第14話 彼岸(前)

 三月上旬の週末。

 非番の具衛は、大家にして勤務先施設理事長の武智の計らいで三〇分早く宿明けし、予約して施設の玄関先に呼んでおいた迎車のタクシーに乗った。

「広島空港までお願いします」

 通常であれば、一時間弱の行程である。予定通りに乗った具衛はスマートフォンを取り出し、ショートメールを打ち始めた。送る相手は高坂真純である。

 真純被害の拉致事件で救出の立役者となった具衛は、すっかり真純と仲良くなってしまった。正確には、真純の具衛に対する一方的な興味なのであるが、救出当日ハワイで一泊した時など、シングルを四部屋準備した真琴の配慮が殆ど無駄になる程、真純は具衛に取り憑いたものだった。

 明らかに、世間一般で語られるところの「普通」とかけ離れたところを歩んで来た二人であり、

「なんか、シンパシーって言うのかな」

 思わぬ開けっ広げの興味と言うか、好意と言うか、遠慮を見せない真純に然しもの具衛も

 何で俺なんかに?

 と、及び腰になっていると、

「あら何? いきなり随分と仲が良いわね」

 真琴にからかわれたものだ。

 約一週間、監禁されて疲労困憊の筈であるのに、横にならず具衛と共に泡風呂やサウナを堪能する真純は、

「——と言っても、緊縛の上目隠しされてただけだし」

 と、線の太さを見せつけた。

 歯磨きが出来なかったのと、風呂に入れなかったのが何より辛かった、とあっさり言って退けられ、

 親が親なら——

 などと、内心舌を巻いたものである。

 ジェネレーションギャップと言うヤツか、その一泊と言う短期間で真純は次々に、具衛が乗り越える事に躊躇するような人つき合い上の壁を乗り越えてしまい、今や

「じゃあ予定通りだね」

 電話番号も交換していれば、タメ口でやり取りする間柄になってしまっている。

「はい。宜しくお願いします」

「了解」

 と言ってもタメ口は、年齢不相応に大物感満点の真純の方だったりした。

 今日は、拉致事件の舞台となったクルーズ船「クイーンパシフィック号」が横浜港に寄港する。それに合わせて、シージャックに発展した事件の検証が、関係者立会の下で警察により行われる事になっていた。

 暖冬と言われ続けて来た今冬期だったが、春目前を迎えておきながら、今更ながらに今季一番の寒波が押し寄せている。

 何も春目前に——

 寒くならなくとも良いではないか。

 真純との短いやり取りを済ませると、暖房が良く効いた車内後席で首を窄めて目を閉じた具衛は、一眠りする事にした。相変わらず何処でもよく寝られる具衛が、次に目を開けると空港に着く直前である。タクシーが車寄せに入り止まると、支払いもなくドアが開いた。やはり武智から貰うらしい。

 そのまま国内線搭乗口へ向かうと、やはり先日の拉致事件の折に一瞬だけ世話になったグランドスタッフが、何やらそわそわしていた。具衛が近づくと、

「お待ちしておりました」

 何故か、顔パス扱いが定着してしまっている。やはり最終搭乗者だったらしく、そのまま先導されて機内に連れ込まれた先は、やはりビジネスクラスの一席だった。こちらの運賃は高坂持ちである。

 ——いかんなぁ。

 本来、このような特別待遇など無縁の男である。

 くせになっては困るんだが——

 などと思いながらも、誘導路を動き出した旅客機の機内で、後席を気にする事なく倒せる座席を伸び伸び倒すと、具衛はまた首を窄めて目を閉じた。


 当日昼前。

 羽田に着いた具衛が国内線到着口を出ると、

「具衛さん!」

 年齢不相応にスーツ姿が良く似合う真純が、早速手招きしていた。

「真純さん。お世話になります」

「とりあえず、横浜港へ行こう」

 軽く握手を交わすと、何やら性急に車寄せへ連れ去られる。

「今日は、急ぎじゃないでしょうに」

「折角だし、静かな所でゆっくりしたいんだ」

 嬉しそうな顔を憚らない真純に苦笑しながらも、具衛は先日の時も真琴と乗った運転手つきの高級セダンに拉致された。首都高速湾岸線を三〇分程度走ってやって来たのは、横浜港傍の高台にある落ち着いた赴きのあるレストランである。

「予約しといたんだ。さあ行こう」

 車が入口に着くなり、せかせかと店内に連れ込まれると、港が見渡せる窓際の一番良さそうなボックス席に押し込まれた。

「二時間弱ある。ゆっくりしよう」

 座ってようやく落ち着いた真純が手慣れた様子で手を上げると、ドリンクメニューが出て来る。

「え? 昼間からコース料理?」

 具衛が驚くと、

「お婆様からくれぐれも、粗相がないよう厳命されてるからね」

 気にしちゃだめだよ、などと大方二回りも年下の異才にリードされる事に、具衛は苦笑いを重ねるばかりだった。

 この母子も——

 良く似たものだと、具衛が注文を決め兼ねていると、

「じゃ、僕と同じ物で良いね?」

 真純がメニューを掻っ攫い「同じ物を二つ」とさっさと注文した。

「ホント、普段はキレが悪いな具衛さんは。母さんに聞いたとおりだ」

 悪戯っぽく笑う司法修習中の真純は、三月から検察修習に入ったらしい。今日は特別に、自らが被害者となった事件の検証を実習扱いにしてもらい、修習先には朝少し顔を出しただけで退散したらしかった。

「あなた方のキレが良過ぎるんですよ」

 何せ新旧司法試験制度下における最年少合格記録上で、ワンツーフィニッシュを飾っているような母子である。この二人からすれば大抵の人間など、なまくらもいいところだろう。

「またぁ。具衛さんは敬語が抜けないなぁ」

「法曹の卵にタメ口きけないでしょ」

 これまでの具衛の人生において、これ程までに精神的成熟度の高い若者など見た事もない。その若者が高坂の名跡を冠しているのだから、名実共に頭が上がらないとはこの事だった。

「そもそもが、あなたは人間的に資質が高過ぎて、とてもタメ口なんて」

 柔らかくも具衛の本気が伝わると、

「またぁ。具衛さんはホント担ぎ上手だよね」

 真純は素直に喜んでみせたものだ。

 こうしたところは、

 ——まだまだ子供かな。

 などと、早速出て来たカップに口をつけていると

「そうやって、母さんをたらし込んだんでしょ?」

 思わぬ逆襲に合い、飲み物を吐き出さないよう懸命にむせ返るのを堪える羽目になった。が、それに構わず真純は、

「母さん、おだてに弱いから」

 淡々と中押ししては、

「こんなこぶつきだけど、ホントに良いの?」

 容赦なく追い討つ。

「まあ僕は、二人が一緒になっても具衛さんの養子になるつもりはないからね」

 僕は宗家を継がないといけないし、僕が二人を相続しても二人の子供が困るだろうし、などと取り止めもない事をずるずると容赦なく抉るところは、口達者の母親そっくりだった。その止めが、

「早いとこ、ちゃんとしないとだめだよ?」

 と言う、

 こ、これが——

 一六歳の言う事か。感覚としては、大家の武智にちくちく突かれているそれに近い。具衛は、はあはあ喘ぎながらも喉を整えた。

「まだ母さんと、連絡取り合ってないんでしょ?」

 その鋭い矛が、心配する向きに変わる。が、何故

 それを——

 知っているのか。瞬間で疑念が湧くと、それを察したかのような真純が、

「まあ、老婆心ってヤツ」

 と、したり顔で小さく鼻で笑ってみせた。まさに、真琴二世としたものである。

 確かに真純の言う通り、真琴と直に話したのは、ハワイで一泊後、四人で帰国した日が最後だった。もうお互い電話番号は知っていたが、それでも電話もメールもしていない。

「まぁ、警戒するのは分かるけど」

 昨年末からここしばらくの間、高千穂絡みで執拗に攻め立てられたのだ。電子媒体によるやり取りを解禁する気には、まだなれなかった。だから、

「今時、文通って——」

 アナログに立ち返ってみた。それでも、昨年末の状況からすると劇的な好転なのだ。確かにまどろっこしい思いもあったが、それはそれで思いがけず、今日日見る事が少なくなった他人の筆跡に触れる機会にもなった。

 ようやく喉を取り戻した具衛は、

「これはこれで、良いもんですよ」

 真琴の筆跡に愛でる幸せを噛み締めていたりする。

 そんな真琴とハワイから帰国した犯人確保の翌日。羽田空港で真純と千鶴の二人と別れた具衛は、真琴の案内で何故かそのまま外務省の事務次官室へ連行された。外交旅券を返却がてら、と言う事なのだが、それにしては何故事務次官なのか。各省庁では数ある事務方役職のトップである事務次官だが、実は外務省ではそれが少し異なっていたりする。が、それでも上から数えて何人目、とか言う御大尽である。

 結局具衛は、その人の前に担ぎ出された意味を見出せないまま、ドギマギの内にまずは直接旅券を返納させられた。そしてそこで、真琴によって語られる

「FBIの担当者が『法の執行に対する姿勢』に感心していました」

 その、具衛の武勇伝。

 国が違えば法も違う。その成立の背景も違えば運用状況も違う。経験則でそれを確かめ、違法の謗りを回避し、最も状況に即した対応をしただけだったのだが、

「私が、と言っては何ですが、私の目にもそのように見えました」

 随分と真琴が持ち上げる。

「そうか——」

 と感心する事務次官は、一見して仕事に厳しそうな切れ物風情の紳士であり、あの真琴にタメ口をきいていた。どうやら以前、上下関係があったようだ。あの偏屈者の真琴をして、昔のそれを慮るに値するような御大尽が、世に現存する

 ——もんなんだなぁ。

 と、二人が事件の話をする前で、ぼんやりしている具衛である。その事務次官が思いがけずも、

「外人部隊時代の『コードネーム』の由来を伺ってもよろしいですか?」

 と訊いて来た。

 何故、今、

 それを——

 持ち出すのかと思ったが、よく考えれば真琴の「母」から事件の対応を依頼された段階で、具衛の素性などいくらでも触れたものだろう。そもそもが具衛のそれなど、仏大統領遭難事件のために一時的ではあるが仏国内を席巻し、ネットの検索サイトの検索ランキングでトップにもなった事があると言う、

 苦い思い出——

 でしかない。遭難事件を知っていれば、それなりに触れる事が出来るネタ持ちの身であった。それはまるで何かの

 ——前科持ち。

 のようだ。

「それ。私も聞きたかったのよ」

 と、これには真琴も食いついた。

「実は、デジタルタトゥーだったりするんですが——」

 検索すれば、未だにヒットするそれは、まさに身体に刻み込まれた刺青のようだ。それを匂わせ、許しを乞うような体裁を

「それを言ったら私なんて、いくらあると思ってんのよ!」

「それに関しては私も、それなりにありますな」

 妙に息が合う他二人は、バッサリ切ってくれた。確かにこの二人に比べれば、具衛のそれなど微々たる物なのだ。

「はぁ、そうですよね、まあ」

 つい、間抜けを言ってしまった。

 それにしてもいつになく、他人の前だと言うのに砕けている真琴だ。良い上下関係だったのだろう。本来なら、コードネームはその名称自体が極秘扱いであり、個人を特定されないための暗号なのだ。が、もう除隊している身でもあり、二人の様子からして、既にその詳細に触れているようでもある。隠したところで、

 ——意味がないか。

 自分に向けられる興味に今一合点が行かないものの、二人に免じて諦めた具衛は、徐に応接テーブルを人差し指で一突きしてみせた。

「これです」

「はあ?」

 察しの良い真琴も、これにはあからさまに眉間にしわだ。

「日本語では『カチャカチャ』です」

 と今度は、キーボードを叩く真似をしてみせる。

「では、フランス語だと?」

 その乾燥したノイズは、

「『タク』、ですか」

 と、事務次官が吐いた通りだ。

「——って、そんな理由なの?」

「アノニマの苗字にも近かったので」

 と言うそれは、元はと言えばあだ名だった。それがいつの間にかコードネームになってしまった、と言う経緯でしかない。そもそもが、部隊内で意味が伝われば良いのだ。大抵は深く考え過ぎず、安直に決められたものだった。只、具衛としては、結果的に武智の名跡に傷をつけたような気もしており、密かに痛恨時でもあったのだったが。

「その迅速的確な作戦行動から『一弾指』の意味合いで名づけられた——」

「はあ?」

「——って、あなたの資料にあったけど」

「資料?」

 のそれは、具衛本人も知らない由来であり、どうやら何かが一人歩きしている感が強かった。思わず顔を顰める具衛に、他二人が失笑する。

「FBIの捜査官が『上忍』って言って驚いてたわよ」

「上忍?」

 立て続けに語尾を上げる具衛の前で、

「懐かしいなぁ——」

 と、何処かのんびり声を上げたのは事務次官だった。その世代のど真ん中、である。

 日本人のハリウッド俳優が、忍者アクションで一世風靡したのは二〇世紀後半の事だ。日本では遠い過去のブームだが、米国では未だに一定数の根強い支持者がいるようで、それ故のその誇称のようだった。それは殆ど東洋の神秘の代表格とも言え、何かにつけて「ニンジャ」「サムライ」と言えば、日本人からすれば過ぎたるそれこそ「誇称」にも取れるが、欧米では未だに「鉄板ネタ」としたものだ。

「それがコードネームにならなくてよかったっスよ」

 堪らず体育会系で砕けた具衛に、他二人が軽く噴き出した。それは余りにもベタ過ぎて、秘匿も暗号もあったものではない。とは言え、様々なあだ名を持つ具衛は、実は活躍の度にそんな誇称で呼ばれた事もあったのだ。遭難状態から助けられて感極まった当時の「公爵」が、具衛を称えてまず口走ったのも「リアルサムライ」と言う始末である。が、とりあえず、それはあえてつけ加えなかった。とにかく自分などが、忍者や侍と称されるなど恐れ多いにも程があるし、あえて説明せずともこの様子では、他二人が既に接した「資料」に色々誇張されている事だろう。

「まさに望めば、まだまだご活躍出来ると思いますが——」

 と、怪しい論調になって来たところで、

「次官」

 真琴が牽制を入れてくれた。

 事務次官の魂胆は分からないが、どうやら真琴は何かの報告の向きで立ち寄ったらしく、即刻修正を促す。明らかに具衛の何かを理解するその口添えは、少しくすぐったかった。

「冗談だよ、冗談」

 しかし勿体ないなぁ、と言葉尻に未練を残す事務次官は、

「不肖ながら、これでもそれなりに人を見て来た身ですので。あざなや号に見られる後つけの名前には、人間性が出るものですからね。この気難しい事では類を見ない元部下に、頼られる方と言うのを是非見たいと思っただけです」

 愛嬌を振り撒きながらも立て板に水で、すぐに手を振って否定を示した。他意はない、と言いたいらしい。

「気難しいは余計です」

「まあ、そう目くじら立てなさんな」

 と言って手で膝を打つと、一つ頭を下げた事務次官はその場の雰囲気を改めた。

「実は今回の事は、省内外からそれなりに賛否を集めてましてね。特に『上』が外遊中ですので——」

 帰国後が憂鬱ですよ、と笑うと

「ほっとけばいいんですよ、あんなお飾り」

 高千穂にはとことん辛辣な真琴である。

「肯定サイドの方々からは、あなたの処遇に関する気がかりが、それこそそこそこ寄せられてましてね」

「気がかり——ですか?」

 具衛が首を捻ると、

「まあ国家機関ですから、大した事は出来ませんが——」

 功績調書を作成しておきます、と事務次官はつけ加えた。慌てて口を開けようとする具衛に、片掌を突き出すと

「『公爵』の件のように、謝礼を拒まれて引っ張り回されるのはごめんですからね」

 片をつけとかないと、としたり顔の事務次官である。真琴が嫌がらない訳だ。さばさばとして小気味良いその為人は、初見の鋭さとのギャップで何処か人を惹きつける。

 ふと、

 ——ギャップに弱い?

 と、真琴の弱点を見出したような具衛だった。となると、自分は何をそんなに気に入られたものか。密かに思案を巡らせるが、すぐに思い当たらない。とりあえず、この状況下なのだ。慌てて畳んだ。

 結局は、そのための「面談」であり、真琴による「武勇伝」の報告のようだった。それはそれこそ数多くの部下に任せても良い筈だが、そう思うとこれまた複雑だ。人任せにしないその真摯さは好ましく見える一方で、功労事で何かがつき纏うのは、もう懲り懲りの具衛である。が、

「数千人の命に関わる大事を『タク』られた訳ですから」

 流石に国も黙ってはいられませんよ、と止めを刺された。叙勲褒賞候補者として推薦する事を検討しているらしい。

「——うわ」

 途端に及び腰になった具衛を、

「そんなの当たり前でしょ」

 逆に貰っとかないとお後が怖いかもよ、と真琴が嘯いた。

「それこそこう言う事は、きっちり何らかの形でけりつけとかないと、ほっといたら罰を受けるどころか闇に葬りさられても困るでしょ」

 と、穏やかならざる事を平気でつけ加える。が、その心配もまた、実はあった。何が何の都合を悪くするか分かったものではなく、あっちが立てばこっちが立たない。何に繋がっているのか分からない、複雑に絡まった綱を引きつ引かれつしている。親方日の丸で潰れる事がない国家機関とは、とかく上に行けば行く程面子、体裁、プライドなどと、形ならざるものに拘るものだった。まさにそんな事も体得して来た具衛である。だからこそ、それなりの権勢を持つ外務省に後始末を、しかも真琴がそれなりに一目置いているらしい事務次官にそれを任せている、ように見て取れた。それ故の功績調書、と言う事らしい。

「あなたの出身母体を信用しない訳じゃないけど、現役時代のあなたを貶めるようなやり口は、やっぱりどうもね」

 とはつまり、既成事実作りだ。さっさと褒美を貰ってその事実を国に認めさせておかないと、

「また妙な報復されるとも限らないでしょ」

 と言う真琴は、すっかり警察不信のようだった。まあ、分からないでもない。胸を張って誇れる事など、ない事の方が圧倒的に多い世の嫌われ者。それが国家の犬たる警察と言う組織だった。逆に言えば、その覚悟が持てない者はなってはならないのだ。

 公然と善を擁護し悪を捕らえる組織は、一方的に善を際立たせ悪を失墜させる。その悪も人ならざる凶行故の剛悪もあれば、ちょっとした小悪もある。例え善を積み上げてきた者でさえ、一度その悪事が発覚したならば、如何なる悪でも捕らえなくてならない悲哀。善行により悪行が相殺されると錯覚しては神仏や運に責任を転嫁し、挙げ句の果てには国家作用を逆恨みする認識の甘い拙い存在により被る日常的な汚名。善悪を明確にするために細分化された法は、一方的で煩瑣故に受け入れられず、その戸惑いが逆に善悪の境界を曖昧にする矛盾。その法の数が裏づけるかのように複雑に肥大化した社会において、多様化した観念の中で大衆は急激に衆愚化の一途を辿り、それに伴い先行して低下する道徳。何かの何処を掬い取っても確かなものがなく、希望が見出せないかのような澱みで、それでも飽くなき正義への執着と、只ひたすらに悪の追求を義務づけられる小官。

「でも——」

 それらの全てはそもそもが、良くも悪くも「平和」が前提で成り立つのだ。いざ内憂外患による国家の一大事が起きたならば、それこそ国の全てをちゃぶ台返しにする勢いで、まさに何もかもが根底から覆されてしまうのだ。その中で、民主警察として役に立たなくなった組織など、いの一番で別物に変貌させられるか切り捨てられる運命なのだ。

 まさに国家と国民の、時と場合によっては両方またはどちらかに都合良く、しかして平時においてはその両方からも蔑まれ、それでも何かの範としての節度を保とうとする哀れな僕。

 従軍経験から波乱の国々をまざまざと見て来た具衛にとって、日本と言う国家と国民は、まさにそんな曖昧の化け物のような

「甘チャンで——」

 だった。

 ——それなのに。

 それでも結局、何かに言い訳して

「中途半端で——」

 それを辞めてしまった過去の後ろめたさが、こんな場でも押し寄せて来ては密かに疼く。そんな自分が、

「勲章なんて——」

 貰えるものか。そんな口を開けようとすると、

「拒否させないわよ」

 真琴がぴしゃりと、子供に言いつけるように吐いた。

「名誉のためじゃなくて保身だから」

 誰かさんは不器用でそんな事が下手クソだし、と、具衛の思考も経歴もすっかり掌握されてしまっている。

「おまけに鈍いから、全部説明しないといけないなんて」

 疲れるわ、と止めを刺されると、苦笑するしかなかった。

「公向きの事は任せて頂くとして、私的な向きは手前共の領分では致し兼ねますので——」

 と、また入れ替わった事務次官が真琴を見て一つ笑う。

「それはもう——」

 豚父犬母とんぷけんぼが一族の威信をかけて何事かするでしょう、と、それを受けた真琴が溌剌と吐き捨てた。

「豚父犬母ぉ?」

 その躊躇なき悪態めいたものに思わず失笑する事務次官につられて、具衛もつい鼻から小息を漏らす。国権が及ばない範疇は高坂が責任を持つ、と言いたいらしかった。それに関しては完全に想像が及ばない具衛である。鬼蛇が出るのか、棚ぼたなのか。

 ——それにしても、

 元の主従とは言え、よく息が合う二人だった。

「重ね重ね不肖ながらも——」

 省を代表し、一国民として、更には一人の人間として、と何やら言い募った事務次官は、最後の最後に礼を述べると、

「未練がましくも、またお会い出来るでしょうか?」

 如何にも分かりやすい確認めいた事を口にする。

 具衛は躊躇なく、

「いえ、もうないと思います」

 と言い切った。

 何処かしらのお抱えの、何かしらのエージェントの話でもあったらしい。

 外務省で妙な品定めをされた挙句、その正面玄関を出た所で

「愉快な人でしたね」

 と言ってみた。真琴が男を相手に、あれ程楽しそうに話しをするのを見た事がなかったからだ。

 ひょっとすると——

 特別な相手、だったのではないか。と言う推測は、歩速を落とさず闊歩する真琴によって、

「東大法学部卒にして旧家出身。眉目秀麗の貴顕紳士ってとこね」

 努めて端的に、かつ暴力的に肯定されてしまった。

「誰かさんとは大違い?」

「そうですね」

 最早、笑うしかない。捻くれ者が、随分と手放しに褒めちぎったものだ。そのまま桜田通りまで出てタクシーを探すが、一見して見当たらない。その流しのタクシーを探しながらも、

「既婚者じゃなかったら、結婚してたわ。多分」

 容赦なく追い討たれた。お后候補になりそうになった時、当時の事務次官は四〇過ぎのナイスミドルでモテていた、と言う。

「まあ、あっちが望めばだけどね」

 とは、真琴がそれなりの好意を寄せる程の男だ、と言う事だった。

 具衛が色々思いを巡らす中、

「不貞を働く趣味は今も昔もないし。運命があの人を選ばなかっただけね」

 真琴が見事な一言で畳む。

 ちょうど流しのタクシーが捕まると、それが目の前に滑り込んで来て止まる直前に、

「次は実家」

 と言い出された具衛は、堪らず逃げ腰になった。

「肩が凝って仕方がないので——」

 飼い主に綱を引かれても動こうとしない飼い犬の構図に、真琴の失笑を買ったものだったが、どうしても両親が直接謝意を伝えたい、と言って利かないらしい。タクシーに乗り込んだ二人が、

「羽田へ行ってください」

「何言ってんのよ! 首都高新宿線へ頭向けてください!」

 目的地の言い合いになった。

 運転手が呆れて苦笑いしながらも、割と辛抱強く待ってくれた事もあり、結局真琴が

「——羽田へ、お願いします」

 と折れて、そのままの帰広を許して貰った。

 高坂宗家としては、盛大に労う用意があったようだが、田舎者の具衛にしてみれば拷問に近い。そもそも往路の米軍輸送機内で、公爵の時のような二の舞は遠慮する、と言っているにも関わらずの展開であり、

「まあ、そうよね。やっぱり」

 真琴も最後はそれに納得した。

 羽田の国内線ロビーで、その別れ際に真琴が口にしたのが、

「手紙、書くわ」

 当面の連絡方法である。実家の連中、具体的には母美也子がまだまだきな臭いとかで、電子媒体を使う気にはなれないらしかった。盗聴盗撮検閲は当たり前、と平然と言う真琴に、然しもの具衛も目を丸くしたものだ。

「書留なら流石に検閲されないし」

 家庭内でそれを心配しなくてはならない家とは、

 ——どんな家なんだ?

 改めて、その気苦労を思い知らされた。寄りつこうとしないのも無理はない。

「そうですか」

 では私も書留で、と言って手短に別れの言葉を交わすと、具衛はそそくさと搭乗口に向かおうと反転した。ハワイではぐずぐずだった真琴だが、今日はすっかりいつも通りで、心身ともに隙がない。それどころか何処かしら明るくなったようであり、文字通り眩しくて直視出来なかった。久し振りに往年の意中の人を見て、嬉しかったのだろう。

 それを知ってか知らずか、逃げるように立ち去ろうとする具衛の腕を取った真琴が乱暴に引っ張ると、

「何、勝手に帰ろうとしてんの」

 それに驚く具衛に構わず頬を寄せ、ハグをした。不意打ちの欧米スタイルに固まる具衛の、その耳元で囁いた

「——何で、何も訊かないの?」

 とは、事務次官の事だろう。

「と、言われても——」

「いつも私が驚かされてばかりで腹が立つから、ちょっと慌てさせてやろうと思っただけよ」

 あんな人間、霞ヶ関にはそれなりにいるもんよ、とあっさり言い捨てるところは、如何にも真琴らしかった。その能は、真琴も持っているから

「今となってはもういらないわ」

 と、合わせて吐き捨てる。小難しいとか、気難しいとか、賢しいのは

「私だけで十分」

 などと追加で言い切ると、その止めで、

「昔は私も、つまらないステータスに拘っていたもんだったのよ」

 勝手に回想しては、自嘲してみせた。

「どうせなら、相手には自分にないものを求めるもんでしょ」

 それにしてもハグが、

「な、長くないですか?」

 のだが、

「うるさい」

「ひ、人が見てますけど」

「構やしないわよ」

 またいつ会えるか分からないんだから、と随分開けっ広げの大胆さだ。

「運命は、あなたを選んだの」

 私の望み通りにね、と躊躇しないこれは一体どうした事か。既に自分は、真琴に対して何か確固たる地位を得ているかのような、真琴のその振舞。これこそまるで、既成事実が固められて行くかのような、その目的は何なのか。

 例によってまた、首筋に擦り寄られていた。その独特の、甘いバニラと爽やかなハーブの良い匂いは相変わらずで、公衆の面前であるにも関わらず抗えない。真琴との接点が異常な熱を帯び始めると、いい加減頭がのぼせ出した。

「私が書いた住所宛に、すぐ返信書きなさいよ」

 そこへ来て、文通の命令がくだる。

「ぐずぐずしてたら、何通も送りつけてやるんだから」

 メールのやり取りをしていた時のせっかち振りは、職を解かれて時間にゆとりが出来た今でも変わらないらしい。

「そしたら送りつけた分だけ、返信して貰うわよ」

 耳元で言い放つ内容は単なる我儘であり、深く解釈するまでもなくそれが野放図なまでの甘えであると分かると、

「わ、分かりました。必ず」

 具衛は堪らず顔を背けた。

「私を手放したら承知しないわよ」

 まあ、追い回してやるけど、とは穏やかならないご執心振りである。一体、自分の何処を見れば、真琴が欲しがるものがあるのか、

 さっぱり——

 分からない。

「分かった?」

「え?」

「え、じゃない!」

「え? じゃなくて——はい」

「——分かれば宜しい」

 その取ってつけたような問答を何かの言質にしたつもりらしい真琴が、いつも通りの凛々しさで言及する一方で、ようやく首筋から顔を剥がすと、具衛と同じく少しのぼせたような赤ら顔で薄く微笑んだ。普段見る事のない動揺を垣間見てしまい、それが思いがけず愛おしく感じると、瞬間で心音が跳ね上がる。その直後、お互い少なからずの動揺を引きずった中で、

「私はあなた程、愚痴や皮肉を言える人間を他に知らないのよ」

 別れ際に真琴ならではの捻くれ振りで、何かの含みを言い逃げされてしまった。褒められたような、けなされたような。肯定的に捉えても良さそうなそれは、とりあえず特別な存在だと言い含めたものと思う事にしたのだったが、その何処かしら甘い余韻に浸る暇もなく、宣言通り帰広後の翌々日に届いた速達の内容は、そう甘くはなかった。

 真純の拉致事件で、明らかになりつつある高千穂の元秘書による政財界での暗躍振りは、特に次世代戦闘機開発の件が絡んだ高坂グループに大きな負の遺産をもたらしたらしく、いきなりその調査報告と来たものだ。

 グループ上層部が金と利権に塗れ蝕まれた高坂が、各捜査機関が強制捜査に着手する前に関係した者を一掃し人事を一新する、と言う見出しから始まった真琴の手紙は、書の美しさも外見と違わず見事であり、

 返信が——書きにくい。

 その整った書体と言い内容と言い、気後れする事甚だしかった。その甘さのなさがまた如何にも真琴らしく、微笑ましくもあったのだが、一番驚いたのは、

"また、広島に戻る事になると思う"

 と言う一文である。

 高千穂の件で最も蝕まれたのは、よりによって真琴が昨年末まで専務を務めていたサカマテ上層部だったらしい。それだけ宗家筋の真琴の影響力をグループ内部が、それも実際に職に就いているお膝元のサカマテが疎ましく思っていた、と言う事のようだった。その反旗は何と会長以下、社長、常務、各取締役に及んでおり、役員の半数以上が蝕まれていたと言うから、呆れて物が言えないとはこの事である。その結果だけで真琴が就任中、如何にストレスをためて孤軍奮闘していたか、分かろうものだった。

 そんなグループ内に最早自浄作用などあったものではなく、腹に据え兼ねた美也子の号令一下、グループ内での素早い独自調査が開始されたのは、真純事件の最中だったと言うからその早さと言ったらない。それにより上層部の無様な実態が浮き彫りになると、真琴としても静観出来なくなった。それでとりあえず、ダメージの大きかったサカマテの事情に詳しい真琴が復帰、梃入れする見込みになったそうである。

 只、真琴本人としての意向は、

"一時的な代役のつもり"

 らしかった。

 その衝撃的な第一報の後も、何度か手紙をやり取りしたものだったが、やはり甘い話めいたものはなかった。再就任の日取りは未定だとか、真純の事件の謝礼を早く決めろだとか、とにかく必要事項の羅列である。それはまるで、定期的なメモのやり取りだった。大体が、通り名を使ったメールのやり取りをしていた時でさえ、殆どショートメール扱いであり、甘いやり取りなどした事もない二人である。手紙になってもそれは変わらなかった。しかも真琴が送って来る内容は、如何にメモやメール代わりとは言え、内容的にはデリケートな物ばかりで極秘扱いされるべき物ばかりなのだ。当然に、用済後要廃棄が厳命されていた。

 それはまるで、

 ——スパイ映画みたいだ。

 と、具衛は苦笑したものだったが、折角の美しい書が保存出来ない事を、少なからず惜しむ向きがあった事は言うまでもない。

 そんなこんなで約半月。具衛は今日の検証を迎えた、と言う訳だった。

「家中で具衛さんの事、知らない人間なんていないし——」

 年不相応に慣れた手つきで、具衛などは何の食材で作られているのかさっぱり分からないオードブルの皿に、小器用にもフォークとナイフを入れては、

「もっと大っぴらにやれば良いのに」

 などと口にする真純は、この話題ともなると大概に明け透けだ。

「母さんも自由放免が許されたんだし、堂々と自由にすれば良いのに」

 確かにそれは、真琴の手紙にも書かれていた事だった。家中では真純事件の一件で、良くも悪くも具衛の噂が立っている。その噂の立ち方や、それに対する母美也子の出方が定まるまでは、本当の意味での自由など有り得ない。美也子が定まるまでは、いたくはないが実家を離れるつもりはない。どうせなら早いところ年齢相応に耄碌してくれないか、とか、ぽっくり逝ってくれないか、などと只ならぬ書き回しで送りつけて来たものだった。

 つまり、これは——

 真琴が具衛の処遇を慮る余り自由を得られていない、と言う、それこそ事実上の人質と変わらない。

「まあ、母さんのお婆様不信は分からないでもないけど」

「私のせいです。私が——」

 ——力がないばかりに。

 政財界では押しも押されぬ存在であり、本人さえ望めば如何様にも身の振り方を選ぶ事が出来る真琴である。そのポテンシャルの高さは、母美也子にとっては政争上極めて優れたカードである事は言うまでもない。その高嶺の花に文字通り、

「どこの馬の骨か分からぬ怪しい男が触れた訳ですから」

 美也子が頭に来ない訳がない。

「そーかなぁ」

 しかし真純は、のんきに吐いたものだった。

「怒ってないけどなぁ」

 それどころか、と続ける真純は、

「最近じゃ毒気が抜けて、よく笑ったもんだよ?」

 美也子の極々数少ないウィークポイントの一つだったりする。日本で恐れられたフィクサーも、この出来た孫にはそれなりに骨抜きにされているようだった。

「もう隠居だー、何てよく言ってるし」

 隠居だなんて、そもそもずっとしてるのにおかしいよね、と真純はまた皿を突きながら屈託なく笑ったものだ。真琴の手紙にも、確かに美也子の様子を気にする事はよく書かれてはいるが、では実際にはどんな様子なのか。その現況が書かれる事はなかった。つまり、気にはなるが関わってはいない、と言う事だ。

 ——まあ、急には無理か。

 長年諍い合ってきた母娘の事である。一朝一夕では行かないとは思ってはいたが、想像以上に頑固な母娘だった。

「まあ、今回の件が落ち着いたら、お爺様は退任するそうだし」

「え? そうなんですか?」

「うん。それこそ、やっと隠居出来るって喜んでたよ」

「そうでしたか——」

 高千穂の秘書谷岡の暗躍、ひいては高千穂の毒がよく回っていた高坂グループ内は、その実でその対処の立ち上がりも早かった。美也子が裏で絡んでいたのだろうから、当然と言えば当然である。更に言えば、

「まぁ、今回はお婆様も、高千穂の小倅の下手で、危ない橋を渡らされかけた訳だから、流石に落ち込んでたよ」

 と言う事だった。

 逆に言えば、早々に自主調査を立ち上げなければ、さっさと手を切らなければ、各種捜査機関に痛い腹を無遠慮に弄られる事になっただろう。

 その辺りのバランス感覚は

 流石としたもんだな——

 であった。

 高坂グループは、真純事件以来僅かここ半月で、手始めとして金融庁の証券取引等監視委員会へ、昨年末の高坂重工株絡みのインサイダー取引について通報しており、ここ何日かは大々的に報道されている。通称証取委の犯則調査が終わり検察に告発されれば、そこから先は、本格的な司法警察機関の出番であり、汚職絡みでは国内最強の矛と名高い、東京地検特捜部が突き上げ捜査を始める事は目に見えていた。

「やっと、あの男を消せるってもんだよ」

 母子共々悩まされて来た元父親の事を、何の衒いもなく小倅だのと他人扱いする真純の思いが複雑であろう事は、然しもの鈍い具衛でも分かろうものだ。美也子と真琴の母娘の軋轢とは明らかに違い、高千穂のやり口は

「身勝手の罰が、ようやく神様に届いたんだろうね」

 明らかに利己的であり、最早修復不可能に思えた。

「真純さんは、法曹資格を取ったらどの道に進むんですか?」

「え? 弁護士だけど」

 どうかした? と不意に話題を変えた具衛に真純が問いかけると、

「いや、真純さんなら良い検事になれると思いましてね」

 具衛の思いを察した真純は、笑って答えた。

「高千穂の汚職事件捜査には間に合わないだろうし、一応元父親みたいだからメンバーに入れないよ多分」

 検事の採用条件は司法修習終了者であれば、基本的に年齢は問わない。真純の司法修習が終わるのは、順調に行けば今年の一〇月末である。その頃には遅くとも、高千穂は何度目かの逮捕で拘置所に勾留されている事だろう。

「僕の手で止めが刺せないのは残念だけど、まぁ現役の検事さん達に任せるとするよ」

 真純の目が一瞬、細くなり鈍く光った、ように見えた。

「あの男は、母さんやお婆様、それどころか高坂の敵だからね」

「それを聞いて安心しました」

 これから先、おそらく高坂グループ内でも、大々的に特捜部からの事情聴取が行われる事が想定される。その時に、今真純が口にした人々を救うのは、まさにその頃には少し間に合わないが、近い将来確実に弁護士登録するであろうこの若き異才である。

「僕が守ってみせるよ——」

「それに合わせて、真純さんのお母様とお婆様が、少しでも寛解すれば良いのですが」

 具衛がついでのように口にすると、真純は盛大に溜息を吐いた。

「やっぱり分かる?」

「はい」

「だよねぇ、あの二人。傍から見たら分かりやすいよねぇ」

 具衛さんなんて見てなくても分かるし、などと真純は笑ったが、すぐにまた顔を曇らせる。

「何とかならないかねぇ」

 具衛の心配も、実のところその事だけだった。

「そうですね」

 母娘が寛解出来たならば、美也子が定まらなくとも、真琴は本当の意味で自由になれる。そうなれば、

 ——俺の処遇など関係ない。

 馬の骨は馬の骨らしく、消え失せるのみだった。ここまでが、

 うまく行き過ぎ——

 ただけの事である。必要以上に求めてはならない。具衛はやはり、抜き足差し足ではないが、こっそり引き際を模索していた。やはり、貴賤の差は余りにも大きいのだ。自分の素性が真琴の汚点になる事は目に見えている。それでは真琴に悪いし、その足を引っ張る事になるのは我慢ならなかった。これまでの半生で、散々に邪な目に晒されて来た真琴なのだ。そこへ更にその顔に泥を塗るような事など、具衛には耐え難かった。のだが、

「具衛さん。ここまで来たらもう逃げられないよ?」

 この若き異才の察しの良さもまた、良くも悪くも母に似たものだ。

「だってあなたは、今やお婆様に関心持たれまくりだもの」

 そう言うなり悪戯っぽく笑った真純に具衛は、

 し、死んだ——。

 素直にそう思った。

 これが俎板の上の何とかと呼ばずして何であろうか。自由人にとって最も恐れていた事態が、ついに極まってしまったのだ。フェレールの方が奇跡的に穏便に過ぎていれば、高坂が黙ってはいない。これもまさに、あっちが立てばこっちが立たぬその構図だ。真ん中に立たない限り永遠に続くシーソーゲームの、

 真ん中って——

 何処ら辺なのか。分かっていればこんな事になる筈もない。相変わらずの波乱の相の収まりどころを、大抵いつも行き当たりばったりの具衛は知る由もなかった。

「少なくとも母さんは、もう逃がさないと思うけど——」

 その上、思わせ振りをする真純のカトラリーの「合図」でスープが出て来る。

「ま、後は母さんから聞いてよ」

 さ、食べようよ。真純は然も嬉しそうに無邪気に笑いながらも、明らかに作法慣れしており、具衛は情けなくもリードされっ放しだった。が、食を進めながらも窓越しに外を気にするその横顔は、まだあどけなさが残ると言うチグハグ振りである。そこに垣間見る、底知れぬ大器の片鱗。

 流石は——

 高坂の御曹司にして、真琴の息子だ。にも関わらず、その子に何処を気に入られ、何故懐かれたものか。やはり具衛にはさっぱり理由が思い当たらない。のだが、あの真琴の愛息に好かれるのは、正直嬉しかった。

「うわ、寒そーだね、これは」

 気がつくと窓の外は、横殴りの雪が吹き荒んでいる。全国的な寒波は特に北信越地方を直撃し、豪雪をもたらしていた。その勢い余ったものが山越えして来ては、関東地方にも襲来している。先程までは薄日が差していた横浜港も、真っ白に近かった。

「そうですね」

 身も心も凍りつきそうな具衛は、スープを啜るが身震いするのみである。

「これは、温泉はキャンセルかなぁ」

 クルーズ船での検証立会は夕方までの予定だ。その後は、ハワイの件で何故か仲良くなった真純、千鶴の二人の招きによる、一泊二飯の細やかな温泉宿慰労会の予定だった。千鶴は仕事中であり、夕方から合流する。具衛が参加するのであれば真純の計らいで、当然その母真琴も招かれているようだったが、合流予定は聞かされていなかった。


 同日、午後一時。

 具衛と真純が集合場所である横浜港の大さん橋国際客船ターミナルに赴くと、接岸したクイーンパシフィック号の搭乗口を前に、黒色系のコートを着込んだ如何にも不釣り合いの二つの集団が、互いの顔を見合っていた。

「何か、ユニットが多い? のかな?」

 真純が素直な疑問を口にするその前で、曇天下にして横殴りの吹雪の中、それぞれを運んで来たと思われる車を囲み、一方は背中を丸め、一方は感情薄く思う様吹雪に吹きつけられている。

 一方の集団は、今日の検証の主宰である警視庁刑事部捜査一課と、作業服で統一した鑑識課の面々である。片や、件の滝川班長を筆頭に厳つい面々が忌々しげに睨みつけているそのもう一方は、黒塗りのミニバンを前に四人が佇んでいた。人数も刑事部軍団の何分の一以下か、と言う小勢なら、毛色も何処か物静かであり、一見すると端正で淡白と言うか如何にも無機質だ。

「滝川さん、始めないんですか?」

 何です? あれ? などと具衛が一瞥するが、昼下がりを迎え一層強くなって来た吹雪の中、見慣れない四人組が淡々として殆ど身じろぎしない様子は、流石に違和感が強い。

「お前、今度は何しでかした?」

 滝川は忌々しげな表情そのままに、具衛に八つ当たりした。

「は? いや、何も——」

 覚えはない、事はないが、表沙汰の限りでは、あの得体の知れない連中に絡まれるような事などしていない具衛である。が、その所属には心当たりがあった。

「公安、だよね? 警部さん」

 横にいた真純が代わりに答える。

「流石は。御名答です」

 それに合わせて滝川が溜息を吐くと、コートのポケットから手を出して、乾いた拍手をして見せた。

「検証令状に賞味期限がある事は、奴さん達もご存知だとは思うんだがな」

 裁判所から許可を得て発付を受ける強制許可状の一つ、検証令状の有効期間は、特段の理由がなければ発付から七日間である。

「別件で、国家公安委員会から出頭命令がかかっとるそうだ」

「国家公安委員会から出頭命令?」

 思わずおうむ返しした具衛を、

「そうとも」

 滝川が自信満々に答えた。

「誰が?」

「お前だ」

 その滝川が、煩わしげに顎をしゃくって具衛を指す。具衛は間抜けそうに、自らの人差し指をその顔に差した。

「何ですそれ?」

「俺に聞かれても知るか」

 俄かに元職も現職も首を捻ったものだ。

 国家公安委員会は、内閣総理大臣所管下に置かれた内閣府の外局、つまり独立性の強い事務を行うため特別に設置された組織であり、合議制の行政委員会である。人員構成は国家公安委員会委員長と五人の委員からなり、その下部組織に警察庁を従える。警察の政治的中立性の確保と、治安に対する内閣の行政責任の明確化を目的とした組織であり、早い話が警察省だ。

 その役割は、国の公安に係る警察運営、統轄、調整により、個人の権利と自由を保護し、公共の安全と秩序を維持する、と言うもので、実務上は、下部組織である警察庁を管理監督する事でその任としている。諸事万端は、その事務を代行している警察庁が取り仕切っている、として差し支えがない。

 よって、

「そんなん聞いた事ないんですが」

「俺もだ」

 基本的に、下っ端のノンキャリア組である現場の警察官が関わる事などまずないのが普通である。のであるが、実は、

「国家公安委員会って言っても、単なるお飾りじゃないんでしょ?」

 真純の言うとおりではあった。

 事実上、全てを警察庁に下請けに出しており、基本的には具体的事件についての指示、命令、捜査などは行うことが出来ない組織なのだが、何にしても例外があるように、やはり国家公安委員会のそれにも例外が存在する。警察行政の執行上、法令に違反、疑義が生じた場合には、その是正又は再発防止のため、具体的事態に対応し、個別、具体的に必要な措置の指示が出来る、と言う解釈があるのがそれだ。更に言うと、所謂監察機能については、当然に随時行う事が出来る。

 とは言え、

「これから強制捜査に入ろうってのに、それを上回る任意手続きがあるの?」

 やはり真純が、寒そうに首を窄めながら呆れた。

 検証とは、任意捜査では実況見分と言われ、犯罪が行われた状況を調査し、それを記録する事で証拠化する作業である。任意協力が得られる場合なら、何も強制令状で現場を抑える必要などなく、事実クルーズ船、被害関係者とも協力的であり、令状は不要にも思われたものだが、捜査側は念には念を入れたようだ。その背景には、犯行の現状を保管するため、つまり犯行現場を不必要に改変させないようにするためだとか、船側が不都合な事情を隠蔽するために急に非協力になったりするなど、不測の事態に備えようとする思惑がある。ぶっちゃけて言えば、今黒い噂が吹き荒れている高坂グループの船会社である。捜査側が思わぬ横槍に備えるのは、当然と言えば当然と言えた。

 で、あるにも関わらず、

「まさか、部内の親玉に邪魔されるとはな」

 流石にそこまで読み切れなかったらしい。警察は典型的な縦割り組織であり、部内、それも上層部に弱い。今回の状況に照らし合わせば、捜査側は忍従するしかなかった。

「協力的な被害関係者を押し退けるとはね」

 警察内部の構造はそうでも、それを民間人に強いるのは、真純でなくとも受け入れ難いだろう。わざわざ時間を示し合わせて集っているのだ。

「何様なんだろうね」

 真純が感情を殺して淡々と嘯くのも、もう一方の者達は全く平然としたものだった。その目は周囲に眼中なく、淡々と具衛を狙っている。

「公安様さ」

 因みに「公安」と言う名称が被るだけで、反体制的運動や組織を取締る公安警察のそれと、公安委員会のそれは全く違う意味で使われる。滝川が忌々しさを全開で吐き捨てるように言ったそのもう一方の四人は、所謂公安警察部門の警察官達であった。

 要するに、

「特命で、何か動いてるらしいわ。お前の事で」

 大っぴらに出来ない事を水面下で進める際には、大抵公安部門の警察官が動員されるものだ。

「任意と言う名の強制が、民間に下った後も押し通されるとは思いませんでしたよ」

「こうなったら、てこでも動かんからな。こいつらは」

 検証はまた後日にする他あるまい、と舌打ちした滝川が、

「出直しだ」

 周囲に撤収を指示した。

「すまんな。わざわざ広島から来て貰ったのに」

 それに苦笑いした具衛は、

「終わったら電話しますから」

 呆れてへの字口を作りながらも真純に伝えると、後は無言で四人組のミニバンに乗り込んだ。


 同日、午後五時。

 遥々広島から横浜港まで検証立会に来た筈が、

 まさか——

 本庁にいるとは。

 皇居の南側、中央合同庁舎第二号館に居を構える警察庁の上層階の一角に、具衛は押し込められていた。

 警察庁の親玉である国家公安委員会は、その庁舎内の上層階を根城としている。元警視庁警察官として、約一〇年の在職歴を有する具衛であっても、本庁舎に入った事は数える程しかなく、その親玉である国家公安委員会の階層ともなろうと、

 ——初めて、だなぁ。

 であった。

 それも現職中にまるで縁がなかったにも関わらず、である。

 それにしても——

 連行されたかと思うと、中が冠せられそうな会議室程度の広さがある一室に閉じ込められ、以後何もない。仏頂面な男達三人と一緒にいるのだが、会話はおろか、物音一つしなかった。四人いた筈だが、この部屋に押し込められてからは三人になっている。離脱したのか、何処かで斥候でもしているのか。いずれにしても、車内の時から何を尋ねても雑談一つ応じようとしない連中だったため、具衛も早々に無言を決め込んだ。

 会議室のようである一室には、それなりに流しテーブルや椅子が、学校形式に配置されているが、座っているのは具衛だけで、他三人は、部屋の各隅に別れて無言のまま監視するように立っている。愛想もクソもなかった。必然、その三人がいない一角を陣取る具衛は、窓際でぼんやり外を眺めたり、居眠りをしたりしている訳なのだったが、

 ——大概だよなぁ。

 待たされる事、約三時間。何の沙汰もない。その中で、真純からぽつぽつ送られて来るメールによると、真純は横浜港からそのまま修習先に戻ったらしかった。一応、検証を勤務に充てて貰っていた身であるため、流石に直帰する気にはなれなかったそうだ。因みに真純の検察修習先である東京地検は、中央合同庁舎第六号館A棟にあり、具衛の現在地の東隣りの区画となる。

"まるで桜田門外の変だね"

 当時の幕府大老井伊直弼が暗殺された現場も、二人の現在地の目と鼻の先だ。旧暦(太陰太陽暦)一八六〇年三月三日は、西暦では三月二四日。彦根藩邸から駕籠で登城中の大老が襲撃されたのは午前九時過ぎだった。江戸城桜田門外は、史上初の江戸市中での大名駕籠襲撃事件の舞台となった訳だが、その日本史上稀に見る衝撃的な事件当日は、明け方から季節外れの雪に見舞われていた、と言われている。

"季節と雪と場所だけ、ですよ"

 その歴史的事件と無理矢理結びつけられる状況は、どうあがいても精々その程度だ。それを、どう言うつもりで真純がそんな事を送って来たものか、具衛には分からなかった。が、

 もう何が起こっても、

 ——俺は知らん。

 具衛は、今や完全無欠の民間人である。本来なら、今この状況でさえ応じる言われなどなかった筈であった。

 人を都合良く使っておいて、

 今度は——

 何なのか。

 北に面した窓の向こうに見えるのは、具衛にとって深い因縁がある警視庁本部である。具衛を無理矢理任意同行した公安の面々は、そこの者達だ。繋がりそうにない何らかの状況が、無理矢理繋げられて行くようで、何やら沸々ときな臭ささが湧き上がって来る。

 それはまるで、先日のハワイ帰りに立ち寄った外務省事務次官室で、そこの主と真琴が危惧していた展開、のようだった。その外務省は道路を挟んだ南側の敷地に隣接しているが、今いる会議室の南側は壁で見る事が出来ない。それが何処か、助けを求める事が出来ない現状を物語っているかのようで、こうなって来ると

 何もかも——

 敵意に見えて苛立ちが募り始めた。自分の何処かの何かしらの行動が、何処かの何かしらを盛大に引っ張り回し、引っ張り回された方がお冠、と言う事なのだろう。一見して好意的には見えない公安四人組の存在は、まさに口ほどに物を言ったものだった。

 早く温泉に、

 ——行きたい。

 検証は中止にされてしまったが、慰労会まで潰されては敵わない。

「拘束身柄でさえ、日課時限に基づいて生活してるってのに——まだ?」

 具衛は、数時間振りに三人の誰にともなく皮肉をぶつけた。夕方五時と言えば、留置施設で勾留されている逮捕身柄なら夕食の時間である。在宅事件で取調べのために警察署に呼び出された被疑者でさえ、基本的に同刻を目安に終了するものだ。食事時をまたぐような捜査や取調べは、基本的に任意性を疑われる原因になりかねず、捜査員ならそれは常識だった。空腹に託けて自供を迫ったのでは、と言う疑い一つが、ただちに「自白の強要」と言う違法を指摘され兼ねないのだ。民主警察制度下において、自白の強要などと言う前世代的愚行が許される訳もなく、違法収集証拠として認定されればそれが無罪判決に直結する。それは過剰な非日常をわざとらしく掻き立てる派手な刑事ドラマなどでは、決して語られる事のない地味な現実としたものだった。が、

「そんなの関係ない、か」

 具衛以外の同室者は、そんな独り言にも、やはり何の反応も示さなかった。

 流石に——

 感じ悪い。

 そもそもが同室している連中は、そのような合法的な取調べなど、気を遣う事を要しない職務なのだ。それをわざと皮肉り論ったのだが、見事に無視された。

 この——

 無機質無関心は、人間のものと言えるのか。

 まさにそれこそ、殻だけ人間の、中身は何物か分からぬ国家の、

 ——それも闇。

 としたものなのか。

 そうした国の暗部が、権力を腐敗させると言う現実を、

 コイツらは——

 考えた事があるのだろうか。

 これぞまさに正真正銘の、国家に忠実で盲目的な

 ——犬。

 と言うヤツではないのか。

 今更ながらにそれを肌で感じ取った具衛は、現職時代の自分とは余りにも毛色の違うその連中を一度見回しては、軽く鼻で嘆息した。

 夕闇が迫る眼下、季節外れの雪は益々勢いを増し、都内中心部でも着雪し始めている。

"残念だけど、今日は中止だね"

 真純が仕事の合間に送って来ていたメールの最後の内容はそれだった。どうやら都内の交通網は、週末と言う事も相まって既に混乱し始めており、とても宿泊先へ向けて動けそうにないどころか、都下の勤め人ならば、まともに帰宅出来るかどうかすら怪しくなって来ているらしかった。公共交通機関は勤め人達を慮る余裕すら失い、夕方の帰宅ラッシュを待たず早々と軒並み運休となった。タクシー乗り場は早くも待ち列が出来始めており、都内の高速道路も首都高速を始め、通行止めが相次いでいる。羽田空港も堪らずクローズしたらしい。

 うわぁ——

 スマートフォンでのんきにネットニュースを見る具衛は、

 ——明日、帰れるんかいな。

 雨過天晴を念じ始めた。

 昨年秋頃からこちらと言うもの、何かと勤務先施設、特にその理事長の武智には気を遣って貰う事が続いている。そう言う今朝も、三〇分早上がりの都合をつけて貰ったばかりだ。武智に無理を言い続ける都合とは、施設には何ら関係ない自己都合ばかりであり、具衛が大概に巻き込まれ続けた身ならば、施設も施設で、具衛を介してその影響を受け続けている、と言ってよかった。いくら何でもいい加減にしておかなくては、

 ちょっと、まずいなぁ——。

 と言うのに、この桜田門外辺りも積雪し始めており、道路は渋滞が始まっている。明日、帰れなければ、また迷惑をかけてしまうのだ。

 具衛が何度目かの溜息を吐くと、いなくなっていたもう一人が、音もなく部屋に滑り込んで来た。出入口傍にいたリーダー風の年長者らしき男に耳打ちしたかと思うと、耳打ちされた男が具衛に近づいて来る。

「移動します」

 感情なく、しかし有無を言わさせない物言いに、具衛は物を言う気になれず大人しく立ち上がった。部屋を出ると、具衛の周りを四人が囲むように配置して移動する。それなりの広さがある建物の筈だが、歩く廊下に人気は少ない。静かだった。

 何処まで連れて行かれるのか、と思った矢先、

「こちらへお入りください」

 先を歩くリーダー風の男が、足を止めた。その目線を追うと、如何にも大物がいそうな部屋の扉が控えており、その前に立っている別のスーツ男が、涼しげな目を血走らせて無遠慮に具衛を睨みつけているではないか。

「こんな形で入っても宜しいので?」

 男達はスーツ姿だが、連行された当の本人は、いつもの冴えない色のダウンジャケットに綿パンである。が、やはり、扉の前にいた男も含めて誰も何も答えなかった。

「ボディーチェックは?」

 ここまで来ると、それなりの人間が中で待っている事ぐらいは分かる。大人しく連行された手前、ついでに気を利かせて言ってやったものだが、誰も興味を示さなかった。好きにしろ、と言う事なのだろう。

 と、言う事は——

 部屋の構えこそ立派だが、主は実は大した影響力を持つような者ではないのか。それとも誰もおらず、また別部屋に閉じ込められるだけなのか。それにしては、扉の前にいた男は、スーツのフラワーコーナーにSPバッジをつけている。

 ——と、言う事か。

 小さく、また溜息を吐いた具衛がノックもせずに扉を開けて中に入ると、七〇前のスーツを着た男が如何にも尊大げに、部屋の奥にある大きな机の、更に奥にある大きいな椅子に踏ん反り返って座っていた。

「ノックも出来んのか。田舎者が」

 机の最前列に置かれているわざとらしいばかりの名札には「国家公安委員会委員長下手泰然」とある。

 ——やっぱり。

 コイツの部屋だった、らしい。

 具衛は思わず舌打ちをしそうになった。昨秋、町の演説会で見かけて以来のご対面である。忌々しいにも程があったが、相手の出方を見極めるため何の反応も示さず、中に入ったばかりの所で立ち尽くして見せた。すると尊大な男が、そのまま軽く顎をしゃくった先には応接ソファーがある。その丁重な案内に従いソファーまで足を向けると、とりあえず大人しく座った。

 事実上の警察大臣を直に見るのは、昨秋以来二回目だが、この距離感では初めてだ。それなりに広い室内は、ソファーから大臣席まで一〇mはあるだろうが、この距離感にして鼻をつくポマードの臭いが凄かった。更に言うと、ポマードに混ざった加齢臭だ。

 要するに——

 この文字通り胡散臭いこの男からの出頭命令だったこの召喚は、権力の濫用である事が容易に推測されるものであり、やはりそうだった。

「戦闘機の件じゃ、随分と世話になったな」

 いきなり核心から話し始めるところなどは如何にも不作法であり、外観を裏切らない尊大さである。その権能のような物を行使し、ある程度の事は掴んでいるらしかった。

 バカな——

 ヤツだ。

 こう言う粗漏な振舞をしているからこそ、陰謀が発覚しては権力の座から引きずり降ろされる、と言う構図は、古今東西例外がない。全てが自分の力でのし上がって来た、と言う自負がそうさせるのか、はたまたスキャンダルを揉み消せる自信でもあるのか。具衛には皆目理解不能だったが、聞き覚えのあるダミ声が、一方的に何かを言い始めたものである。それが具衛の耳に入り、それを言語的信号としてとりあえず捉える事とし理解したところによると、次世代戦闘機開発主体移譲の件は国家機密であり、特定機密保護法に基づく機密指定された案件だった、らしい。

 つまりはそれを漏らし、台無しにした罪は重い。捕まりたくなければ言う事を聞け。とまあ、ひどい

 言いがかりにも程があるな——

 であった。

 特定秘密保護法は通称であり、正確には「特定秘密の保護に関する法律」と言う。漏えいすると国の安全保障に著しい支障を与えるとされる情報を「特定秘密」指定し、それを取り扱う者を調査、管理する事で、それを外部に知らせたり、外部から知ろうとする者などを処罰する事によって「特定秘密」を守ろうとするものだ。

 この特定秘密指定には、三つの要件が必要であり、第一として「別表該当性」と言われる、当該行政機関の所掌事務に係る同法別表に掲げる事項に関する情報である事。第二として「非公知性」。これはそのまま読んで字の如く、公になっていない情報である事。最後の第三では「特段の秘匿の必要性」を掲げ、その漏えいが国の安全保障に著しい支障を与える恐れがあるため、特に秘匿することが必要である情報である事、と言う三要件が必要

 ——だったよなぁ確か。

 である。

 それを、のべつ幕なくぐだぐだとダミ声を吐いている「ヘタレ」の蔑称を持つこの男が、

 理解出来てんのか?

 具衛には肯定的な思考が見出せなかった。

 どうせコイツらは——

 何にしても上っ面で、本音は金と権力ばかりに耳目を向けている連中だ。次世代戦闘機開発は、確かに国益を左右しかねない重大な情報ではある。それを特定秘密たる要件に照らし合わせてみると、確かに特定秘密に指定されていそうな情報だ。高千穂が企んでいたその移譲計画であれども何歩から何十歩か譲れば、第一の別表該当性と第二の非公知性は要件を満たす可能性がある。が、

 第三——は、怪しいな。

 第三の、特段の秘匿の必要性に関しては、無理があるこじつけと言わざるを得なかった。そもそもが「国産次世代戦闘機開発構想」自体は、既に開示されて久しい公の情報である。それにケチをつけて、一部の者達が意のままに都合良く変えようとしていたと言うその動きその情報が、果たして都合良く特定機密指定されているだろうか。

 つまりは、高千穂が地位と権力と財力を握るためのそれが、

 わざわざ——

 機密指定されているものなのか、と言う事である。仮に機密指定されていたとすると、それを糧に贈収賄、インサイダー取引など好き放題の温床と化しているような状況を作り出した高千穂一味の罪こそ大きい。それこそ特定機密保護法の保護法益とは、高千穂のような輩を管理するためのものである。更に言うと、もし機密指定されていれば、具衛の「知ろうとした行為」もまた、罰の対象にはなり得る可能性があるのではあるが、高千穂の罪と比べると雲泥の差、と言わざるを得ない。具衛はそのネタを掴んだとて、そのネタを使って何かをした訳ではないのだ。只、そのネタを上回る別の力で間接的に上から捩じ伏せた。それだけである。

 でも、まあ——

 正直なところ具衛としては、もうどっちに転ぼうとどうでもよかった。フェレールに押しかけた時点で、少なくとも今のままの生活を続けられない事は確定している。現に早速、敵対勢力から呼び出される始末なのだ。何か面倒な事になれば、

 ——今度は秘境にでも行くか。

 ぐらいの事だった。

 それは良いとして、それよりも何よりも、ヘタレも高千穂と選挙区が隣同士、友達なのか何なのか知る由もないが、高千穂の企みに加担していたと言う事は間違いなさそうだった。その、

 ミイラとりが——

 どう言う経路で、具衛が高坂とフェレールの盟約に絡んでいる事を知ったものか。やはり具衛には知る由もなかったが、恐らく高千穂から中途半端な事でも掴まされたのだろう。

 ——ミイラになってないか、これ?

 そのダミ声を聞くうちに具衛は思わず噴き出しそうになり、我慢しようにもし切れず、ついに喉を痙攣させながらもわざとらしい咳をし始めてしまった。高千穂一味にしてみれば、企みを台無しにされた恨みを晴らすべく、と言ったところなのだろうが、一言、

 ——哀れだな。

 だった。

 権力にすがる者が、その座を失った後の転落振りと言うのは中々痛々しいものだ。生まれてこの方、社会の底辺で這いつくばっていた具衛などは、そうした者を目前で見るような立ち位置にいた事などなかったのだが、幸か不幸か目の前の男は、

 どうやら——

 その初見になるようであった。

 高坂とフェレールの盟約には僅かに二つだが、奇妙ながらも鉄壁の条件が付されている。自身に降りかかる危険を顧みず、只、真琴の解放を訴えた具衛に益々感じ入ったフェレールが後出しでつけ加えた「真琴及びその交友者の絶対安全の確保」と言う追加条件は、言うなればフェレールからのこの上ない友情の証であった。それにより日仏の権と財を深々と掴んでいる両家のお墨つきを得た具衛は、極端な話「最強の矛盾」を手にしたような物だ。

 それを——

 掴んでいるならば、こうも野放図に傍若無人な振舞をする筈がない。つまり、如何に国家機密の中枢に限りなく近い高千穂でさえ、知り得ない領域に具衛はいる、と言う事だった。ヘタレの「言う事を聞け」と言う脅しめいたのは、恐らくは勧誘のつもりだ。真純の拉致事件で外務省が掴んだ事件情報に触れた高千穂が、具衛のエージェントとしての力を利用しまた何か企んでいる。その程度なのだろう。或いは外務省の事務次官は、何か掴んでいたのかも知れず、立ち寄った際その忠告をしてくれていた、と見る事も出来た。あえて詳細を伝えなかったのは、色々事情もあったのだろう。そうは言っても、今は高千穂の直属なのだ。

 いずれにしても、今回物の見事に高坂からあっさり切り捨てられた高千穂だ。真純の事件がなくとも、早晩その運命にあったのかも知れなかった。やはり、悠久の歴史を育んで来た富豪としたものなのか。今回の高坂の、その節度と英断は、具衛の根底に拭えない富豪に対する偏見を改めさせたものだった。

 具衛はその「虎の威を借る狐」的な虚勢を張る趣味はないのだが、

「何笑っとるんな! おどれは!」

 この広島出身の広島の面汚しとは、実は浅からぬ因縁があったりする。それがつい、具衛に次の一手を打たせ始めた。

「いえ。後援会長さんはご息災でいらっしゃるのかな、と思いまして」

「なにぃ?」

 踏ん反り返っていたヘタレが、思わず前のめりになる。

 黙っとけば良かったんだけどなぁ——

 わざわざ怒らせても、自分の身が置かれた状況を悪化させるだけなのは当然分かっていた具衛だが、それでも、

 ——ダメだな、こいつは。

 許せなかった。

「ちょうど、去年の今時分でしたか? 大臣自ら署の方へ直々に、捜査指揮のご連絡を頂きましたのは」

 国家公安委員長は、警察内部では大臣と呼ぶ。同委員会の長は「国務大臣」をもってその任に当てる、と警察法で決まっており、いわゆる大臣と言う意味合いの名称としては、各省庁の長たる他の大臣と同列だからだ。それを知っていた具衛は、ついわざとらしくもその尊称を使ったと言う訳だ。俄かにヘタレの顔が歪み始める。

 と言うのも、大臣と言う名称としては同じ意味合いでも、行政府の各省庁の長である「主任の大臣」のそれと、国務大臣たる国家公安委員長とでは、その権能の大きさに大きな違いがあり、

「その節は大変なご高配を賜りまして、警察官冥利に尽きるものでございました」

 それは常の具衛にない、強烈な皮肉であった。

 ここで言う国務大臣とは、主任の大臣と棲み分けするための狭義の国務大臣を意味する。各省庁の主任の大臣、外務大臣や法務大臣のようなそれら省庁の長たる大臣は、明白に自分が抱える各省庁を指揮する強権を有する一方で、国家公安委員会の長にして、その下部組織として警察庁以下、全国の都道府県警察を抱える巨大組織の長たる国家公安委員長とは、国家公安委員会の「主任の大臣」ではなく、単なるその委員会の単純な「会議上の主宰者」の位置づけだ。つまりは、各省庁の主任の大臣のように、自らを奉戴する組織に対した強権を持たず、

「警察に対する明白な指揮権を有さないのに、でしたよね?」

 それでも警察担当を仰せつかる国務大臣。それが「警察省」の担当大臣の役目だった。

 ではその警察省における各省庁に見られる主任の大臣は誰になるのか、と言えば、警察庁は内閣府に属するため、組織上のピラミッドでは内閣総理大臣がそれに当たる、と言う事になる。のだが、それでは首相なら警察に強権が振るえるのか、と言うと、建前上では断じてそうではない。仮にそうだとすると、戦前戦中に警察権を思う様濫用する事が可能だった内務大臣と同じ構図であり、結局は旧態依然だ。戦後の民主警察体制構築のためには、その旧態の反省とそうした体裁の悪さを取り繕うための緩衝材が必須だった訳である。

 故に、合議体の民主的な運営という観点から設置された国家公安委員会は、基本的に民間の有識者からなり、その定数五人の委員の任命に衆参両議院の同意、つまり議決が必要とされている。それ程までに体裁を重んじる訳は、国民を代表する警察行政における監視の目だからだ。都道府県公安委員会は、その委員長も民間の有識者から選ばれるが、国の場合では大臣を当てるその理由は、国家公安、つまり公共の安寧、安全、秩序の維持、と言う大仰な任を旨とする組織である事に他ならない。よってその委員長は、国務大臣格として内閣総理大臣の指名で就任する。と定まっているのだが、

「ぶっちゃけ話——」

 警察省の長に首相を据えてしまっては、旧憲法下における警察権濫用の悪印象が拭えず、とは言うもの、誰も据えずに放置出来るような収まりの良い組織でもない。そのため、責任の所在を明らかにするためだけに据え置かれた、大した権限を有しない責任者。と言ってしまうと

「身も蓋もないけど——」

 それが、国家公安委員長と言う名の大臣ポストだった。

「それにしては、少し度が過ぎましたか——大臣」

 とどのつまりが、警察大臣といえども個別事件に対する捜査指揮権など有さないし、過去の警察の横暴を知っておくべき現代の大臣の資質として、それは当然備わっていて然るべき良心であるところ、この自らの立ち位置がまるで分かっていない前後不覚の愚か者は、

「お前、あの事件の担当者か!?」

 広島から上京して来た自らの選挙区の後援会長が犯した罪を大目に見るよう、事もあろうに捜査指揮をした、と言う訳であった。

「はい」

 居酒屋で酔っ払い、しこたま暴れて店の物を壊し、客や店の関係者に暴力を振るった挙句の果てに店のオーナーを脅迫すると言う、横暴の限りを尽くした後援会長も後援会長なら、その選挙区の議員も議員、と言う事だ。事件発生当日、現場を管轄する警視庁の某所轄署で残業していた具衛に何故か事が絡んでしまった理由は、共犯者がよりによって筋者だったからである。

 組織犯罪対策担当の、

「あの時の係長です」

 だった具衛は、国家権力に慄く署員や幹部がちらほらする中で、何食わぬ顔をして例の如く淡々と当たり前に逮捕し、被害者の無念を少しでも晴らすべく飄々と事件を処理したのだった。被害者の中には後遺症が残ったような者もいたのだ。到底看過出来る物ではなかったそれを、この国賊は

「目を瞑れ。さもなくばお前を潰す」

 などと脅迫したもので、然しもの具衛も流石にこの時ばかりは、呆れてしばらく言葉を失った。

 事件は後援会長、共犯者の筋者共々終始完全否認し、警察段階の捜査終了後一応起訴には至ったのだが、何せ日本の遅々とした公判システムの影響もあり未だ第一審で争っている。当初は、警察大臣のまことしやかな捜査指揮が問題になり、本人もメディアも大賑わいだったが、しばらくすると別の話題が沸騰し始め、大臣本人も終始しらばっくれていたため、いつの間にか忘れ去られてしまった。

 それを具衛は、

「忘れませんとも」

 何せ現役の国家公安委員長に脅迫されましたから、などと蒸し返し、本人を目の前に痛烈に皮肉った。

「あの脅迫は、まだ時効じゃありませんし」

 脅迫罪の時効は三年である。まだ、一年しか経っていない。世に良く知られる時効とは「公訴時効」を意味しており、犯罪行為が終わった日から起算して、法で定められた一定期間が経過すると起訴出来なくなる、つまり裁判を起こせなくなる、と言う制度だ。

 昔の刑事ドラマに、公訴時効ギリギリに逃走中の被疑者を逮捕してあたかも事件が解決したような話があったようだが、実務上では有り得ない。警察が被疑者を逮捕しただけでは、公訴時効は止まらないからである。時効が停止する要件はいくつかあり、その最たるものが捕まえた被疑者を起訴する事だ。起訴は正確には「公訴の提起」と言い、日本の刑事裁判では起訴独占主義に基づき、基本的には検察官が唯一行使出来る権限となっている。言うなれば国家が責任を持って犯罪の訴えを起こす、と言う意味合いであり、江戸時代では国家がこれに手が回り切らず、認めていたのが「仇討ち」だ。

 起訴には多少の時間と日数を要するのが一般的である。警察から事件を送致、つまり事件の被疑者と関係書類を送られた検察官が、勾留期限及び公訴時効までに事件を調べ、起訴出来れば公訴時効は停止され、刑事裁判で決着をつける道が開かれる。が、起訴出来なけば、または間に合わなければ裁判を起こせず不起訴、つまり事実上の無罪放免となり、後は民事訴訟の道を探る事になる。民事では当然刑罰は科せられず、基本的には賠償金獲得を目的とした争いとなる訳だ。

 通常、逮捕事件で警察の持ち時間は四八時間であり、それまでに検察官に事件を送致するのだが、単純な事件であれば二日間で起訴されるような事件もあるかも知れないが、実際には殆ど有り得ない。所謂人質司法と悪名高い一〇日間の起訴前勾留となるのが一般的だ。そうなると事件は警察から検察に移るのだが、日本の法曹界の中でも検察官は最も人気がなく、絶対数が足りていない。よって現実問題として、検察官一人ひとりが多くの事件を抱えているため、実際には警察がその捜査を代行する、つまり下請けを担っている訳だ。殺人事件などの重大凶悪事件や、ヘタレの後援会長のような複数犯の否認事件などは勾留が延長されがちであり、その後ようやく起訴に持ち込まれるのが実情である。一つの強制捜査事件の刑事手続きは、約一〇日間と少しから二〇日間と少しの時間と手間をかけ起訴される事で、捜査機関から裁判所へ引き継がれている。それを長いと見るか短いと見るか。賛否は分かれるところであるが、何れにしても検察の下請けを担っている警察の捜査員達は、日夜時間に追われ、寸暇を惜しんで山のような書類を作っている、と言う訳であった。

 と、言ったところで、

「時効なんぞ知った事かい!」

 とりあえず据え置かれて警察大臣になっているようなヘタレには、その意味が分からないのか、意図した事が伝わらない。結局のところヘタレ達高千穂一味は、特定機密保護法で捕まりたくなければ一味に加わり工作員となれ、と一方的な提案めいた脅迫に及んだのであり、具衛の司法取引めいた過去の事件の思い出話は全く伝わらず、ヘタレを怒らせただけ、のようだった。

 その回答期限は一週間を予定していたようだったが、

「お前生意気じゃけえ、週明け月曜の夕方五時までじゃ」

 と、怒らせた分条件が悪くなってしまった。それならそれで、このどうしようにもない古狸を吊るし上げるネタとして、この事をとりあえず抱えておくとしたものだ。

 呼びつけておいて、一方的な退室を言い渡された具衛が挨拶もせず部屋を出ると、廊下側の出入口にはSPしかおらず、他公安の四人組は消えていた。SPと目が合った瞬間、

「お役目ご苦労様です」

 思わずそう言わずにはいられなかった。

 折角映えあるSPになったと言うのに、もう少しましな警護対象につきたかった事だろう。SPはその求められるスキルも競争率も極めて高く、特殊部隊と冠されてはいないものの、事実上警察内部の特殊部隊と同格の護衛のスペシャリストである。

 それがこんな男を守るために、その腕をくれてやる、しかもそれが建前上であろうが何であろうが、自らの組織の頂点に君臨する親玉ともなれば、無念の一言だろう。

「あ、私、こんな形なんですが、出口まで呼び止められずに行けますかね?」

 カジュアルな私服でうろついている人間などいないような所である。具衛がそう言うと、同年代と思しきそのSPが、背広の袖口を口に近づけて何事か呟いた。何を言ったのか教えてくれそうにない雰囲気であり、あえて尋ねなかったが、口の動きが別働を呼んだようだったので何も言わず横で並んで待っていると、やはり似たような年代のSPがすぐにやって来た。

 ——やれやれ。

 無理矢理連れて来ておいて、帰りは放置とは。随分な扱いである。テロ対策に余念がない昨今の事、一人でうろうろしようものなら、何を言われるか分かったものではない。具衛は、バッキンガム宮殿の衛兵のように、扉の前に立ったまま動きに乏しいSPに軽く頭を下げると、やって来たSPに連れられて階下へ降りて行った。一階まで降りて来ると、やはり物も言わずSPは玄関ロビーまで誘導して立ち止まる。後は勝手に出て行け、と言う事らしかった。具衛は小さく苦笑ながらも会釈し、追い出されるように外へ出る。

 最後の最後まで——

 随分だった。きっと自分は、この組織との相性が悪いのだ。そう思う事にした。どの道、もう来る事もあるまい。などと、やり場のない不満を頭の中で巡らせる余裕があったのは一瞬だけだった。外は既に日が落ち夜になっていたが、それよりも何よりも、雪がしんしんと降り積もっているではないか。昼間は横殴りの吹雪で寒さだけだったのだが、

 いつの間に——

 今降っているのは、手でちぎった綿の様な大きな雪片である。

 ——綿雪か。

 比較的に温暖多湿な地域に稀に積雪をもたらす典型的なタイプのそれは、水分を含み重みがある。具衛が歩道に足を踏み出すと、新雪がしっかり積もっており、靴の甲を覆う程度の雪が、地熱の低下と共に早くも凍結し始めていた。

 どうしたもんかな。

 とりあえず真純と合流するべく、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。メールを打とうとすると、逆に真純からメールが届いていた。ちょうどヘタレとやり合っている時に届いていたらしい。

 開封し内容を確かめると、みるみる顔色が変わるのと同時に、

「具衛さーん!」

 真純の叫び声が聞こえて来た。研修が終わり、そのまま東京地検から駆けて来たようだ。雪道をためらう事なく疾走し、あっと言う間に肉薄するも止まる術を持たない真純が具衛に飛び込む。それを転倒する事なくしっかり受け止めた具衛に、

「具衛さん! 母さんが!」

 そのまま胸倉に噛みついた。

「すみません! 今メール読んだばっかりで」

「ど、どうしよう!?」

 常に冷静で余裕綽々で、感情の起伏に乏しい真純が、珍しく大わらわである。

「とりあえず、足が——」

 あれば良いんですが! と具衛が言う上に

「実家の車を呼んでたんだけど、この雪で渋滞に捕まってるんだ!」

 真純が容赦なく被せた。あの母にしてこの子である、頭の回転が速くせっかちこの上ない。が、顔は苦悶に満ち、言葉の端がいつも以上に鋭利ながらも具衛を頼むのは、この男なら何とかすると思えるからなのだろう。

「そう言えば! この辺のディーラーで、母さんの車が午前中からメンテナンスを受けてる筈だ!」

「それだ! 何処にあるんですか!?」

 思わず喰らいつく具衛に、両肩を揺さぶられながらも真純がスーツからスマートフォンを取り出し、電話をかけ始める。

「近くだと思ったけど——」

 そう呟くと、電話向こう側で応答した人間にせせこましく畳かけた。かけた相手は実家の使用人らしい。ディーラーの店名を一度だけ復唱すると、

「今から僕が受け取りに行くって連絡しといて!」

 言い放つなり電話を切った。その最中に具衛が、スマートフォンで場所を確かめる。

「ここから二km弱ですね!」

「行こう!」

 慣れない雪道を、覚束ない足取りで帰宅し始めた官庁マン達を掻き分けながら、二人は足元に構わず息を切らせて走り始めた。


 午前中に羽田で具衛を出迎えた時は、少し吹雪いていた程度だった。が、昼過ぎから風が収まり綿雪に変わると、気象庁は慌てて大雪警報を発令した。朝、出勤前にテレビで見た予報では都心で着雪があるかないか、と言う程度だった筈だが、夕方になると都心でも予想外の積雪となった。

「新宿で三〇cmを超えたらしいんだ!」

 多少なりとも地熱が残っている昼間にしてこのレベルである。これから夜間を迎えるに当たり

「まだまだ降るらしい!」

 走りながら状況を説明する真純がもたらす情報は、自分でも中々残酷な内容だと思った。だが、またこの男を頼ろうとする以上、良し悪し抜きで情報と言う情報をこの男は欲しがる筈だ。それに答えてやらなくてはならない。

「ディーラーに大至急、最高級のラバーネットチェーンを履かせるよう伝えてください!」

「ラバーネットチェーンだね!?」

 やはり、早速具衛が指示を飛ばし始めた。真純は走りながらスマートフォンを操作する。

 午前中はなんて事なかったのに!

 真純は思わず、走りながらも舌打ちをした。

 夕方の検証終了後、出かけようとした温泉宿は奥多摩だった。真純の予定では、帰りに真琴を実家で、千鶴をその勤務先でそれぞれ拾ってから向かう予定だったのだが、まずは検証の中止で予定が狂わされた。

 そこでまずは、予定を修正すると共に、

 ——積もる雪じゃないだろ。

 と判断した。

 検証は中止になってしまったが、職場には戻るにしても、

 今日は定時で上がらせて貰おう。

 と考えた真純は、横浜港まで帯同していた実家の運転手を、

「定時を目処に、母を乗せて東京地検まで来てください」

 と指示して一度実家へ返し、自身は電車で職場へ戻った。

 実家は東京二三区に隣接するベッドタウンであり、千鶴の勤め先は実家より更に埼玉寄りにして多摩寄りだ。母には少し移動の労を負って貰う事になるが、今は無職にして実家で籠城している身である。実家の一室で籠っているよりは、車で移動している方が、

 ——気晴らしになるだろ。

 などと、都合良くも自己解釈で論理づけ正当化したものだ。実家から予め母を連れて来ておけば、実家に寄る手間が省ける分、宿には早く着くだろう。具衛の呼び出しがどの程度かかるか未知数だが、余り酷いようなら現役弁護士でもある母と共に乗り込んでやる。ぐらいの心積りだったのだが、それを根底から覆したのは、気象庁も予報を見誤った雪だった。

 真純が横浜港から職場に戻ると、瞬く間に公共交通機関は軒並み運休になり、高速という高速は通行止めになった。最後の砦の地下鉄まで、運休やダイヤの乱れで混乱している有様だ。

 ——どうなってんの!?

 気がつくと、職場の窓から見える景色が一変しているではないか。

 何で、こんな急に——

 大雪になったものか。これでは残念だが、慰労会は

 ——中止だな。

 として、定時も近づいた頃、仕事の合間で宿にキャンセルの連絡を入れたところ、

「もうお一人お見えですけど」

 意外な答えが宿から返って来た。

 母だった。午前中、雪が落ち着いている間に一人で先にチェックインしたらしい。恐らく実家にいても退屈だから、さっさと一人で先に行ったのだろう。

 まぁ、仕方ないか。

 一人で温泉を堪能して貰おうと思った矢先、宿から思わぬ情報がもたらされる。

「お連れ様が、どうも具合がお悪いようでして」

「え?」

 家中では、健康体で知られた母である。確かに酒量が少し気にはなるが、実家に戻り籠城を決め込んでからは、健康に気を遣い酒を断っていた筈だった。そんな母が久し振りに外出して、

 疲れて風邪でも引いたか?

 初めは真純も、その程度にしか捉えていなかった。で、

「ご迷惑をお掛けしますが、暖かくして休ませてやってください」

 他三名はキャンセルしますので、と伝えて電話を切った。のだったが、次々に宿側から、母真琴の容体悪化を伝える電話が立て込み始めると、真純はすぐさま楽観視を拭い捨てた。すぐに思いついたのは、実家も世話になっている都下所在の高坂グループお抱え企業立病院「高坂総合病院」の医師によるリモート診察だ。しかしてその診断は予想外に早く、しかも俄かに信じ難い結果としてもたらされた。

「インフルエンザのようですが衰弱が早く、悪い事に肺炎を併発しかけておられます」

 衰弱?——母さんが?

「宿の関係者を介した問診なので、断言は出来ませんが」

 と言う、前置きつきではあったが、医師によると母の容体は、インフルエンザによる衰弱と言うより元々弱っていた事が影響しているようだった。いくら籠城しているとは言え、体力自慢を誇ったタフネスが、肺炎になりかかる程衰弱する理由など心当たりがない。医師はそのまま救急車を手配しようとしたそうだが、

「既に一m近い積雪に見舞われているようでして」

 奥多摩は昼過ぎからの大雪で、広域的に孤立したらしかった。と言う事は、

 もしかして——

「肺炎を併発すると——」

 なると、医療体制が整った環境でさえ予断を許さない。日本人の死因順位では毎年上位にその名を連ねているそれは、何も高齢者だけの病気ではないのだ。それも衰弱した状態で薬もないとなると、

「——危ない、のですか?」

 絶句しかける真純に、医師は月並みな説明を始めた。日本におけるインフルエンザの罹患率は、年間で一〇人に一人と言われているそうだが、そのうちの

「約一万人は、重症肺炎で——」

 医師はそのまま言葉を切る。その続きが、まさか母に繋がる、としたものなのか。昨日はそんな気配など、まるで匂わせなかったのだ。

 それが、何で——。

 昨日、慰労会の宿の事で母に連絡をした時、電話越しだが直接声も聞いており、全く普段通りだった筈だ。

「慰労会ってのは分かるんだけど、何で私が全部払わされる訳?」

 などと、大人気ない憎まれ口を叩いた母は、予想通りの反応で真純を笑わせたものだった。その母が、

 ——嘘だろ。

 いきなり突きつけられる絶体絶命のピンチに、目が眩みそうになる。

「——早期の入院が望まれる状態です」

 真純は返事をする余裕もないままに、一方的に電話を切った。

 雪が——

 こうもあっさり人命を左右させるとは。

 ぐらりと目の前が歪み、昏倒しそうになる。が、その危うい瞬間で真純を立て直させたのは、

 ——具衛さんだ!

 の存在だった。

 同じだ、あの時と——

 大叔父アルベールが、仏大統領時分にアルプスで遭難したその時と、

 ——全く同じだ!

 不幸中の幸いとはこの事だ。

 当時は赤ん坊だった真純が、大叔父から遭難事件の顛末を聞かされたのは、母の転職で仏国暮らしを始めた頃だった。大叔父が九死に一生を得たと言うその立役者が、日本人だと知った時には驚いたものだ。それまで「女流の高坂」で育って来た真純である。自分の周りの男と言えば、確かに何処となくぱっとせず、性差を論う時代ではない事は頭では理解していたが、それにしても家中のあくの強い女達に頭が上がらない男達は、情けない事この上なかった。

 大人の世界がそんなであれば自分の学友達も、男は皆、余りにも幼稚で如何にも子供染みており、一言で全く連む価値の見出せない連中ばかりだった。その思いは、仏に移住して確信と化した。

 日本男児は——

 いない。

 海外でよく言われる、一昔前の侍のような気骨ある日本男児など、現代では失われて久しい昔の文化でしかない。自分が目の当たりにして来た日本の男達とは、腰砕けでブレまくりの幼稚な連中でしかなかったではないか。

 が、しかして、大叔父が語った男は、真純が見て来た日本人の男らしからぬ男だった。仏国のために尽力し、文字通り殉死を厭わず入山した。大叔父を救出し只一人生還するも、死者を悼み褒美を拒み続けた。表舞台で華々しく名を馳せる事が可能だったにも関わらず、軍務に没頭し、難しい任務を淡々と遂行し続けた。そして、時が巡り巡って一六年後。高坂とフェレールの架け橋となり、拉致された自分を極あっさりと救い、そうしてやはり今、母の窮地を救う事が出来る最も近い位置にいる、と言うその男。

 これが——

 運命と言わずして何だと言うのか。

 常に冷めており現実的な真純も、流石にこの状況には抗えなかった。

 大多数の人間が屁っ放り腰でもたつく雪道を、何らためらわずに駆け抜ける具衛は、確かに男らしかった。普段は優しげで、何処か儚さすら覚える頼りなさを醸し出す

 ——くせに。

 四〇前のおっさんに、それなりに鍛えている一六の若武者が、ついていくのがやっとである。

 ——何なんだ、この人は。

 ——何故こんな形で、強いのか。

 これはどう考えても、

 ——反則だ!

 母が「詐欺師よ」と言っていたのを今更ながらに思い起こし、走りながらも噴き出しそうになった。

 この男なら——

 この状況を全て預けてもいい。

 真純が腹を括った頃、二人はディーラーに着いた。この雪道を走り始めて、一〇分かかっていなかった。流石に息を切らせる真純の横で、具衛は息を弾ませながらも早速車のチェックをし始める。

「真純さん! これで行けるとこまで行こう!」

「え?」

「早く!」

 そうである。ぐずぐずすればするだけ雪が積もり、それだけ母が泊る宿まで到達出来る可能性が低くなるのだ。店の関係者が呆気に取られる中、具衛と真純を乗せた真琴の白いアルベールは、雄々しいエンジン音を豪快に轟かせながら雪道へ飛び出した。


 そこからは凄まじい早さで事が運び始めた。

 周囲の交通が降雪の影響で徐行、渋滞で儘ならない中を、唯一全く干渉されずに通常走行以上の速度でアルベールが疾走する。

「ちょ、ちょっと!」

 大丈夫なの、と言う間もなく、具衛が大声で

「おいアル! 聞いとるか!」

 カーナビAIを呼び出した。

「お久し振りです、先セイ」

 機械的で中性的な電子声が、のんびり応える。

「先生?」

「そんな風に呼ばれてた事がありましてね。——今日は頼りにしとるで!」

 わざとらしく広島弁を使う具衛にも

「おまかせくだサイ」

 アルは丁寧に答えたものだった。

「お、広島弁もいける口か?」

「世界中の大抵の言語は理解していマス」

「それは頼もしいな!」

 場違いに何処か陽気な具衛の思わぬ荒っぽい運転に、真純は身体を揺さぶられながらも目を瞬かせる。具衛は真純に構わず語り始めた。

「こいつは良いとこ取りのAIなんですよ」

 多分——と、余り緊張感なく優しげに答えながら、早速アルに最寄りで営業中の登山用品店を検索、案内させる。

 な、何なんだ?

 先程まで、強張った顔で息を切らせて走っていた筈だが、真純でさえまだ声が弾んでいると言うのに、もう平然としているではないか。しかも、

 この速度で!

 車窓からの景色は、そんな具衛の様子とは打って変わって中々衝撃的だ。具衛のオーダーに対して、アルが示した店は車で数分の都内中心部だったが、全くの逆方向だった。

「反対か」

 呟くなり具衛は、あっさりホイールスピンさせそのまま車を反転させる。

「うわ!」

「舌噛まないように気をつけてくださいね」

 通常走行であれば、車内にエンジン音や振動が殆ど伝わって来ない車の筈だ。が、今はそれにしてはエンジンが少し吠えており、タイヤから伝わる揺れも中々激しい。強化ゴム仕様のチェーンなら、走行音も静かなものと思っていた真純は、

 こんな走り方してればそりゃあ——

 助手席で早くも目を白黒させっ放しだ。

 車の操作がそんなであれば、走行も中々有り得ないもので、車線も何もあったものではなく、はみ出し、逆走、ごぼう抜きなど何でもござれだった。

「車線なんて、もう見えたもんじゃありませんし」

 この雪じゃあまさか警察も、交通取締りなんかやっちゃいないでしょ、などと元警察官らしからぬ図々しさだ。周囲が亀の足のような世界で、一台だけ雪上を俊敏に荒れ狂う四つ足の獣の如く、荒々しくも出鱈目なライン取りで、先程出たばかりのディーラー前をまた駆け抜ける。あっと言う間に登山用品店へ飛び込んだ。

「ちょっと行って来ます」

 店の前の公道に堂々と横づけするそれは、つまり駐車違反である。それを、

「お巡りさんが来たら、呼んでくさださい」

 まあ、この雪じゃそれどころじゃないと思いますが、とやはり抜け抜けと言った具衛は、バザードランプだけつけてさっさと車外へ出た。行ける所まで車で行って、後は歩くつもりらしい。そうと分かった真純は、

「装備品はケチらないでよ! 後で必ず返すから!」

 慌ててその背中に怒鳴った。

「——勿論。盛大に使うから覚悟しといてくださいよ!」

 それに悪戯っぽく笑んだ具衛が、

「それと、待ってる間に——」

 真純に薬や遠隔診察器材の準備など、病院との連絡連携を指示する。慌ただしく言うだけ言って、素早い身のこなしで店に入ったかと思うと、物の五分程度で店員を従えた具衛が、大荷物を抱えて戻って来た。

「ホントに遠慮ないね!」

 思わず呆れた真純が車内に戻って来た具衛に声をかけると、

「思い切る時は思い切らないと」

 言葉の重みに反して、それを語る穏やかな顔つきと、直後にまた始まった車窓の有り得ない景色が余りにもチグハグで、真純は泣きそうにも笑いそうにもなる。

 その只中で具衛はアルに、高坂総合病院経由で温泉宿までの渋滞回避ルート検索を指示しながら、

「大丈夫。任せてください」

 然も落ち着いた口振りで、真純に声をかけた。が、優秀なアルが瞬時に出した検索ルートは、中々残酷な結果だ。地図上に一〇通りの経路が掲載されたが、どれもごちゃごちゃしただいそれた迂回ルートで、予定地まで最短一〇時間以上の到着予定時刻が表示されていた。最長の到着予定時刻は提示されず、しかもどのルートも予定地手前で誘導線が切れている。合わせて検索結果を読み上げるアルをよそに、

「具衛さん、これ——」

 真純は絶句した。とても辿り着けそうにないではないか。

「大丈夫です」

 それでも具衛は、落ち着いたものだった。通常走行でのナビゲーション結果らしい。

「いくら優秀でも、オーナードライバー以外の運転の癖は把握してないでしょうしね」

 AIの能力は、基本的に二つに大別され「強いもの」と「弱いもの」と言い分けられている。前者は人間のような自意識と認知機能を有するアンドロイドのようなタイプであり、後者は限られた仕事に対して突き詰めていくタイプである。ボードゲームに見られるAIがそれだ。現代の技術では前者はまだまだ途上であり、

「後者が一般的です」

「詳しいんだね」

「まあ」

 科学技術は軍需産業を中心に発達して行く。どう言うつもりか知らないが、具衛は未だにそうした情報に目を向け続けているらしかった。

「もう癖みたいなものですから」

 だから、こんなにも

 毎度毎度——

 頼られてしまうのだろう。

 周囲の亀の足のような車と言う車を豪快に抜かし、躱し、文字通りのごぼう抜きで走りながらも、具衛は淡々とまずは病院を目指す。

「AIは特化型と汎用型と言う枠組みもあって——」

 特化型は先の話では後者、汎用型は前者である。後者の物には大抵

「ディープラーニング機能がついてますよね」

「インターネットの検索システムなんかはそうだよね」

「ええ」

 深層学習機能つきAIの凄いところは、自己学習で勝手にレベルを向上するところにあり、とことん最善を目指して突き進むその様は得も言えぬ迫力がある。一方で汎用型は、現代技術では人間を超えるような認知機能を持たせるところまで来ていない。

「で?」

「アルはおそらく、どちらの機能も合わせ持ってます」

「そうなの?」

 つまりは、凄まじい認知機能を有するアンドロイド、

「て、事なの?」

 と真純が言うと、

「そこまでではありまセン」

 答えたのはアルだった。検索知能やAWDなどの走行支援システム機能などは特化型のそれだが、汎用型に見られる自意識や認知機能の片鱗が

「こいつにはあるんです」

 らしい。その裏づけとして、高規格車は走行に難を及ぼすレベルで高規格チェーンと相性が悪い事があるそうだが、

「走り始めから、そんな違和感が全くない」

 などと具衛は、しんみり感心を示したものだった。要するに、足回りだけで改善出来ない相性の悪さを、車体全体のバランスで補うべく、AIが絶妙の匙加減で自動調整しているらしい。

「特注車は流石に違う」

 とまるで人ごとのように呟きながらも、その横で真純が絶叫寸前になる程の際どい走り方で、豪快に雪道を駆け抜け続ける。

「よ、良く分かったけど、大丈夫?」

「大丈夫。必ず宿の傍まで行ってみせます」

「それは嬉しいんだけど——」

 そこまで辿り着く前に、これではあの世へ行く方が早いのではないか。真純の身体は先程から殆ど小刻みにシャッフルされっ放しだった。

「吐きそうになったら言ってくださいね」

「う、うん」

 真純が自信なさそうに答える一方で、具衛は、

「こいつはホントに、特注の中の特注車だなぁ」

 アルベール閣下がお母様を大事に思ってらっしゃる気持ちが分かろうものです、などとのんきな感心を口にしている。その目の前で、スリップして操舵不能になり、あっと言う前に目の前に肉薄して来る大型トラックが出現した。

「うわ!」

 堪らず悲鳴を上げた真純の横で、具衛は何ら動じる様子を見せず、手慣れたハンドル捌きを見せつけては、後方からすんでのところでそれを躱す。

「よ、避けた!?」

 すると、驚く真純の悲鳴すら置き去るような速度で突き抜けて行った。

「あ、そうだ。多分声を変えられますよ。アルのヤツ。なぁ?」

「ハイ」

 具衛の呼びかけに、忙しくナビゲーションしながらも、律儀にアルが答える。

「中性的な電子声は、如何にも人嫌いのお母様らしい」

 やはりのんきに独り言ちる具衛に、真純は堪らず噛みついた。

「そんな事、どうでも良いから! 急いでくれるのは嬉しいけど、あの世には行きたくないからね!」

 が、具衛はやはり、のんきと言うか

「そうですか」

 落ち着き払っている。今更ながらに母真琴が具衛に食ってかかっていたハワイの様子を思い出した真純だった。

 確かに——

 詐欺師、と絶叫したくなるような懸隔である。

「次を左デス」

 速度に合わせて、早口になるアルに

「おっとっと」

 うっかりめいた声を出しながらも、今度は雪面をドリフトさせては豪快に躊躇なく十字路に突っ込み、鋭く曲がって行った。

「ちょ、ちょっと! いきなり突っ込んで車や人がいたらどうすんの!?」

 何で元警察官にこんな事言わないといけないんだよ! とついに悲鳴を上げ始めた真純に、具衛はまたあっさり呟く。

「高感度のGPS管制システムがありますからね」

 ひょっとすると戦闘機並みの、と答えると、

「だから大丈夫です」

「大丈夫デス」

 具衛とアルの声が被った。

 気がつくと、大きなアップダウンのある住宅街の生活道路を、有り得ない速度で走っているではないか。

「だ、大丈夫じゃないだろ! これは!」

 絶叫する真純を尻目に、

「二二‰で二五一m登った後、一六‰で三三六m下りマス」

「はいはい」

 アルの正確過ぎるナビゲーションに鷹揚に答えた具衛は、躊躇なく上り坂に突っ込んだものだった。

「と、飛ぶつもりかよっ!?」

「いや、振りをつけないと。登り切れずに途中で止まったら、流石にしんどいです」

 頂上へ向けて上手く減速したかと思うと、今度は下りである。

「く、下りはゆっくりでもいいだろ!」

「周辺に動体感知ナシ。突っ込んで大丈夫デス」

「危なかったら、アルが事前に危ないって言ってくれますから」

 まあ稼げる所では稼がないと、一〇時間もかけて行こうなんて思ってませんよ、と具衛は薄く笑って見せるが、車内はジェットコースターと化していた。

「う、うわぁ——!」

 真純の絶叫をよそに、白虎と化した車体は雪道を駆け抜け続けた。


 高坂総合病院は、高坂宗家のある自治体から二、三の自治体を北に越えた埼玉寄りにあるのだが、

 ——ふ、不破具衛、恐るべし。

 病院駐車場に到着すると、具衛はまたすぐ様飛び出して行った。真純は車で留守番と称して、抜け殻になっている。

 都内の登山用品店から本格始動して、この雪道の渋滞を掻い潜りながら迂回ルートを激走し続けたアルベールは、あれ程の回り道を諸共せず、通常の最短ルート走行時に肉薄する所要時間で病院に飛び込んだ。直線距離的には、ここまでの行程で、三分の一を走破した事になる。ナビの予定到着時刻も一気に減り、四時間から七時間程度の表示で落ち着いて来た。車内時計を確かめると、まだ午後六時半である。

 その道中で真純は見ていた。

 メ、メーターが——

 よくダンスしたものだったが、スピードのそれは、殆ど時速八〇kmを下回る事がなかったのだ。自動車学校の生徒張りの、如何にも几帳面げな運転姿勢のくせに

 まさに詐欺師——

 と思うと同時に、

 ——そうか。

 一つの推論を結論づける。

 基本的な運転姿勢とは、レーサーのそれと同じ

 ——らしい。

 身をもってそれを知らされた真純は、車の免許取得前にも関わらず、運転姿勢の重要性と奥深さを痛感させられたものだ。文字通り、

「きゅうぅ」

 などと情けない声を出していると、また慌ただしく具衛が戻って来た。

「ドクターも、後からドクターカーで向かってくれるそうです!」

 高坂総合病院には、四駆のハイルーフミニバンタイプの高規格救急車がある。準備が出来次第、それに乗って出動するらしかった。

「ご実家からの手配だそうです」

 誰に連絡する暇もなく走り始めた二人だったが、早くも実家は事情を掴んだようで、真純は一安心する。

 だ、だって——

 車に乗り込むと、具衛は不思議とまた弾んだ息が落ち着きを取り戻すのだ。それはつまり、市街地ジェットコースター再開を意味した。そんな状況で、まともな電話など

「出来るかぁ——!」

 絶叫する真純は、アシストグリップが手放せないのだ。

「近場で給油したら、後は一路宿へ突撃あるのみです」

 それをよそに、言葉の過激さと、その形と、車窓の景色が一々噛み合わない具衛は、病院の医師から聞知した淡々と状況を語り始めた。

「宿周辺の積雪は一旦収まったようです」

 夜を迎え、都内はまた吹雪いて来た。粉雪が荒れ狂ってはいるが、積雪の手は緩んだようだ。が、

「奥多摩は一mに達したようで、」

 完全孤立状態らしい。宿の医薬品は市販薬程度の蓄えしかなく、母の病状に有効な物はない、と来ているそうだ。医師の指導の下、

「なるべく悪化させないよう処置を施してはくれているそうです」

 それはあくまでも対処法でしかなく、今はとりあえず、具衛と真純の二人に託された薬の到着が先決だと言う。天気予報は、今後一週間は同様の状況らしく、都内中心部でも更なる積雪が予想される中、山間部は状況次第では更に大雪になる可能性がある、

「と、報じてるそうで——」

「そんな——」

 状況は極めて悪かった。

 除雪作業は、降雪が峠を越さないとどうにもならないとかで、孤立地域は今は耐えるのみらしい。

「いくらこの車が凄くても!」

 一mの積雪をラッセルしながら突き進める訳がない。真純の悲痛は、ナビの誘導線が切れたその先の

「残りの約一〇kmはどうするの!?」

 とりあえずそこにぶつけられた。

「そのための登山用品です」

 が、やはり具衛が、あっさり答える。車で行ける所まで行き、後は単独行で踏破するらしい。

「僕も——」

 行きたい、言いかけて止めた。冬山登山の知識も体力も不十分な真純が同行しては、逆に具衛の足手纏いになる事は目に見えている。

「これ程の車を乗り捨てる訳には行きませんし」

 極寒仕様の寝袋を用意しているらしかった。エンジンをかける事なく、車内でドクターカーの到着を待つ事が出来る。つまり、

「前線基地です。役目は重大ですよ」

 それは、具衛の細やかな気遣いのように思えた。手をこまぬくよりは、事態の打開に向け、行動している方が気も休まると言うものだ。今は自らの不明を拗ねている場合ではない。

「宿に着いたら、その後は?」

 前線基地になるのであれば、プランは共有しておく。

「分かりません」

 到着後、遠隔デバイスで医師に診察して貰い、処方薬を投じた後は

「お母様の容体次第です」

 落ち着く見込みが高いようなら、そのまま宿へ逗留する。

「じゃあ、落ち着きそうになかったら?」

「その時は、私がお母様を背負って戻ります」

「そんな事出来るの?」

 これで、と言う真純の目は車窓に容赦なく打ちつける吹雪に向けられた。ナビの道路状況は、どこもかしこも真っ赤だが、具衛運転のアルベールは何処吹く風で快速を飛ばしている。都内の車など冬用タイヤを履いていない車ばかりで、つまりは路肩に車を投げて身動き取れなくなった車の列を、ナビは表していた。下手に不慣れな車に動かれない分、ナビも具衛も計算しやすくなったと見え、目的地到着予想時刻も、みるみるうちに時間が巻き戻され始めたものだったが、要するにこの状況は、それだけ天候が荒れている事を示唆している。二三区外とは言え、市街地を走行しているにも関わらず、ちょっとした

「ホワイトアウトだし」

 病院を再出発した時から、具衛は前照灯を切っていた。ライトがあると逆に乱反射して前が見えない。周囲はそんな状況下である。

「大丈夫ですよ」

 夜は雪が降ると明るいので、などと具衛はやはり呆気らかんと答えた。

「どうして——」

 そう、悠長に答える事が出来る——?

 何故、淡々と落ち着いていられる——?

 どうして、如何にも根拠に乏しい無理を犯そうとする——?

 頭に血が上り、ぶちまける寸前で真純は思い止まった。

「——そうだね」

 二人共が頭に血を上らせて良い訳がない。落ち着いていられるのは、その経験値の高さ故だ。バディが頼りないのであれば、一人で無理をする他ないではないか。今の自分は、車の運転資格すらないのだ。

「僕は、まだまだ子供だね」

 勝手に一人で図に乗って、何でも出来るつもりになっていた事を今更ながらに痛感させられた。自分のやっていた事など、自分の土俵で得意気に暴れていただけだ。世間ではこれを

 ——井の中の蛙。

 と言うのではなかったか。

「それが自分で分かれば大したもんですよ」

 思いがけず見透かされたような具衛の言葉に、

「そうかな」

 つい拗くれた声が出てしまった。その不甲斐なさに、また打ちひしがれる。が、

「そうですトモ」

 物の見事にそれをアルに拾われてしまい、真純は思わず噴き出した。

「ホント、アルは賢いな」

「でしょ?」

「お褒めに預かり光栄デス」

 病院を再出発後、気がつくと給油も終わっている。宿への突撃作戦は相変わらずの無茶振りで継続中なのだが、車内は何処か具衛のように落ち着きつつあった。都心を脱出し、加えて回り道ながらも周囲の道路事情が文字通り凍結してしまったせいだろう。比較的道幅のある抜け道を走り抜けているようで、引き攣っていた筈の自分の口数が増えている事に気づかされた。それに乗じて、

「具衛さん」

「何です?」

「母さんの事、頼んだよ」

 母を託す。

「はい」

 必ずお助けしますとも、と噛み締めるように答えた具衛は、相変わらず柔らかく淡々としていた。が、欲した答えはそれではない。この自分が母を託そうと言うのだ。曖昧やごまかしは許せない。

「この先も、だよ?」

 その真っ直ぐな真純のこれには、いつまでも返事が返って来なかった。で、訊き方を変えてみる。

「あのさ」

「何でしょう?」

 これには素直に応じた具衛に、

「あの男勝りのじゃじゃ馬の何処が良いの?」

 いきなり核心をぶつけた。

「い、いや——今、ですか?」

 運転が、などと具衛の弱腰に、ここまでの道中で散々にやられた分を畳みかける。

「プライドばっかり高くてさ、その癖どっか抜けてて」

 そんな事を言っている場合ではないのだが、それでも言っていると別の感情が溢れ始め、思いがけず止まらなくなった。一番近くで母を見てきた身だ。その不遇はいくらでも語れる。

「どうしようにもない強がりで、でも実は寂しがり屋で——」

 それなら人と仲良くすればいいのに、高飛車故に孤立して。不器用だから敵ばかり作って無駄に傷ついて。それでも頼れる人がいないから、一人で全部抱え込んでひたすら我慢して。周りは分かりやすいステータスばかりちやほやするものだから、その無理解に苦しんで。女傑と言われるその内情を知る者は皆無で、それどころか勝手な解釈で才色兼備の富豪のレッテルだけを僻みのように押しつけられて。無理矢理持ち上げられて後に引けなくなった挙句、思う様中傷される。それでも何も言わずに、それに甘んじている。そんな、潔ぎ良過ぎる母。

「なんで、誰も分かってやれないんだろう——」

 母の無念を一つ口にすると、次から次へとそれが溢れた。

 年端も行かぬ少年が分かるような事を、世の男達は誰一人として理解出来ない。本当に頼りにならないバカばかりだった。このまま人生終わったらと思うと、息子ながらに気の毒で。でも自分は、その母を早々と捨ててしまった。罪深い、恩知らずの息子。

「ははっ、何言ってんだろうね」

 終いには声がよれて、気がつくと啜り泣いている。

 それからしばらくは、無言のまま駆け抜けた。車内が落ち着くと、不思議と速度感がない。メーターを見ると、やはり病院までの時のそれと大差なく上がりっ放しなのだが、何もかも預けたからなのか。安心感すら覚え始めた。つまりそれは、あの小難しい母を預ける事が出来る男の出現に本能的に喜んでいる、と言う裏返しでもある。

「去年の梅雨時に、我が家へ押しかけて来られるようになって——」

 具衛は突然、脈絡もなく口を開いた。

「最初はね、それは驚いたもんです」

 それこそ、世の大多数のどうしようにもないバカ野郎共と同じレベルで、などと回顧し始める。ハンドル捌きは相変わらずの如才なさだが、母を思いながら語るその横顔が、いつものように柔らかく、何処か恥ずかしそうで微笑ましかった。

「慣れて来ると、縁側に座ってないと、何だかぽっかり穴が空いたようで——」

 ストレスに感じなくなると、いないと逆に寂しくて。最初から只者じゃない事は分かっていたが、途中から社会的な人格など気にならなくなった。そこに座ってくれれば、何処かホッとした。とか。

「でも、そうなって来ると、後はもう——」

 座ってくれると、声が欲しくなり。視覚、聴覚と来たら次は触覚が。すると、五感の全てが欲しくなった。らしい。

「残りは嗅覚と味覚だけど」

 妙に内容が怪しい色艶を帯び始め、真純が思わず突っ込むが、

「そうですね」

「何か生々しいな」

「人間なんて、何処まで行っても俗なもんですよ」

 それを簡単に認める清々しさが潔く、堂々としていて心地良い。

「いい年こいて、あの人の事となるとじっとしていられなくなる」

 あ、年の事を言ったらお母様に怒られますね、と微妙なフォローが何処か抜けているが、

「私にとって真琴さんは、そんな人なんです」

 こんな状況で話している場合ではないのに、真摯に丁寧に語ろうとするそのスタンスに心を揺さ振られた。

「分かった。もういいよ」

 その妙な律儀さに、聞いた真純の方が、答えを求めた性急さを思い知らされる。

「これ以上聞いたら、母さんに怒られるよ」

 大切な人の事とは言え、何でも知ろうとする悪い癖がつい出てしまった。真純は密かにまた、自己の小物振りに打ちひしがれる。

「後はさ、母さんに言ってあげてよ」

「——はい」


 同日、午後八時過ぎ。

 当初、ナビが示した最短到着予定時刻の五分の一程度で、行き着く所まで突っ込んだアルベールは、

「この先は積雪で走れまセン」

 アルの声で、流石に停車を余儀なくされた。奥多摩に向かう峠道を、突っ込めるだけ突っ込んで身動き取れなくなったフロントには、雪塊が押し寄せている。逆にリアは、タイヤが暴れて雪を蹴散らかした跡が尾を引いており、それが凄まじくも蛇行していた。馬力に物を言わせて相当無理をしたようで、車内まで何かを焦がしたような臭いが届く。どうやらゴムチェーンか、或いはタイヤ自体を少し溶かしたらしかった。

「ここまでのようだね」

「ここが前線基地です」

 いくら具衛の思い切ったドラテクで走破して来たとは言え、スポーツクーペが上がって来た道だ。後追いでやってくる四駆の救急車でも

「登って来るでしょう」

 余程の下手を打たなければ、時間こそかかるだろうが、合流出来る公算は高かった。

 言いながら、具衛が早くも吹雪く車外に出て、後部トランクから装備品を装着し始める。降車前に具衛がアルから聞き出した地理データによると、現在地は目標座標のちょうど一〇km手前で標高差は約五〇〇m。平均積雪は一m前後だった。

 この猛吹雪で——

 真純が後追いで降車し、一緒にトランクの前で車内籠城用の装備品を装着しながらも、

「ホントに踏破出来るの!?」

 ストレートに不安を口にする。凄まじい風と雪で辺りは真っ白だ。あっと言う間に雪達磨になりそうな中、装備品をつける事さえままらならない。それを、てきぱきと準備し終えた具衛が手伝ってくれた。

「ごめん! 忘れて!」

 只でも足手纏いだと言うのに、耳まで煩わせてどうするのか。真純は慌てて叫び、前言を取り消した。ここまで来たら出来るも出来ないもない。行くしかないではないか。具衛は答える事なく、給油所に併設されたコンビニで買った固形食品を口に放り込みながら、早くも慌ただしく歩き始める。

「頼んだよ!」

 山中を吹き荒ぶ吹雪で掻き消されないよう、真純がその背中に向かって声を張り上げた。

「また宿から電話します!」

 返事をしながら具衛が一度振り返ると、何か小さい棒のような物を掴まされる。見ると、一本の

 ——ボールペン?

 のようだった。何故こんな時に、と一瞬思った真純は、すぐにそれを改める。一見するとボールペンに見えるそれは、よく見るとボイスレコーダーだった。今日の不当な扱いの証拠を若き法曹の卵に託した、と言う事らしい。万が一を考えての事なのだろう。

 真純が驚いていると、軽く笑んだ具衛がグローブ越しに肩を叩いた。

「預かるだけだよ!」

 真純は即座に反駁する。本人が状況を証言しない限り、その証拠価値は低いのだ。

「これだけじゃ、何にもならないから!」

 身体が触れ合っていても、声が聞き取りにくい程の吹雪である。真純は懸命に声を張った。

「必ず帰って来て、ちゃんと説明してよ!」

 既に背を向けて歩き始めた具衛に、確実に声を届けるために、感情剥き出しで言葉をぶつける。

「待ってるから!」

 それに反応した具衛が親指を立てた右拳を軽く突き上げると、目にゴーグルをかけ本格的に真っ白闇へ歩き始めた。自分などは、声を張り上げるだけで精一杯で、吹き飛ばされないようにするのがやっとだと言うのに、具衛は大きなリュックを背中に確かな足取りで、深い雪の中へ迷う事なく突き進んで行く。背丈こそ、拙い自分より多少高い具衛だが、体格では似たり寄ったりの華奢な形だと言うのに、その力強さはどうした事か。単純なバイタリティーの高さをまざまざと見せつけられたかのようで、年齢相応に頼れるその存在が偶然にもこの場にいた事に、真純は素直に感謝した。

 僕なんて——

 小賢しいばかりで、今この瞬間何の役にも立っていない。

 人間なんて——

 賢かろうが愚かだろうが、最後の最後は裸一貫、土壇場の逞しさが物を言うのだ。それを身をもって教えてくれたその姿が、あっと言う間に小さくなってしまった。まさに、白い闇に飲み込まれて行くかのようだ。

 二、三分もしないうちに、その場で目を凝らして後を追っていた真純のその目から、その姿が完全に消え失せてしまうと、後は只、圧倒的な吹雪だけが辺りを取り巻いた。


 積雪レベルは、一kmを歩かないうちに一mに達した。具衛の足のつけ根を超えるレベルである。水分を多く含んだ新雪は、輪かんじきを履いていても、一歩一歩が殆ど路面まで踏み抜くような柔らかさだった。積もって間がない新雪は容赦なく足に纏わりつき、否応なしにラッセルを強いられる。

 本来なら、手練れの何人かパーティーで入山したいレベルだった。先頭がラッセルしながら雪を踏み固め、交代で入れ替わりながらアタックする。時間はかかるが体力が温存出来、ある程度行程の時間計算が出来る上に確実なのだ。装備品も分配して持ち運べ、有事の際はお互いが「命綱」になる。のだが、

 ——時間がない!

 事態は切迫しており、やむなく一人でアタックする事にした。素人である真純を連れて行く訳にも行かず、まだ単独行の方が確実だ。言い方は悪いが、足手纏いになる事は明らかだった。素人なら、吹雪だけで身動き取れなくなるような状況なのだ。

 消防隊員か警察の機動隊員に頼むと言う選択肢もあったが、やはり即座に切り捨てた。都内の隊員が、足手纏いにならず雪道を歩けるとは思えなかったのだ。更に言えば、山岳部を管轄する隊員でも、

 ——まず、出動しない。

 山岳特殊部隊在隊歴を有する具衛でさえ、状況が許されるのであれば単独行は絶対にしないレベルである事に加えて夜である。真純から事態を聞きつけた時、具衛は現状に至るプランしか選択肢がない事を早々に悟っていた。

 深い新雪では四駆車はおろか、スノーモービルも太刀打ち出来ない。もっとも奥多摩は、いくら雪が降りやすい地域とは言え仮にも都内である。スノーモービルなどすぐに用意出来る訳もなく、車で行ける所まで行くと言う点で、真琴のアルベールが使えたのは幸いだった。雪深いと言っても、それは山間部の事だ。平野部は精々新宿の三〇cmレベルであり、それも人車が踏み入れない観測点での話であって、路面レベルはそこまでではなかった。しかも降り始めの新雪だ。豪雪地域に至るまでの経路なら、四駆も、高規格スポーツクーぺも、足回りの難は

 ——そう大差はない筈だ。

 そう判断した。

 積雪は二〇cmを超えて来れば、一般車の四駆でも走行が儘ならなくなる。豪雪地域に入いれば入ったで、人の腰高レベルの積雪では、然しもの四駆も物理的に進めない。

 それなら——

 現代最高水準のAWDを有する真琴の特注アルベールなら、

 ——いい線いく筈だ。

 と言う具衛の目論見は、果たしてそうなった。新雪であるため轍は完全に固まっておらず、山間部に入るまでは路面に積もった雪もまだ柔らかったため、蹴散らしながら走る事が出来た。これが古い雪であれば、いくら足回りが強いアルベールでも、物理的な車高の低さ故走れない。タイヤハウスに残雪がこびりつき始める前に

 行ける所まで行く——

 と言う具衛の作戦は当たった。

 自衛隊や米軍所有の特殊車両を使う事も頭をよぎった。高坂宗家経由ならば、少々無理をすれば自衛隊や米軍の特殊車両を借りる事も出来ただろう。が、ある程度の大きさがある特殊車両では、アルベールのような小回りの利いた無茶は出来ない。

 自衛隊の駐屯地は、おあつらえむきに陸自のそれが二三区内にあったもので、消防が頼れない現状、高坂宗家の辣腕がなくとも頼れば応じてくれそうではあった。が、そこから大型車両で奥多摩まで向かおうものなら、渋滞を掻い潜れない分もろにその影響を受け、それこそアルがナビで示した到達予想時刻を短縮するどころか、それ以上かかる事は疑いがなかった。となると、奥多摩到着はどんなに早くても翌朝から翌昼である。

 そんなに待てるか!

 医師の口振りでは、理由がはっきりしないものの真琴は相当弱っており、それが原因で病状を切迫なものにしているようだった。その状況下で、翌日の到着は有り得ない。トータルの到着タイムを考えると、アルベールで突っ込めるだけ突っ込んで、残りは踏破した方が

 断然早い——

 のであれば、自衛隊は選択肢から落とすしかなかった。

 もう一つの米軍にしても、走行経路の延長上で最寄りと言えば、真純拉致事件で世話になったばかりの横田基地があったが、自衛隊も居を構えているそこは空軍拠点だ。一mの積雪を諸共しない特殊車両があるとは思えない。例えあるにしても、今回の状況は真純の事件のような、米国にも多大な影響を及ぼしかねないような込み入った状況ではなく、単なる真琴と言う一日本人の病状悪化、と言うだけの話である。それをやるなら、まずは日本の公が人事を尽くすべきであり、今回ばかりは流石にいきなり米軍を頼るのは筋違いだった。となれば、頼ったところで要請に手間がかかるばかりで、時間の浪費だけだろう。

 別の手段として一瞬ヘリも考えたが、この吹雪では計器飛行を強いられるレベルである。この状況下で飛んでくれるパイロットが、日本ですぐに手配出来るとは到底思えなかった。日本の救助ヘリの運用シチュエーションは、欧米と比べると明らかに狭いのだ。具衛自身はその資格を有するし、飛ぼうと思えば飛べるのだが、具衛の持っている資格はEASA(欧州航空安全機関)のものであり欧州限定だ。日本ではその資格の切り替えをしておらず、いくら緊急時とは言え、飛行中の緊急時なら話は別だが、離陸前なのではとても無資格飛行がまかり通る訳もなかった。

 仮にヘリが手配出来て飛べるにしても、この雪では着陸ポイントなどある訳もなく、この吹雪の中をホバリング中にリペリングして患者をウインチで釣り上げる事になる。それにつき合ってくれる者が簡単に掴まるとは思えず、考えれば考えるだけ、ヘリは絶望的になった。それこそこの状況下では、スイスが誇るNPOの航空救助隊

 レガでもなきゃあ無理だな。

 の活動レベルが求められ、日本の現状でそれを求めるのは、有り得なかった。

 よって単独行を開始した具衛の今の状況こそが、

 ——最善だ!

 であり、ペースを乱して自滅しないよう、逸る気を落ち着かせては一歩一歩、選択が誤っていない事を自分に言い聞かせながら歩を進めている。すると必然的に、過去の似た状況を思い出した。

 あれから——

 もう一六年。今の状況がデジャヴではない事は、フェレール大統領遭難事件の決死隊従事経歴が問答無用で認知させる。どれを取っても状況としては、圧倒的に一六年前の方が厳しい。のだが、

 深い新雪と年齢——。

 この二つだけは、今の方が致命的に厳しかった。一六年前の事件では、雪は新雪ではなかった。降雪の上の降雪で、ある程度固かったため今回程のラッセルを要しなかった。が、何分本格的な山中の事であり、容赦ないブリザードに加えて大規模な雪崩が相次いで発生した上、最年少にして新参だった具衛の意見が受け入れられず、パーティーと決別し単独行を強いられるなど、これはこれで困難を極めたのだったが。

 年齢は言うまでもない。一六年前は体力が有り余っていた。今はもう四〇前のオジンである。体力錬成などしておらず、精々日頃の農作業程度だ。体力がそんな調子なら技術も過去に磨いた切りであり、随分と胡散臭くなっている。身体に染みついたものや身体で覚えた知識は、未だに脳内では経験に裏づけられたスキルとして君臨しているが、それでも身体は正直で、想像と実像は開く一方で危なっかしい。錆びつきの感覚は否めなかった。

 昔を思い出しながら、怪しい身体で、騙し騙し、一歩一歩、歩を進める。そんな状況である。

 ——焦るな。

 片道一〇km、五〇‰の行程だ。単なる登山なら何でもないが、これに新雪一mの条件がつき、更にホワイトアウトのおまけつき。それはその状況下で「箱根駅伝の山登り」をするようなものなのだ。下手にもがいて体力を削るようなら、都内の山間といえども行き倒れた段階で絶対絶命に陥る。

 焦ってはいけない——。

 今この状況下では、自分の判断ミスが真琴の命に直結するのだ。

 ——俺は最善を尽くしている。

 具衛は懸命に、逸る気持ちを抑えながら、黙々と一定のリズムで前へ進み続けた。

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