第10話 鷙鳥厲疾(前)

 年が明けた。

 具衛は相変わらず、山小屋と施設と図書館の三か所を巡るだけの生活をしていた。

 相変わらずの非番日の朝。勤務終了までの待機時間は、宿直室内のテレビで朝の情報番組を見るのがいつものお決まりのルーティンだ。が、

 それにしても——

 もうすぐ鏡開きだと言うのに、情報番組も何処となく正月気分が抜けておらず、娯楽要素が強くて何処か締まらない。

 何が——

 そんなにおめでたいのか。

 一番真面目そうな情報番組を見てこの有様なのだ。具衛は地上波を諦め、リモコンを手にすると、普段は見る事がない衛星放送に切り替えた。それでもやはりニュースを選択すると、国際ニュースが雪山で猛吹雪を映している。

「うわ」

 仏語でキャスターが遭難がどうたらこうたらと、寒々しい事この上ない。それはまさに、今の具衛の心境そのものだった。

 仮名とは、あの日が本当に最後の最後だった。小晦日の夜から大晦日の朝まで、臥所を共にした二人は、結局一睡もしなかった。

 成り行きとは言え、

 ホントに——

 良かったのだろうか。

 具衛は相変わらず、二日に一直の代わり映えしない勤務を繰り返しており、さして季節に心を動かす事もなく日々を送り続けている。気づいたら施設の子供達の冬休みが終わっている、と言う始末だった。その代わり映えしない日々の中で、あの夜の事を思わない日は、一日たりともない。

 暗闇の中で、聞いた事もない仮名の艶かしくも甘い声に、心臓が飛び出るのではないかと思う程鼓動が暴れた。しなやかなのに驚く程柔らかく、限りなく丸い肉感に圧倒され続けた。触れ合うところの全てが、どうしようにもなく熱を帯び、汗が止まらず怪しい湯気が立ち込め続けた。それと共にバニラとハーブの芳香が鼻をつき、脳の意識が全て持って行かれるような感覚を覚えた。いつぞやのように、気絶するどころではなかった。覚醒して異常な興奮状態の中で、時を忘れて夢中になって重なり続けた。

 気がつくと闇が白み始めた。そこで初めて視覚が押し寄せて来たのだが、妖艶な美しさよりも、鼻の頭にほんの少し載ったそばかすや、背中や肩にある痣、腕や足にある生傷など、それまで気づかなかった人並みの痕跡が目についた。不思議とそれが堪らなく愛おしく、包み込むように抱きしめては、明るくなってからも衣擦れの音は止まらなかった。具衛は無言で弄り続け、仮名は甘い声を吐きながら身を捩り続けた。

 完全に夜が明ける頃になって、精も根も尽きると、今度はお互い腕を相手の体に巻きつけて、窒息する程唇を吸い続けた。そうでもしないと呼吸が出来ないと錯覚する程に舌を絡め合うと、唇を腫らした仮名が、具衛のそんなに厚くない胸板に顔を預けて、小さく啜り泣きを始めた。そのまま具衛がその髪を何度も何度撫で続けると、ついには昼前になった。

「時間——大丈夫、ですか?」

「——ん」

 これが最後の会話だった。

 そそくさと脱ぎ散らかした下着をつけてそれぞれが服を着ると、目も唇も腫らした仮名が、最後にゆるりともう一度具衛の身体に巻きついた。声にならない声を具衛の胸に押しつけたかと思うと、ぶるぶる震えながら引っぺがし、何も言わずに車に乗り込みあっさり立ち去った。

 それが別れとなった。

 気がつくと、居間の座卓に一通の封筒が置かれており、その中身を確かめると一枚の見慣れない紙切れが入っていたのみ。

「はぁ——」

 以来、全く締まらない。何もかも。

 ぼんやり見ていた遭難のニュースは、よく見れば以前のものらしかった。その慰霊式典が執り行われたとか何とか。元仏大統領が喪服を着て弔辞をたれているその様子が、輪をかけて辛気臭いこの極まりない。

 そこで、宿直室のドアをノックする者があった。事務所の職員だ。いつもは時間ぴったりに帰るのに、今日に限って帰らないから呼びに来たらしい。

「あ——すみません」

 既に勤務が終了していたらしい。左手首につけている愛用の腕時計を確かめると、確かに既に八時半を五分も過ぎていた。

「つい、テレビに見入っちゃいまして」

 とは言え、内容は外国の慰霊式典である。それもリアルタイムではなく、何をそんなに見入るものなのかと、呼びに来た職員が不思議そうな顔をする前で、苦笑いしながらもテレビを切った。見入るも何も、その寒々しさで呆けていた身体が更に固まっていただけだ。

 とりあえずそんな調子で、軽く何かを取り繕ったつもりの具衛だったが、切ろうとしたテレビの断末魔が、一六年がどうたらこうたらと言ったところで、ふと何かに思い至った。軽く慌てて再び画面を見るが、もう消えている。再度テレビをつけようとしたが、呼びに来た職員が、じっと具衛を見て待ち構えているではないか。どうやら入れ替わりで、宿直室を使いたかったらしい。

「——はい、帰ります」

 結局そのまま、いつものリュックを背負ってとぼとぼと、追い出されるように施設を後にした。

「もう——」

 あれから、一六年。

 それに絡む分不相応の高規格時計を眺めながら歩いていると、習慣とは恐ろしいもので、いつの間にやら図書館に足が向いてしまっている。そのまま何も考えず、足の気の向くまま、色のはっきりしない薄曇りの寒空の下、寒々しい田畑を眺めつつ川土手をのらくらと歩く事約三〇分。役所出張所二階の図書館を訪ねると、利用者は誰もいなかった。これも、いつもの事だ。

 窓際のカウンター席で、何の気なしに地方紙を広げて目を通していると、

「はぁあ——?」

 気がつけば静寂を切り裂く程の音量で、盛大に溜息を吐いている自分がいる。本当にそれが自分の声なのか。不信の音色が乗った分、無様にも末尾が疑問形になった。

 ——い、

 いかんいかん。いくらなんでも呆け過ぎだ。少し気合いを入れ直した方が良い。

 所携のスマートフォンが、いつもの綿パンのサイドポケットで震えたのは、俄かに席を立ち上がり伸びをしようとしたそんな時だった。慌てて取り出し表示を確かめると、また大家である。合わせて時計表示を確かめると、

 ——な、何ぃ!?

 いつの間にやら既に昼を回っているではないか。

「昼飯も食わずに、えー若いモンが何をしとるか」

 行動が読まれている事を思わせる開口一番で、武智は具衛に反駁する暇を与えず言った。

「馳走してやるから、今からすぐにうちに来い」


 約二〇分後。

「今度は何なのかねー」

 日頃ポケットに手を突っ込んで歩く事などない具衛が、ダウンジャケットの両ポケットに両手を突っ込み、いつになくのらくらとした歩みで武智邸の正門を潜った。

 何でもない、段差とも言えない石畳の継ぎ目の段差で、

「おっとっと」

 と、足をつまずかせては前に大きくよろめき、そこでようやく両手を出す。手を自由にしておく事は危機管理の基本だ。普段からそれを心がけている具衛だったが、今はまるで気が抜けている。

 使用人に玄関から客間へ案内されると、思わぬ人物と再開した。

「ユミさん」

 盆踊り以来、姿を見なくなったユミさんこと仮名の家政士であった。三〇畳はある客間の石庭を臨む一画で、相変わらず慎ましく、座布団の上で背筋を伸ばして正座をしていたユミさんは、具衛の姿を確かめるなり座を外して下座の最敬礼をする。

「畏まってどうなさいましたか!?」

 慌てた具衛が、恐縮気に座に戻るよう伝えると、やや間を置いてようやく浅礼まで身体を起こし

「高坂宗家の家政士で、佐川由美子と申します。その節は大変ご無礼を致しまして——」

「いえ、こちらこそ——」

 堪らず具衛も最敬礼で返礼し、礼合戦を呈し始めた。

「まあいい加減、座へ上がって頂きたいですのう。お二方とも」

 武智が顔を出して、ようやく収まる。

「素晴らしいお庭ですね」

 庭に面した縁側は、季節柄もあって流石にガラス障子で仕切られており、直接庭を臨む事は出来ない。が、ガラス越しに見える石庭は切り取った絵のようであり、非日常を醸し出す結界のようだった。

「ご主人様と初めてお会いしましたのは昨秋でございましたが——」

 武智が床の間の前に座りながら

「同じように感嘆されておいででした。——国家の佞臣を放ったらかしにして」

 悪戯っぽく由美子を一瞥すると、どちらともなく失笑が漏れる。

「絶世独立とは、あのようなお方の事を言うのでしょうなぁ」

「折角でございますが、主人はまだまだ気骨稜々としたもので、お褒めに預かるにはとてもとても——」

「これははっきりおっしゃいますなぁ」

 ははは、ほほほと声が漏れる中で、

 元々ああいう人なんだな。

 具衛は、由美子の変わらない為人を、その対面から見ていた。

「いやぁ、流石は名公賢佐と申しましょうか」

 それを聞くなり、

「実は——」

 由美子の表情が瞬間で曇る。

「その名公が、迷える羊になっておりまして」

「御用向きは、そちらのお話でございましたか」

 武智が顔を撫でて表情を引き締めると、

「御用と申しますか、私用と申しますか——」

 由美子が歯切れ悪そうに言葉を繋げた。

「私用? と、申されますのは?」

「実は本日は、高坂から特に用を申しつけられた訳ではないのです」

「左様ですか」

 里が広島の由美子だ。少し遅い正月休みの帰省がてら、こちらへ足を運んだらしい。その表情が明らかに

 ——固いな。

 具衛は一人、大人しく推移を見守る事にした。武智と具衛の二人が持つ高坂家との共通接点は、その令嬢である高坂真琴ただ一人である。

 どうやらこれは——

 早速何かあったらしい。早る気持ちを抑え、緩やかに肩で呼吸をする具衛は、細く長い溜息を吐いた。

「実はその迷える主人の事で、不破様にご相談がありまして——」

 由美子は言うなり、浅く、しかしたっぷりと時間をかけて

「不躾を承知で突然まかりこした次第なのです」

 具衛に会釈をする。

「え? 私に、ですか?」

 身一つの具衛に出来る事など何もなく、それは完全な不意打ちだった。正直なところ、慌ただしく東京に戻った仮名の名代として、正式な離任挨拶に来たものと思っていただけに、具衛は思わず身構えて仰け反る。

「相談、と申しますか、追及と申しますか」

「追及?」

 これは俄かに旗色が悪そうだ、と直感した具衛は、殆どつい反射で

「と、言われましても覚えが——」

「ない、とはおっしゃいませんよね?」

 否定の色を滲ませた返答が裏目に出た。

 笑みを浮かべながらも表情の端々が固い由美子は、既にツンケンモードである。

「東京に戻られたお嬢様がどんな有様か、よもやご存じではありませんわよね?」

「え? ええ。存じません」

「不破さん」

 武智は普段、仕事以外でも具衛を苗字で呼んでいた。

「身に覚えがあるんなら、早いとこ頭を下げといた方が良いんじゃないかね?」

 言いながら武智は、にたにたしたり顔で状況を楽しんでいる。

「と、申しましても——」

 あんな事——

 口が裂けても言える筈もない。

 表面上はしっかり取り繕うも、内心では、

 まさか——、いや——

 などと、脳内でも憚られる危ういフレーズを自問自答しては気を鎮める。

「そうでございましょう。ご存じでしたら、とても平常心ではいられないでしょうし、もしそうなら、あなた様を疑わざるを得ませんわ」

「は、はあ。然いでございますか」

 具衛は頭を掻いて目を泳がせ始めた。

 今年は全国的に暖冬で、とっくに降っていてもおかしくない初雪すら、まだ降っていない。が、季節は冬本番を迎えており、室内は寒からずも決して暑くはない。暑くはないのであるが、冷や汗が背筋を流れる。

 一晩中だったけど、一晩だけだし——

 脳内で青臭い心配事を巡らす中、

「廃人、と申しましたら、如何なさいます?」

「は、廃人? ですか?」

 由美子の只ならぬ強いフレーズに、具衛は雁首を突き出して向き直った。

「そうです。何処かの罪作りなお方のせいで」

「つ、罪作り?」

 思い当たる事が直近にある具衛である。思わず湧き上がった生唾を、音を出して飲み込んだ。

「そうでしょうとも。罪作りですからな、こやつ目は」

 武智は武智で、然りげなく場を煽っては楽しんでいる。

「あれ程の御人をたらし込むような男ですからな」

「そうでございましょう。お嬢様も、詐欺師と申しておいででした」

「いや、それはちょっと意味が違うかと——」

 外見と中身のギャップがおかしい、と言う事であって、所謂結婚詐欺のような類いの意味合いではなかった筈なのだが、

「黙らっしゃい!」

 由美子は具衛の抗弁をぴしゃりと撥ねつけた。

「食事と入浴以外は、館の窓際で喪失状態。庭を眺めてはピクリとも動かない。食事は殆ど喉を通らず、睡眠はうなされてはうわ言を繰り返され、満足にお眠りになられない」

 立板に水の如く、しかして乱暴に投げつけられる由美子の言の内容は

「は、はあ」

 具衛が見て来た仮名の何処を見ても有り得なかった。が、別れ際の様子を思い起こすと

 有り得る——か、も。

 確かに、いつになく弱々しかった事を思い出す。

「どのようなうわ言か、あなたに想像出来ますか?」

「い、いえ。出来ません」

「そうでしょうとも。あなたはそう言う鈍い方です。人の、女の機微など一切分からない。分かろうとしない!」

「激しく同感ですな」

 ——い、いつの間にやら、

 二対一の構図になっているではないか。

 その時、

"ぐるるるるぅ"

 具衛の腹が激しく鳴った。

 もう昼下がりであるのに、そう言えば何も喰らっていない。元を辿れば、武智が昼飯を馳走してくれると言う餌があった筈である。武智の事だ。まさか騙し打ちはないだろうが、いつまで経ってもお膳は出て来ない。

「あちゃぁ、すみません」

 具衛が間抜けそうに頭を掻くと、

「あなたと言うお人は!」

 由美子が勢い良く反応した。

「人を馬鹿にするにも程があると言うものですよ!」

「うわ! ホントすみません!」

 激しく叱責され、具衛が堪らず、両手で顔を隠しながらも由美子に謝る横で、武智はけらけら笑っている。

「まあまあ。そう言えば、昼がまだでしたな」


「しかし高坂様は、ちと心配ですな」

 一〇分もしないうちに、野点弁当仕立ての膳が出て来た。武智邸には料亭上がりのお抱え料理人がいる。武智が作らせていたのだろう。

 美味そう——。

 日頃簡単な物を繰り返し喰らっている具衛は、文字通り目を皿にして膳の品々をキョロキョロした。武智邸で食事をするのは、昨春東京から戻った折、不破家債務の最大債権者たるご当家へ、その代表者として挨拶に寄って以来である。

「うわ言で、先生先生とおっしゃるもので」

「ぶっ」

 俄かに膳を愛でているところへ、由美子の艶かしい言で無理矢理現実に引き戻された具衛は、むせて喉元を押さえて悶絶し始めた。それを尻目に、

「あんな弱々しいお嬢様を見るのは初めてでして——」

 由美子は取り合う気など微塵も見せず、冷たく続ける。

「わ、悪いご冗談を、」

「冗談でここまで参る訳がないでしょう!」

 そのくせ不信を装う具衛の素振り察すると、またぴしゃりと言い放った。

「いや本当に申し訳ない事で。拙めが謝罪しても何も変わりませんが、これに成り代わって只申し訳なく——」

 それに合わせて、武智が殊勝にも会釈気味に頭を垂れると、

「しかし、ちと困った事になりましたなぁ」

「ええ」

 由美子も俯き加減に黙した。

 それに乗じて、

 また腹が鳴ったら怒られるし——

 具衛はこっそりまた箸を取り、黙々と美味を堪能する。

「あなたと言うお人は——」

 それを見咎めた由美子が、盛大な溜息を吐いた。

「いや、重ね重ね申し訳ない。これなるは、他の事ではそれなりの男なのですが、こと女事については情けない限りでして——」

「全く、困ったものですこと」

「はぁ。すみません」

 話が自分に向くと、流石に箸を止め、間抜けな返事をする具衛を見て、

「どうしてこうも冴えない殿方に、お嬢様はお気を許されたのか。理解に苦しみます」

 由美子はまた盛大な溜息を吐いた。

 それを見た武智が、然りげなく軽く失笑した後、話を本筋に戻す。

「高千穂先生との復縁は、進んでいるのでしょう?」

「はい。奥様も、お認めになられたも同じですので」

 仮名の母である高坂美也子もその気になっている、との事だった。由美子ははっきりとは言わなかったが、つまりは高千穂の土産が整えば、すぐにでも婚約または復縁と言う運びになる、と言う事なのだろう。

「高坂の家で、高千穂になびいている者など誰一人としておりません」

 由美子は強い口調で言い切った。呼び捨てが、何よりの意思表示だ。

「で、ございましょうなぁ」

 高千穂の選挙区後援会員の武智も、間髪入れずに同調した。やはりその辺りの機微は、こちらも察して余りある様子である。

「全ては、奥様のご意向次第、と言う訳ですか」

「——はい」

 武智の言い切りに、由美子は口惜しそうに返事をした。実質上の高坂宗家当主たる高坂美也子の意向に逆らえる者など、家中には存在しない。その意に反しようものなら何がどうなるか、家中の者は痛い程理解している。

「奥様は、平生は大変素晴らしいお方で、私が評するなど恐れ多いのですが、その——」

「信念は絶対に、曲げておいででない」

「はい——」

 由美子によって恐る恐る語られる高坂美也子の評は、著しい反感や裏切りには容赦ないと言う、具衛がネットで調べた触れ込み通りのようだった。

 ——大変そうだな。

 と思いを寄せながらも、具衛は未だ人ごとのように、またせっせと箸を動かす。

「何よりも、お嬢様がお気の毒で」

「そうでございましょうなぁ」

 まあ——

 それに関しては激しく同意だった。

 仮名が気の毒だと思ったのは、一度や二度ではない。だからこそ具衛は仮名を慮り、歪なつき合いを続けて来たのだ。政財界の令嬢など、公人以上に息苦しいものだ。有無を言わさず先祖伝来の家柄を背負わされると言う事は、自分以外の殻を無理矢理被らされるも同じである。地位と財は約束されているが、それだけだ。貧困層と違うのは地位と財がある、と言うその二点だけである。この二点は、確かに命を繋ぐ意味で決定的であり、貧困層からすればそれ以上を望む事は、最早贅沢以外の何物でもない。

 しかし富裕層、それも高坂家のような旧家には、決定的に人間の尊厳を保つための自由がない。その制約振りは情報が拡散している昨今では、所謂有名人の世界のそれであり、文字通り一挙手一投足が注目されている。それも基本的に、嫉妬による邪な目に死ぬまで晒され続けるのだ。

 結局のところ、命を取るか、自由を取るか、

 なんだよなぁ——

 富裕層と貧困層の間に存在するのは、この究極の二択と言っても良い。極端な言い方をすれば、牢屋の中で生き長らえるか、塀の外で命に晒されながらも生きるか、と言っているようなものである。こう言ってしまえば、多くは後者を選ぶだろう。自由の制約とはそれ程に大きな代償なのだ。具衛も迷う事なく後者を選び、小銭を稼ぐのみで多くを求めずとも、自由を満喫している一人である。

 仮名の半生は、見聞きする限りでは文字通り、その自由を獲得するための戦いだった。手助けしてやりたいのは山々だが、戦力として見なされなかったのは大きい。最後の最後もけしかけてはみたが、

 助けを求めては——

 来なかった。

 仮名の性格では、他人から施されるなど我慢ならないだろう。与えられる自由など自由ではない。自由とは、

 ——自ら獲得する物。

 それを具衛は、家族と死別し高校中退後、まともな仕事をしたところで知恵も力もない貧民が膨大な借金など

 返せるか!

 として単身渡仏し、やけクソ気味に飛び込んだ仏陸軍が誇る多国籍部隊の代名詞「外人部隊」で、嫌と言う程体感させられ骨の髄まで叩き込まれた事だった。

 最下層の民衆が決起し、人権を勝ち取った歴史を持つこの国は、国是に世界的にも有名な「自由・平等・博愛」をトリコロールの国旗に関連づけて掲げる民主主義に敏感なお国柄である。その一方で、個人主義にして合理性を尊び、感情や情緒より論理を重視する傾向が強い。仏国には、日本に蔓延る都合の良い「忖度」の解釈などは、文字通り存在しなかったのである。

 因みに「忖度」と言う言葉は日本独特のもののようであり、他言語に訳す際「先回りした服従」と訳される事がある。それは、ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺を説明した言葉だ。何とも言えない後ろ暗さを感じざるを得ない。行き過ぎた配慮が、そう呼べないものに変貌した時、何かを狂わせる大事に至らしめる事を、具衛は身をもって学んでいたものだった。具衛の何処か達観した雰囲気の根幹には、多くの同年代の若輩者が漫然と日本の平和に現を抜かしていたその青壮年期に、厳しい環境下で身を削って培った末に到達した、確固たる自立の精神が存在していたのである。

 人は人、己は己——。

 はっきりした意思表示がないのであれば、それは個人の尊厳に関わるとして、具衛は手を差し伸べない。一見して優しそうな外観の裏で、対人関係に甘えを許さないそのスタンスは、関わる人間に「冷たい」とか「ドライ」と蔑まされ続けたものだが、その理由はこう言う経緯にあった。確固たる自立した人間でない限り、このような男と対等につき合う事など出来よう筈がない。よって未だに知己と言う者すらおらず、またあえて作ろうともしない。具衛はそう言う男だった。

 戦力として認識されないのであれば、余計な事はしない。もし勝手にしてしまえば、何らかの思惑に反するかも知れないし、裏目に出ないとも限らない。全く慮る事がない訳ではないが、それは相手が決定的に弱者であるとか、重大事に触れない部分までである。知り合った当初の仮名が、いつまでも名乗らず山小屋を訪ね続けた時の経緯が、その典型的な例であった。ある程度までは慮るが、事が具衛の防御権を揺るがすと判断するや、素性の開示を迫ったそれは、まさに手放しではない、と言うスタンスの表れだった。

 だから、

 俺の出番は——

 もう終わったのだ。

 人ごと然としたスタンスの理由は、こうした考え方に基づいていた。

 感情に流されても、

 ——ろくなことはない。

 具衛は、仮名の事を思い出さない日はなかったが、同時に、

 冷静に——論理的に——

 それを自分に言い聞かせ、自己を貫こうとしていたのだった。

「本当、人ごとですねぇ。あなたは」

 武智と由美子の間で話が進んでいたようだが、具衛は箸を動かしてはぼんやりとしていて、まるで内容を掴んでいない。が、由美子は、具衛が自問自答しているその先を論うように、また舌鋒を向けて来た。

 やはり、

 意味不明——かな。

 日本に帰国以来、一見して冷たいスタンスを貫く具衛が、問題意識の必要に迫られない事を良い事に、平和ボケした大多数の日本人から、事ある毎に投げつけられ続けた言葉である。思考を停止し、かつ一方的に責める、と言う極めて都合の良いその言葉こそ、現代日本に蔓延する排他性と攻撃性の象徴だ。そして、寛容で柔軟な民族性の裏面だ。上っ面では多様性を標榜しておきながら視野狭窄にして頑迷な、島国ならではのカビ臭い保守思想に直面する度、具衛は強い諦念を覚えたものだった。

 こう言う時は何も言わないか、

「はあ」

 と、惚ける事にしている。

「一つお尋ねしますが、よろしいですか?」

 由美子が呆れた様子で丁寧に尋ねたため、具衛はまた一旦箸を止めた。

「はい、どうぞ」

 膳の箸置きにそれを置き、姿勢を正す。

「お名前は『ともえ』とおっしゃるのではないですか?」

 聞くなり具衛は、思わず小さく痙攣し、次の瞬間武智に目配せした。

「わしはお伝えしとらんぞ。お前さんの名前は」

「やっぱり」

 武智の反応に答えを察した由美子が喉を絞る。

「くっ」

 何か言い出そうとして声を詰まらせた。手で謝罪を示して、そそくさとハンドバッグからハンカチを取り出すと、目元に当て始める。

「——悔しいです」

 目を潤ませ、声を震わせると

「こんな人でなしに、お嬢様のお気持ちが弄ばされていたと思うと」

 あっと言う間にぐずぐずになってしまった。

 ああ——

 泣き落としだ。

 僅かに口を歪めた具衛だったが、

「あのお方のこれまでの人生は、本当に理解者に恵まれず、常に一人でございました」

 物語調になるや、また表情を引き締めきちんと聞く姿勢を保つ。自己を貫く代わりに、人の主義主張にも耳を傾けるとしたスタンスは、感情に流されやすい日本では論破される原因になる事が多かったが、彼はそれに甘んじ続けた。

 どっちみち——

 口を開いたところで理解して貰えない。つまりは諦めである。

「良き理解者が必要だとお伝えした事があったのを、覚えておいでですか?」

「はい」

 それは盆踊り大会の際、誤って仮名にビールを飲ませてしまった時の事だ。帰りの車の運転に支障が出てしまい、結果的に居所を知るきっかけとなった。思えばあの時、マンションを知ってしまった事で、何かが動き出したような気がする。

 それにしても、

 よく覚えてるな——。

 具衛のこれまでの例では、女は過去の失態を良く記憶しては、ここぞの場面でそれを切り札に論破して来たものだった。

 何度この手で——

 やられた事か。

 恐らく今回もそれである。具衛の顔から表情が消えて行った。

「あれは、本当の事なのです」

「そうでしょう」

「なぜ、そう言えるのです?」

「以前、これまでの半生を話された事がありまして。人に話した事などなかった、と」

「それで?」

「歪んだ目に晒され続けて辛かった、と言うような事をおっしゃっておられました」

「そこまで聞いておきながら、あなたは一体何を——」

「はあ」

 具衛はまた、間抜けに頭を掻いて見せる。

「もう一々説明するのがバカバカしいので省きましょう」

 対して由美子は、心底呆れたように力を抜いて見せた。

「あなたは、お嬢様を本名で呼んで差し上げた事がおありですか?」

「いえ、ありません」

「何故ですか?」

「素性を伏せた交流でしたので」

「素性が分かった後も、お二人で決められた通り名で呼び合っておられたのでしょう?」

「ええ」

「何故ですか?」

「自らの素性に、苦しんでおられたようなので」

「まあ、そうでしょうね」

「お互いに素性を明かせる時が来れば良いと、以前拙めにおっしゃっておいででした」

 言い募る由美子に、武智が絶妙なタイミングで口を挟んだ。

「素性を伏せると言う事は、その為人を直接見つめる事です」

「そう——それでお嬢様は、あなたに移り気を」

「当初は、然程深くお考えではなかったご様子でございましたが」

「私にも、確かにそのように見えていたのですが、それがいつしか——」

「さらけ出したくなってしまわれた、と?」

 具衛が由美子に詰問されていた筈が、いつの間にか、武智と由美子がトントン拍子で話を進めてしまっている。

「なんか、本人がおられない所で、そのような暴露話はちょっと」

 二人にしてみれば他人の話でも、具衛にとっては自分の話である。しかも、それがその片割れの心情を語るものとあっては、良くも悪くも心臓に悪いし、小っ恥ずかしい事この上なかった。

「黙らっしゃい! あなたには、聞く義務があります」

 が、やはり由美子にぴしゃりと刺されてしまう。そうなると、もうぐうの音も出なくなってしまった。

「結局、この鈍いお方に、最後まで自分の存在を正面から受け止めて貰えなかった事が心残りだったようです」

「あそこまでのお方の素顔を見た者など、この世には数える程しかいないでしょうからなぁ」

「そうです。それをこの鈍いお方は、女心がまるで分かっておられず、最後の最後まで我を通して——」

「それは、元々仮名さんがそれを求めておられたからで——」

「だからあなたは鈍いと言うのです。人の心が、始まりから終わりまで、ずっと同じである訳がないでしょう!?」

 具衛は言われて初めて、目が覚めたような顔をしたものだ。

 ——確かにそれは、

 そうである。

 人の心など動いて当たり前のものではないか。事実、これまで具衛に擦り寄って来た柔な女達は、そんなだったではないか。女心と何とやらで、勝手に擦り寄って来ては、さっさと逃げられ続けたものだったではないか。

「良くも悪くも感情ある生き物ですよ? それも高度な知能を持つ人間と言う」

 全く、おっしゃる通りである。

 つい、余りにも、仮名が出来過ぎた女であったため、そのブレない強さのまま安定していると、今の今まで勝手に思い込んでいたのだ。人を避け、群れる事を拒み、こと対人関係の深いところを掘り下げる事を嫌って来た具衛にとって、それは致命的な弱点だった。

「こう言う理屈っぽい説明をするまで分からないなんて。男ってどうしてこうなのかしら」

 まるで仮名のような由美子の鋭い舌鋒が、容赦なく具衛を抉る。そう言えば、その素性が明らかになってからと言うもの、何となく仮名は本名を使うよう振舞っていたように、今更ながらに思えて来るではないか。

「うわ言で『ともえさん』とも」

「え?」

「涙ながらにうわ言で、男の名前を呼ぶ女の気持ちが、あなたに分かりますか!」

 そして具衛は絶句した。

「それは何とも。——男冥利に尽きますな」

 武智が真顔で感心を示す。

「初めて聞いた時、お嬢様のお知り合いの女性かと思いました」

 漢字では小難しげな表記だが、読んでみると女にありがちな音であるそれは、具衛にしてみれば、子供の頃に中傷ネタになった忌々しい記憶でしかなかった。

「しかし余りにも、その口振りが切なそうで、しかも何度も繰り返されるものですから」

 それが、稀有の美女の口から切なげに漏らされる日が来ようとは。

「あの自信満々の高飛車なお嬢様の口から、あのような艶かしい弱った声を聞いた事は、未だかつてございませんで——」

 それを聞いた瞬間、ない知恵で変に拘っていた事を思い知らされた。単に自分の曇った目が、その救いを見極められなかっただけではないか。

「もしかしたら山小屋の御仁の事ではないかと思い至ると、いても立ってもいられず——」

 そうと分かると、こちらもいても立ってもいられなくなる。

「本名で呼ばれたい、と言う思いが、漏れたのでしょうな」

 高千穂を勝手にライバル視して、知らず知らずのうちに僻んでいただけではないか。

「聞いたか」

 例え高千穂と比べて争ってみたところで、高千穂はその立場を利用されただけではないか。

「はい」

 片や自分はどうなのだ。今度は惚けずに、正面から受け止める。

「これ以上の呼びかけはない、と思うぞワシは」

 文字通り既に、身も心も預けられているではないか。

「はい」

 一体今まで何を、

 やっていたんだか——。

 それこそいつも、人は人、己は己。そうしてやって来た筈ではないか。それを小難しく考えて、ぐずぐずしていた自分自身に腹が立つ。

 何と言われようと、

 ——俺は俺だ。

 知った事か。愛しい者を救いたい。それだけだ。それ以外に理由などいるのか。

「これで中座させて頂きます」

 具衛は座を外し、最敬礼した後退席した。

「世話の焼ける——」

「全部召し上がってらっしゃるのに『中座』ですか?」

 武智と由美子が相好を崩す声の中、具衛は

 ——今はいい。

 甘んじて何とでも言われておく。だが、

 こうなったら——

 次に会う時には、

 ——刮目させてやろうとも。

 中座に只ならぬ含みをたぎらせつつ、ダウンジャケットを羽織った。その左袖口から愛用の腕時計が顔を覗かせると、それを見る目が珍しくも、強く鋭い雰囲気を帯びる。この時計の「時」も、そうだった事を思い出したのだ。

 結局は——

 いつもこうだ。

 ——俺にしか、

 出来ない事がある。

 そうだからこそ、いつもいつも、時を隔て場所を変えては、入れ替わり立ち替わり、何物かにけしかけられる。そんな、

 ——人生。

 密かな往生の中、具衛は自らの間の悪さに微かな自嘲を浮かべつつも、武智邸を後にした。


 一月半ばを過ぎた。

 具衛は表立っては、何の変哲もない二日に一直を繰り返していたが、その日の非番は明けてすぐ、直近の時間のバスに乗って駅へ出た。そこから更に在来線に乗って広島駅へ向かい、新幹線に乗り換える。

 その昼下がり。

「うわ」

 まさか一年も経たず、この人混みに戻って来るとは

 ——思わなかったなぁ。

 と辟易しながら降りたのは、終点東京駅である。そこから更に乗り換え、中央線で西へ数十分。お八つ時に辿り着いた先は、都内の某高校だった。ちょうど授業が終わったのか、校門に立ち尽くす具衛の前を制服姿の学生がぞろぞろ下校している。

 ここ、だよな?

 今一腑に落ちず、一人首を捻っているその傍で、一言で総称して今時の高校生達が何人かたむろしていた。

 それなりの学校だった、

 ——筈だよなぁ?

 昨春まで東京暮らしの身であり、多少の予備知識は持っている具衛ではある。その今時めいた具合にたじろいでいると、

「何か御用ですか?」

 その中の一人が具衛に声をかけて来た。何と金髪にピアスの女子だが、見た目に反して、物言いはしっかりしている。

「え?」

 まさか、声をかけられるとは思わなかった具衛が驚きつつも

「シーマさんとお約束があって来たのですが」

 と答えた。すると、

「でしたらこちらでお待ちください。ちょうど呼んでますから」

 やはり他の金髪ピアス君が、確かな物言いで答えたものだ。

「そう、ですか」

 会話が終わると、下校するものと勝手に思い込んで生徒達が、校門前でまたぎゃあぎゃあ言い合いを始めるではないか。十数人の集まりのそれは、それなりに周りを取り囲むご近所に対する騒音上の脅威に成り得る状態、と見てとれたものだが。

 ——よく、分からん。

 何処かしら、チグハグな生徒達である。

 そんな不信を帯びつつも、待つ事数分。

 校内から、やはり十数人の如何にもやんちゃそうな生徒達が現れた。

 ——やれやれ。

 何処にでもいそうな半端者を育てている事だ、と勝手に呆れていると、よく見るとその中に、自分と似たり寄ったりの年齢体格の男がいるではないか。途端に顔を綻ばせた具衛は思わず、

「シャーさん!」

 その男に向かって叫んだ。

「タクさん!」

 すると具衛に気づいたその男が、生徒達を置き去りにして小走りに駆け寄って来る。

「お久し振りです!」

 満面の笑顔で具衛に肉薄して来た男は、傍に来るなり具衛の手を両手で取り、ぶんぶん振り回した。

「元気そうだね!」

 それを受けた具衛も両手で掴み返し、ぶんぶん振り回す。

「先生、戦友か何かですか?」

 傍にいた生徒が茶化すように言うと、

「そうとも! 掛け替えのない無二の戦友だとも!」

 男は堂々と言ったものだった。

 その男に、

「ちょっと待っててください」

 と言われた具衛は、校門から少し離れた所で待つ。男はどうやら、校門で生徒達が集合写真を撮影するための撮影要員のようだった。が、いざ撮り始めると、

「ちょ、しっかり撮ってくれよ!」

「おいおい俺の目が半開きじゃんか!」

「ったくよー、写真撮った事あんのかよ」

 などと、随分と砕けた調子でいいように使われている。その様は殆ど

 パシられてる?

 のそれではないか。

 流石に具衛が口を歪めていると、

「きさまらぁ——! 校門でたむろすンなっつっただろぉがぁ——!」

 校内からもう一人、私服の若い女が猛烈な勢いで駆け出て来ては、頭ごなしに生徒達を怒鳴り散らし始めた。

「うわ! ヤベぇ!」

「出た!?」

「解散! 解散!」

 すると男だけの時とは打って変わって、やんちゃそうな連中が、文字通り蜘蛛の子を散らすように校門前から退散して行く。女はそれを何処までも追いかけて行き、ついには見えなくなってしまった。

「あらまぁ——」

 生徒達よりは明らかに成熟した大人の若い女であり、先生なのだろう。が、それにしては一見して見た目が派手と言うか、とにかく目を引いたのは髪が染めたように赤かった。生徒が生徒なら、

 ——先生も、か?

 関心する余り、つい具衛がのんきな驚きを漏らしていると、

「うわぁ」

 などと吐きながら、パシられていた男も顔を顰めつつ具衛の方に戻って来た。

「三年生は、今日が卒業前の最終登校日だったんですよ」

「な、何なの今の女先生は?」

 毒を持って毒を制す的な、と素直な感想を述べていると、

「ま、まあ中に入りましょうか」

 鬼のいない間に、などと男もつけ加えたものだ。

「鬼?」

「我が校は自由な校風ですからね!」

 何処かやっつけ気味に答えた男に肩を押された具衛は、何もかも腑に落ちないまま校門をくぐらされた。


「日本の諜報部も、流石にここまでは忍び込めんでしょう」

 シャーさんがわざとらしく得意気に足を運んだ場所は、校庭と校舎の境目にある石のベンチだった。校庭では、運動各部の生徒達が部活動を開始しており賑やかである。

 片や校舎側では、文化部の生徒達がやはり部活動に勤しんでいるようで、何処からともなく吹奏楽系の楽器の音が、関東平野を吹き抜ける空っ風に乗って聞こえて来ていた。

「諜報部?」

「公安ですよ」

「諜報部って言えたもんかね?」

「勤勉さでは立派なもんでしょ」

 その何処かしら見下した口振りは、明らかに学校関係者のものではない。それもその筈で、具衛を戦友と言ったこの男は、仏軍外人部隊では「安一三アンイーサン」と名乗っていた台湾人である。日本語が堪能だったその後輩は、具衛と何年か苦楽を共にした刎頚の友だったのだが、どう言う事情か現在は米国に帰化し「レイ・シーマ」と名乗っているらしい。具衛に似てそんな波乱の男は、今は米空軍の現役将校だった。

「少佐だっけ? 出世しましたなぁ」

「運だけですよ。生き残ってちょこっと運があれば、誰でもこのぐらいにはなれるんですよ」

 世界中の争い事に首を突っ込んでいる米国の事だ。戦時で生き残れば、出世しやすいようだった。

「しかし、一見普通の日本の高校に、米軍の出向先があるとはねぇ」

 何かあるようだねぇこの高校、などと具衛が疑問を羅列し始める。軍人の出向先も種々様々あるものだが、具衛でなくとも、極普通の高校にその出向先があると言う話は流石に聞いた事がなく、驚いて当然と言えば当然だ。

 そんな現役の米空軍将校に用があった具衛は、警察に追い回された経緯もあり、電話やメールで済ませてもよい事を、万全を期してわざわざ広島から出張る事を希望した。そんな具衛に添ったシャーさんが、再開場所を勤務先の高校に指定した、と言う訳だった。

 確かにここなら、形振り構わない限り手を下す事は難しい。広い校内は関係者以外立入禁止が原則であるし、外から覗こうものなら昨今の不審者対策をそれなりに講じている学校の事である。校外から諜報工作などしようにも、周辺からでは明らかに浮いてしまおうものだった。では近辺の建物内から覗き込む、と言う手もあるが、それにしては生徒が多く目も気も散って仕方がない。ピンポイントの盗撮盗聴は、この煩雑な状況下では不可能に近かった。残る手立ては来客を装って校内に入り込むだけだが、不審な来客はいないらしい。シャーさんがチェック済みである。何せ米軍の現役将校が在籍している学校だ。何事か知らないが、寄せつけ難い何かがあるのだろう事は間違いなさそうだった。

「それにしても、ホントに先生やってんの?」

 あれで、と具衛が生徒にパシられていた様子を笑うと

「ええ、これでも一応」

 男が面目なさげに愛想笑いをしたものだ。

「ふーん。シャーさんがねぇ」

「英語のALTの臨時講師扱いですけどね」

 正式には外国語指導補助教員と呼ばれるそれは、英語を担当するのであれば大抵欧米人としたものだが、シャーさんは体格も具衛と同じくらいなら、見た目もどう見ても東洋系だった。と言うより、黒髪の醤油顔であり日本人そのものだ。イントネーションも、紛れもなく流暢な日本語のそれである。だが具衛は、仏軍時代のシャーさんしか知らなかった。

「今年は温いね」

 乾いた風が、さばさばとして軽妙にやり取りする二人の傍をも吹き抜けて行く。やはり暖冬の影響か、例年よりも風が弱く温いように感じたものだった。東京の冬も昨年振りの具衛である。今ではすっかり山奥の人間になっていた具衛にとっては、寒暖よりも煤けた空気が鼻をついていた。

「そうなんですか?」

「うん」

 そう言うシャーさんは、去年久々に日本の土を踏んだらしく、冬の東京は一昔振りらしい。日本に滞在歴を有するらしいこの男の過去を、やはり具衛は知らなかった。

「しかし、活気があるねぇ」

「でしょう?」

「俺の高校もこんなんだったかなぁ」

 遥か二〇年前もの記憶を遡ろうとするも、学生生活はバカにされた苦い思い出でしかない具衛である。しかも中退した身とあっては、この光景は少し眩しかった。

 もう少しまともな家庭に生まれていたら、

 俺は——

 どうなっていたのか。

 そんな仮定をもやもやと募らせていると、少し遠目の何処かから指笛が鳴った。

「ん?」

 その音の方を具衛が向くと、横で既にシャーさんが、

「うわっ!? 何だろ!?」

 既に腰を浮かして俄かに血相を変えている。

「どしたの?」

「ちょっと待っててください」

 来客だって言ってたのになぁ、などとそそくさと向かう先を見ると、窓からこちらを見る人影がある。先程の猛烈な女先生だった。

 遠目に見てもそれと分かる程目につく美人だが、その猛烈振りが先程の生徒共々何処かチグハグだ。恐らくはシャーさんの校内における上役か何かに当たるのだろうが、暗さのない破茶滅茶振りが少し、

 ——羨ましいか、な。

 その目立つ赤髪も相まって、ふと仮名を思い出した。

 具衛の知るその人も、遠目でも目につく美人だが、いつも何処かに暗さと言うか憂いを漂わせては、何かを諦めていた風だったものだ。

 あの人は——

 腹の底から笑った事があるのだろうか。

 具衛が俄かに、そんな暗さに引きずり込まれていると、

「コーヒー持ってけって言われましたよ」

 プラスチックのカップホルダーを二つ乗せた盆を持って、シャーさんが帰って来た。

「お、気が利くねぇ」

「こりゃあ雪どころか槍が降りますよ」

 早速具衛に手渡しながらも「なんか盛ってないだろーな」などと然も慎重に匂いを嗅いだり、目をすがめてはカップを伺ったり、小指の先を僅かに液面につけては、それを舐めたりするシャーさんである。

「と、とりあえず、大丈夫そうですね」

「そこまでのことなら——」

 槍を心配しないといけないか、と具衛がわざとらしく腰を浮かしてみせると、

「そ、そうですね」

 言いながらシャーさんも、半分以上本気で周囲をキョロキョロし始めたものだから

「おいおいマジかよ!?」

 具衛は噴き出してしまった。

「普段は絶対、こんな事する人じゃないんですよ!」

 ホント何かの前触れかよ、とシャーさんはやはり半分以上本気で慄いている。

「って事は——」

 ——やはり。

 米軍将校が、誰と接触しているのか気になるのか。

「そんなんじゃないですよ!」

 慌てて具衛の心境を読んだシャーさんがそれを否定した。

 実は念には念を入れて、背中のリュックサックに忍ばせているスペクタクムアナライザの反応を、スマートフォンに転送させている。が、校内に入って以降特に反応はなかった。とりあえず具衛に対する興味はないらしい。

 となると——

「色々とシャーさんの事が気になってるのかね?」

 具衛がしたり顔で呟くと、

「冗談じゃないですよ!?」

 もーいつもいつも大変で、と盛大な愚痴を吐いたものだった。

「何か、羨ましいよ」

「人の話聞いてました!?」

 何なら今この瞬間入れ替わりますか、と目を剥くこの男も、具衛に似て何かと面倒を背負いがちだった事を思い出す。

 外人部隊入隊では先輩だった具衛が、一〇年の在隊歴の後半を生き抜けたのは、他ならぬこの三歳年下の後輩の存在に尽きた。

 具衛の在隊歴の前半は、特定部隊による活躍。後半は、その活躍振りが上層部で注目されて司令部付となり、各隊の助っ人要員となった。つまりは、いざと言う時の切り札として各隊へ派遣されるスーパーサブである。そのバディとしてつき従ったのが、約五年遅れで入隊しながらも、肉体年齢最盛期の具衛に恐るべき実力で瞬く間に肉薄したシャーさんだった。

 隊内で約三年間のバディだった二人は、文字通り背中を預け合い激務に立ち向かった事で、言わば兄弟のような関係になった。それだけ際どい状況を、共に掻い潜り続けたと言う事だ。因みに「シャー」と言うのは仏軍時代のコードネームであり、名づけ親は他ならぬ具衛だった。そのまま苗字の「アン」ではコードネームにならないため、その苗字から容易に連想される、世界的な児童文学の主人公の少女の名前から一部分を頂戴したのだ。二人はそんな仲であり、兄弟であり、友だった。

「相変わらず、何か大変そうだ」

 ごめんごめん、と軽く謝ると

「まあ、タクさんのせいじゃないですから」

 と、ようやく少し落ち着き鉾を収めたシャーさんである。

「シャーさん何歳になった?」

「三五です」

「年とったなぁ」

「そりゃお互い様ですよ」

 具衛が言いながらも、流れの中で何気なくコーヒーを啜ると

 ——この味!

 途端に目を剥いてむせ返った。

「大丈夫ですか!?」

 やっぱり何か混ぜ物が、と慌てるシャーさんの横で具衛は、仮名の部屋で飲んだあの朝のコーヒーを思い出したのだ。合わせて同時に、そのコーヒーの前後で口を吸われたような生々しい記憶までが何故か蘇ったものだから、不覚にも動揺の余り飲み込むのを忘れた分だけ、コーヒーが気管支に入ってしまった、と言う訳だった。

「だ、」

 大丈夫大丈夫、などとむせ返りながらも、

「随分と美味いもんだからびっくりしたよ」

 具衛は落ち着きを取り戻しつつ、コーヒーのせいにする。

「最近持って来たんですよ——」

 あの烈女が、などと言い捨てるシャーさんは、どうやら影の呼び名を多く持っているようだ。

「ホント、日本語上手いね」

 烈女などと口にする外国人など、少なくとも具衛の知る人間にはいない。まあ、それは良いとして、あの見た目だ。何かとお騒がせに絶えないのだろう。自分が言えた物ではないが、シャーさんも少し見ないうちに妙な事になってしまったものだと少し同情する。

「コーヒーに詳しい訳じゃないんだけど、美味いねこれ」

「ええ」

 と言いつつも、シャーさんは一瞬表情を曇らせた。

「どしたの?」

「いえその」

 何となく身繕いするシャーさんは、照れを感じさせる仕種で

「コピルアックって知ってます?」

 困惑気味な表情そのままに、唐突に吐く。

「いや。何それ? このコーヒーの事?」

「ええまあ」

 ジャコウネコの糞の中から未消化のコーヒー豆を抽出して乾燥させたコーヒー豆である。ルアックとは、インドネシアに生息するマレージャコウネコの呼び名であり、

「コーヒー豆を食わすと、消化出来ずに糞として出すんだそうでして」

「それがこのコーヒー?」

「ええ」

 コピは、インドネシア語でコーヒーの事だ。産出量が少なく、その希少性故、世界一高いコーヒー豆として名を馳せる。のだが、

「何か、問題でも?」

「媚薬とも例えられてましてね」

「媚薬?」

 ルアックの体内で発酵される事で独特の風味を作り出すそれは、ルアックの肛門から分泌される媚薬成分が関係しているとも言われている。

「そんなのを学校で飲んでたら、また何言われるものやら——」

「色々大変なんだねぇ」

「一体どう言うつもりで持って来たものやらですよ」

 全く、などとシャーさんは軽く悪態を吐いた。

 まさかの——

 媚薬コーヒーだったとは。

 具衛は今更ながらに、その味、記憶、意味合いめいたものに、更に動揺した。つまりは、女が男にそれを勧めると言う事は、多少なりとも

「そりゃあー飲んで欲しい人がいるんでしょうよ、身近に」

 と言う結論に至る。

 が、今は人ごとだ。それを良い事に、したり顔で具衛がシャーさんを見ると

「そう言う事に鈍かった筈ですよね、おタクは確か!?」

 軽く洒落を利かす事など造作もない程の語彙力を持つシャーさんが、顔を顰めて嘆息してみせた。

「年貢の納め時なんだろうかねぇ」

「誰がです?」

「ま、頑張んなさいよ!」

「俺ですか!? 冗談じゃないですよ」

 具衛もシャーさんも、そうは言いながらも美味そうにコーヒーを啜り続けた。


 しばらくたわいもない昔話をしていた二人だったが、部活動が佳境に入って来ると、

「で、こんな所でもなければ大話が出来ない件ってのは、例の件ですよね?」

 シャーさんが切り出し始めた。

「うん、まあ」

 大家武智の邸宅で、由美子に詰問された具衛の、その後約一週間と言うものは、実はシャーさんの言う「例の件」のためにあった。それにはまず、シャーさんの消息を掴まなくてはならなかったのだが、これが意外に苦戦した。具衛が知るシャーさんの消息は、外人部隊から仏軍に転籍したところまでだったからだ。仏軍に知り合いがいなかった具衛は、まず外人部隊司令部に問い合わせ、それでどうにか米空軍に転籍したところまでを突き止めた。そこから先は完全な手探りで、電話攻めをした結果、何とかなるもので、何故か東京の某高校に身を寄せている事を突き止めた、と言う訳である。

 実は、手こずった最大の理由は組織の秘密主義ではなく、

「本名知らなかったから、警戒したものでしたよ」

「だよね」

 名前であった。

 外人部隊では「アノニマ」と呼ばれる匿名制度がある。隊員を守るための制度とも言えるそれが、

「すっかり馴染んでたからなぁ」

 それ程までにあらゆる意味で、濃い在隊期間を送っている彼らは、その別名もまた彼らの人格に他ならなかった。

「俺は、安一三って人しか知らなかったからなぁ」

「俺も、武智次郎たけちじろうって人しか知りませんでしたよ」

 具衛が仮名の会社に乗り込むために語った名前は、実はここから来ていた。結局、このアノニマが見事に作用する事を証明する形となり、具衛はシャーさんに辿り着くのに約一週間を要した、と言う事なのだった。

「まあ、連絡先を交換しておけば良かっただけの話なんだけどねぇ」

 結果的に言ってしまえば、そう言う事ではあった。が、やはり結果として二人共その後転々としため、例え連絡先をやり取りしていたとしても、やはり音信不通になった可能性が高かった。

 どちらにしても、シャーさんなどは具衛よりも、明日をも知れぬ命だった期間が長かったようであり、不用意に連絡を取り合う事をためらった向きもあるのかも知れなかった。

「しかし、今度は何に首を突っ込んで今更『切り札』使う気になったんですか?」

 具衛が、今更この埃を被っていた戦友との連絡を復活させた理由は、まさにその「切り札」を切るためであった。意外性の男の真骨頂とも言えるそれは、実は結構な最終兵器だったりするものだ。よって具衛はそれを講じる事を恐れ、何かの物語でもよくあるように厳重に封印をしていた、と言う訳だ。何せ、一国家の防衛政策と一大企業による契約事を、ちゃぶ台返しにする事に使えそうなレベルの途轍もない切り札なのだ。上手くいくかどうかなど判断がつく筈もなく、どう転ぶなどと知恵を回したところで分かる訳もない。そもそもが、そんな事に気を回す脳があれば山奥で隠棲などしていよう筈もなく、使えば具衛の手に余る事は言うまでもなかった。

 具衛がその首を突っ込もうとしている世界は、明らかに場違いの雲上だ。だが所詮下賤の民である具衛は、その禁忌の世界の向こう側へ足を踏み入れる事など到底出来ない。でも入口までは近づける。だからそこで切り札を切る。具衛のやろうとしている事は、そう言う事だった。

 その切り札の中身とは、ずばり途轍もない力を持つ一部の雲上人に対して大きな貸しがある、と言う、単なる貸し借りレベルの話だった。王様に貸しがある一平民、と言う構図である。王様に債務の履行を迫り、その権力を使って舌先三寸で魔王に対抗する。そう言う事だ。構図は違えど、力のない者が口車を使って大輪の横車を押す構図は、歴史上様々な場面で散見される。が、具衛が知る限り、そうした者達の末路は大抵不幸であった。

 波乱の人生も——

 ここに極まれり、である。

 出来ればこんな事には関わりたくはなかった。今後は平穏に、のんびりとした余生を送る筈であった。

 筈だったのに——

 仕方がない。

 これと思った女の事だから、

 ——仕方がない。

 のだが、それにしても、

 俺が企てたってバレりゃあ——

 お尋ね者も良いところである。

 そもそもが、王様が債務を帳消しにしたいがために、抹殺される可能性すらあるではないか。そんな構図なのだ。

 どっちが——

 人ごとなのか。

 具衛はこんな調子で事ある毎に、大小様々な局面を委ねられてしまう波乱の相を持っていたものだった。その采配の責を負わされては、思う様辛酸を被らされる。人を陥れる事を好まない具衛は、いつもいつもスケープゴートにされ、貧乏クジをわざわざ引いたものだった。

 毎度毎度、

 ——バカだよなぁ。

 と思ったものだが、今回も既に賽は投げられたのだ。そして今回のそれは、その余りにも大きな力を使う故、もう現状の平凡な生活には戻れない。無二の旧友たるシャーさんは、その切り札に極薄く絡んでいる一人、と言う事だった。

「俺も米軍に行きたくなったなぁ」

 米軍ならば、ひょっとすると隠れ蓑に成り得るかも知れない。素直な感情が、ふと口をついた。

「一緒にALTやりますか?」

「俺の英語、通用するかね?」

「大丈夫ですよ」

 何とかなるものらしい。

 一応二人とも、英語仏語には不自由しないレベルで話せる男達だった。派兵先で、生死を分け兼ねない意思疎通を見落とさないため、英語に達者なシャーさんから手解きを受けたものだ。台湾の英語教育は、日本よりも発達しているらしかった。

 その二人の上空を、軍機が通過して行く。在日米空軍横田基地は、空を飛ぶ事が出来る乗り物であれば、まさに目と鼻の先だった。

「この辺は、結構低く飛んでるねぇ」

「珍しいこっちゃないですよ」

 上空を見たが、冬曇りのせいで音の大きさの割に機体が見えない。

「まぁ、どっかは必ず戦時ですからね」

 世界の警察官と言われた時期もあった米国だが、今でこそその影響力に陰りが見えては来ているものの、やはり米国は米国だ。米軍が世界中で全く実戦を展開していない状況を探す方が困難である。

 因みに横田基地には、

「国連軍の司令部もあるよね」

「まあ、殆どお飾りですが」

 未だに停戦中である朝鮮戦争の司令部が存在する。

「いや、お役目ご苦労様です」

「日本人はのんきだからなぁ」

 有事に備えた意識づけでは天地程の差がある両国が、こうして手を取り合い、隣接していると言うからおかしなものだ。

「訓練飛行か輸送用務でしょ」

「よそ様に出撃とかじゃないの?」

 具衛が悪びれると、

「だったら日本も黙っちゃいないでしょ」

 騒ぐだけ騒ぐからなぁ日本は、とシャーさんは呆れ気味に吐いた。

「無責任な関心だけはあるんだよね」

 のんきそうな言のその裏で、米軍兵士は、いつ出撃命令が下るとも分からない緊張感に晒されている訳だ。出ろと言われれば出る。撃てと言われれば撃つ。やられそうならその前にやる。こうした事に躊躇は存在しない。自軍の死者数のカウントが国の威信を傷つける。それが大統領の支持率に影響する。だから死んではならない、と達せられる国家や政治家の本音は、雇われ軍人としてはやり切れない、の一言に尽きるだろう。

「まあそれは良いとして」

 そうした悲哀を他国任せにして、日本は平和を貪っている。決して収まりはつかないだろうが、それを今ここで言ったところでどうしようにもない。シャーさんのそれもまた、諦めなのだろう事は想像に易しかった。

「先方からも、確認の連絡がありましたよ。最近はめっきり少なくなってたそうですが」

 具衛の切り札たる債権は、一時公然の秘密のような状態となったため、それを横取りしようとする不届者が債務者の王様に殺到した事があった。よって、将来の具衛の債権行使に備え、予め身元保証人を設定した。

「年老いて迫られるとは思わなかった、とボヤいてらっしゃいましたよ」

「全く。それに関しては面目ない」

 それがシャーさんであった。

「何年か振りに電話がありましたよ」

「次男さんから?」

「秘書ですからね」

「お陰様で助かります、ホント」

「俺が生きてて良かったっスよねー」

「いやホントに」

 お互いに話が佳境に差しかかると、逸れそうになるのは気のせいではない。

「あなたの事だから、また妙な面倒に巻き込まれたんでしょ?」

「だから米軍に入りたい訳よ」

 シャーさんの身元認証が通れば、禁断の扉が開かれるのだ。

「ホントに一緒にやります? ALT?」

「俺の英語、通用するかね?」

「大丈夫ですよ」

 生死を分ける意思疎通を見落とさない。そのために学んだそれは、

「通じます。学校でも」

 ちょっと教材に目を通せば、と言う事らしい。が、冗談はここまでだった。シャーさんの顔が少し曇る。

「国籍は——どうにもなりませんね。多分」

 国籍の自由は、今や世界の国々ではスタンダードの概念だが、それには当然条件を伴う。元軍人ともなると、基本的に他国籍を獲得するのはハードルが高いだろう。帰化先が色々疑うものだ。加えて具衛は、元特殊部隊員だったりする。下手をすると、ビザの獲得すら難しい事が予想された。

「フランス国籍は?」

 一方で、仏外人部隊在隊経歴を有する者は、五年任期を果たせば事実上永住権を獲得出来た。国籍獲得のハードルも低い。なのであるが、

「そこを抉るからねー、今回は」

 その事情が、そこを隠れ蓑にする事を許さなかった。

「只の女絡み、だったりするんだけど」

 不意に本音を漏らした具衛に、シャーさんが軽く噴き出す。

「年貢の納め時、ですか?」

 シャーさんがまんまと揚げ足を取り返したものだったのだが、深刻な具衛は、ついについて行けなかった。シャーさんもすぐに真顔になる。

「親子喧嘩の手伝いなんだけどね。ちょっとした仕掛けの」

 只、事情が大掛かりなだけだ。結局のところ。

「そりゃあ、つまりは駆け落ちってヤツですか?」

「うーん。ちょっと違うかなぁ」

 むしろ、それだと更に逃げ回るだけであり余計悪い、と具衛は思った。逆に本当の意味で、盛大に喧嘩をすれば良いのだ。只、それだと矛先の一つが具衛自身が向かう。そうなると、それは恐らく仮名の弱味になってしまう。そう言う観点からも、切り札共々隠れ蓑を画策している、と言う訳だった。

 シャーさんは徐に、スマートフォンを取り出し操作し始める。送信音のような音がしたかと思うと、合わせてすぐに着信音らしき音が鳴った。

「いつでもいいそうですよ」

「今のでOKなの?」

「次男さんとアドレス交換しましたから。お陰様で。向こうは今、朝ですし」

 身元保証人の認証は、極あっさり完了した。

「じゃあ、月末の給料が出たら伺うってお伝えしといてくんない?」

 後は王様に会いに行くだけである。

「給料?」

「旅費がないんよ。貯金もないし」

「相変わらず貧乏してるなぁ」

 お互いの過去に干渉してはいないものの、何となく身の上は承知している二人だ。

「よもや、うちの出番があります?」

「ない——と思うけど」

「また、妙な火種が出来るのかなぁ」

 戦争なんて、適当な口実がつけば始まってしまうものだ。ただでさえ、複雑に肥大化したこの世の事である。

「そんなんじゃないよ——短期的には」

 シャーさんは冗談めかしく、大きな溜息をついて見せた。

「じゃあ長期的には?」

「そんな事が分かるようなら、現状に甘んじてませんて」

 具衛は然も人ごとのように言う。今や非正規の、文字通り資がない施設職員だ。それに甘んじて、さっさと放り投げた。分かる訳がない。

「これ以下の職業カーストは、探す方が難しいっしょ」

 得意気にしゃちほこ張った具衛に、

「あなたは単に、上を目指してないだけでしょーに」

 シャーさんは顔を顰めて詰った。

 ——そうだ。

 ちょっとした仕掛けだ。親子喧嘩のための。が、

 そのために——

 国家や大企業を巻き込んで、ナインボールのブレイクショットを打とうとしていると言う現実が、心中で重く伸し掛かる。はっきり言って盲打ちなのだ。

 プロじゃあるまいし——

 打ち終わった後の事など全く分からない。精々派手に打つだけだ。

 合わせて気になるのは、それによって振り回される人間がどれだけ出るのか、と言う事だった。悪事を働く者は知った事ではないが、大多数の何ら瑕疵のない高坂重工を始めとする高坂グループの社員はどうなるのか。何処まで影響が出るのか。考えれば考えるだけ、罪作りな事である。

 それを——

 背負わされる事で、具衛は人の上に立つ者の重責の大きさを感じると共に、仮名の人としての大きさを痛感させられたものだった。

 あの大企業の専務などと、

 あの年で——

 よく勤めたものだ。

 自分のような小物など、

 ——到底敵わない。

 精々、大多数のバカな男の一人ではないか。

 具衛は媚薬コーヒーの最後の一口を呷った。


 その夜具衛は、高速バスで帰途に着いた。

"バスに乗りました"

 スマートフォンでメールを送った先は、教えて貰ったばかりのシャーさんのアドレスだ。

「何かあったら連絡くださいよ」

 シャーさんの別れ際の一つ手前の台詞だったそれは、

「何もなくても、です」

 と、すぐに訂正された。

 だからとりあえず、テスト送信してみたのだ。学校を出る前、改めて電話番号とメールアドレスを交換したのだが、それに合わせて具衛はまた新しくフリーメールアドレスを作った。機種変更したとしてもアドレスは残るため、何かと都合が良いものだ。

 一方で、仮名と交換したアドレスは既に抹消していた。終わった事だと、別れた後にさっさと抹消したのだ。中途半端に連絡が取れてしまうと、やろうとしている事にためらいが出てしまうかもしれない。だから、

 ——消しといて正解だったな。

 シャーさんとアドレスを交換した時、具衛は密かにそんな事を思った。

"また会いましょう"

 返事はそれだけだった。

 余計な事は書かない。覗かれても障りがない程度だ。恐らく覗いたところで、警察がシャーさんに辿り着けるとは思えない。辿り着いたところで、シャーさんは手出しが難しい位置にいる。だからこそアドレスを交換したのだ。

 然程迷惑にはならんだろう。

 と、見越しての事だった。

 どのみち結果に左右されず、もう日本には

 おれんだろうなぁ——。

 と考えるようになって来ている身である。

 余生に逃れる事が出来たならば、暇潰しに数少ない戦友と連絡をやり取りする事があるかも知れない。今の具衛の想像力など、この程度だった。

 東京も——

 いよいよこれが最後だろう。

 流れる車窓から見えるのは、高速の防音壁だ。が、その隙間や上辺にはたまに、乱立する建物やそれらが発する街明かりが見えた。

 ——どうしてるんだろ。

 この中の何処かへ少し足を伸ばせば、その屋敷の傍ぐらいには近づく事が出来るのだろう。別れてまだ三週間である。まだまだもやもやを引きずる事この上ない。忘れようすればする程、余計に想いが募った。人肌とは罪作りだ。触れてしまうと、また触れたくなってしまう。その危うい回想が深みに入り込まないよう、とりあえずその顔を思い返す。

 あの顔が——

 今日も涙で濡れているのだろうか。うわ言で名前を呼んでいる、と由美子に責め立てられた事を思い出した。めそめそ泣くなど想像が難しかったが、具衛は別れの日、その胸で泣かれた口だ。いつになくか細いその様に、普段のとのギャップのせいで、余計に手を差し伸べたくなってしまったものだった。が、結局は、自分の身を気遣われ離れて行ってしまった。その不甲斐なさの何たることか。

 こんなにぐずぐす思い悩むのなら、ボディーガードになっておくのだった、と思ったものだった。それなら少なくとも、傍である程度は支える事は出来る。が、後の祭りであるし、

 それだとやっぱり——

 仮名の真の自由は、永遠にやっては来ない。

 全部投げ出して考える事を止めたいと思いもしたが、それは恐らく、何かが、誰かが許してはくれない。事物に多大なる影響を及ぼすような何かを為そうとする者は、その力と責任において、悩み考える事の呪縛から逃れる事を許されない、としたものだろう。そう考えると、大物とは、

 ——大変なんだな。

 と、今更ながらに思う。

 一方で、そうした一部の大物達の論理によって支配される現代社会に疑問を抱いていた具衛が、それにすがりつこうとしている事は、この上ない皮肉でもあった。

 昨春からの山奥での隠棲は、荒んだ社会から一時的に離れ、平穏を取り戻す意味合いの裏側で、出来得る限り社会との接点を削ぎ落とし、自立した生活を送る事が出来るものか。一つの実験でもあった。

 擬似的な自給自足に近い生活を試みたその最たる理由は、国家と言う枠組みに対する疑問だった。仏軍在隊時に、様々な紛争や戦地へ派遣された具衛が見て来たものは、極一部の力ある者の主義によって蹂躙される大多数の弱者だった。それは攻守、勝負の別を問わず、最もらしい真しやかな主張に支配された、先の見えない荒廃した国土だった。千差万別の思想が入り乱れ、人心をくすぐるように加味される胡散臭い正義が蔓延る覇権争いの舞台だった。国家の根幹たる三原則の、どれを取ってもまともな状態が見出せない絶望感。国民、国土、主権は、全て極少数の野心家の論理に牛耳られ、その弱肉強食の混沌は、日本でそれなりに平和の恩恵を受け、育って来た具衛にとっては衝撃的だった。

 その中で一つ、悟った事があった。

 いくら諸外国が何らかの口実で梃入れしても、大多数の弱者達一人ひとりが信念を持って自立しなくては、諸国の応援が撤退すれば、間もなくすると元の木阿弥になってしまう、と言う事だった。大多数の弱者自身が、自ら立ち上がらなければ何も変わらない。その意識が何らかの方法で構築されない限り、また一部の不届きな野心家が跋扈する、と言うその繰り返しは、やり切れないもどかしさを痛感させられたものだった。

 そしてその現実は、仏軍生活を終え約一〇年の後に帰国した日本においても、驚く事に変わる事はなかった。それまでの派遣先では、自由や人権が蹂躙される現実に直面させられたものだったが、日本は野放図な平和の中で、大多数の平和ボケした一般国民がそれらを持て余し、そうして構築された社会は金にまみれ、排他的な無関心が蔓延していたのだった。

 世の不埒な権力者が恐れるのは、大多数の弱者が力と教養を持つ事である。それは単純に、武器と食糧を得る事による力であり、健全な知識と教養を結集される事による大勢の醸成でもあった。それを奪う事で、権力構造は維持され続ける訳だ。

 片や日本では、国家が国民にそれなりの知識と教養を育ませながらも、大々的に経済至上主義を掲げては、それによりもたらされる暴力的で圧倒的な物質的価値の恩恵を目の当たりにされた国民は、無力で本能のままに盲目的となり、殆ど衆愚化していたのだった。

 それはさながら古代ローマの

 ——パンとサーカスかよ。

 のそれであり、こうした冷めた無関心が蔓延していながらも、それなりに国家の体制が維持され平和を築き上げている祖国が不思議でならなかった。一部の支配層による蹂躙を放置し、パンとサーカスに感けて危機感も緊張感もまるでない、まさに平和ボケした大多数。大抵の事は人ごとで、自分勝手がまかり通り、損得勘定が最優先され荒む人心。共存共栄の意味を履き違え、他力本願で一人では何も成し得ない自堕落を放置し、高度文明の利潤を大した苦労もなく金のみで獲得しては、飽くなき利便性と効率を追い求め続ける余り、更なる自堕落に陥る愚か者。体当たりで知識と教養を獲得し、それなりに成長を遂げ帰国した具衛の目に映った日本人は、そんなであった。

 この有様は——

 一体、どうした事か。

 子供の頃から何となく体感していた違和感を、ようやく言葉にする事が可能になった具衛が、祖国に感じた思いは、やはり絶望感だった。

 欲に溺れて心を見失った盲目的な国民を良い事に、国家は体制維持に勤しむのみで、国家の国民に対する基本的な姿勢は事勿れ主義であり、想像以上にいい加減と来たものだ。国民は国民で、国家に対する負託と言う名の無責任な依存が国家に暗部をもたらす隙を与え、暗躍を許す元凶になっている事に気づいていながらも、諦め無関心を決め込んでは誰かが声を上げ始めるのを待っている。そんな事勿れ主義が蔓延した澱んだ社会を、具衛は帰国後の一〇年間で更に嫌と言う程拝まされたものだった。

 そんな国家と国民の弛緩した関係に呆れ返った具衛が、国家を頼らず自立して生きるために始めたのが今の隠棲生活、と言う訳だった。出来得る限り自給自足する、と言う事は、国定通貨に頼らないと言う事であり、それによる自堕落に陥らない意思の体現であった。更に、身の丈以上に文明の享受を得ようとしないその姿勢は、つまり国家の保護を受けずとも生活を営む事が出来る、と言う、国に対する決別を示すものでもあった。

 アホらしくなって、まともに税金も払らう気になれず、帰国直後からは武智と山下に相談して、後回しにしていた最大債権者たる武智への借金返済を、武智が運営する税額控除を受ける事が出来る政府認定のNPO法人への寄付金名目で返済させて貰う事にし、目一杯納税額を減らしたものだった。

 今を思えば少青年期、何の知恵も力もない具衛が、それでも事態を打開すべく、学校や役所に相談したにも関わらず、最終的にはもっともらしい個人責任と言う名の事勿れ主義で、酒と博打に溺れる父親を放置し続けた国家である。そのぐらいの便益は得ても罰は当たるまい。膨大な借金返済の裏側には、こうした強かさもあった。

 それは余談として、密かに国家に対する不支持を突きつけ続けた具衛が、この度その身を賭して、国家に蔓延る高千穂を巡る巨悪に対峙させられる、と言う皮肉には、正直呆れたものだった。

 これを放置する——

 国家国民とは何なのか。

 その尻拭いをさせられる

 俺の業って——

 一体何なのか。

 富豪の令嬢を解放するために立ち上がったのは、大多数のバカな男の中に埋もれている資がなければ名も力もない極平凡な一人の男、と言う対照的な皮肉。その男は、実は国家の怠慢に立腹し、故にその庇護を受ける気にもなれず不支持を決め込んではそれを拒絶し、人里離れた山奥で厭世自立していたにも関わらず、権力に巣食う巨悪に抗うために引っ張り出されてしまい、最もそれに縁遠い立場にいながらも一方で別の巨大な力に取り入り、一人で火を火で治めんとしていると言う痛烈な皮肉。そして、天涯孤独の自由人であり、自由が自らの裁量で思うがままと言う束縛に無縁のその男が、何故か渦中に引きずり込まれつつあると言う奇妙な皮肉。

 ホント——

 何処まで皮肉なものなのか。

 ふと、そんな事を思い巡らせていると、やはり仮名の事を思い出した。

 あの人も——

 現代の日本人を憂っていた。

 リゾート地で危機感ゼロの平和ボケした日本人に遭遇する事を、

 ——嫌がってたなぁ。

 山小屋の縁側で、そんな四方山話をした事を思い出す。立ち位置はまるで正反対の二人でも、その経歴の一部はお互い安全保障関連だ。ひょっとすると、だからこそ最終的に息が合ったのかも知れなかった。その危機感を共有出来る、と何となく肌で感じ取れるようになると、その背後を許せる程の信頼が、思いがけない安らぎをもたらしたものだった。女の身でありながら、これ程確固たる自立を果たしている者に接した事がなかった具衛は、驚き舌を巻いたものだ。それどころか逆にこの身を気遣われ、具衛を責める事もなく静かに身を引いたその潔さは、痛々しくも歯痒くもあった。それ以上に、自分自身の体たらくが何よりも腹が立つ。

 もし——

 仮名の身分があれ程の高みではなく、精々中小企業の社長令嬢だったならば。と、一瞬思ったが、一瞬で止めた。それでは恐らく、仮名に成り得ていない。その周辺事情の一つでも欠けていたら、恐らくはまた違った人格を形成していただろうし、そもそも出会っていなかっただろう。

 今更たらればは、

 ——ないよな。

 考えれば考えるだけ、虚しくなる一方だった。歴史的な事象は、詳細に紐解いて行けばその結果は必定なのだ。それはつまり、今のあんな人間だからこそ想いを寄せるに至った、と言う事だ。

 ——参ったな。

 いつものように諦めてしまえば楽になるではないか。と考えようとしたが、やはり止めた。楽になるどころか悶えるだけだ。もう退っ引きならないところまで、身も心も突っ込んでしまっているではないか。こうなってしまったからには、行き着くところまで行き、何らかの結果を出さないともう収まりがつかない。

 それに最後の夜、仮名は具衛のこれまでの生き様に、思いを寄せてくれたようだった。

 ——俺もだ。

 なぜあの時、仮名の生き様を肯定してやれなかったのか。今ではそれが少し引っかかっている。つくづく、自分の不甲斐なさに打ちのめされる。

「はぁ——」

 具衛は一つ大きな溜息を吐くと車窓のカーテンを閉め、アイマスクをつけて深々と座席に沈み込んだ。


 月末。

 多くの一般企業の例に同じく、二五日に支給される給料が出るなり、具衛は早速、払込期限ギリギリになっていた予約済みの航空券代金を振り込んだ。

 弾丸ツアーの行程だが、それでも戻って来るのに丸二日と少しかかるため、二日に一直のシフトは守れない。仕方なく、初めて有休を一日取る事にし、事前に申請しておいた。

 その申請前など、

「まーだぐずぐずしとるんか!」

 大家にけしかけられ続けたものだったが、以来約二週間。満を持して有休を願い出たところ、

「何処へ行くのか知らんが、まだうちの施設との雇用契約は残っとるからの」

 ちゃんと帰って来い、と厳命されたものだった。当然、帰って来るつもりではある。が、

 そんなもん——

 本当にどうなったものやら分かったものではない。

 次の非番、明けるなり呼んでおいたタクシーで、そのまま広島空港へ飛んだ。万を超える運賃だったが致し方ない。何とかなるものなら、

 ——早く勝負したい。

 仮名の苦痛を思うと、今更ではあるが気が急いだ。だから往路は時間との闘いであり、多少の運賃は大目に見た。

 広島空港からは、そのまま空路で羽田へ向かった。昼にまだ余裕があるうちに着くと、矢継ぎ早に国際線ターミナルへ向かう。

 昼過ぎの独ミュンヘン行きに搭乗すると、現地時間の夕方には到着した。更に休む事なく、立て続けに国際線を乗り継ぎ、到着するなりトイレへ駆け込み着替えた。高千穂事務所をつけ回していた時に掻き集めた一張羅だ。辿り着いた先は、南仏リゾートの国際的玄関口、ニース・コートダジュール空港である。何処となく旅客慣れした垢抜けた風情のターミナル内の一角で、垢抜けない田舎者風情全開の具衛が首を左右に振っていると、正装で固めた四〇過ぎの端正な紳士が、一直線に向かって来た。

 真顔のまま堂々たる歩みで、一歩の位置まで迫ると、

「お久し振りです。ムッシュタケチ」

 一見してソース顔のラテン系色男が、驚く程流暢な日本語で、具衛を仏軍時代のアノニマで呼んだ。何処か固く冷たい印象そのままに、早速片手を差し出し握手を求めて来る。

「ご無沙汰致しております。ムッシュジロー・フェレール」

 具衛は両手でその手を取るなり、対照的にへこへこ媚びへつらった。握手も程々に、具衛がスマートフォンを取り出し、本人確認のためのメールを送信しようとするが、

「必要ありませんよ」

 ジローは、それを手で制する。

「恩人の顔を忘れる程、我々は愚かではない」

 冷たく言ったついでのように、

「では、参りましょうか」

 そのまま外の車寄せへ案内されると、待っていたのは、仏国が誇る高級車フェレールの最上級セダンと、恭しい初老の運転手だった。後席に案内され、ライトアップされた美しいフレンチリヴィエラの海辺を臨みつつ、約三〇分少々で訪れた終点は、南仏の珠玉と誉高きリゾート地「サン・ジャン・カップ・フェラ」である。

 日没後故、その情景の全貌は堪能出来ないが、昼間のそれは「リヴィエラの珠玉」と称される桃源郷だ。半島型に突き出た風光明媚な緑豊かな邸宅群は、地中海に面した名のあるいくつかのビーチが一望出来、まさにパラダイスと呼ぶに相応しい程に隔世感が強く、静謐に包まれている名リゾートである。

 話には——

 聞いた事があるが、足を踏み入れる事はおろか、遠くから眺めた事すらない具衛だった。夜でも何となくその輪郭を感じ取る事が出来るその街並みを眺めては、車内で目を丸くし口をあんぐり開けている。

 ビーチを見下ろす絶好のロケーションと思われた一角に近づくと、おあつらえむきに構えられた豪奢な邸宅の門内に、車が音もなく滑り込んだ。車寄せには正装の使用人が既に待ち構えており、寸分違わず車が止まるや恭しく車のドアが開けられる。軽く会釈しながら車外に降り立つと、真紅の絨毯が敷かれているではないか。

 うわ!

 安物でも背広で来て良かった、と思うと同時に、余りに場違いなリュックサックをトランクにぶち込んで貰っている事を思い出す。それを自分で取り出そうとして、一歩踏み出すと

「後でお持ちしますので。それより会長が首を長くしておいでです。さあ、お早く」

 ジローがエスコートを再開した。

 ちょっとした中世の館のような外観の邸宅は、中もそのまま天井の高い中世の館であり、具衛は通路と言うか何処かに至る道中の両サイドを固める数十人の使用人の列に圧倒され、

 ダ、ダメだこりゃ。

 早くものぼせ上がった。

 無言で頭を傾いでいる使用人達の間を貫く絨毯の上をエスコートされて辿り着いた先には、絵に描いたような大広間である。中央部には、白いテーブルクロスが隙間なく敷かれた長大な流しテーブルが設置されており、その中央部に対面して、六〇代の洋風偉丈夫と五〇代半ばの和風淑女が歓談していた。

「おお!」

 偉丈夫が具衛に気づくなり、音を立てて席を立ち上がり、小走りに駆け寄って来てはいきなり抱き着く。

「待っていたんだ! 音沙汰がなくてどれだけ心配していたか!」

「ご、ご無沙汰致しまして——」

 具衛が固まるのを一切構わず一通りハグが終わると、今度は手を取りぶんぶん振り回すように握手をした。

「も、申し訳ございませんでした。アルベール・フェレール閣下」

 辛うじて挨拶口上を吐き終えると、対面にいた淑女が傍まで歩み寄って来る。

「長旅でお疲れでらっしゃる事ですし、どうぞお掛けくださいまし」

 落ち着いたフォーマルドレスを着込んだ淑女は、

「お久しゅうございます。家内のリエコです」

 やはり流暢な日本語で、丁寧なお辞儀をした。

「覚えておいでですか?」

 その完璧な微笑に、具衛が辛うじて

「も、勿論でございますとも。マダムリエコ」

 月並みな返答をする。

「ははは」「ほほほ」と軽やかな声が辺りを包み、何となくそのまま昔語りに突入しそうな雰囲気になる中で、具衛をエスコートしていたジローだけが、何故か一人血相を変えているではないか。

「何故、お出迎えをしておられないのですか!?」

 ジローは、作法を気にしたらしかった。二人の男女に溜まり兼ねたかのように詰め寄り、小声でけしかけている。神経質めいて鼻息荒く鋭く迫るその様子は、生真面目さを思わせたものだった。

「立って待っておったら、つい嬉しくなってのぼせてしまってな」

「鼻出血されたのよ。いい年して」

 が、その一方で、恥ずかしそうに告白した二人は、また「ははは」「ほほほ」と、ジローの何かの気配りめいたものを斟酌する様子はない。呆気らかんとして放埒に振舞っては、わざとらしく逆撫でしているように見え、コミカルに映ったものだ。

「鼻血、ですと?」

 ジローが毒気を抜かれ、背面に倒れ込みそうな素振りに、不覚にも具衛が噴き出しそうになる。抑え切れず、小さくそれが口をついて出てしまうと、視線が具衛に集まった。

「あ、すみません」

 思わず頭を掻きながら、然も小物然と具衛が謝罪すると、

「まあ、和んだところで——」

 とりあえず座りましょうか、とリエコが如才なく、しかして甲斐甲斐しく面々を席に誘い始めた。


 既に、

 ——疲労困憊。

 晩餐が始まり、前菜の後のスープを飲み始めた。日頃の適当な食事と全く正反対の有様に、具衛は肩が凝って仕方がない。

 音を立てられないメシなんて——

 それは限りなく拷問に近かった。

 こっそり左手で右肩を揉む仕草をすると、

「やはり堅苦しいよなぁ! 私はこんなのは反対したんだが」

 目の前にいる主人のアルベールが、大声で笑い飛ばす。

「お気になさらずとも良いのですよ」

 リエコはリエコで、横から包み込むような微笑で具衛を慰めた。

「何をおっしゃいますか! 我が家の最重要賓客のお一人です。礼を尽くすべきでございましょう!」

 が、すかさずそれを、斜め前に位置するジローが窘めた。どうやらジローの志向のようである。その位置取りそのままに、どうやら斜に構えられている感があり、どうやら何を言い出すものか、

 警戒されている——

 らしい。

 この今の状況こそが、今の具衛が繰り出す事が出来る最大の切り札であった。

「実は私自身も、こう言う典型的なスタイルは未だに苦手でね——」

 目の前に座る温厚そうな偉丈夫は、やはり殆ど日本人と同様の日本語を口にする。この男こそ、具衛が債権を持つ王様「アルベール・アレクサンドル・フェレール」その人であった。

 仏国を代表する世界的多国籍コングロマリット「フェレールグループ」の現会長にして元仏大統領。出自は軍需製品で一財産を築き上げた仏の軍功系新興貴族の直系で、元は公爵まで上り詰めた家柄である。既に貴族特権も栄爵もないが、富貴を極めた御身を讃え、儀礼的には未だ「公爵」と称されたものだ。その財力と知名度は留まるところを知らず、職を辞しても強い影響力を有する米国の元大統領達に遜色ない存在感を持つ、大物中の大物である。

「もう、こう言う世界からは正直身を引きたいと思っているのだが——」

 権力は形式的には元職であるが、財力は御歳七九を迎えて尚、フェレール財団最高顧問を務めるなど、グループ内では現役会長として君臨しており、栄達は止まるところを知らない。高級スポーツカーブランド「アルベール・フェレール」は、そんな現役会長を記念して創設されたレガシーの一つである。

「中々周りが厳しくて、穏やかな余生には程遠くてね」

 大の日本通としても知られており、日本語も達者なもので、毎年お忍びで訪日しては日本文化を満喫しているらしい。とは、世相に周知されている情報だ。

「ははは」と諦め気味に空笑いをする目の前で、

「これでも最近では——」

 暖かく目を細めるのは、その正妻「リエコ・ミタニ・フェレール」である。日本外務省の元官僚であり、通訳官として活躍していた折、当時の仏大統領に帯同した使節の一員として来日したアルベールに見初められ、後妻としてフェレール家に嫁いだ。

「旧知の方など、殆どお見えになりませんから」

 絶対的に暖かく柔らかい印象で、一見するとどう見ても五〇代なのだが、ドレスの上まで滲む抜群のプロポーションは全く衰えを感じさせず、容貌と体形のギャップだけで打ちのめされそうになるその御歳は、七三と言うから驚きである。

「本当に、お待ち申し上げておりましたのよ」

 うふふ、と上品に笑むそのお日様のような温もりに、具衛が心を掴まれ頭が眩みそうになるのは、恐らく長旅の疲れだけではない。

「そりゃこんな所にいれば、こんな生活になるでしょう」

 常にツンケンしているジローは、本名を「ジロー・アルベール・ミタニ・フェレール」と言い、後妻リエコの実子にして次男である。何処かしら虫の居所が悪そうなその背景は、ずばり異母兄姉の尻拭いが原因だ。実父であり現フェレール家当主のアルベールは、前妻との間に一男一女をもうけたが、二人とも前妻の線の細さを色濃く継承しては家を継ぐ事を嫌がり、事もあろうに家出同然で悠々自適な生活をしている。本来ならば兄姉達と家業を分担したいところ、それを次男であるジローが一手に貧乏くじを引かされ、複雑にして多忙な父君の秘書となり約一〇年。以来この男は、常に辛気臭い難しげな顔をしては、文字通り一家の人柱となっている。

「少しは私も、ゆっくりしたいものです!」

 父君は、この出来る次男に諸事の殆どを預け切っており、心労が絶えないこの男は、四二と言ういい加減良い年にして、中々男振りのする紳士なのだが、未だに独り身であり婚歴すらなかった。その男に、

 警戒されても——

 仕方がない。

 事実上、フェレール家を采配しているのは、このナイスミドルなのだ。突然、埃を被ったようなチャンネルの開局を求めるなど、警戒されても仕方がなかった。具衛としては、今回のいざこざがなければ本当のところ、音信不通のまま債権放棄するつもりだったのだ。ついこの前、宿直室の

 テレビで見るまで——

 その事すら忘れていたのだから。それが急転直下、それを蒸し返して押し迫っては結構な爆弾を落とそうと画策しているのだから、嫌な顔をされても文句など言えよう筈もない。

「不破さんには、その節は多大なるご迷惑をおかけした事を、当主共々深く深くお詫び申し上げます」

 ジローは、今度は具衛の本名を口にした。

「そうか。アノニマだったね。『武智次郎』と言う名は」

 とアルベールが、ジローの様子をまるで頓着しないかのように、のんびり言う。

「親代わりの方の苗字を拝借したんです」

 武智の名跡を無断借用したのには訳があった。一つは親の借金を投げっ放しにして逃げない、と言う姿勢を示すため。もう一つは、武智を有事の身元保証人に指定するためだった。血の繋がりはないが、アノニマと同姓の人間ならば、親代わりだと言っても軍も訝しまないだろう、と考えたのだ。仮に殉職でもすれば、身元保証人にそれなりの金が渡る。多少は借金返済の足しになるだろう。それだけの事だった。武智には次男はいなかったため、それを分かりやすい名前で僭称した、と言う訳だ。

「そうだったのか」

 日本通のアルベールの横にいるその次男坊のファーストネームが、具衛のアノニマのそれと同じなのは、たまたまの偶然だった。

「私もこの『ジロー』の名は、日本の『次郎』の音と意味合いからつけたんだよ」

「実に、安直な事です」

 ジローが流暢な日本語で、軽く不快感を示したのには、多少は具衛のアノニマを詰る向きもあったようだ。

「安一三さんが『くれぐれも宜しくお伝えください』と申しておりました」

 具衛はアノニマの話ついでに、ジローにシャーさんの事を伝えた。シャーさんが具衛とフェレール家を繋ぐキーマンにされたのは、他ならぬこのジローとそれなりの関係性を築いていたからだ。

 フェレール家の男子は、軍功を立て国家に貢献した先祖に倣い、何年かは必ず国官になる事を義務づけられている。ジローは元仏財務官僚だが陸軍出向経歴も有し、その折に外人部隊在隊中のシャーさんと知り合った経緯があった。「次郎」と「ジロー」の共通の旧知。それがシャーさんだった。

「今はシーマと名乗っているそうだね。あの鉄砲玉は」

 旧友からの思わぬ連絡が、災厄を招こうとしている事を理解しているジローは、表面上は具衛を客人としての体裁で保とうとはしている。その一方で、内面はそれを受け入れ難い葛藤でない交ぜになっている様子であり、言動や表情が忙しく変わっていた。

 三者三様ながら、仏国有数の高級リゾート地の豪邸において、日本語でそれぞれが日本の会釈をして見せる姿は、中々奇妙な光景だ。

 ようやくスープが終わり、皿が魚料理のポアソンに変わった。

 流石に少し眠いな——。

 久し振りの飛行機での長旅は、八時間の時差を伴っている。仏時間では午後八時を少し回ったばかりの宵の口だが、これが日本時間だと翌午前四時なのだ。因みに仏国はサマータイムを導入しており、十月末から翌三月末までが冬時間で、日本との時差は八時間遅れ。夏時間は一時間短くなりそれが七時間となる。日本から仏への空路は、西に沈み行く太陽にゆっくり抜かされる感覚だった。

 元々不規則な生活を強いられて来た具衛は、食う寝るに関しては、食い溜め寝溜め、とまでは行かないものの、それを堪能出来る時にとことん堪能出来るタイプである。としたものだったが、ここ一年弱の規則正しい生活で、

 少し柔になったな。

 と思わざるを得なかった。

 が、仮名を思うと、そんな事をぐずぐず言っている場合ではない。

「しかし何年振りでしょう。お会いしますのは?」

 具衛の様子を察したかのように、リエコが昔語りの呼び水を与える。

「一六年です」

 それをジローがばっさり切り捨てるように答えた。やはり具衛の要求を耳にしたくないらしい。

「もうそんなになるのか。年を取る訳だ」

 アルベールは感慨深そうに具衛を見ながらも、食を忘れずもごもご口を動かしていた。

「あれ以来、すっかり寒さに弱くなってしまってね。寒くなるとニース、暑くなるとイヴォワールなんだよ」

 イヴォワールは、欧州アルプスの西部、仏国とスイスにまたがるレマン湖沿いの小村である。「レマンの真珠」とも称され、中世の情景を色濃く残す美しい里として、観光目的で来訪する旅行者も多い。

「もうその度に大移動で、困ったものです」

 リエコが呆れ気味に、小さく嘆息して見せた。元々ニースのこの邸宅は、南仏でバカンスを過ごすための別荘の位置づけだったそうだが「あれ以来」避寒地として、年間の半分以上を過ごすようになったらしい。今では殆ど本拠になっているようだった。

 だから——

 使用人が多いようだ。

 いくら富豪と言えども、別荘地にしては使用人の数が多いと思っていた具衛は、ジローの心労が少しは理解出来た。別荘が本拠とあっては、本来魅力的なリゾート地でやるべきではない仕事向きの事は言うに及ばず、日々の雑事や社交向きの事にも気を配る必要に迫られ、それこそ落ち着く訳がない。

 そもそも安らぐための空間であるべきそれが日常に塗れていては、頭で割り切ろうとしても、心の何処かはやはり無念だろう。

 それでも具衛は

 この人達を頼るしか——

 他に術を持たず、そんなリゾートの別荘に、また面倒毎を持ち込もうとしている訳であった。

「あの寒さはもう懲り懲りなんだ。本当に」

 具衛が葛藤するその前で苦笑いして見せたアルベールと具衛は、一六年前のこの時期、厳冬期の欧州アルプス山中で出会った。遭難者と救助者として、である。この前具衛が、宿直室のテレビで見た遭難事件の慰霊式典で弔辞を述べていたのは、他ならぬ目の前のアルベールだったのだ。

 そのアルベールが仏大統領だった一六年前の同時期、少し遅いクリスマス休暇を取った。英雄は色を好むとは良く言ったもので、愛人と心置きなく過ごすため、わざわざ厳冬期に欧州アルプス山中に所有する山荘へ出かけたのだ。これが全ての元凶となった。 

 当然お忍びだったため、護衛二人、使用人二人と言う極少数の同行数で出かけたところ、突如として近年稀に見る大寒波に見舞われ、山荘で見事に孤立。身動きが取れなくなり、この情報がマスコミに抜けると、情けないゴシップつきで瞬く間に世界を席巻した。が、実は事態は深刻で、一泊の予定であったため、持ち込みの食料は蓄えが殆どなく、ライフラインは暴風雪で完全に遮断された上、嵐は全く収まる気配がないと言う窮地である事が判明するや、一気に国を揺るがす大事に急転。仏当局も慌てて救助隊を出したが、その隊員が麓から山荘に向かう途中で遭難死するなど天候が苛烈を極め、中断を余儀なくされる一大事に発展した。その後、天運に委ねる事態にまで陥ったが、当局はその裏で密かに決死隊を編成し、具衛の別人格「ジロー・タケチ」はその一人だった、と言う訳である。

 当時、外人部隊で最精鋭と名高い落下傘特殊部隊に属していた彼は、山岳兵のスペシャリストとして山岳特殊部隊在籍歴を有していた事で白羽の矢が立った。他にも何人か矢が立ち、最終的に五人で臨んだ決死行は、彼以外全員死亡と言う厳しい結果となる。が、彼は幸運にも一人山荘に到達すると、雪崩で崩壊した山荘で辛くも一人生き残り、あの世へ召されかけていた大統領の生命を繋ぎ切った。それどころか、少し天候が回復したと見るや、麓の応援を待つ事なく大統領を背負って下山し、文字通り仏国の救世主となったのである。

 これにより公私に渡り英雄となった「ジロー・タケチ」だったが、彼はその裏で死者総勢一三名と言う惨事を重く受け止め、恩賞や謝礼の類いの一切を全て寄付すると言う行動に出、これが更にその名を上げてしまう。深く反省すると共に深く感心した大統領は、その無欲恬淡な若者を「リアルサムライ」と賞賛し、思わず「何でも一つ願いを叶える」と公言してしまった。周囲の嫉妬を恐れた「ジロー・タケチ」は、それをもやはり行使せず部隊内に雲隠れし、その代わり債権目当てに「ニセジロー」が湧いて出るようになった。これが「ジロー・タケチ」こと具衛が持つ切り札の顛末である。

「いくら声をかけても、君と来たら招待に応じてくれたのは、あの後一回だけで」

「それも、ちょっとした食事を一回切りですよ?」

「命の恩人に対してこの瑣末な対応は、当家の沽券に関わる由々しき事態です!」

 三人が三様で具衛に詰め寄ると、

「今更どの面下げて、お会い出来たものではなかったのですが——」

 何となくそんな事を言い出す様相になったところで、肉料理のメインディッシュ「ヴィアンド」の前の口直しである「ソルベ」が出て来る。

「まあそれは、重ね重ね私の失態ではあったのだが」

 苦笑したアルベールが、それを突きながら「本当に申し訳ない」と日本通らしく殊勝気に頭を下げた。

「い、いえ——」

 堪らず具衛が両手を突き出し、面を上げるよう促した一方で、実は結構な迷惑を被った当時を思い出す。その当時の具衛が、フェレール家との接触を断った事には、個人的な事情以上の訳があった。仏軍外人部隊に「厳格なアノニマ」なる原則が存在していた事がその理由である。様々な事情を抱え込んで入隊し、アノニマを獲得した新参隊員を、部隊活動の保秘に託けて纏めて一括りで徹底管理する、と言うその伝統は、在隊五年未満のアノニマ隊員の外部接触を禁じていた。友人知人どころか、肉親に至るまで一切合切全て例外なしと言うその厳格さは、自由を尊ぶ仏国にあるまじき徹底振りだが、そこは軍律である。当時の具衛も、その枠に漏れない新参者だったのだ。もっとも具衛は、後半年程度でその戒律から解放される予定だったのだが、それでも律は律だ。

 が、その原則を破ったのが、事もあろうに当時大統領にして被救助者のアルベールだった、と言う落ちが、具衛を更なる混沌へ陥らせた。救助された嬉しさの余り、大の日本びいきも悪影響を及ぼしたアルベールの興奮した口は、具衛の本名こそ漏らさなかったものの、アノニマはおろか、その出自に肉薄するレベルまで大っぴらにメディアの前で具衛の事を熱っぽく語ってしまったのだ。その迂闊振りは目を見張るもので、これには流石に具衛も部隊も閉口せざるを得なかった。文民とは言え大統領と言えば、仮にも仏軍最高指揮官なのだ。それにしては大惨事を招いた身にして、素人まがいの軽口にして、止めの迂闊である。とどのつまりが「大統領の危機管理信用ならず」として、あえて遠ざけざるを得なかった、と言うのが具衛側の事情だった。

 事後、ようやくその事情に接したアルベールに、輪をかけて謝罪されたものだったが後の祭りである。当時ちょっとした時の人となってしまった具衛は、秘匿性の高い軍務を慮り、左遷ではないものの、しばらく後この件のために、通常にない部署替えを経験させられる事になった。それは結局、具衛に更なるキャリアをもたらした一方で、より危険な任務に至らしめ、それにより何度か死線を彷徨うと言う元凶にもなったのだったが。それでも尚、一方的な恩義や謝罪の押しつけでしつこく追いすがるフェレール家を、具衛はメディアや隊内が完全に収まるまでの数年間、只ひたすらに躱し続けた、と言う訳だった。

 で、一六年が過ぎた。

「ヴィアンドの前に聞いておきたい」

 アルベールが、途端に表情を固くして呟いた。

「これ程までに我らの謝礼が受け止めて貰えなかった事は、ひとえに私の不徳によるものだ。その君の事。何か深刻な相談があるんだろう?」

 具衛以外のそれぞれが徐に手を止め、ナプキンを外し始める。

「愚息めの機嫌が悪いのは、何も君の訴えを聞きたくないのではない。むしろ逆でね」

「そう、なんですか?」

 答える事で、それを肯定する向きになってしまった事に気づき、具衛はしまったと言わんばかりにジローに手で曖昧な謝罪をする。

「そうです」

 ジローは仏頂面ながらも、僅かに怒気を含ませ答えた。

「これが不機嫌なのは、今に始まった事ではないからね」

「父上がいい加減であらせられるからでしょう!」

 ははは、とアルベールは、また乾いた苦笑を吐く。

「最早、反論の余地もなくてね」

 そして、少し縮こまってみせた。

「私のために犠牲になった尊い一三名の御霊には、それなりの償いをさせて頂いた」

 その遺族に対して、フェレール家のポケットマネーから、莫大な慰謝料が支払われたのは有名な話だ。

「国家と国民には、以後身を捧げて奉仕させて頂いた」

 事件後も、大統領職に居続けたアルベールは、事実上無報酬で職務に携わり、以後は精力的に慈善活動にその身を投じて行く。アルベールの人としての功績は、皮肉にも遭難事件後に積み上げられたものが圧倒的に多かった。

「それまでの夫は、地位に甘んじていただけですから」

 リエコもまた、怒気を含ませ容赦なく詰る。遭難事件の原因が原因だけに未だに許せないのだろう。

「私は死ぬまで許しません」

 家の者や妻が甘い顔をすると、世間の風当たりが強くなる。未だに公の場に出る機会が絶えないアルベールが、未だに喪服喪章で臨むスタイルを貫いているのは、関係筋ではすっかり定着してしまっている。

「許したくとも、許せないのです」

 それに添うように家族を始め、傍に仕える者達も、服装は慎ましく品行方正を貫かざるを得なかった。こうした事態を招いたアルベールの罪は、限りなく重い。特にリエコの心情は報われない事極まりないだろう。

「手放しで愛を捧げたくとも、それが出来ない事がどれほど辛いか」

「それを言われると、毎度の事ながら本当に辛い」

 具衛がこの後日帰国に際し、ジローから聞いて分かった事だが、この二人は関係者に対する「最低限の償い」を終えるまで、食事を除き家庭内別居を貫いていたらしい。因みにアルベールの愛妻家振りは有名で、遭難事件の元凶となった不倫は、そう言う意味でも世間を驚かせたものだ。更に言うとアルベールは、男として心身の壮健振りでも名を馳せていたが、遭難事件以後、欲得を戒め禁欲生活に突入すると、兎にも角にも徳を積み上げる事に勤しんだらしい。

 あらゆる欲が目の前にぶら下がる環境に身を置くアルベールが、あえてそれを遠ざけず、しかしてその欲を絶つと言うスタンスはそれだけで注目を集め、無用な中傷を招く事も少なくなかった。が、本人としては、それはそれで相当な覚悟がないと出来ない事だった筈である。その立場故、全てを投げ出し逃げ出す事が許されなかった彼の苦悶もまた、自らの失態が招いた因果とは言え、察するに余りあるとしたものだろう。私生活は、やむを得ない社交の場を除くと実は極めて質素で、並み居る使用人も雇用を確保するためだけに雇い続けており、本来であれば数人も居れば十分だったと言う。そんな喪中生活は痛々しいの一言に尽きたそうだが、社交の場は殊の外多く、しかしてそれをあえて遠ざけず自戒を貫き続けたこの男は、酒すら飲まず粗食を貫き、それによって皮肉にも腎精を保ち続けた。

 だからこその、再会前の「鼻血」だったのだ。のぼせたのは「償い」後、戒を解いた後の凡事を妄想しての事だったのである。それ程までに、アルベールの男としての心身は壮健だった。

「最後に残った償いは君だけなのだ。何をしても受け入れてもらえず、一六年が経ってしまった」

 失われた一六年。そう口にするアルベールは、かつては酒豪で鳴らした口だが、やはりその傍に酒は見当たらない。

 フェレール一族は、時を止めたまま歩み続け、今宵ようやく、首を長くして待ち続けた最後の償いの男を迎えた、と言う訳だったのである。

「本当は貰ったも同じなので。ご事情を知らなかったとは言え、申し訳ない事をしました」

 恩賞や謝礼は全額寄付したとは言え、寄付する前の所有権は具衛にあったのだ。それをもって「十分貰った」とした具衛が、面倒を嫌い雲隠れした事で、フェレール一族が壮大な喪を貫く事になったと言う皮肉。それはまるで、図らずもフェレール一族が、不遇の人生を歩み続ける具衛の生き様に添う事を、何物かに強いられているようでもあった。

「事件の事は死ぬまで忘れません。夫を許す事もありません。贖罪し続け、今後も私共は、生涯慎み深く生きて行くでしょう」

 それでも、と継いだリエコの

「家族や最愛の伴侶と添えないのは、やはり辛いのです」

 その一言は、壮大な喪の過酷さを物語っていたものだった。

「リエコ」

「アル」

「だーやっとられん!」

 が、何やらメロドラマの様相になりかけたのを

「勘違いすんな!」

 ジローが、先刻来の頑なさを払拭する投げ遣りな言葉で割って入った。

「毎日毎日、こうやってロミオとジュリエットを見せつけられる身になれっての!」

 洋風の印象に、隠し味で和風テイストが加味されたような好紳士が吐く言葉としては、到底似つかわしくないそれは、余程の事なのだろう。

「毎日毎日飽きもせず、全く——」

 うるうるしている両親の顔を、歌舞伎役者が見栄を切るように、ぶつくさ不満を漏らしながら睨みつけるジローは「このロミオとジュリエットもいい加減見飽きた」と捨て置き具衛に向き直ると、

「我がフェレール家は、決してこの惨事を忘れない。が、亡くなられた方々には申し訳が立たないが、我々の人生が続いていく事もまた事実」

 また頑なながらも、心情を吐露し始めた。

「とにかく、関係者に対する最低限の区切りだけは、いい加減つけておきたい」

 言うなりジローはそのまま、テーブルに頭をつける勢いで頭を下げる。

「どうだろうか! あなたが望む謝礼を存分にさせて頂く事で、区切りをつけてやっては貰えまいか!」

 ジローに倣って、両親も静かに頭を下げた。

「この際どんな無理でも構わない。が、こんな言い方は余りしたくはないが、出来れば金で収まる事にしては貰えないだろうか?」

 ジローが畳みかけると

「そうだな。君が金で納得するような人間ではない事は分かっているが、出来る事なら金で事を収めて頂けると有難い」

「そうですね。情け無い事ですが、当家が自身をもって用意出来る物と言えば、やはりお金以外にございません」

 両親も揃って、金々と押しを強めたものである。

「そう言って頂けるのであれば、この厚かましい身が、少しは気が楽になります」

 それを受けて具衛は、その時が来たとばかりに宣言した。

「——実は不躾を承知で遠慮なく、一つお願いがございます」

「おおっ! どんと来なさい!」

 アルベールが得意気に胸を叩く。

「高坂嫡流のご息女を、そのご実家から解放して頂きたく、お取り計らい願いたいのですが」

 具衛は静かに、しかし淡々と債権行使を明言した。ようやくお互い、この妙なしがらみから解放される時が来たのだ。だったのだが、それを受けた三人は、目を丸くして、見るからに言葉を失い固まってしまったようである。

「あ、あの——」

 何処かの、何かの文言が禁句だったのか。

 具衛が恐る恐る、漏れ出たような、伺うような声を出すと、

「高坂——嫡流?」

「——ご息女?」

「実家から——解放する?」

 顔を顰めながらも、それぞれが思い出したかのように、三者三様の反芻をし始めた。

 その後少しの間、それを咀嚼していたようだったが、徐にそれぞれが大きく息を吸い込んだかと思うと、何だそれはと言わんばかりに、

"はぁ——"

 揃いも揃って盛大な溜息を吐いてみせた。

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