前だった事に今更気づいた。
咳き込んでは水を吐き続ける事しばらく。少しずつでもどうにか水分が喉から身体に巡り始めると、頭の中の霞みが晴れ始め、喉の調子も少しはましになった。時間経過の感覚すら怪しい程に、二人は口移しを続けていた。
それにしても——
どうしてこの男は、脇目も振らずこうも突っ走る事が出来るのだろう。頭の中で、何処か他人事のように思う真琴の目に、具衛の背後で心配そうに推移を伺う宿の関係者の姿がはっきりし始める。真琴は殆ど対面で見られているのだ。つき合わされる女としては堪らなかった。とは言え、元を正せばつき合わせているのは真琴の方なのだ。どっちにしても、いつも最後の最後は、勝ち負けではないが自分の方が怯んでしまう。結局毎回、この強い男に何かを委ねては、それに依存している自分ばかりが思い出されたものだった。
——アホ。
これが辱めでなくて何なのだ。確かにまずは「水と薬」だ、と言う事は理解出来るのだが。
気がつくと、手に感覚が戻り、僅かだが力が入り始めた。真琴はだれていたその両腕を、大して厚くない、しかし意外な逞しさを感じさせる具衛の背中に巻きつけ、しがみついて目を閉じる。
もう——
目を開けていられない。
意識は殆ど戻った。少しずつだが感覚も戻り始めている。
——覚えてろ。
頭の中で散々に、自分の口を吸い続ける目の前の男をこき下ろしながらも、結局嬉しさと本能に抗えず、周囲に構わず無我夢中でその口を吸い続けた。口移しのようでディープキスのような。その逆のような。その境界が曖昧になり始めると、流石にこれには宿の関係者も驚いたようで、静かにそそくさと部屋を出て行った。が、この具衛の形振り構わぬ献身は、この後更にエスカレートする。
口移しの水分補給で喉はとんでもなく痛むが、嚥下反応を取り戻した真琴は、
「ちょ、ちょっと——」
堪らず顔を背けた。少しの水なら吐き出さない程度には、もう自分で飲み込めている。
「え?」
具衛がその確かさを感じ取ったのか、慌てて起こしたその顔に
「も、もういい」
恥ずかしさが勝ってしまい、今度は水ではなく悪態を吐き捨ててしまった。とは言え、流暢に言葉を繋げるレベルには余りにも遠い、驚くべき嗄声だ。
「支えて——」
意識は戻ったが、呼吸は信じられないくらい辛く、今はこの二言三言で限界だった。油断すると今にも空咳による発作が起きそうだ。痰を切る事すら儘ならない。
クソ——。
短期間とは言え、仮にも民放大手のキー局で活躍した看板アナだったのだ。見た目を慰み物にされるような嫌な仕事だったが、それでも得られる報酬分は務めを果たすべく、在職中は国語と発声を研究したと言うのに。言葉も滑舌もクソもあったものではない。
何で私はいつも——
肝心な時に、儘ならない事ばかりなのだろう。気がつくと最近の自分は、こんな自己嫌悪ばかりでとにかく情けない。
「分かりました」
しかし具衛は、そんな後ろ暗い自分に相変わらず柔らかく、優しく接してくれるのだ。加えて今日は、駄々を捏ねる子供をあやすかのような達観振りで、丸い心と穏やかな音色がもたらす言動のその安定感は、まるで
——お地蔵様みたいだ。
ひっそりと路傍に佇み見守ってくださるその神仏に具衛の姿を重ねると、不意におかしくなった。以前、山小屋で、神仙思想めいた事を仄めかしていた厭世の若年寄などに、まさか自分が懸想するとは。人生は本当におかしなものだ。そんな事を思っていると、まるで神仙界の物好きなお方が、真琴を哀れんで遣わしてくだされた仙人なのではないか。そう言えばその名前は、何処か仙人臭くはないか。などと妄想する始末。
——まさかね。
それにしては具衛は、いつも干し肉や燻製ばかり食らっていて如何にも人間臭い。そもそも米糠に塗れた仙人がいるものなのか。確かに日本神道と米は関係が深いが、米ではなくて米糠と小麦のふすまに囲まれて、リーズナブルだと喜んでいる変わり者なのだ。
死ぬ時は、走馬灯のように過去を思い出すものらしいが、思い出すのは具衛の、それも何処か失笑するような事ばかりだ。
——へんなの。
そんな雰囲気に寄り添っていると、身体は辛いのに心は不思議と落ち着いて行った。
どれだけ喉が渇いていたのか。自分でも驚く程の量を飲んだ。つもりだったが、具衛の介助で飲み終えた量を確かめると、五〇〇mLのペットボトルがやっと一本空いた程度だった。それでも喉の渇きは随分癒えたようだが、同時にそれを飲むだけでも押し寄せる疲労感と倦怠感。常成らざる体調である事を突きつけられると、慌てて酸素を欲した。が、喘いで息をすると、あっと言う間に焼けた喉がくすぐられ、また空咳がしばらく止まらない。
するとすかさず具衛が、
「急かせちゃいましたね」
すみません、と謝りながら背中を摩り始めた。それで、布団から出ていた背中に寒気が這い上がって来ていた事を認識する。不思議と摩られている以上に、身体全体がぽかぽかした。
——暖かい。
心地良さについ目を閉じる。具衛は何も言わず、しばらく黙って背中を摩り続けてくれた。
本当は——
とても感謝しているのに。今喋ると、また空咳が止まらなくなりそうで何も言えない。でも、この無茶ばかりする男に、真琴はこれまでにろくに感謝を伝えていない。日常的な小事では素直に謝意を伝えて来たが、事が大事に及ぶと、その功に対して逆に泣いたり怒ったり喚いたり。感謝の気持ちが強くなればなる程、反比例して
逆に行ってばかり——
いる事を思い出す。だから辛くても、
ちゃんと——
伝えたい。
また目を開いて、背後で背中を摩り続ける具衛に振り返ろうとすると、その僅かな捻りだけで身体が軋むように鋭鈍様々な痛みに襲われ、情けなくも顔を顰めた。
具衛はその思いを掬い上げるかのように、
「無理をしちゃいけません」
慌てず、ゆっくり直せば良いんです、と何処までも優しい。
く——。
いつもは頼りなさげで柔そうなくせして、いざとなると頼り甲斐がある上、加えて今回は無尽蔵に優しい。
こんなの反則よ。
そのギャップに、自分はいつも泣かされてばかりだ。真琴は、目を潤ませながらも、小さく頷くのがやっとだった。泣いてる事を悟られたくないし、感情のままに泣いてしまうと、また空咳が出そうだ。荒い呼吸の中では、それを堪える事すらも中々大変な作業だった。
具衛はそれも理解しているようで、背中を摩りながらも
「もう少し落ち着いたら、薬を飲みましょう」
それまで今後の予定を説明しておきます、と前置きした後で状況説明を始めた。
「ドクターの診断は——」
即入院レベルらしい。インフルエンザだけなら投薬治療で軽快に向かうと思われたそうだが、抵抗力が落ちてウイルス性肺炎になりかかっている、または既になり始めの段階に入っている、との事だった。よって、可能であればすぐにでも入院の上、対処療法を講じたいそうである。ウイルス性肺炎は、まだ治療薬が開発されていない。基本的には、点滴と安静で体力を回復させ、抵抗力を戻す事で自然治癒させる処置が一般的だ。それには宿では無理なのだ。器材もなければ医師や看護師もおらず注射すら打てない。
それに加えて悪い事に、急性喉頭蓋炎を併発しているらしかった。重症例では急速進行して喉を塞ぎ、窒息死する危険性もある厄介な病気だとか。真琴の状態もそれに近いようで、許されるならすぐにも気管挿管か切開による気道確保をするレベルらしいが、やはりそれが出来る者がいない。
だからすぐにでも入院させたいところ
「なんですが——」
近くに病院はおろか、最寄りの診療所さえ約二〇km先と言う孤立無縁の医療過疎地と来ている。しかも雪で身動きが取れない上に、悪い時の何とやらで、今後の天気が良くないらしかった。
今日の記録的な大雪をもたらしたこの寒気は、今後一週間程度関東地方に居座るらしく、第二第三の大雪が今にも降り出しかねない状況なのだと言う。現時点、只でさえ一mの積雪で孤立しているにも関わらず、である。
「——ですから」
これ以上降り積もる前に、
「私がこの後、真琴さんを背負って下山します」
と、具衛は言った。
——無茶だ。
蜻蛉返りするつもりのようだが、またこの男の事だ。相当な無理をするつもりなのだろう。そもそも、麓からどれくらいの道のりを踏破して来たのか。真琴に知る由もなかったが、この奥深い山の事だ。車で進入出来るレベルなど知れているだろう。相応の距離を歩いて来ている事ぐらいは想像出来た。
ダメだ。
そんな無茶をさせてはいけない。
往路は単独だから、少々の強行軍も無理が利いたのだ。それを大した休息もせず深夜の雪深い山道を徹夜で、加えて復路は病人を背負って降りるなど、
そんなの——
無茶苦茶だ。素人の真琴でも、そのくらいの事は分かった。
この男は、例え通常人では得難い経験とスキルを有しているとは言え、もう現役ではない。何の義務も責任も持たない人間を危険に晒すなど、
——もう出来ない。
先月の拉致事件で、そんな都合の良い使い方はもうしないと誓ったばかりなのだ。
真琴は無言のまま、首を横に振った。
「じゃあ、このまま宿で治すと?」
喋れない真琴の意思を先読みした具衛が、真琴に代わって代弁する。普段の自分なら、ここで畳み掛けて自分の意を押し通すのだが、とても喋れたものではない。真琴は大人しく、今度は首を縦に振っただけだった。
「でもそれだと、ドクターは命に関わる可能性がある、と言っています」
具衛が摩る手を止め、両肩を掴むと背後から覗き込んで来る。
「それでも、逗留し続けますか?」
真琴は、その顔をひしひしと側面に感じたが、目を合わさず前を向いたまま頷いた。今の身体の様子からして、医師の診断は確かだろう、とは思った。しかし、
ダメだ——。
この男には、先がある。
自分ではなくともこの男なら、もっと良い伴侶が、もっと良い人生がきっと歩める筈なのだ。
「それは、ここで死ぬ、と言う事ですよ?」
具衛の手の力が強くなる。
しかし真琴は顔を背けたまま、また頷いた。
すると具衛は、
「それは——約束が違うなぁ」
のんびりと、しかし棘のある声色で真琴を責めながらその前に回り込む。
「以前に、生き抜け、とお伝えした事がありましたよね?」
それは、昨年末にグアムから帰った広島駅での別れ際の時の事であり、更にはあの忘れがたい小晦日の夜に、こんこんと具衛に甘えて悩みを吐き出した時の事だ。思い出すだに自分は、この男に対してろくな事をしていない。それだけ侮っては、都合良く甘えて来たと言う事だ。
「ひょっとして、忘れましたか?」
忘れる訳がない。これ程他人に甘えるなど、人生指折りだ。そもそもが他人に甘えるなど、この男以外に経験がなかったのだ。
真琴は、無言のまま目を閉じた。顔を背けているだけでは意志が揺らぎそうになる。合わせて耳も塞ぎたかったが、腕に力が上がらず出来なかった。
「山小屋の縁側は、あなただけの特等席なんです」
——まただ。
何でこの男は土壇場になると、
いつもいつも——
軽々と人が動揺するような事を、こうもあっさり言って退けるのだ。助かりたいに決まっている。でも、それには危険を伴い過ぎる。途中でのたれ死んでも一向に構わないのだが、この男をそれに巻き込む訳には行かない。
でも——。
ここに留まる、と言い続ければ、この男は良かれと思ったら、何をしでかすか分からない。それなら、今この瞬間、
死んだ方が——
丸く収まるではないか。
「お医者様と、一人で話したい」
真琴は意を決して、どうにかそれだけ呟いた。のだが、具衛の返事はチグハグに噛み合わず、それでいて真琴を貫く。
「絶対助けます」
私の何処を切り取って「信じろ」なんて言えたもんではありませんが、と軽口を装ったその一言に、
「くっ」
不覚にも嗚咽が漏れて、また空咳が少し出た。それをすぐに具衛が、
「すみません」
前から殆ど抱き込むように、背中に腕を回し、また摩り始める。
クソ——
また、変に腹が据わっている。お得意の有事モードのそれだ。こうなるとこの男には敵わない事を、真琴はすっかり認めてしまっている。本当は真琴自身が、揺らいで怯んでいるのだ。その真琴が頑固に逗留を続けたら、この男の事だ。最後の最期までつき添っては、無茶をしてくれるだろう。それこそ医師の見立て通りに死んでしまったなら、
ひょっとすると——
殉死すらしかねないのではないか。となると、人嫌いの二人の事だ。変な墓に納められるよりは、山で一緒に埋もれてしまえ、
——なんて、ね。
とは少し冗談が過ぎるが、殉死の線は本当に結構怪しいと思った。この男は実際、そう言う責任の取り方で職を辞した経歴があるのだ。そう言う腹の据わり方で、際どい職務をこなして来た男なのだ。とは、その妙な潔さで
——私を脅してる?
平時も有事も変わらないこの男は、つまりそう言う据わり方を日常的にしている、と言う事なのだ。それに比べて、自分の日和具合はどうなのだ。それを、
見透かされてる——
と言う事だった。
その据わり方に裏打ちされた無言の圧力で、自分はポジティブな方向に説得され続けている、と言う訳だ。真琴は情けなかった。
具衛に危険な目をさせられない、と思ったのは事実だ。が、その裏で、ここで死んでもいいと思う気持ちも、実はあった。この先の人生で、これ以上の男が現れる事など到底考えられない。それなら危険を冒すより、ここで最期に甘えるだけ甘えて
先に逝く方が——
絶対いい。素直にそう思った。
後に残された具衛は、今でこそ耳触りの良い事を言ってはいるが、その男振りに気づく女はそれなりに多いのだ。山の施設に勤めながらも、その理事長の介添えで、何人かの女達が名乗りを上げていたと言うではないか。だから、少しの間は喪に服すかも知れないが、いくら腹が据わっているとは言え、先を生きていれば気も変わる。
——大丈夫。
この男はきっと、偏屈な自分など相手にならない程の良い相手を見つけて、
幸せを掴める——
筈なのだ。とは結局、自分本位で状況を都合良く捉え、生きるため、生き抜くためにリスクに立ち向かおうとしない軟弱な自分をさらけ出す事になってしまった。そしてそれは同時に、具衛の想いを信用せず、それどころか踏みにじると言う事でもあった。
そんな真琴の後ろ暗さを分かった上で、尚この男は「絶対に助けるから信じろ」などと、ポジティブな真っ直ぐさを突きつけて来るのだ。対していざとなると日和ってしまい、ネガティブに畳んでしまおうとする自分などとは決定的に
——器が違う。
この期に及んで、尚自分の体たらく振りに驚きが隠せなかった。
一見、具衛の言は、事情が分からない者が聞けば、根拠に乏しい暴走めいた妄言とも捉えられる。が、それは
——違う。
真琴には分かってしまった。
この男は、法の行間を読み込み、世の矛盾に抗い続けた男だ。周囲を慮ると、清々しくも潔く全てをあっさり捨てられるような男だ。理詰めと根拠を突き詰めて生きて来た末端の司法官憲のその生き様は、自分の生き様とも良く似ていたが、その答えの導き方に決定的な違いを伴うその裏側で、何が真琴と違ったのか。
「出来ない」をそのまま出来ないと受け止め、上っ面の上澄みだけを掬い続けただけの、体裁を気にしてばかりだった女と、では何が「出来る」のか、他に出来る事はないのか、形振り構わず泥汗にまみれながらも深掘りし続け、それを追い求め続けた男。
——その差だ。
そもそもが、明らかに荒んだ不遇の環境に生まれながらも、それを受け入れ前向きに成長した男だ。その時点で既に勝負はあったのだ。周囲に当たり散らした自分とは、この辺りで性根の強さ、大きさが違う。親の借金を潔く被りながらも、要人救助の莫大な恩賞をあっさり投げ出した。軍で血を被り、警察で泥を啜り、世の醜悪に晒されながらも、世を恨まず黙々と歩み続けた男。
ホント——
自分と具衛は「屈原」と「漁夫」だった。
夏の山小屋の縁側で、面白おかしく話したそれを思い出す。自分が得た知識など、結局学びっ放しで終わっていたと言う事だ。結局これでは、
屈原と一緒だ——。
先の人生を悲観し、世を恨んで入水自殺した屈原と、
——何も変わらない。
自分はこんな薄っぺらい人生を送って来たのか。その愚かさに気づかされ、慄いた。
片や男は、淡々飄々と柔軟に、しかして力強く粘り強く、ポジティブに生き続けて来た。その生き様が、男の言動に揺るぎない説得力を携えさせるのだ。考えれば考える程、具衛の姿が大きくなる。それに比べて何と自分の小さく卑屈な事か。その不甲斐なさに悔しさが滲み嗚咽が込み上げると、また空咳が止まらなくなった。
具衛は黙って、こんな自分を抱きかかえたまま、背中を摩り続けてくれている。
また——
甘えてしまっている。
具衛は、雪道を踏破して来た登山服である。その胸に躊躇なく、子供が親の胸に飛び込み慰められるかのように、空咳に託けて顔を胸に埋めると、しばらく静かに泣いた。少しの間そうしていると、不思議と前向きな思考が胸の内に広がり始め、灯った暖かみが大きくなり始めるように感じる。
私は——
この男に相応の自分でありたい。
強く、そう思い至ると、
「助かるために、頑張りたい——」
真琴は、そのいくらでも安らげそうなその胸から顔を上げた。具衛の目を見たかったが、頭が異常に重く、首が据わらず上を仰ぐ事すら儘ならない。危うく首が背中に折れそうになるのを、力なくも辛うじて、鼻先を具衛の喉元に擦りつけるようにすがり直すと、
「お医者様と、一対一で話したい」
真琴は真摯に懇願した。
具衛は部屋の外で、左手首につけた愛用の腕時計を確かめた。午前二時前だった。それは良いのだが、まずいのは天候だ。ここへ来て
また——
更に気圧が下がり始めたのだ。
時計の気圧計であるため多少の誤差はあるが、使い込んだ物であり表示の癖は分かっている。踏破して標高が高くなった以上に、気圧が下がっていた。真琴から待たされているこの時を使って固形食を喰らい、宿の自販機でホットミルクティーを買って飲み、エネルギーをチャージしておく。玄関先に出てみると、往路道中を苦戦させた吹雪は収まっていた。が、代わりに
また綿雪が——
しんしんと降り積もり始めているではないか。
——まずい。
早く下山を開始しなくては。往路を踏破する際、気休め程度ながらも蹴散らかしながら上がって来たラッセル済みの雪道のベネフィットを失いかねない。本来ならば復路を考えると、往路でしっかりラッセルしておき、踏み固めておきたかった。が、往復の道中を気にする以前に、一二もなくまずは真琴に対する治療が最優先であり、強行軍にならざるを得なかった。宿に到着した時など「雪男が訪ねて来た!?」と言わんばかりの従業員に、本気で驚かれてしまった。そう言えば、急病人対応で伺う事を宿側に伝え忘れていた事を思い出したものだったが、それ以上に、この積雪と吹雪の中を人間が踏破して来た、と言う事実を何よりも驚かれた。
確かに疲労もそれなりに感じていたが、まだまだ単独の強行軍でへたばる程老いてはなかったようで、蜻蛉返りに備える。帰りは下りで、二人分の重量を身体に強いる事になる。軍の現役時代であれば、踏破する自信はあったが、今は実を言うと、
厳しいかも——
知れなかった。
正確には踏破は出来ても、後の人生に何らかの障害をもたらす可能性が高い。具体的には凍傷と低体温症だ。腰高以上になりつつある雪深い新雪の、それも水分を多く含んだ綿雪の中を、脱力した病人を背負って単独でラッセルするのだ。
普通は——
やらない。
が、真琴の病状は厳しく、ここまで来たら
——やるしかない。
奇しくも状況は、愛用の腕時計を贈呈された事件によく似ていた。まさかまた、似たような状況で活動するなど夢にも思わなかったが、今を思えば一六年前の経験が、少なからず今この時も生かされている。
今日、この時のために——
その経験を得たのだと思いたい。
その意味を確かなものにするためにも、真琴の部屋の前に戻った。扉に耳を当て中の様子を伺うと、声はもう聞こえない。部屋を追い出されて、もう五分が過ぎている。頃合いだろう。扉を軽くノックして再度入室すると、真琴が相変わらず苦しそうな息で目を閉じて横になっていた。タブレット端末の向こうで医師が具衛に気づき、投薬の指示を出す。
「お薬を、飲ませて——くれ、る?」
合わせて真琴が力なく目を開け、弱々しく口を開いた。同時に軽く咳き込んでしまう。いつも何処かツンとして凛々しいあの真琴が、見る影もない。それ程に、肺も喉も厳しい状態、と言う事だった。
「分かりました」
具衛は相変わらず穏やかに応じたが、実のところその手は小さく震えている。
クソ——。
代わってやれるものなら代わりたい、とはこの事だ。具衛は迫り上がる何かを堪えながら、ゼリー飲料を手に取った。薬の前に、まずは少しでも「食い物」だ。本来ならば、注射や点滴で処置するレベルだが、その代わりが、
これとは——。
注射が出来ないその無力さに、悲痛が口から漏れそうになる。が、今はとにかく、出来る事を最短で突き進む時だ。
「飲めますか?」
相変わらずを繕いそれを口元に近づけてみると、真琴は小さく頷いた。それなりに分別がつく程には意識が戻っているようだが、その弱々しさが余りにも痛々しい。心中の動揺を気取られないよう、努めて柔らかく落ち着いて如才なく、また上半身を起こしてやる。が、真琴はゼリー飲料を飲み込めず、また咳と一緒に吐き出してしまった。
こんなにも——
衰弱している。
——見てられない。
その無力に打ちひしがれていると、
「ご、ごめん」
真琴が健気にも謝った。
多くの薬を飲ますのだ。点滴が出来ない今、出来れば少しでも胃に何か入れておきたい。
「ま、また、口、で、いい?」
喘ぐ息で、弱々しく苦笑いを浮かべる真琴が、目に涙を溜めている。具衛は一気に迫り上がった嗚咽を堪えるため、一瞬息を止めて腹筋に力を入れた。顔が小さく震え、瞬間で強張る。同時に目の前がぼやけそうになり、ごまかすために何度も何度も瞬いた。
「も、う、いや?」
普段の真琴なら、絶対に口が裂けてもこんな世迷言など言うまい。それ程に余裕がない事を本人も認めざるを得ないのだろう。その無念を思うと、胸が詰まった。
「私で良ければ、いくらでも」
せめて不安ぐらいは少しなりとも取り除いてやりたい。具衛は空笑いして、横で片膝立ちした。躊躇なくその火照った身体を力強く抱き抱える。身体も弛緩が強く、あの凛々しさが本当に見る影もない。恐らく感覚も相当鈍っており、心元ない事だろう。優しく抱えたら震えている事が察知され、不安が伝播し兼ねない。具衛は遠慮なく、感情のままに力強く真琴を抱きしめた。
身体の次は顔だ。動揺と焦りで目は緩み唇が震える。歯を食いしばり、唇を真一文字に結び、口を閉じたまま、平仮名の「い」を発声練習で丁寧に言うイメージを浮かべると、口はどうにかなった。が、目に溜まった涙は止める術を知らず、今にも溢れそうだ。
笑え、笑え——
目を閉じて待ち構える真琴が、小さく震えている。プライドをかなぐり捨て、身を委ねる他ないと言うその無念さが、具衛の涙腺を崩壊させる。
俺は——
何もしてやれない。
ならばせめて、真琴のインフルエンザを貰うつもりで、夢中になってその唇を奪い始めた。他人にうつせば、少しは症状も軽くなるだろう。
水は喉を通り始めた真琴だったが、ゼリーになった途端、またむせて吐き出した。それに動揺して顔を背けようとする真琴に構わず、具衛は追いかけては何度も何度も口移しをした。不甲斐ない、辛い、恥ずかしい。そんなフレーズが滲んだような、悲痛を物語る真琴の閉じた目に力が入り、瞼に溜まった涙が頬を流れ落ちる。そんな真琴に構わず何度も何度も、ゼリーのパックが空になるまで口移しをするうちに、みるみる閉じる目の力が弱くなって行く。抱えている身体も、途端に脱力感が強くなった。熱でのぼせているようだ。
「真琴さん、しっかり!」
具衛は声をかけながらも、やはり粘り強く口移しを続けた。しばらく続けていると、口に含んだゼリーがなくなって舌が絡み始める。動揺して慌てた具衛が引っぺがすと、
「ご、ごめん——」
それが真琴に伝わったようで、また余計な事を言わせてしまった事に打ちひしがれた。
「謝らないでください」
この状況下でも気を遣おうとする真琴のその心情がまた痛々しく、具衛はそれを振り払うかのように、夢中になって口移しを続けた。ゼリーになった途端、喉の通りが極端に悪い。それでもどうにか一パック空にし終えると、少しなりとも胃には入ったようだが、吐き出した量の方が多かった。
「ダ、ダメね——わた、し」
その諦めとも呆れともつかないその余りにも頼りない顔が、これはこれで美しいのだから、
く——
自分のどうしようにもない俗っぽさにやり切れなくなり、胸の中が掻きむしられる。
「いつも、あなたに、め——」
そこまで言うと、真琴からまた空咳が出始めた。タオルで吐き出した物を拭き取りながらも、慌てて具衛がまた背中を摩る。
「め、迷惑をかけてばっかり——」
口を止めようとしない真琴を、
「迷惑なんて——」
具衛が被せて黙らせようとしたが、そこから先が続かない。
「ごめ、ん」
すると真琴が力なくも、具衛の背中にまた両腕を絡めて来た。
「い、つも、ごめん」
不用意に触れようものなら、あっと言う間に相手を投げ飛ばしてしまう剛腕が、力なく背中に添えられている。
「とて、も、感謝、してる」
長いフレーズを口にすると、やはり咳が絡む。その咳がまた、弱々しく頼りない。
「もう、良いですから!」
また水分が少なくなって、高熱で意識が朦朧とし始めているようだ。
「本当、に——」
その悪化のスピードが、信じられないぐらい早い。
「薬を飲みましょう!」
このままずるずるつき合っていては、一気にまた容体が悪くなる。それ程までに状態が悪い事を思い知らされた具衛は、慌てて薬と水を自分の口に含んだ。胃薬以外は全て錠剤だ。細粒の胃薬は、この有様では無理そうだった。
まずは——
薬を飲ませないと話が進まない。が、ゼリーを飲むのでさえ、思わぬ苦戦を強いられたのだ。こんな状態で薬が飲めるのか。顔が弛緩して、いつもの凛々しさに乏しい真琴は、苦しい息の中にも何処か恥ずかしそうで、穏やかで、優しげだ。
——飲まさないと。
具衛は薬の口移しを始める。
飲んで貰わないと——
間違いなく助からない。事前に医師から聞知した
「危ないかも知れません」
その声が、具衛の脳内でこだました。
——冗談じゃない。
これが今際の際の顔だったなんて、
言わせてたまるか——。
この顔こそが、この女の本性である事を思い知ると泣けて来る。世の人間が、社会的地位とか、格差とか、美人だとか、年だとか、こぶつきだとか、高飛車だとか、
論って悪意を言い募ろうと、
そんなもの——
もう何を見聞きしようと、気持ちが揺るがない自信が芽生えたような気がした。
俺は——
今この瞬間、この女のためなら死ねる自信がある。この女が死に急ぐのなら一緒に、
——死んだっていい。
この世だろうがあの世だろうが、一緒にいられるのならどこでも良いような気がした。唯一、我慢出来ないのは、
離れ離れになりたくない。
それだけだった。
物理的にも精神的にも、自分以外の熱を感じていたい。それは人生で初めて、一人の男として、一人の女に愛情が芽生えた瞬間だった。
俺は、この可愛らしい人を——
誰よりも大事にしたい。
気がついたら、水も薬も口の中に残っていなかった。只夢中で具衛は、真琴の唇を貪り続けていた。それまで、鼻に口に酸素を求めて喘いでいた真琴の声が、いつしか艶っぽくなり始めている事を耳が捉え、慌てて具衛は我に返る。驚いてその唇から離れると、目を閉じたまま、真琴が何処かしら恍惚めいているではないか。荒い呼吸に妙な色気が混ざっているようで、
お、俺は——
どさくさに紛れて、何をしたものか。今度はその節操のなさに、また打ちひしがれた。真琴は真琴で水分を得ると、得た分だけ意識を取り戻すようであり、後悔に苛まれている具衛に気づいたのか、
「水なら、飲める、から」
急に表情を固くしながらも、身体を支えられたままの姿勢で水を要求した。
「は、はい!」
慌てて新しいペットボトルを開栓し真琴の口元に宛てがうと、先程までのゼリーの苦戦は何だったのか。喉を鳴らして飲み始める。あっと言う間に五〇〇を飲み干すと、
「もう一本——」
言われるままに、そのままもう一本与えた。それすらも、瞬く間に飲み干す。
「はぁ——」
飲み終わった時には、それなりに取り戻した真琴がいた。
——ウ、ウソ?
要するに、脱水で意識が朦朧としていただけのようである。今更気づいた具衛は、言葉を失った。慄いて、慌てて支えているその身体から離れようとすると、
「待ちなさい」
声はしゃがれたままで張りこそないが、語感としてはいつもの真琴の口振りだ。合わせて二、三の空咳が出ると、
「すみません」
驚いていた具衛だったが、真琴の背中をまた摩ってやった。
「水を飲む、と、頭がスッキリする、みたい」
呼吸も荒く、語尾も頼りなく、喋ると咳込むが、本人が言う通り、息絶え絶えの先程とは一変と言って良い。それなりに言葉を吐ける強さが戻った真琴は、呆気にとられる具衛に、
「そのまま傍で、支えて、くれる?」
引き続き、横から身体を支えるよう指示を出した。確かに身体の力感は相変わらず弱々しい。が、何処か
い、いつもの——
凛々しさを感じさせる真琴である。その真琴の口から、傍で身体を支えろなどと言われると、思いがけず照れが生じた。
「さっき、ね——」
今更ながらにドギマギしている具衛をさしおき、真琴は突然脈絡なく医師と相談した内容を口にし始める。
「飴、くれ、ない?」
喉の辛さを押して話す真琴だ。
「はぁ?」
勝手にシリアスな話だと思い込んでいた具衛が、如何にも間抜けそうに驚くと、
「——そうでした」
器用に半身になって、傍に置いたリュックから医薬部外品の喉飴を取り出し、真琴に二粒差し出した。口元まで持って行くと、意識の戻ったその唇が、具衛の掌に置いたそれを食む時に優しく触れ、背筋に電流めいたものが駆け抜ける。
「ふぅ——」
しばらく飴を舐めると、真琴は落ち着いた様子で小さく安堵した。
「出来れば早い段階で、これが欲しかったわ」
相変わらず弱々しく喉も痛いらしいが、皮肉を言える程には落ち着き、合わせて頭もスッキリ保てているらしい。こうなってくると、
俺の——
暴走が浮き彫りになるばかりである。
うわぁ——。
思わず天井を仰ぐと、
「このまま逗留し続けると、不測が起こる可能性が、ちょっとあるって」
真琴が極あっさり呟いた。
放っておくと、医療に乏しい現環境下では肺炎も喉も悪化する可能性が強いらしい。もう自然治癒力が期待出来ない程、病状が進行してしまっている。それは具衛も医師から聞いていた内容だ。
だが確率が、
鯖読まれている——。
具衛が医師から聞いた感触では、具体的な数字こそ示されなかったものの、明らかに悪い印象だった。何せ「危ない」と言われたのだ。恐らく、本人の精神的動揺を考慮して、ソフトに伝えたのだろう。だがそれは、
——違う。
具衛は、医師の浅慮を内心で詰った。いくら弱っていても、真琴は自分で自分を貶めるような愚はしない。これまで散々、周囲からの羨望に苦しみ、他人の勝手な思惑に振り回されて来た人間なのだ。そんな人間が、善悪を問わず、正確な状況判断を曇らすような余人の浅慮を嫌う事ぐらい
分からないのか——
と思うのと同時に、それが分かるようになった、なってしまった自分と真琴の近さに、一人で勝手に動揺した。
「確かに全く、食欲ないし、水も無理矢理飲む感覚で——」
そんな暴走気味な自分を、改めて戒め始める具衛を知ってか知らずか、真琴は人ごとのように、
「——恐ろしく、力が入らない」
と訴える。
「でも、意識だけは、何故かしっかりしてる——」
おかしいんだけど、と力なく笑う真琴は、確かにこの瞬間は、ほぼ完全に正気を取り戻しているように見えた。滑舌も空咳混じりだが、随分ましになっている。
「何でだと思う?」
「基礎体力の強さでは?」
「違う」
月並みに答えた具衛に、真琴は抜き身で切りつけるように言うと、布団の中から緩々とまた両腕を出して来た。その腕の行き先が、どうやらまた自分の背中のようだと気づいた具衛は、ぎこちなく更に真琴に身を寄せる。
「あれだけやりたいようにやっといて——」
今更つれないわね、と真琴が盛大に皮肉ると、具衛は目に見えて痙攣した。が、真琴は構わず、そのまま具衛の肩の上に顎を載せる。
「背中を摩って貰えると、嬉しいんだけど」
「は、はい」
耳元で言われた通りにすると、それは殆ど抱擁しているのと変わらなかった。
「あったかい——」
その声が、力みがない分素直さに溢れていて、また思いがけず具衛の耳をくすぐる。
「この手に摩られていると、身体から寒気がなくなるの」
「薬が効いて来たんですよ」
「薬を飲む前もよ」
「よく覚えてますね」
「あなたの手だもの」
今度は何だか、真琴の方が暴走めいて来たようだ。妙に調子が上向いて来ているようなのだったが、
急がないと——。
具衛は直感した。
——空元気を振り絞ってる。
意識が戻ったとは言え、恐らく一過性だろう。投薬で回復する見込みは、とうに過ぎているのだ。その証拠に身体は小刻みに震えており、声は弱々しくも息絶え絶えで、喋る度に空咳が混じっては肩で息をしている。
それなのに——
雪道は、険しさを増す一方だった。
「——どう、しますか?」
一応聞く振りをする一方で、具衛は密かに決意する。
「逗留したいけど——」
暴走気味だった真琴の声色は、急に色を失い始めた。医師との話で、或いは少し考えを改めたのかも知れない。
「弱ってるらしくて。想像以上に」
まあ、それは確かにそうだろう。それはこれまでの有様が物語っていた。今、この瞬間、ここまで話が出来る事の方が不思議でならない。
「ねぇ」
その人並みに軽く、少し甘えたような真琴の声を聞いたのは初めてだった。
「なんですか?」
具衛は努めて、月並みに答える。これ以上感情的になったら、また何を仕出かすか。自分でも分かったものではない。
「ここから先は、きちんと順番に話したいの」
「はい」
「結果がどうであれ、順番が大切なの。私の中では」
「はい」
「ホントはね、こんな状況で言いたくないけど——」
「はい」
「今はもう、そんな事言ってる場合じゃないから——」
「はい」
「——聞いてくれる?」
「はい」
いつになく、嫌に回りくどい。
常にせっかちで、結論を急ぐ真琴がいつになく
——らしくない。
その言い回しは明らかに臆病で、その上、
——震えてる?
悪寒なのか、小刻みな震えが伝わって来る。粘り強く相槌を打ち続けたが、もう限界だ。
「少し、横になりましょう」
そう言うなり具衛は、真琴の意思を確かめる事なく、その身体を横にしようとする。
「大丈夫」
が、力が出ない筈の真琴が、思わぬ腕の力でそれを拒んだ。
「大丈夫だから、このまま——」
「でも——」
躊躇する具衛の両腕が、頼りないその肩と頭に回ったまま、固まる。
これは余程——
悪い事、らしい。これまでの状況が悲壮感を強くさせ、思わず生唾を飲み込ませる。すると耳元の声が、小さく笑った。
「ちょっと引っ張り過ぎね」
くっついているのだから、お互いの息遣いどころか、じっとしていれば心音すら感じる事が出来るのだ。真琴に気取られた具衛が、それでも緊張を隠せないでいると、くすぐるようなその声の後で耳を突いた後の句は、具衛の想像を逆方向から貫いた。
「——不破真琴に、なりたい」
聞いた瞬間、具衛は思わず飛び跳ねたような感覚を覚えたが、少し目を瞬いていると、やはり真琴を抱えたままだと気づく。
「ねぇ——」
今度はいつも通りせっかちな真琴が、また甘い声で、
「——聞こえた?」
答えを催促した。
「い、いや、聞くだけでいいのか、な、なんて——」
この期に及んで、真琴が「聞いて欲しい」と口にした事を論う自分が余りにも不甲斐なく、口にした瞬間から
何を言ってるんだ俺は——。
と後悔する。
「何それ。じゃあ答えて」
それを予想通り、意識は取り戻している真琴が、手厳しい物言いで応戦した。お互いの心音は高まる一方だ。
「意味は、分かってるわよね?」
一応聞いとくけど、と、その少し違う角度から、しかしてストレートに核心を突いて来るところは如何にも真琴らしい。声に張りがなく角が丸いのに、何と言う破壊力を持った一言を繰り出すのか。そんなところまで、真琴はやっぱり真琴だった。
「ええ、まあ——」
対して、動揺で揺れた返事を吐く自分の小物振り。はぐらかしたり、戸惑いをそのまま声に乗せて返事をしたり。もっと気の利いた返事が出来ないものなのか。普通は、それこそ詐欺師でもない限り、生涯に使う回数が限られるフレーズなのだ。それを追い詰められた女が吐く事を、もっと理解してやれないのか。一瞬遅れでその思いに達した具衛は、普段からすれば随分高回転で敏感な反応と言えたが、こうした場面では、一瞬の遅れでも致命傷だ。
——情けない。
後悔ばかりが沸々と脳内を巡り、他に何も言葉が思いつかなかった。
「このままだと、お互い心臓に悪いから。即答してくれると助かるんだけど」
まさに真琴は病人である。語彙の強さに反して身体は悪寒からか緊張からか、小刻みに震えっ放しだ。
「せっかちですね」
また、すぐ答えをくれてやらないところが、重ね重ねも情けない。それにしても、
急に——
何を言い出したものか。そう思い、少し冷静さを取り戻すと、気がかりが膨らみ始めた。とりあえず止まっていた手を、またその背中でゆっくり動かし始める。すると、震えて強張っていた真琴の身体が、少し落ち着きを取り戻したように感じた。本人が言うように、不肖ながらも自分のような者の手でも、摩られると安心するらしい。
「時間がないから。物事の順序を守ってるだけよ」
求婚だけでも一大事だと言うのに、それか先でないといけない真の理由とは何なのか。
まさか——
他に重病でも患っているのか。先程医師と一対一で話をした後の急転でもある。
「違うわよ」
探る向きを、真琴は見逃さなかった。
「言っとくけど、やけじゃないから」
この辺りの察しの良さも、すっかりいつも通りだ。では何故、
「俺なんかを——」
まるで甲斐性なしで、暴れ狂う本能を押さえつけられず、この状況下で欲情しているような体たらくなのだと言うのに。
「こっちの台詞よ」
冷静さを装ってはいるが、真琴の心音も相当なものだ。具衛まで俄かに蒸気して来て、
の、のぼせそう——。
身体が熱っぽくなって来た。
「私が女として見てもらえる時間は、もう残ってないし」
そもそも女らしさもない、と自嘲する真琴に
——どこが?
即座に反駁しそうになった具衛が、この攻め口で貞操を奪われた事を艶かしくも思い出す。そうまでして、何も持っていない裸一貫の自分のような者に関わろうとする稀有の美女の感情を、具衛は未だに理解出来ない。
「白髪は生えるし、肌艶も張りがない。化粧とプライドは天井知らず。バツイチ子持ち——」
そのくせ自虐ネタをのべつ幕なく淡々と吐く真琴は、妙にさばさばしていて、
——わざわざ切られたいみたいだ。
一瞬、出会った頃の寂然たる真琴と被った。
その頃の真琴は、自身の重大な素性に苛む余り、それを隠しては孤独で懊悩の日々を送っていた。それに対して無力の具衛は何も出来ず、気を紛らわす言葉一つ持ち合わせない能無し振りで。
思えばいつも自分はすぐに諦めて、言葉足らずの人生だったのだ。今、この瞬間も、何を言えば良いのか分からない。例えば、
充分——
可愛いじゃないか。そう思っているのだが、それを口にすると、
「可愛いって、淑女に言う事!?」
などと、逆に難しくなりそうな事が何となく予想出来てしまう。これ程弱っているのに、言い包める言葉がないとは。密かに語彙力のなさを恨んだ。
うぅ——。
頭の中で言動の選択肢が、みるみるうちに一つに絞られて行く。余り喋らせては、すぐに身体に障る状態なのだ。頭を真琴の前にずらした具衛は、口を動かしては力なく自嘲し続ける真琴のそれを、自らの口で無理矢理塞いだ。
「ちょっ!? ん——」
具衛の思わぬ逆襲に驚く真琴が抵抗するが、衰弱も相まってすぐに脱力する。色気もクソもなく、真琴がまた息苦しさの余りむせ始めてからようやく口を離すと、また自分の肩を真琴に差し出し顎を置かせて、咳き込むその背中を摩り始めた。
「すみません」
「ど、どう言うつもりよ?」
「余り喋ると咳が出ますから」
「窒息させられたら同じよ」
面倒だから殺す気? などと入れ替わりで自分の背中に力なく指を立てられているのを感じる。それがまた、余りにも弱々しくて切ない。それを少し堪えた具衛は、
「真琴さん」
また、名前を呼んだ。
すると分かりやすいぐらい、その身体が一度痙攣して固くなるではないか。具衛の拙い語彙力では、はっきりとした根拠を説明する事は出来ないが、その反応が真琴の後ろ暗い何かを確信させる。
「隠し事、してません?」
本人に言うと、また気難しくなる事請け合いにつき口にはしない。が、その愛くるしい程の分かりやすさに、具衛は堪らず小さく失笑した。
「あなたが急に、慣れてもないのに名前を呼ぶからよ」
無理がある反射的な言い訳に、
「気になるんですよ」
「勘違いね」
具衛は構わず淡々と続ける。
「何かを一人で無理して抱え込むのは、感心出来ないんです」
「意味不明だわ」
はっきりさせておきたかった。
また、何を抱えて——
一人で苦しもうと言うのか。
周りが頼れず、厳しい生活環境で孤軍奮闘して来た女傑だ。やろうと思えば大抵の事は、一人でやって退けるスーパーウーマンだ。
「
「うわ。知ったか振りね」
具衛の苗字は奇しくも、この仏語と同じ音だった。衰弱していると言うのに、それがすぐに理解出来る程頭の回転が良いこのせっかち女は、外では相変わらず敵を作り続けるのだろう。だからこそ、
「一人ぐらい、そうしたお味方を抱えるって事でしょう? なら当然です」
委細構わず支えてやりたいのだ。外見不相応に、やたら可愛気があるこのどうしようにもなく愛しい女を。
「不肖ながらそのお眼鏡に適うらしい私は、どうもあなたと似たところがあるようで——」
鋭い言動の裏に潜む善性に、何度やられた事か。かく言う女は、人の事を詐欺師扱いしておきながら、
あなたも充分——
とは、口に出さずに飲み込む。
「隠し事をする時は、黙って一人で抱え込む」
そこで真琴の両肩が、あからさまに一度跳ねた。具衛は思わず、
「気持ちは有り難く頂いときます」
その耳元に、また失笑を漏らす。
「でも、ダメですよ」
あっさり切り捨てると、
「そんな独りよがりは嫌です」
背中を摩っていた両手を止める。
その代わりに今度は、相変わらず弱々しく頼りない頭と腰に腕を回して巻きつけると、
「大抵の事は諦め癖がひどいんですが——」
じんわり身体を引き寄せた。もうその衰弱に動じない。病める時も健やかなる時も、だ。
「あなたの事に関しては、私は強欲なんです」
「何よ、心得たような事言って——」
「あなたが幸せじゃないと、私は嬉しくないんです」
言い切る具衛に、真琴はまた嗚咽混じりの咳をし始め、鼻を啜りながら泣き出した。
「すみません」
具衛がまた顔を浮かし、今度は傍に置いていたティッシュペーパーで真琴の顔を拭こうと手を伸ばす。
「また、泣かす——」
この最低男、などと嘯く真琴は、そのティッシュをわざと受け入れようとせず、まるで駄々を捏ねる子供のように何度も顔を背け続けた。その動きすらも緩慢で、一言頼りない。
「人の気持ちを何だと——」
それを具衛が、やはり子供をあやすかのように、優しく声をかけながら手と顔で真琴の顔を追って行く。
「拭いておかないと、呼吸に障ります」
鼻と涙が落ち着くまで、粘り強く拭き取り続けると、
「これでも、名前からして『信頼』を掴んでいるような詐欺師ですからね」
また首が座らない駄々捏ね女の前に肩を差し出し、その頭と背中を摩り始めた。
「中途半端な優しい嘘には騙されません」
努めて明るく、しかして優しく耳元で吐くと、真琴はまたすぐに濡らし始めた両目を、今度はその肩に押し当てる。
「まだ一人で、富貴福沢に翻弄されるつもりですか?」
が、具衛が淡々と感情なく言うと、その言ったそばから真琴の喉がまた変に鳴り、あっと言う間に何かが一気に堰を切った。
「私を傍に置くおつもりなら、この一事だけは絶対に譲りません」
それに構わず、具衛は容赦なく追い討つ。ここでブレているようでは、この女は一生一人で、
それに苛まれる——。
冷たくも言う事を言うと、後は何も言わず、黙ってゆっくり優しく、またその背中を摩り始めた。
「もういい」
それを拗ねた真琴が、ぐずぐず拗れ始めると、
「この人でなし」
元アナウンサーの見事な滑舌は見る影もないが、弁護士の語彙力をして中傷めいた恨み節を延々と口から吐き続けるではないか。それでも黙って具衛が優しく手を動かし続けていると、しばらくしてまた真琴が空咳と嗚咽に喘ぎ始めた。
「少し横になりましょう」
見かねた具衛がまた床を促すと、
「いい」
喘ぎながらも、強い口調で真琴が断固それを拒絶する。
「もう、時間がない」
激しく揺れる声で、一度嘆息した真琴は根負けしたようである。具衛の肩にうなだれたまま、涙ながらに語り始めた真琴の打ち明け話は、果たして具衛を良くも悪くも激しく揺さぶった。
「妊娠、四か月目に入ったの」
「ええっ!?」
思わず真琴の顔を覗き込んだ具衛だが、真琴は具衛を見返す力も気力もなく、その肩から頭がずり落ちうなだれる。首が座らない程に弱っているのだ。それを具衛がまた慌てて抱え込むと、真琴はそのまま甘えるかのように、具衛の然程厚くない胸に頭を埋めた。
「私と、あなたの子よ」
「すいません!」
聞かずとも分かる。男を寄せつけない真琴である事に加えて、只ならぬ心当たりがある二人の事である。胸元のくぐもった声に衰弱の原因を突きつけられた具衛は、
その片棒を担いでいたとは——
絶句した。済みませんでは済まない。
——いつ、気づいたのか。
——何で黙っていたのか。
——つわりは酷くないのか。
——ご親族ご一同は、ご存知なのか。
そして、
どうする——
つもりなのか。
聞きたい事が山程脳内を渦巻くが、何と声をかけて良いものか分からない。そんな具衛を敏感に察した真琴が、
「そりゃ驚くわよね。こんな女が身籠っちゃ」
また自分を切り始めた。
それなのに、言葉に迷い何も言い出せない具衛は、とりあえずまた、自分の胸にうずくまる真琴の頭と背中を撫で始める。いつになくちんまりした真琴が、よりか細くなったようで、まるで捨てられた仔犬や仔猫のようだった。それにまた動揺し、気の利いた言葉がすぐに思い浮かばず、辛うじて手を動かす事しか出来ない。そんな具衛に、
「分かったのは、松の内が明けた頃だったの」
真琴が呟くように顛末を語り始めた。
正月が明けて、月の物が遅れている事が気になり始めたのが事の発端だったらしい。一応曲がりなりにも経産婦だ。こっそり検査薬を入手して使ってみると、何度検査しても陽性判定になった。
「正直、ざまあみろと思ったわ」
まだ高千穂の陰謀が進められていた時である。このまま誰も寄せつけず、気づかれないように密かに産んで、周囲に一泡吹かせるつもりだったそうだ。
「実を言うと——」
小晦日は、計画的犯行だったらしい。
何もかもされるがままの自分が嫌で、せめて何事かで一矢報いたい。それで思いついたのが、具衛から子種を貰う事だった。あのまま高千穂と再婚したとしても、一度として臥所を共にするつもりはなく、実家に籠城したまま産むつもりだったらしい。
「あなたはいなくても、その子を育てて余生を紛らわせようと思ったの」
が、それは明らかに、真琴にも具衛にも子供にも、後に禍根を残すやり方と言わざるを得ず、
「私って結局、自分に都合良く子供を作ってばっかりで——」
そこからは、懺悔だった。
一人目は、国から逃れるために当て馬の子を孕み、二人目は自らの出自を恨み、当てつけのように添い遂げられない男との子を孕んだ。
「改めて言葉にすると、私ってホント——」
苦しげに喉を締めると、
「——救いようがない」
咳をしながら絶句する。
「横に、なりましょう」
興奮して咳をしては、また身体に障るのだ。見兼ねた具衛が横にしようとするが、
「このままがいい!」
真琴が、頑迷に拒んだ。
「大丈夫、だから」
「しかし——」
肩で息をして、また咳に喘ぎ始めている。
「——お願い」
恐らく、
合わせる顔がない——
とでも思っているのだろう。
譲らない真琴に具衛は答えず、結局そのまま背中を摩り続けた。呼吸を整えた真琴が、また口を開く。
「そうやって、一人で僻んでたら——」
思わぬ展開で自由の身となり、都合良く自分の愛した男との子種だけが、自分の胎に残った。
「この身重を盾に、あなたの感情を意のままにしようものなら——」
それは結局、自分がこれまで煮湯を飲まされ続けたやり口と同じだ。そんな責任の押しつけとか、脅迫めいた論法で求婚などと、
「——あなたにも子供にも顔向け出来ない」
結局、具衛と縁がつけばそれはそれでよし。縁がなくても密かに産んで、その後は母子で暮らすつもりだったらしい。
「でもここへ来て、また私の迂闊で——」
母体もそうだが、胎の子の命も危うい状況になってしまった。医師と話した事は、自分の事ではなく、
「お腹の子供の事——」
だったそうだ。
「正直この際——」
自分の命は別に望まない。助かる確率が上下しようとも、今更然して気にはならない。が、子供のそれが自分に翻弄されて上下するのは
「耐えられない——」
都合良くこさえた子でも、その本能的な母性に苛まれる事を、真琴の理性は忘れてはいなかった。子供に命を捧げたいのは山々だが、それは出産直前でなくてはあり得ない。産めるものなら今すぐ産んで、その後の自分はどうなっても良い。そのぐらいの覚悟は出来ていた。
「でも今、そんな事、出来る訳ないし——」
また真琴の喉が締まり、語尾が細く高くなる。子供を優先するには今は何よりも自分の健康が大事だと言う皮肉が、都合良く身籠った真琴の理性を苦しめた。が、この状況を打開出来るのは
「現状では——」
何ら責任のない具衛だけだ。
死ぬかも知れない頼みなど、とても出来ないと思うと、
「逆転の発想で、ね」
では、何か関係を結んでしまえば良いではないか、などと思ったらしい。
「それで——?」
「——うん」
求婚した、とは、
仕方がない人だなこの人も。
具衛は正直呆れた。感極まり、興奮の余り咳込む真琴を、まさに一人で抱え込み過ぎのその浅慮に、思わず内心で失笑してしまう。
「言いたい事は、それだけですか?」
具衛はあくまで淡々と、ややもすると明るく、しかして突き放すかのように言ったものだった。
「じゃあこれから、下山します!」
「——なっ!?」
絶句する真琴を尻目に、具衛は
「実はもう余り猶予がありません」
掛け布団を片手で取っ払い、瞬間で敷布団の上に真琴を横たわらせる。
「ちょ、ちょっと!?」
ムーディーだった状況から、一気にばたばたし始める急展開に驚く真琴に構わず、具衛は真琴の着ていた浴衣を乱暴に剥ぎ取った。
「な、何するの!?」
「着替えです」
具衛が部屋に戻って来てから、既に一〇分、一五分は経っている。ぐずぐずしていると、雪が深くなって出ようにも
——出られなくなる。
事態はとにかく切迫していた。
「汗で濡れた着衣はNGなんです」
厳冬期の登山は、特に着衣の中の温度管理に気を遣う。汗をかくと、それが冷えて体温を奪う。
「体温低下は致命傷ですから」
とは、山の常識である。
「それは、分かる、けど!」
嫌がる女の身包みを剥がす行為は、当然に立派な犯罪だ。大抵は即刻、強制わいせつ罪が成立する。
「言い訳はしません! 何でしたら後日訴えて貰っても構いません!」
言いながらも具衛は、表面上は顔色も変えず、下着も剥ぎ取りあっと言う間に真琴のすっぽんぽんを出現させた。
「とにかく今は時間が惜しいので!」
流石に絶句する真琴が、眉間に皺を寄せながら目を閉じ、無念そうに顔を背ける。
——クソ。
口移しなんかより、まるでハードルが高い。そもそもが、即刻犯罪認定出来る行為なのだ。最早、ハードルに例える事に無理があった。それでも具衛は、宿のバスタオルでてきぱきと汗を拭き取ると、今度は無遠慮に真琴の荷物を弄り、バッグから無造作に下着を掴み出した。剥ぎ取る時より着る方が、どうしても時間がかかる。パンツはともかく、ブラジャーのホックをつける作業や、胸を収める作業は少しもたついてしまい、
くぅ——
時間の経過に比例して、自制を利かせる精神力の保持に想像以上の労を要した。本当は登山仕様の下着を用意したかったのだ。が、サイズが分からず本人の常用品に頼る事にし、他の装備品で補う事にしたのだが、それにしてもこの作業は辛かった。具衛の辞書に「弱者に対する辱め」と言う文言は存在しないのだ。
「あ、後で覚えて、なさい、よ」
悔しさをたぎらせるその真琴の呂律が、早速怪しくなり始めていた。具衛の愚行に頭に血を昇らせた上、早速薬が効き始めているのか、それともその空元気が底をついたのか。着衣にもたついたとは言え、それでも真琴を背中に背負うまでに五分かからなかった。部屋から出られる準備を済ませると、真純に電話をする。
「これからそっちを出るの!?」
夜中であるにも関わらず、一コールで出た真純は、母親に似て相変わらずの察しの良さで応答した。
「はい。出来れば、日の出過ぎにはそちらへ戻ります」
「気をつけて!」
多くを聞いて来ないところなどは、流石である。おそらく臨場中のドクターカーの医師や、実家などとも連絡を取り合っているのだろう。
「高坂はもう、具衛さんに一任したから!」
それを裏づける一言を真純がつけ加えると、
「絶対、連れて帰りますよ」
静かにそう一言だけ伝え、電話を切った。
真琴と話をさせてやりたかったが、妊婦である事に配慮して外向きに背負っている。後ろ頭が力なく具衛の側頭に垂れており、既に昏倒しつつあった。
——やっぱり。
空元気を振り絞っていたようだ。もう少し、早く段取り出来なかったのか。後悔が押し寄せる。急に意識が遠退き大人しくなるなど、鎮痛薬が効き出したのだろう。その極端な効き方に、改めて重度の病人である事を思い知らされると、
何たる間抜けか!
自分に強い失望を覚えた。
この期に及んで、込み入った気を遣おうとした真琴の空元気にまんまと騙されていた事を、その容体の変化によって思う様突きつけられる。
何が詐欺師か!
俄かにそれに気を許してしまった自分の浅慮に打ちのめされた。
クソ!
そのままフロントへ向かい、手短かにチェックアウトを申し出ると、宿の関係者が及び腰で止めにかかるのを構わず玄関を開ける。素早く輪かんじきを履くと、そのまましんしんと降り積もる雪の中へ歩を進め始めた。
積雪量は完全に腰高を超えており、その上に飽き足らずも、まだ綿雪が降り積もり続けている。せめてもの救いは、往路でラッセルした部分が、未だに周囲の積雪量より少し低いレベルを保っている事だった。が、それでも相当厳しい道である事に変わりはない。
結局、まともにストレスなく歩けたのは、宿の傍に接する山道に至るまでの十数mの取付道までだった。そこからは、一歩踏み入れる毎に身体に纏わりつく、重く冷たい雪の塊を押し退けながらの超難路である。数歩も進まないうちに、その現実に直面させられると共に、早速具衛と真琴のフードに綿雪がふんわりと積もる。一旦足を止め、真琴の頭のそれを手で振り払うと、
いいか——。
脳内で、自分に声をかけた。
厳冬期の山中は、判断力の確保が命に直結する。とは言え奥多摩の標高は、具衛が経験して来た欧州アルプスに比べると格段に低く、普通に考えれば脳を鈍らすような酸欠になる事はない筈だった。が、往路では急ぐ余り息を切らし、それにホワイトアウトも加わって危うく重度の酸欠に陥りそうになったのだ。低所とは言え、油断ならない。それが冬山の怖さなのだ。そうした一つの油断や慢心が、
——三人分だ。
その命を揺さ振る事になる。
また、次の一歩を踏み出した。
一六年前は、はっきり言って金目的だった。生き残れば恩賞にありつけ、死んだとしても慰謝料が期待出来る。どちらにせよそれなりの金が期待出来るのなら、
——生死は関係ない。
と、思ったものだ。
後腐れがないのであれば、実は死んでもいいとまで思っていた。それで親の借金から逃れられるのなら、もうそれで良かったのだ。
が、今回はそうはいかない。
三人の誰が欠けても——
誰かが悲しみ、涙を流す。
具衛はまた、しっかりと、自分に言い聞かせながら、
俺が今背負っているのは——
また一歩を踏み出す。
——三人分の命だ。
正月以降、身重の身体でありながら、それをひた隠しにして気を遣い続けた真琴と、その胎内の子供にかかり続けた負担は既に相当なものなのだ。にも関わらず、高千穂の陰謀で悲嘆に暮れ、真純の事件で心身を擦り減らし、止めがこの状況である。だからここは、
——俺の出番だ。
周囲に振り回され続けて来たここ二、三か月の母子の労を思えば、今の自分の状況など。自分と自然に向き合えば良い分だけ、高が知れている。それは、
今の俺そのものだろうが——。
山に埋もれ、自然に向き合い隠棲している自分なのだ。ここでそれを発揮しないで何なのか。
一歩一歩、確かな認識で自問自答しつつ。具衛はしっかりとした足取りで、山道を下って行った。
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