第9話 小晦日

 師走を迎えた。

 具衛の周辺を執拗につき纏っていた警察は、一二月に入ると消えた。施設に視察に来た事などから、その理事長たる大家から仮名に周辺事情が抜けた事は想像に易しく、それをもって仮名が止めさせたのだろう。が、具衛にとってこの動きは、実は痛し痒しだった。具衛は、つき纏われている事を逆手に取り、尾行の警察官から情報を抜いてたのである。

 山小屋在宅時に、必ずと言ってもよい程見える範囲に止まっていた素気ないセダンには、私服の警官が必ず運転席と助手席に二人乗っていた。基本的に張り込みとは地味な作業である。普通のそれは、対象者にバレないようやるものだが、嫌がらせ目的の張り込みとあってはその配慮は必要なく、気も緩みがちとなる。只でさえ二人で張り込みをしているのである。口が緩む。具衛はそれを見逃さなかった。

 張り込みの警官達は、流石に車に盗聴器や発信器を仕掛けさすような愚は犯さなかったが、油断していたのかよく口を動かした。具衛はまんまとそれを、山小屋から双眼鏡で聞いていたのである。具衛は、唇が読めた。

 張り込みの警官達は、様々な雑談をしていたものだが、一方で有益な情報も漏らしていた。

 高千穂が高坂宗家の権能を狙い、高坂真琴と再婚しようとしている事。

 高坂真琴の母であり、政財界の大物フィクサーである高坂美也子も、その再婚をとりあえずは認めている事。

 高千穂は、その再婚に際して養子に入る事を希望したとの事。

 高千穂の、名を捨て実を取るやり方に、高坂美也子も懸念を示しており、対して高千穂が高坂美也子を丸め込むため、何やら画策していると言う事。

 これにより、何らかの利権が相当に動こうとしている事が推測される事。

 等々。

 ネタの出所が、高千穂周辺を固める護衛と思われたそれは、まずまずの角度の良さが窺い知れた。

 これは中々——。

 張り込み警官達の無警戒振りに具衛も喜んだものだったが、しばらくすると尾行が終わってしまい、情報が取れなくなってしまった。

 まあ——

 潮時だったと言う事らしい。

 具衛は、警察からの情報獲得を打ち切り、次なる行動に移った。高千穂事務所の張り込みである。ネタの裏づけは基本だ。ここしばらく、随分と可愛がって貰ったのだから、その礼はするべきだろう。大人しく引き下がらないところが、またこの男の見た目に反した意外性だった。善良なる弱者であれば、普通そう言う気にはなれないものだが。

 高千穂事務所は、具衛の町の最寄りJR駅前にあるバスの発着点傍に構えられていた。駅やバスの利用者が行き交う中で、否応なしに目立つその立地に構えられた事務所は、四階建ての小規模ビルの二階にあり、選挙期間であろうとなかろうと、派手なフレーズの掲示物が見境なしに貼り出され、掲げられていた。その中には

 公選法に——かかりそうなもんだなぁ。

 ポスターなど掲示物によっては、公職選挙法を根拠として選挙期間中でなくては認められない物も存在する。一見してその無法振りは、主人の形そのもののようであった。加えて他のテナントはすっかり色褪せて見え、存在感を失っているその様は、

 お気の毒様だなぁ。

 の一言に尽きた。この有様であれば、徒歩でもバスや電車内からでも駅のホームからでも、よく目立つ事だろう。

 総じて、

 何とまあ——

 節操がない。

 具衛はその様を、その対面に位置する市立図書館から眺めては、げんなりしたものだった。図書館が入る建物は、公民館や商工会、役所の支所、慈善団体などが入居する区民文化センターの二階である。ほぼ同一レベルの高さに高千穂事務所があり、本好きの具衛には取ってつけたような条件だったが、本に熱中し過ぎるのが玉に瑕だった。それに窓ガラスにはポスターがこれ見よがしに貼られており、僅かな隙間を掻い潜らないと中を見る事が出来ない。

 そこで、耳に頼る事にした。

 窓際の席で本をめくりながらも、耳にイヤホンをつけているそれは、ズバリ盗聴の真っ最中である。高千穂事務所に仕掛けた盗聴器をスマートフォンで受信し、それをワイヤレスイヤホンで盗聴する、と言う行程だった。

 実は当初は、室内に侵入しなくては仕掛けられない盗聴器の設置は、余りにリスキーであるため流石に良しとせず、出入りの確認しかしていなかった。目星をつけた人間を尾行してどうにか盗聴器を仕込み、個人攻撃で情報を取ろうと考えていたのである。が、

 こりゃあ——

 まいった。

 何日かやってみたところ、やはり出入りの確認だけでは芳しくなく、即効性に欠けていたのだ。

 ——根気がいるなぁ。

 余り妙な動きをして、また目をつけられても困る。警察が引いているうちに、何事か掴んで手仕舞いにした方が良いと思っていた具衛は、短期決戦のつもりだった。のだが、これでは長丁場になりかねない。

 ——まずいな。

 只でも拙い頭を悩ませているそんな時、

「ちょっとお遣いをお願いしたいのですが?」

 と、大家の顧問弁護士たる山下が助け舟を出して来た。おあつらえ向きに、高千穂事務所への遣い、と来たものだ。

 これは、警察につき纏われ怪文書が届いた際に、大家と山下にだけは詳細を省き、高千穂絡みのトラブルだと説明していた事による。施設内に走った動揺を流石に無視出来ず、その上役にだけは報告しておいたのだ。のだが、子も子なら親も親としたもので、具衛の親代わりたる二人は、事情を聞くなり即座に怪しく目を光らせたものである。具衛は周囲へのとばっちりを警戒し、慌てて「私的な闘争」として断固拒んだのだったが。

 高千穂と下手の演説会の折、仮名と一緒にこの聡い二人を見かけた事で、具衛の近況が把握されている事は何となく理解していた。かと言って、下手に首を突っ込んでもろくな事にならないと言うのに、

「敵は知っておくべきでしょう」

 山下はあっさりしたものだった。

 後援会員である大家は、高千穂事務所に顔が利くどころか、出入りは頻繁だ。その遣いとして山下が出入りする事もしばしばあった。山下が「その遣いを頼みたい」と言うのである。春先から山小屋に住み始め、そんな遣いなど聞いた事もなければ受けた事もない。何を今更だ。助け舟である事は明らかだった。

 ——やれやれ。

 何処までも、何かとお節介な人達である。

 が、折角なので、その機会を生かす事にした。しかしてそれは当然に、

 褒められた手口じゃ——

 ない。

 盗聴目的の施設等への立ち入りは、基本的に建造物侵入罪が成立する立派な犯罪行為である。

 でもまあ——

 相手も相手であるし、その相手は宣戦布告も怠り、見境なしに攻めて来ているのだ。既に先発部隊だったヤクザ物を、過剰防衛気味に数々の違法行為で返り討ちにしており、賽も橋もとっくに振ったり渡ったり、

 ——だしなぁ。

 振り返ってみれば、最早後戻り出来ない状態である。多少の形振りなど構っていられなかった。

 山下からの遣いを引き受けた具衛は、大至急量販店で安物スーツを始めとするビジネスルック一揃えを掻き集めた。合わせて端正なかつらとインテリチックに見えそうな伊達メガネ、更にはつけ髭による変装など外見を整えると、身分も山下法律事務所の事務局員、と言う肩書きを山下から借り受けたものだ。一見して別人に成り代わり、高千穂事務所を訪ねた具衛を怪しむ者は誰一人としておらず、単なる遣いの小物に心を配るような者は存在しなかった。この辺りの機微は、

 主人に似たりよったりかぁ——

 と言う事らしい。

 一応、名刺も作る周到振りだったのだが、人を階層でしか見ようとしないそのスタンスに安心した具衛は、瞬く間に数個の盗聴器を仕掛けた。事務所の内外は流石に警察の手が全く及んでおらず、具衛の独壇場だった。余りにも無防備なので、追加でたまたま広島に戻っていた高千穂の秘書の鞄にも携帯型の物を放り込んだ。これが後々まで、思わぬ益をもたらす。

 後で分かった事だが、高千穂には公設秘書が三人おり、全うな向きの仕事は政策秘書が、雑務は公設第二秘書が行う一方で、公に出来ない裏仕事は公設第一秘書がこなしていた。具衛が追加で盗聴器を放り込んだ秘書の鞄とは、偶然にもこの裏仕事専門の公設第一秘書のブランドバッグだったのである。

 これは、

 天の配剤——

 と言うヤツか。

 具衛は、毎日バスで駅前の市立図書館に通うようになった。が、この秘書は広島常駐ではなく、文字通り高千穂の命を受け飛び回っているようである。秘書がいない時は、価値のある情報は取れなかった。

 秘書の予定が分かれば——

 言う事はないのだが。

 流石にそこまでは無理だった。

 精々秘書が来る前の日に、事務所の職員の愚痴で帰広が察知出来る程度だ。ここ最近は、週一では必ず帰広しており、後は東京のようである。今の具衛では、時間的にも金銭的にも流石に東京までつけ回す訳にもいかず、広島の事務所周辺が関の山だ。

 余り時間がないんだが——

 具衛の周辺事情に構わず、兎にも角にもタイムリミットは、高千穂が高坂美也子を丸め込むための工作が成るまでなのだ。それが成ってしまえば、あの仮名がまた、あの高千穂と、

 ——復縁、か。

 と、言う事になる。

 仮名の気持ちを聞くまでもなく、そんなものは

 ——有り得んだろう。

 と、今はとりあえず勝手に畳んでおいた。

 秘書の鞄に放り込んだ盗聴器は、単三のアルカリ電池を仕込んだボールペン型だ。二、三か月は十分もつだろうが、恐らく

 そこまで悠長な話じゃあ——

 ないだろうと、更に勝手な推測をする。

 何事も、思い通りに事を進めようとする連中のやる事なのだ。それ程的外れな推測ではない。力を持つ者達の力任せの性急さは、良く見て来た光景だった。

 うーむ。

 で、今日も図書館でイヤホンをつけては本を読んでいる。耳を研ぎ澄ませつつも、具衛は町の図書館には蔵書がない、持ち出し禁止のムック版情報誌をめくり続けていた。張り込みついでに敵を知っておくとしたもので、虎視眈々と政財界の解説本を読み漁っている。


 翌日、三週間振りに仮名が山小屋にやって来た。相変わらずの夕方来訪だが、辺りは既に真っ暗闇である。

「ライトアップしたのね」

 車から降りるなり、開口一番仮名は嬉しそうに言った。少し前に「暗くて物寂しい」と大家に相談したところ、開口一番、

「山奥の山小屋だから当たり前じゃ!」

 と罵倒されたが、それでも豪邸の倉庫に収納されていた電飾用品を貸してくれたため、設置しておいたのだ。庭の両端にスポットライトを一つずつ置いて庭の木々を照らし、庭中央部の車両動線の両端には、クリスマスツリー装飾用のペッパー型LEDライトを這わした。具衛としては、飾りをつける趣味はなく、スポットライトだけで収めたいところだったのだが、仮名が真っ暗闇の中を車で、それもバックで庭に進入する事を考慮し設置したのだ。

 居間に入りガラス障子を閉めると、そのガラス部分から見えるスポットライトが、仮名の目論見通りに庭の木々を映し出していたようで、

「ほら、中々素敵じゃないの」

 給仕で台所に引いていた具衛に、少しはしゃいで見せた。何でもちょっとした庭園調に見える、らしい。確かに、

「スポットライトの当たり方は、調整しましたが——」

 所詮は素人仕事だ。言いながら具衛がお茶を出すと、仮名がやはり

「これはこれで風情があっていいわよ」

 と、軽く論評を口にしながらも「ありがとう」と、慣れた調子で謝意をつけ加える事を忘れなかった。

 どうやら——

 相変わらずらしい。

「随分、お忙しそうですね」

 庭を臨める座卓北側は仮名、東側に具衛が座るのは、来客を入室させる時の配置だったが、実は仮名以外では用いた事がない。極たまに立ち寄る大家でさえ、未だに縁側対応なのだ。言わば、その特別待遇も三週間振りだった。ここまでご無沙汰なのは、仮名が夏に罹患したおたふく風邪以来である。

「うん——」

 その横顔が、心なしか影を感じさせるのは、恐らく気のせいではないだろう。仕事も忙しいのだろうが、

 それだけじゃ——

 ない事は間違いなさそうである。

 これまでに具衛が集めた情報が誤りでなければ、その状況に置かれている渦中の仮名自身が黙っている筈もなく、対高千穂、対母親対策に奔走している事は想像に易しかった。仮名がどんなアプローチで打開策を講じようとしているのか。流石にそこまでは知る由もなかったが、具衛の周辺から監視がなくなった事を鑑みると、少なくとも何らかの抵抗を試みている事は明らかだ。

「アングレカム——」

「え?」

「ありがとう」

 仮名の言葉は、そこで止まった。

 具衛は、それを無視したと捉えられる限界まで、何と答えたものか悩んだ挙句、

「——いえ」

 とだけ答える。

 貰い物だの、誕生日だとは知らなかっただの、と言う方便で押し通そうと思っていたのだが、本人を前に萎えてしまった。

「最初ね」

「え?」

「爆弾か何かかと思ったわ」

「驚かせてすみません!」

 具衛は反射で明るく開き直って見せたのだが、

 それだけ——

 神経質になっている、と言う意味でもある事は明白だった。ややもすると、爆弾が贈りつけられ兼ねない。そんな身でもある、と言う事だ。もう少し、分かりやすく贈る事が出来なかったものか。具衛は今更ながらに小さく後悔した。

「意外に——」

「え?」

「綺麗な字を書くのね」

「そう、ですか?」

「うん」

 漢字と片仮名は角張るイメージで、平仮名はほんの少しだけ小さめに、丸みを意識して書いている。それだけだ。

「達筆とは言わないけど、読みやすいのよ。几帳面さの表れかしらね」

 具衛はこれまでに、そんな事を言われた事などなかった。文字など伝わりさえすれば良い。書の美しさや文章の内容に心を寄せる事はあっても、根底にはある程度見れる筆跡で、意味が確実に伝わればそれで良い。そう思っていた。具衛の気取らない飾り気のなさは、そんなところにも出ていたりする。それは良いとして、そもそもそんな事に意識が向くなど、追い詰められて神経質に、

 ——なってるのか。

 視察名目で施設に来た仮名は、明らかに弱って見えた。その気性の激しさを目の当たりにして来た具衛は、その激しい抑揚が強気や怒りに振れる事には慣れていたものだった。が、弱々しくも強がる仮名は痛々しく、いつになくか弱く、つい放置出来なかった。その上視察後に帰りのタクシーが到着した際、立ち上がろうとして転びそうになった仮名を支えた時のその手が、小刻みに震えている事に具衛は気づいてしまった。仮名のプライドを思えば、あえて放置した方が良かったのかも知れなかった。それを知られる事を、普段の仮名は望まないだろうし、つまらない慰めは、返ってプライドを傷つけるであろう事は頭では理解出来た。が、あの時の仮名は、明らかに普段通りではなかった。いつになく気弱そうに目を潤ませ救いを求めている、そんなだった。気づいた時には、あちこちの生花店へ向けて、電話攻勢で誕生花のアングレカムを探していた。需要も少なく育てにくい部類のそれを探し出すのは、結構な骨折り作業となったが、何軒当たったか分からなくなった頃、ようやく見つけると動き出していた。

 寄り添う、と言う言い方は、おこがましいとは思った。自分など余りに微力な身である。出来る事と言えば、その国内有数に面倒臭い仮名の周辺事情を知っても、後悔せずに逃げ出さないバカだと言う、そのスタンスを伝える事ぐらいだ。思いが強くなり過ぎると、またおたふく風邪の見舞いの二の舞になってしまう。その分不相応な暴走は、お互いを戸惑わせ苦しめるだけだ。その二の轍はもう踏まない。だからこそ花だけ贈って、それとなくメッセージ性を方便でコントロールするつもりだったのだが。

 面前で本人に礼を言われると、ここまでしておいて、それこそ無駄な取り繕いだと思い至り、止めた。それは余りにも腰砕けだ。

 今更何に——

 言い訳をしようとしていたものか。

 どうせ口で言ったところで、上手く伝えられない。今の具衛など、仮名にしてみれば、何ら説得力を持たない拙い可愛らしさでしかない。それに、どうせ察しの良い仮名の事だ。女性に花を贈るなどした事もなければ、柄でもない事は分かってはいたが、誕生日に誕生花を贈れば、伝えたい大抵の思惑を内包してくれるのではないか。

 一人で勝手に悩むな——。

 つまりは、その素性を知ったとしても、逃げ出さずに留まる者もいると言う事を、知って欲しかった。まずはそれだけだ。

「他に——」

「え?」

「何か、気の利いた事が言えないものかしら?」

 澄まし顔の仮名に何かの催促をされたので、

「温室でないと花は咲かないそうです」

 とりあえず、花の説明の一端を紐解いてみた。が、

「知ってる」

 あえなく逃げ道を失う。

「手に入りにくい事も」

「そう、なんですか」

 いざとなると、やはり怯んだ。

 その圧倒的格差と共に突きつけられる好意を受け止める覚悟は出来た。が、今度は、自分自身に自信が持てない。それに見合う身であると公言出来る自信など、

 到底——

 ない。

 結局何処まで行っても、とにかくその格差が重く伸し掛かる。何故、自分が選ばれるのか。未だにそこに思い至り、悩む。それが俄かに、目を泳がせた。

「ライトアップの効果ね」

「え?」

「少しは間が持つでしょ」

「はあ」

 仮名の素性が二人で共有されたのなら、次は具衛の番だ。確かに有象無象の取るに足らない存在だが、

 まだ——

 口が重い。暗い出自と一風変わった経歴は、到底自分から切り出せる代物ではなかった。結局、仮名の事を言う前に、自分の事すら全く据わり切っていない事を改めて突きつけられる。

「説明する手間が省けたのは、まあ助かったわ」

 その具衛の苦悩に構わず、仮名は少しずつ、微妙な領域に入り始めた。

「何処で——とだけ、訊いてもいいかしら?」

 来た、と思った。

 仮名からすれば、確かに出所は気になるだろう。

 ——困った。

 まさかヤクザの組長から聞いたなどと言えたものではない。取り繕う事は止めたとは言え、やはり物事には限度と配慮と言うものがある。

「マンションの表札、で」

 と、とりあえず言い逃れてみた。

「ないわ。表札」

 が、あっさり覆される。

「うちのマンションは、防犯モデルマンションよ。言わなかったっけ?」

「——でした、ね」

 やはりつけ焼き刃では、到底敵わない相手である事に、改めて思い知らされたものだ。

 表札の歴史は、実はそれ程長くはない。日本でそれが普及し始めたのは、全ての民に苗字が与えられた明治以降である。世界的に見れば、そもそもそのような習慣すらない、と言うのが大勢だ。表札は個人情報を晒すようなものでもあり、日本ではそれが犯罪に結びつく事例もあると聞く。表札を掲げる習慣は、俄かに慎重になるように思えてならない。贈られて来る荷物に爆弾が想定され兼ねないような人間なら、そうした事に敏感である事は、当然と言えば当然だった。

 俺もすっかり——

 耄碌したものだ、と打ちひしがれていると、

「——煮え切らないわね、全く」

 仮名が盛大に溜息を突いた。

「まあ良くも悪くも、それがあなたらしいけど——」

 それにしても、花に頼るなんて思いがけず気障よね、と仮名はようやくいつも通り嘯いた。


 一二月中旬。

 平日の昼下がり。

「——かと思えば、こんな思い切った事もやってくれるのよねぇ」

 会社の自室応援ソファーで、真琴の目の前に座るのは、先生その人だった。

「何か?」

「いや何も」

 先生は、応接テーブルに並べた小型機材を何やら分析している。

 その連絡は唐突だった。

 年末が押し迫ると流石に会議めいたものが増えて来て、会議倒れしそうな慌しさの最中、会社の自室に戻った真琴に先生からメールが入った。

 珍しいわね。

 先生がメールを発するなど、先月公私に多忙を極め、余りにも余裕がなくなり山小屋に行かなかった時以来だ。仕事真っ最中の時間帯につまらない内容は送ってこないだろうと、応接ソファーに雪崩れ込みながら確かめてみると、数字の羅列が並んでいた。

「うわ、そうだった」

 つき纏われなくなった代わりに、非合法で情報を抜かれている可能性があるとして、暗号文によるメールのやり取りに切り替えたのだ。乱数表をモデルに、先生が作成した暗号表を元にメールをやり取りするものだ。

「えーと、紙々」

 スマホの情報も抜かれている可能性を考慮し、暗号表は紙で作成されており、そのまま紙で保管する。写真を撮ってデータ保管しては、一緒にその内容も抜かれて意味がなくなるためだ。

 真琴がハンドバッグの中から取り出した暗号表には、一〇の列行合計百枡に、平仮名、濁点、半濁点、数字の〇から九がランダムに記載されていた。長文の照合なら相当骨折り作業となる事請け合いだが、二人のやり取りするメールの文面は高が知れている。それなら普段通りでも良いのだが、短文であるため意味も内容も明白であり、行動が読まれやすい。それは明らかに面白くないため、二人は面倒を選択した、と言う訳だった。

 因みに暗号表は、真琴が山小屋を訪ねる際に新しい物に更新する、と言う念の入れようである。と言っても、暗号表はまだ一枚目なのであるが。更に言うと、電話帳データはそのままにしている。膨大なデータを暗号化する手間はどう考えてもないし、プライベートの電話帳など登録数は多いが、実際に生きているつき合いなど殆どないに等しい。プライベートなメールのやり取りなど、最近は先生としかしていないと言う侘しさだった。

 メールを暗号表と照合したところ、

"山下法律事務所の「タケチジロウ」と言う事務員が訪ねるので、追い返さないでください"

 と言う内容である。

 山下とは、地主の武智の顧問弁護士である事はすぐに分かったが、その事務員が何の用か。「タケチ」と言うからには、地主の関係者なのか。それならそれで、やはり何用なのか。色々と理解出来なかった。が、あの先生が意味のない事を連絡して来る筈もなく、真琴は了解の旨を暗号表に基づいて返信を送りはしたのだったが。

 その約一時間後。

 秘書課の女史に案内されて専務室に入室して来たのは、端正な身形のスマートな男だった。

 ——うーん。

 会えば何事が思い当たる節でも、と思っていた真琴だったが、会ったら会ったで一見して胡散臭い。そんなこんなで、早速真琴が怪訝そうな声を上げそうになるのを、

「どうもご無沙汰致しております」

 男は挨拶と共に軽くウインクして来て、あっさり機先を制した。そのさり気ない気持ち悪さに、思わず出しかけた懐疑的な音色の返事を、つい飲み込んでしまう。

 ——な、何なの?

 初見で、それもビジネスの場でウインクなど、中々やるものだ。欧米なら露知らず、日本では見た事もない。

 年齢的には、地主の武智の息子と言っても不自然ではないが、それにしては少し若いような気もする。かと言って孫と言うには年が行っているように思えた。アラサーのその外見はスッキリしたもので、親類縁者なのかも知れないが、それにしては今一武智とイメージが重ならない。

 とにかく「調子を合わせろ」との合図に、内心では不審感を募らせながらも、真琴はとりあえず応接ソファーを勧めた。

「それでは、失礼致します」

 中々熟れた所作だが、どうしても初見の胡散臭さが拭えない。

「今日参りましたのは、兼ねてからの件でございまして——」

 そう思い始めると、何もかもがそう見えるものだ。タケチはやはり胡散臭い声で、それでも秘書課の女史が退室するのを横目で確認しながらも、早速所携の鞄から大封筒を取り出すと、更にその中から取り出したレジュメをテーブルに置いてみせた。が、

「なっ!?」

 内容を確かめるまでもなく、いきなりその表紙に、

「お茶かコーヒーが出て来るまで、とりあえず調子を合わせてください」

 と、走り書きがされているではないか。

「えっ?」

 するとタケチは、またウインクしながらも

「いや、どうでしょうか? 本来は山下が参りましてご説明差し上げるべきなのですが、手前共の勝手な都合ながら多忙を極めておりまして、とりあえず叩き台と言う事で言づかりましたもので——」

 真琴の疑問すら打ち消そうと、長ったらしい月並みな文言の羅列を始めた。そこへ女史が、盆にコーヒーを載せて室内に戻って来る。真琴はとりあえず、その走り書きがされたレジュメを慌てて一枚めくり、

「そ、そうねぇ——」

 などと、中身を黙読する素振りをしてみせた。とは言え、ペーパーは三、四枚程度の薄っぺらい物で、普段の真琴が扱う書類と比べると余りにも薄く、文字量も極端に少ない。よく見ると、市立図書館の各種イベントの内容を印字した物のようであり、児童向けなのか文面が極端に平易で漢字も少なかった。明らかに、真琴が職場で接する類の物ではない。

 ど、どうせなら——

 もっとマシなダミーを用意して欲しかったものだ。この状況が社内の誰かにバレたなら、それこそ何を言われたものか。まさに何かのドッキリに無理矢理つき合わされたもので、

「如何でしょうか?」

 ——って、茶番だってば!

 稚拙な文面とあって、演技時間も限界が近かった。いくら武智の縁者の可能性があるとしても、

 もう——

 いつもの悪い癖で、痺れが切れそうだ。自分でも、頬の筋肉が軽く痙攣しているのが分かる。

 そ、そんな事よりも——

 頬につられて顔筋全体を極小さく震わせながらも、タケチがレジュメを差し出した時の、その左手首の腕時計に目をつけた真琴は、密かに動揺していた。

 あれも、セブンマスター!?

 真琴がレジュメに目を落としながらも驚いたそれは、派手さはないものの、黒地に鮮やかな深紅が映える先生のモデルと同じ物だったのだ。世界的スパイも欲しがると言われる、完全予約制にして年間製造数が限られた高規格時計の持ち主など、そう再々出くわすものではない。そのレアアイテムを普段使いしているような無頓着な者など、真琴のような富豪でさえ、先生を置いて他に見た事がなかったものだ。

 それを、

 ——ウソでしょ!?

 法律事務所の一介の事務員がつけているとは。一体全体、どうなっているのか。

 こう言っては何だが、先生も含めて、庶民がおいそれと持てるような代物ではないのだ。持ち主を選ぶ、と言われる程に予約が取れない事でも話題を呼んでいるその時計は、数千万円を超えるような超高級モデルではないにしても市価の汎用品からすると法外な定価であり、高級スポーツカーメーカーの限定モデル車並の生産数と言う希少性故、ネットオークションなどでは軽く一〇〇〇万を超えると言う中々出鱈目な物だ。

 真琴に言わせてみれば、先生にしろこの事務員にしろ、資がない平凡な人間が、その希少性を誇る世界的なスーパーカーを乗り回しているような感覚だった。

 これは、まさに——

 謎が謎を呼ぶ展開である。

 その何処か胡散臭いタケチは、横長黒縁フレームの眼鏡をかけており、きっちり分けた黒髪で一見して整った端正な面立ちだったが、口髭を生やしていた。が、それも頭髪同様に整ったものであり、見ていて嫌悪感はない。スーツは紺のありふれた汎用品のようだが、やはり見れない事はなく、一見して着慣れている。総じて、スッキリとした形の中々の好漢、と言って差し支えがなかった。

 タケチは真琴に媚びながらも、女史にコーヒーの礼を述べ、女史が再び退室する様子を目の端で確認するや、

「では、こちらは如何でしょうか?」

 次のレジュメを出した。その表紙にも、やはり走り書きで何やら書かれている。真琴が怪訝に構えながらも、それに目を落とすと、

「この部屋は盗聴されています。私がこれからそれを取り除きますので、それまで適当に調子を合わせてください」

 なる、中々衝撃的な一文だ。

 なっ——!?

 その内容に辛うじて声を飲み込み目で疑問を呈す真琴の前で、タケチは相変わらずの胡散臭い口振りだった。が、何となく、室内から音を途切らせないための口振りなのか、とも思えて来る。

 そんなタケチは続け様に、更に鞄の中からスマートフォンより一回り大きなタブレットのような物を取り出した。

 それにしても、

 ——盗聴?

 とは、一体どう言う事か。どうしてこの男がそれを知っているのか。首を捻りながらも真琴がレジュメに目を落としていると、ふとした瞬間にその文字が何かと合致した。

 この筆跡!

 誕生花のメッセージカードを見ていなければ、気づかなかったかも知れない。その前段階で時計に疑問を抱いた事が、その記憶を呼び起こしたのかも知れなかった。真琴は内心、その変装の上手さに舌を巻いた。良く見れば、目つき顔つき体型も良く似ている。違うのは佇まいだ。常にはない凛々しさと、姿勢の良さを見せつけているその形が、

 ——全くの別人だわ。

 人をあっさり変えてしまう。

 タケチは、顔は真琴に向けてはいるが目は盛んにあちこちを見ており、部屋の中の様々な物を睨んでいた。

「それにしても、良い景色ですねー」

 などと徐に立ち上がると、背広の内ポケットからドライバーらしき物を取り出し、物の数分の間に盗撮用の小型カメラ二つと盗聴器三つを取っ払い、応接テーブル上に並べて見せる。

「これは、スペクトラムアナライザと言いましてね」

 言いながらタケチは最後に、背広のポケットからビニール袋を取り出し、その中に口から二つ吐き出した脱脂綿を入れると、またポケットに収めた。

「それで少し籠った声だったのね」

「はい」

 いつもののんきげな声が、スペクトラムアナライザの説明を始める。通信機器や放送機器などの電波調査に使われるそれは、盗聴盗撮機材の発する電波特定にも活躍する。高感度機器であり有能な機材だが、使い慣れていないと素人にその解析は難しい、らしい。

「もう演技は良いですよ」

 そう言った後は、いつも通り何処となくふにゃふにゃした、紛れもない山小屋の先生であった。

「と言われても。良くもまあ——」

 乗り込んで来れたわね、と呆れる真琴に

「世の中、壁耳ですよ」

 先生は、にっと笑いながら、獲得した獲物を手にして見せた。

「中々凝った変装するわね」

「普段の形があんなですからね。欺きやすいんですよ」

 出会った頃、ビジネススーツを着れば、十分ビジネスマンとして通用しそうだと思った事が、真琴の脳裏をかすめる。やはりあの感覚は嘘ではなかった、と今更ながらに思い返し、真琴は警戒を緩め笑みを返した。ただの山男が盗聴を見破れる筈がない。

 本当に、

 何者——?

 なのか。

 真琴は敬意を示して感嘆した。

「やっぱり詐欺師ね」

 その左手に控え目に映る腕時計は、目立ちはしない。が、見る者が見ればその希少性に慄く逸品だ。それを使い回す者など、

 やっぱりこの男しか——

 真琴の周りにはいないのだ。世界の富豪なら何とも思わないだろうが、そのような者達は真琴の心には残らないのだ。真琴が傍に寄る事を許す者の中で、それが出来る図太さを持つ者など

 他に——

 いない。

 この期に及んで、またそれを再確認した真琴だった。


 で、会社の応接ソファーで初対面となった訳なのだったが。

「スーツなんて持ってたの?」

「大至急用意したんですよ。安物揃いで」

「わざわざここへ乗り込むために?」

「まあ、似たようなもので。コートだけは予算オーバーで諦めましたが」

「それはともかく、もうちょっとマシな資料を用意しなさいよ」

 殆どままごとのそれに「ひっくり返りそうになったじゃないの」と、まずはとりあえず抗議しておく。とは言え、最後の最後まで変装を見破れなかったのは自分の落ち度、としたものだ。が、

「普段やりもしないウインクなんか連発して」

 全く、と追加でもう一押し。

 敵を欺くにはまず味方から、とはよく言ったものだ。柄にもないその合図が輪をかけて、変装した先生だと言う思考を遠ざけた事も事実だったが、それだけ上手く化けたのもまた事実である。感嘆する一方で、今更ながらに先生の施設へ押しかけ視察した時の、自分の有り得ない変装が恥ずかしくなった。

「少しはシビアなビジネスの場ってのを考えなさいよ」

 だから、憎まれ口を叩いてはごまかす。

「急いでましたからね」

 有り合わせで間に合わすしかなくて、と言いながらも先生は、スマートフォンをスピーカーモードにしながらテーブルの上に置いた。

「これを聞いて貰うためです」

 男の声が聞こえて来るそれを

「リアルタイムですよ」

 先生が小声でつけ足す。若干籠ったような声に、真琴は聞き覚えがあった。秘書課を挟んで接しているもう一つの大部屋の主。社長である。上級職採用で、グループ内の役職を歴任して来たこの男は、既に還暦を過ぎている。旧来型の古臭い思想の持ち主で、保身に勤しむ典型的なサラリーマン社長の代表格だった。ろくに仕事をせず責任は他人になすりつけ、旨い汁はとことん吸い尽くす節操のなさに、真琴は呆れたものだ。面倒臭い案件をとことん負わされ、何か施策を用意すれば、波風を立てる事を嫌ってのらりくらり躱している。そんな狸である。そのくせ人事や利権に聡いものだから始末に負えない。

 もう一人の声は、少し若振りのようだが、聞き覚えがなかった。

「もう一人は、高千穂の公設第一秘書です」

「えっ!?」

 思わぬ名前に真琴は、スマートフォンの画面上でボイスレベルゲージが上下する様子を覗き込む目を上げ、先生を見た。

「しー」

 人差し指を口の前で立てる先生の仕種で、真琴は声のトーンを落とす。

「まさか」

 先月来、夜な夜な海外経由で実家の情報獲得工作を行い、眠れぬ夜を送って来た真琴だったが、母に突きつけられた期限も既に残り二週間となり、最近では諦めモードで早く休む事が多くなっている。

「まあ、とりあえず——」

 先生がスマートフォンを指差し、耳を傾ける素振りをして見せた。代名詞や隠語が多く、これだけでは何の事を言っているのか良く分からないのだが、その話し振りは殆ど時代劇の悪代官と越後屋のそれである。一聞して金と利権のやり取りを疑わせるその内容に、真琴は前のめりになり拳を固くした。が、しばらくすると、ついに核心に迫る事なく、秘書は話を畳んで社長室を出て行ってしまった。

「これ多分、贈収賄よね」

「ええ」

 先生は、スマートフォンを手に取ると、

「高坂重工の株価——」

「え?」

「今日で一〇連騰ですよ。日々の上がり幅はそれ程じゃありませんが」

 今度は、ワイヤレスイヤホンを持ち出し真琴に差し出した。

「社内では、流石にあからさまに尻尾は出さないようですが、社外では中々赤裸々です」

 その中で、サカマテ専務室の盗聴を疑わせる会話があり、堪忍袋の緒が切れたらしい。しかし会社に乗り込んで来てのこの所業は、これまでのお互いの関係性の崩壊を意味したものだが、

「もう、我慢出来ませんでした」

 すみません、と先生が拳を握り締めてみせた。

「そう——」

 真琴はイヤホンを受け取り、恐る恐る左耳に持って行く。

「汚く使っちゃいませんけど、何なら専務の私物があるようなら、それにしますか?」

 そうではなかった。

 まず「専務」と言うその呼ばれ方に、一瞬戸惑った。会社でその立場にいるのであるから、そう呼ばれる事は当然だ。先生も、偽装工作してまで会社に乗り込んで来たのであるから、逆にそう呼ばないと不自然極まりないではないか。

 そうとは頭では理解して

 いるけど——

 やはり、先生にそう呼ばれる事は、何処となく一抹の寂しさを覚えた。真琴がふと、そんな事を頭で巡らせている前で先生は、

「録音データは音が小さくて。ボリュームを上げるとノイズがひどいんで、イヤホンでないと聞き取りにくいんです」とそれを勧めて来る。が、

「どうか、しましたか?」

 真琴の小さな異変に気づいたようで、言葉を切った。

「いや、そうじゃないの」

 真琴は軽く手を振って、誤解を解く仕種を見せると、

 寂しいだとか——

 思っている場合ではない事を自分に言い聞かせながら、イヤホンを耳につける。

 ここに知りたかった答えが、

 ——あるのか。

 何よりの動揺は、ここ一月、奔走して来た自分を上回る成果を、普段は冴えないこの男が獲得して持って来た、と言う事だった。そもそも先生が、そんな情報を収集している事すら、全く知らなかった真琴である。

 一体、

 何のつもりで——

 情報を集め、それを伝えに来たものか。戸惑いを含ませながら、スマートフォンの画面に大きく表示された再生ボタンを押した。イヤホンを介して脳内に入って来た声は、先程の秘書と思われる声の一人語りである。

「電話音声の相手方は、恐らくサカマテの社長さんです」

 抑えた声で先生が注釈を入れた後、聞こえて来た内容は、

「次世代戦闘機開発——」

 現在政府が、防衛用品御用達の国内防衛大手に依頼している「国産次世代戦闘機開発計画」の主体を、開発の遅れとそれに伴う業績不振を理由に高坂重工に変更する、と言うものだった。一度決まったものを、もっともらしいこじつけで横車を押そうと言うその裏で、産業スパイの横行と悪辣なヘッドハンティング等により、新しく受注母体になろうとする高坂側の確かな根拠作りと、それをまかり通そうとする政財官を巻き込むあからさまな金の流れ。

 真琴は途中で再生を止めて、イヤホンをテーブルに置いた。全てを聞くまでもない。この情報に接したならば、株価の連騰はその戦闘機開発移譲を折り込んだ

「自社株買いのインサイダーね」

 である事は間違いなさそうだった。

 つまりは状況は、形振り構わずその情報に接するグループ内の亡者共が、その株を買い漁る程に固い、と言う事である。

「どうしてこうも分かりやすいのかしら」

 思わず天井を仰いだ真琴は、小さい嘆息の後「灯台下暗しとはまさにこの事だ」と額に手を当てうなだれた。

「重工は、うちの製品とタイアップして、原発デブリ回収の新技術を発表したばかりでね」

 真琴はまんまと別情報を掴まされ、目眩しを信じこまされていたのだった。

「確かに言われてみれば——」

 地味な動きに騙された。

 株価は上がるとは思っていたが、気づいてみると上がり始めて既に三割増しになっている。原発デブリ回収の新技術は、確かに光明ではあるが、それで劇的に何かを為せるような物ではない。ここまで株価が上がるのは、冷静に考えれば不自然だった。

 どうしてこんな事が——

 分からなかったのか。

 真琴は堪らず自嘲し、

「うちの社長は、あからさまに創業宗家を嫌っててね」

 俯き加減に、ぼそぼそ口を動かし始める。

「グループ内での影響力低下を危惧して、私の存在が邪魔なのよ」

 その証左が、卓上に並べられた盗聴盗撮機材と言う訳だった。社員を使って仕掛けさせたのだろう。怪しまれずに頻繁に入室出来る秘書課か総務課あたりの社員である事は、想像に易しい。

「まあこれは、ウチの社長だけじゃないんだろうから」

 徐々に俯く角度が深くなる。

 グループ内の反宗家派が高千穂のネタに食いつき、まんまと抱き込まれている様子がみてとれる。このまま放置すれば、いずれ何処かで反旗を翻すのではないか。そんな可能性が俄かに現実味を帯びて来る。一にも二にも、株式会社内での力は株の保有数だ。

 高坂グループの一角を崩そうとするその裏で、高千穂は

「高千穂で、宗家の利権を狙って、これを土産話に——」

 宗家の中にも切れ込もうとしている訳である。先生の、そのつけ加えに

「母が喜びそうなネタよね」

 真琴は嘲笑した。

 保守派の防衛族たる母には、近年稀に見るネタである。典型的な利害一致の構図であり、手も足も出ないとはこの事だった。高千穂が目論む事など、分かってしまえばこの程度の事であり、真琴もその類のネタは漁ってはいたのだ。が、その尻尾を上手く掴めなかったのは、やはり、母の手際と言わざるを得ないものなのか。それにしては、高千穂に抱き込まれているグループ内の反宗家派の動きはどうするつもりなのか。既に名義を変えて、反派がそれなりの株が握っている、と見るべきだが。

 自分が絡まないのであれば、真琴としてはお手並み拝見、としたものだった。正直なところ個人的には、実家の会社がどうなろうと別に何ら気にならない、と言う割り切り方をしている真琴である。実家にすがるどころか、一切の関係を断ちたい、とさえ考えているぐらいだ。知った事ではなかった。

 が、現実として、会社は多くの社員を抱え、その生活を支える源となっている。最早私怨で放置する事が許されるようなレベルではなかった。そしてそう言う自分は、宗家とグループ内へ巧みな介入工作を仕掛ける高千穂によって、宗家介入の突破口にされようとしている、と言う体たらくである。

 何にせよ、一見冴えないこの先生が、これだけの推測を可能にする程の情報をすっぱ抜き、突然目の前に現れた、と言う事実が意外過ぎた。どちらかと言うと、今の真琴にとってはその方が驚きだ。

「しかし、良く抜いたものね」

 先生は先生で、独自に高千穂サイドの動きに抵抗していた、と言う事だった。それも明らかに、素人レベルを逸脱しているその動きは、只々真琴を驚かす。

「褒められた手口じゃありませんけど」

 先生は言う割には悪びれる様子もなく、さらっと流すように吐いた。

「目には目を、ってヤツで」

 高千穂の選挙事務所をつけ回していたところ、秘書が調子づいて饒舌になり、思わぬネタを漏らした事から形振り構わず押しかけた、と言う事だった。でなくては、こうもあからさまにお互いの関係性を壊すような行動に出る筈もない。少なくとも先生は、これまでに何度もその機会があったにも関わらず、それをして来なかった。誕生花を贈って来たとは言え、やはり未だに本名で呼ばない。つまりは真琴の心情を慮っての事であり、結果としてその真琴自身の錆が、それを瓦解させると言う皮肉を生じさせた事に、真琴は思う様打ちのめされた。

「良く調べてくれた事は嬉しいけど、これ以上はもういいわ」

 真琴は顔を上げて、先生を見て言った。

 この男のやる事だ。この調子なら、とことん走ってしまうような男である事は、これまでの有事の対応が如実に物語っている。しかし今回の件は、明らかにレベルが違い過ぎる。これ以上の深入りが察知されると、闇から闇へ葬り去られる可能性が高い。

「これ以上は、巻き込めないわ」

「まだ大丈夫ですよ」

「あなたは母を詳しく知らないから」

 目的のためなら、手段を問わない容赦のなさでは言うに事欠かない。元首相の父を持つ高千穂はおろか、その元首相ですら恐れる程のフィクサーである。

「ヤバくなったら逃げますから」

「もうヤバいわよ」

「天涯孤独ですから、逃げる事に関してはお手の物なんですよ」

「天涯孤独だから、葬り去りやすいんじゃないの」

「どの道もう遅いですよ。あなたと私の事は、母上様もご存じでしょう」

「だからよ!」

 真琴はつい感極まって叫んでしまった。それを浴びせられた先生が、一瞬怯む。それを見てとった真琴は、

「もうこれ以上、泳がせてはくれないわ。この辺が潮時よ」

 お願い、と感情が少し溢れた勢いそのままに、テーブル越しに向かいに座る先生の手を掴んだ。

「天涯孤独なんて——」

 どうして言うのか。その言葉が続かない。自分が数に入っていない事が悔しいなどと、そのらしくない有り得なさに自分でも驚く。

 先生は少し動揺を見せたが、掴んだその手を逆に取られると、人差し指を立てられた。そのまま真琴の口元に近づけて来る。

「余り大声を出すと、聞き耳を立てられたり、人が来ます。専務」

「——うん」

 苛立って他人に諭されるなど、またその有り得なさに真琴は密かに恥じ入った。本当にこの子供染みた感覚など、今までの真琴の人生からすると、とにかく一々有り得ないにも程がある。が、思い通りに行かないから苛立つのとは、少し違った。

「じゃあ、こうしましょう」

 先生は急に、また声のトーンを戻して、

「もうちょっと泳がせてから、捨てませんか」

 何の理があるのか、まだそんな妙な食い下がり方をして来る。

「捨てられる訳ないでしょ!? 交渉もせずに捨てたら消されるわよ」

「そんなもんですか」

 問題にしない先生に、真琴は

「口先だけじゃない事は分かったから、聞き分けなさいよ」

 うなだれて瞑った目の前で手を組んだ。

 私に絡んだら——

「言ったでしょ。私は面倒臭い女だって」

 ——ろくな事にはならない。

 そう自分に言い聞かせては、色々な物を諦めて来た身である。慣れたものだ。

 先生は、そんな真琴に

「新生高坂グループには、不戦不羈の原則がありましたよね?」

 説明臭い一言を浴びせた。

 真琴は思わぬところを刺されたと言わんばかりの顔つきで、また先生を見る。

 不戦不羈——。

 戦前に軍需産業界で一大財閥を築き上げた高坂財閥は、戦後財閥解体の憂き目に合い瞬く間に没落した。それを憂いた当時の当主たる真琴の祖父が、再起の折に掲げた経営理念である。読んで字の如く、戦わない、束縛されない、つまりは戦争に加担しない、国の言いなりにならない、と言う意味だ。敗戦に際し、国家に対してではなく、国民に寄り添う経営へと方針転換をした新生高坂宗家は、真琴の祖父の先見の明により奇跡的な復活を遂げ、一代で新生高坂グループを再構築するに至った。その原則は、復活から数十年が経過した現在も守られているのであるが。

「ご実家との確執を抱え、殆ど家の事などどうでもよくなっているあなた自身が、皮肉にも利用された上、その汚名を被らされる事になります」

 国の次世代戦闘機開発主体の受注だけでも、不戦不羈のどちらも破るに飽き足らず、不正資金や利権塗れの何でもござれの横行で、文字通り形振り構わずまかり通そうとするなど、高坂に有るまじき泥濘であり不名誉にも程がある。しかもそれを、家の名誉など眼中にない、最もかけ離れた立ち位置にある真琴がネタに奉られて泥を被らされる訳である。

 真琴が以前、武智邸で高千穂に「政治家と国家権力が嫌い」と言い捨てた根本は、辿ればこの理念が出所であった。もっともそれは、無闇やたらに嫌いと言う訳ではなく、どちらかと言うとろくなヤツがいないから仕方なく嫌い、と言う意味である。高坂の理念の意味合いも、何も革命的思想の醸成を唆かすような意味ではなく、国との距離を保った上で、一定程度の親和性を含ませている、と幼い頃の真琴は教育され理解したものだった。その考え方は、真琴なりにそれなりに健全な思想だと感じたものだったのだが、親和性と言われたところで、国家の中枢を牛耳る人間にろくな人間は居らず、寄り添う気になれない、と言うのが本音である。

 そうした女が、国家絡みの利権の餌食にされようとしているのだ。それが理解出来る者ならば、頭に来て当然だった。

「私は我慢ならないんですよ。いい加減いいように使われて、それに甘んじているあなたが」

 いつになく顔に情を乗せ、熱く語る先生は、

「ここらで噛みつかないと、一生言いなりになります」

 容赦ない追い討ちをかけた。

 ここらで噛みつけ、

 ——と来たか。

 そんな血気を帯びるような人間には見えなかったものだが。やはり今更ながらに、この男はいざとなると牙を剥き始める、と思った。普段は飄々と、何処かしら仙人めいた浮遊感を帯びながら、その内側に不遜な猛々しさをたぎらせ、いざとなると牙を剥く。それが言葉になってついに出始めたのだ。

 つまりは、

 この虎こそが——

 この男の本性なのだ、と思い至る。

 可愛らしいなどと言っていた自分は、本当にこの詐欺師っ振りに騙されていた事を、今更ながらに思い知らされたものだった。これまでと言うもの、下心をたぎらせてはなぶるように自分を眺める男共を「外見に囚われては盛っているゲスども」などと散々に蔑んで来たものだったが、上っ面しか見て来なかったのは、

 私も——同じだったんだ。

 密かに自嘲する。

 が、それも

 ——これまでね。

 もうこれ以上は、この男に関わりのない事だ。自分から離れさえすれば、丸く収まるのだ。

 何故、偽名が「タケチジロウ」なのか、少し気になっていた。その場しのぎにしては、少し設定が細かいのではないか。それを訊きたかったが、もう止めた。答えを聞いたところで虚しくなるばかりだ。

「良く勉強して来たようだけど——」

 前置きした真琴の

「分かったような事を言ってくれるじゃないの」

 その顔色が、俄かに変わった。

「ええ」

 牙を剥き始めた先生も、引く姿勢を見せない。

「あなたなら、流石に命までは取られないでしょう。なのに何故、徹底的に戦わないんですか?」

「テロリズム的手法って言ったら、ご理解頂けるかしら?」

 言われた途端に、先生の身体が一瞬痙攣し、目が少し大きくなった。それを確かめた真琴は、少し顔の緊張を解いて小さく息を吐く。

 不特定の他者を人質に、本丸である国家を脅すと言うテロリズムのそれは、罪のない人々が標的になる事にこそ問題の真髄がある。

「でも何処かで割り切らないと、いつまでもつけ入れられますよ」

 気まずさの中にも、無理矢理ゴリ押そうとする先生のその言葉は、分かりやすく痛々しかった。

 つけ込まれる事を理解している国家は、当然に人質救出の優先順位を下げる。それは、今後人質を取ったとしても取引出来ないと言うスタンスを知らしめるためだ。そうして実行に移されるテロ組織に対する掃討戦が、また新たなテロを引き起こす。文字通りの負の連鎖は、その解決策がまるで見出せない世界的懸案である。が、それはあくまでも、テロ組織と国家の関係性の話だ。

「じゃああなたは、愛する人を人質に取られて、形振り構わず本丸に攻め込めるの?」

 言われた先生は、急転直下押し黙った。それを見た真琴は、容赦なく追い討つ。

「実家の近くに、兄が住んでてね」

 真琴が諭すように語り始めた内容は

「一六になる一人息子を預かって貰ってるの」

 途端に先生の顔が無念そうに歪み始めた。

「高千穂との間の子だけど、一応私にとっては血を分けた息子だし」

 ——とは、

 言ったもののそもそもが、顔が分かる家族間では、テロリズムに対する原則が例えられよう筈がない。テロ組織も、赤の他人を被害者にするからこそ、思い切った事に及ぶ事が出来るのだ。赤の他人ならば、命に対する呵責は小さい、と錯覚しがちである。だからこそ、そもそもそうした原則や手法が、血が通った家族間での諍いにも有り得る、と言う事をちらつかせる事にこそ無理があると言うものだった。そんな事は真琴も分かり切っている。

「余り妙な抵抗をしてると、今後何処を狙い撃って来るか分かったもんじゃないし」

「生意気言ってすみません」

 先生は即座に、座ったまま深々とテーブルに額をつける程頭を下げると、そのまま固まった。

「皆まで言いたくなかったけど。誰かさんが相変わらず鈍いから」

 が、真琴は努めて

「あなたには感謝してるわ。でももう終わり。分かってくれたんなら、もう帰ってくれないかしら。仕事中だし」

 冷たく言い捨てたものだった。

 ——だって。

 仕方がない。

 あなたは——

 他人の命をちらつかせないと引き下がらない。そう言う人間だと言う事は、もう痛い程分かっている。

「力不足ですみません」

 先生はそう言うと、少し悔しさを滲ませながらも、極あっさりと専務室を出て行った。

 部屋の扉が閉まるのを見るなり、

「ごめん——」

 真琴は誰に言うともなくか細く呟くと、両手で顔を覆った。一気に鼻が緩む。

 血を分けた息子は確かに大切だ。だがその存在は、真琴にとっても母にとっても、高千穂にとっても所詮は身内だ。それをどちらかの陣営が手をかけようものならば、逆に跳ねっ返る大義名分を得たようなものである。であるから、この期に及んで身内の大事を優先するなど、絶対に、

 有り得る訳がないじゃない!

 それが、悔しかった。

 自己犠牲の精神に富む先生の事だ。その御身の大事では、当の本人を引き下がらす事が出来ない事は分かっていた。だから、口惜しくも自分の息子の事を引っ張り出すしかなかった。その自分の拙さと、身内を優先したと思われた悔しさと、先生御身の大事を語る事が出来なかった心残りに、真琴はまた、顔を覆った両手を静かに濡らした。


 一二月下旬。

 世間はすっかりイベントモードになっていた。山奥の施設内でも、母子施設の子供達やその周りを取り巻く職員を中心に、何処となくそわそわしたものが漂っている。その只中において、

「年の瀬だなぁ——」

 取り残されたかのような宿直室内で、一人非番の朝を迎えた具衛は、テレビを前にぼんやりニュースを眺めていた。

 夕方から夜にかけては、子供達の襲撃を受け喧騒に塗れる宿直室だが、子供達が就寝すると、以降は基本的に一人である。同僚もいなければ、有事の待機要員であるため、掃除、見回り、戸締まり、電話番の他は、これと言った目立った仕事もない。玄関傍の目立つ立地に位置しながらも、一種の忘れ去られた空間。それが宿直室だった。

 その二日に一回の主である具衛は、朝っぱらからすっかり黄昏モードである。それは何も今日に限った事ではなく、ここ最近はずっと、

「ふわぁーあ」

 この調子だった。

 ただでさえ、ピンぼけしたような雰囲気を醸し出す冴えない形であるにも関わらず、いつも以上に締まらない。しっかり仮眠も取れており、眠い筈はないのだが、朝っぱらから活力が出ず生欠伸が出る始末である。

 仮名の仕事場へ押しかけて以来、曖昧な関係はついに終了した。待っていたのは、予想通りの破局である。メールも来訪も途絶え、文字通り具衛は職場でもプライベートでも、世間から忘れ去られた存在となった。農閑期のど真ん中であるここ最近は、農作業もない。ひたすら職場と図書館を歩いて回る日々。狭いコミュニティーでのストレスのない生活。それはこの春が来るまで、具衛が望んでいた生活に限りなく近いものだったのだが、いざ体感してみると、強烈な侘しさが押し寄せて来る毎日だった。

 春先から仮名と出会うまでの二か月と少しの間は、ようやく俗世の混沌から雲隠れ出来たものと、その侘しさを満喫していたものだった。が、仮名に押しかけられ始めると、それが日常となってしまい、九月に仮名が病気療養した時のもどかしさと言ったらなかった。

 今回は、はっきりとした物別れの挙げ句である。九月の時と比べると、ある程度は踏ん切りがついてはいたが、それでもやはり、その喪失感は大きかった。

「あー今日も帰りに図書館寄るかなぁ」

 誰に言うともなく、諸手を上げて伸びをしては、また欠伸をする。テレビの向こう側では、クリスマスイブがどうたらこうたらと朝っぱらから熱が入っており、サンタクロース姿のお天気お姉さんがはしゃいでいた。

 ——鶏でも喰らうか。

 今は色気より食い気である。

 図書館に寄るついでに、その近くのスーパーに立ち寄る事を思いついた。スーパーで肉を買うなど一大事だ。実のところこの男は、肉は猟師のお零れを貰う事が多く、それを干し肉にしたり燻製にしたりしては喰らって生きているため、スーパーに顔を出しても買う物と言えば、安くて腹が膨れる豆腐と鶏卵を買い込むぐらいの事だった。野菜に至っては、ほぼ農作業の駄賃代わりに食い切れない程貰っては、やはり干したり糠漬けにしたりしている。山小屋で生活するようになってからと言うもの、実は一度も買った事がないと来ていた。農閑期で作業の手伝いがない今時分でも、職場や図書館を行き来する何処かで捕まっては、只野菜を貰う始末なのだ。まるでダメダメのひも男のようで、ダメになりそうな自分が怖かったが、それでも片田舎の爺婆達は受領拒否を許してはくれなかった。

「よしっ! 鶏肉買って帰ろ」

 だからスーパーで肉を買うなど、中々の一大決心なのだ。そんなことで力むのが、また如何にも小物めいていて情けない。が、事実、小物なのだから仕方ないのだが。

「はぁ——」

 また、気の抜けたような声を出しては溜息を吐く。すると、まるでその体たらくを見兼ねたかのように、突然ちゃぶ台上に置いているスマートフォンが、不気味なバイブ現象で異様な小刻み音を室内に轟かし始めた。

「うおっ!?」

 電話の着信である事に気づくのに数秒を要した具衛が、慌てて表示を確かめると「大家さん」とある。宿直中はおろか、普段電話などろくにかかって来ない具衛である。前回の電話など、とっくの昔に記憶から消え去ってしまっていたものだ。その久方振りの電話に少し緊張して出たところ、

「宿直が明けたら、施設にタクシーを呼んでおくから、それに乗ってすぐにウチまで来い」

 と言うものだった。

「はあ、分かりました」

 相変わらず気の抜けたような返事で電話を切ると、後数分で宿明けであると同時に、既に玄関先にタクシーが一台止まっているのが目に入る。

 ——何なんだ?

 タクシーに乗るなど、電話着信以上に遥か昔の記憶外である。それも、歩いて三〇分程度の位置の家に向かうのにタクシーなどと、どんな大仰だ。

「これは——」

 何かやらかしたか。脳内を疑念が渦巻く。表立ってはやらかしていない筈だ。が、その実裏では事欠かない具衛である。詳細な説明もなく、電話を切られた事も気になった。

 ——まあ、いっか。

 どの道、後の人生も世捨て人を貫いて、ふらふら足元確かからずの冴えない人生である。

 鬼が出てようが蛇が出ようが——

 宿明け時刻となるや、事務所に退所挨拶を済ませると、具衛はそのまま裏口の下駄箱で靴を履き替え、玄関に止まっていたタクシーに乗り込んだ。

 とにかく、

 帰りに図書館と鶏肉——

 だ。が、これは予期せぬ動きにより、あえなく瓦解する事を、この時の具衛は知る由もなかった。


 タクシーは五分もかからず武智邸に着いた。正門前で降車しようとすると勝手に大仰な門が開いて、運転手が何も言わずそのまま車寄せまで入る。運賃を払おうとすると「武智から貰う」と言われ断られた。

 タクシーがあっさり邸宅を出て行った後、車寄せに残された具衛の目に真っ先に飛び込んで来たのは、白色の見慣れたスーパースポーツクーペの「アルベール」である。

 どうやら——

 捕まる向きは消えたらしい。

 ヤクザ者や政治家を相手取った立ち回りによる呼び出し、ではなさそうだ。警察の匂いも、その人気も感じない。

 では、

 ——何事?

 か。

 恐る恐る玄関引き戸を開けたところ、いきなり目に飛び込んで来たのは、広い玄関の上り框に座って歓談している武智と仮名だった。

「な——」

 思わず絶句する具衛に

「おはよう」

 仮名が先手を打つ。

「え?」

「え? じゃあるか」

 あいさつを返さんか、と武智が呆れて口を挟むと、具衛はややあって頭を下げながらも、ようやくぼそぼそと返礼を口にした。

「では、明日の宿直までには戻りますので」

 仮名が立ち上がると、武智が具衛を手招きする。

「鞄を寄越せ。どうせ大したもんは入っとらんじゃろう」

 主な中身は、図書館から借りている本である。

「はぁ?」

 具衛が戸惑いながらもリュックサックを差し出すと、武智がその代わりに差し出したのはパスポートだった。

「いい若いもんが、すっかり厭世的になってしもうて、山に籠っちゃあ旅の一つもせん、と、つい愚痴を言うたら、高坂様が連れ出してくださると言われての」

 具衛は事情により、武智にパスポートを預けている。その事情に絡む武智は「そこまでする必要はない」と言ったものだったが、具衛が納得せず無理矢理押しつけたのだ。呆然として、自分のそのパスポートを受け取ろうとしない具衛に、

「ほれ」

 武智は更にそれを突き出した。

「何ですか一体?」

「じゃけえ、旅行に行って来いって事じゃろうが」

 痺れを切らした武智が具衛のリュックサックをむしり取ると、代わりに無理矢理パスポートを、お馴染みの綿パンのサイドポケットに捩じ込んで来る。

「他に必要な物はありますかな?」

「いえ、あとは身一つで結構です」

「そうですか。では不束者ですが、どうぞよしなに」

「お預かりします」

 後は具衛の目の前の二人が勝手に話を畳んでしまった。

「ほら、行くわよ。新幹線に遅れるわ」

「新幹線?」

 そんなお金持ってませんよ! と情けない声を上げる具衛に構わず、無言で仮名が片腕を掴む。

「なっ!?」

 と、短い反駁を吐いた時にはもう遅い。

「あたたたた!」

 返事も何もあったものではなく、例によって腕を決めた仮名に軽く捻り上げられると、無理矢理歩を進められてしまった。


 同日一〇時過ぎ。

「どうする? 何かいる?」

 気がついたら、新幹線のグリーン車に乗っている。

 窓際に座らされ、

「え?」

 みるみる流れて行く景色を眺めて唖然としている具衛に、通路側の仮名が会話にならないと見て、足止めしていたワゴンサービスにコーヒーを注文した。

「ほら、これでも飲んで機嫌直しなさい」

「別に機嫌が悪い事は——」

「なら良いけど」

 仮名は勝手に、コーヒーを啜り始める。

 その一時間後には、福岡空港のラウンジにいた。それも航空会社が運営する最上級のラウンジである。

 そこで目を瞬かせては、

「一体全体——」

 引き続き呆気に取られている具衛は、ゆとりのあり過ぎる質感の良いソファーに背を預ける事が出来ない。背筋を伸ばし、尻を座面の端に申し訳程度に置いて、所在なく座ったものだった。

「こう言うソファーは、背中を預けた方が座りやすいと思うけど」

 片や小さく噴いた仮名は、その隣で当然の余裕振りである。

「腰が悪くなっちゃいますよ。座り慣れてないし」

「そう?」

 座るどころか、ラウンジに入る時も一悶着あった。具衛の形は、宿明けのままである。上着は地味なダウンジャケットで、下はオールシーズン仕様の安物綿パンだ。どう考えても、最上級ラウンジに入るような形ではない。

「私は一般ロビーにいますから」

 と言って逃げようとするのを、例によって仮名に片腕を極められてしまい、無理矢理ソファーに座らされた。

「心配しなくてもあなたの身形なんて、誰も興味ないわよ」

 堂々としてなさい、と言う仮名は、ライトグレーのロングコートとデニムパンツであり、相変わらずスッキリとしていて良さそうな身形だったが、やや地味にも思えた。具衛に合わせた、と言う事なのだろう。

 中に入ってからは、流石に二人とも上着は脱いでおり、具衛はライトジャージの上、仮名はベージュのニットセーターだが、具衛は着ても脱いでもはっきりしない青色系統の着衣で、冴えない見栄えが辛気臭さを倍増させる。しかもジャージだ。ドレスコードはないにせよ、

 流石にジャージは——

 気後れする事甚だしい。

 片や仮名は、何を着ても良く似合い、釣り合いが取れていない二人である事は何の疑いもなかった。

「それはあなたの思い込み」

 が、仮名は全く取り合わず、

「シンプルで嫌味っ気がないから、私は良いと思うけど」

 余裕たっぷりに長い足を組んでは背中をソファーに預け、大物然としている。実際のところ、問答無用で大物なのだが。

 そうこうしていると、ラウンジアテンダントが搭乗案内にやって来た。相変わらず慣れた調子で応対する仮名に

「行こう」

 声をかけられると、仮名がスマートフォンをかざしただけの極めて簡素な搭乗手続きを経て、お次は国際線のビジネスクラスが待っていた。

 やはり窓際に座らされた具衛は、その大きなシートと至れり尽くせりの対応に、思わず溜息を吐く。

「落ち着かない?」

 通路側の仮名が、流石に気遣わしげな色の声を寄越した。

「そりゃそうでしょ」

 ここまで来ると、開き直り気味の具衛だ。

「グリーン車も、高級ラウンジも、ビジネスクラスも初めてですからね」

 自信満々に答えると、仮名が小さく鼻で笑ってみせた。

「この路線は残念な事に、ファーストクラスがなくてね。ビジネスなのが悔しいわ」

 一路南に向かい始めた飛行機の眼下には、冬の寒空を突き抜けた先に展開していた暖かそうな海。

「まあ往生して、ちょっとつき合いなさいな」

 CAが早速、機内食のメニューを持ち寄り注文を取り始める中、やはり仮名が慣れた調子で、具衛に確認する事なく一方的に魚を頼んだ。

「肉は、夜に食べるから」

 と、言い置いた仮名が、

「大抵の人はね、私のためだって言ったら、大抵の事は許してくれるもんだけど」

 珍しく厚かましさを前面に出して、屈託なく微笑む。

「もー好きにしてください」

 具衛が呆れて見せると、

「ありがとう。思う存分そうするわ」

 仮名は今日初めて、本当に嬉しそうに笑って見せた。


 同日夕方。

 約四時間の空の旅を経て、やって来たのは常夏の島グアムだった。

「まだ明るいうちに——」

 厳冬期を控えた日本から、こんな夏に来れるとは。

 空港に降り立つと夕方五時前であり、まだ西日が残っていた。具衛は到着するなり、堪らず上着のジャージを脱ぐ。長袖ポロシャツ姿になっても、冬に慣れた身体にはまだ暑かった。

「とりあえず移動しよう」

 流石に仮名もセーターを抜いで、長袖シャツになっている。冬モードの身体に、この蒸し暑さは流石に堪えるようだ。仮名が慌ただしくタクシーを拾うと、暑さから逃れるように冷房の効いた車内に入りながらも目的地を運転手に伝えた。飛行機の機内でもそうだったが、その口から出た流暢な英語は、外見を裏切らない聡明さと経歴を裏づけるには十分だ。それだけで具衛は密かに、そんな人物と帯同している自分の社会的地位の低さに慄いた。

 何故、

 ——俺なんかと?

 連むのか。遥か南国に至っても、まずはその疑問が頭をもたげ始める。

 タクシーで、物の十分もかからず辿り着いた先は、如何にも壮観なビーチ沿いのリゾートホテルだった。

「うわ」

 車寄せでタクシーから降りるなり、やはり具衛が入りにくそうな素振りを見せる。するとそれに合わせて、やはり仮名が悪戯っぽく笑んで、わざとらしく腕を取ろうとにじり寄った。

「は、入りますから」

 渋々の体で、身一つそろそろと足を向ける具衛に、仮名が小さく噴く。

「あなたはロビーで待ってなさいよ」

 そのまま一人でフロントに向かった仮名を見送ると、具衛は言われたとおり、手近なソファーに足を向けた。

 天井の高い開放感満点のロビーにある応接スペースには、やはり具衛にとっては座り心地の悪そうな、然も立派なソファーが設置されている。身体は疲れてはいないが、朝からの目紛しい展開で頭はのぼせていた。気を落ち着けようと、とりあえずそのソファーに尻を置いてみる。次に目を落ち着かせようと、少し遠くを見るとビーチが見えた。如何にも西日が映えるオーシャンビューは、朝、武智から電話を受ける直前まで、具衛には関わる事を全く予想し得ない絶景だったのだが。

 楽園って——

 こう言う所を言うものか。

 口を半開けにし、ぼさっとしているところへ仮名が戻って来た。

「温泉があるから、入ってらっしゃいよ」


「あー」

 グアムに温泉があるとは。浴槽で大の字になる具衛の目には、日没を迎えた水平線が見えた。

 この展開は——

 何なのか。

 物寂しい山小屋で、一人静かに鶏肉でも喰らうつもりが、気がつくと異国の南国リゾートに身を置いている。

 ——意外に、近い。

 などと思いながらも、これまでにこのような経験をして来なかった具衛にとっては、

 たまにはこう言うのも——

 満更でもない。そう思うと、仮名が以前

「リゾートには日本人が押し寄せていて煩わしい」

 などと言っていた事を思い出した。年末年始を控え観光客が多く、壮観なホテル内ですら何処か騒ついた感があるものの、日本人の姿は見当たらない。かく言う今も、浴室内は日本人どころか、夕食前で入浴者自体が少ないようだ。それでもちらほら見える人影は、サイズ感が具衛より二回りは大きいと思しき、顔の彫りの深い外国人ばかり。

 が、それはともかく、こう言う事は元手が必要な筈だった。そう思い始めると、急に居心地悪さが込み上げて来て、そそくさと浴槽を出る。出たまでは良かったが、脱衣所に行くと、着ていた物が何故かバスローブに代わっているではないか。

「あれぇ?」

 一人で声を裏返らせつつ、目を剥いて手首につけたロッカーキーのバンドにある番号とロッカー番号を確かめる。が、何度見返しても同じ番号だ。そしてバスローブの上には、部屋番号と思しき四桁の数字が並んだメモ紙。

「こんなの着た事ないんだが」

 バスローブ一枚でホテル内をウロウロさせられ、

「こんな姿は、マナーに反しないのか?」

 などと及び腰でぼやきながらも、とりあえずフロントに戻り貴重品を受け取ると、そのままベルマンに連れられエレベーターへ案内された。メモの四桁番号の上二桁からして、恐らくは高層階である。

 何だか前にもこんな事が

 あった気が——

 と記憶を掘り返すまでもなく、宇品の花火大会を思い出した。あの時も同じようにベルマンに連れられて、慣れないホテルの高層階へ押しやられたのだ。が、それでもあの時の着衣は浴衣であり、薄いとは言え立派な外出着だった筈だ。対して今のバスローブ姿は、それをはぐればまさに素っ裸と言う際どさの、しかも部屋着である。

 うぅ——。

 館内空調が、スカスカした股下をくすぐるようで落ち着かない。そのままエグゼクティブフロアのフロントまで連行されると、そこから先はエグゼクティブフロントのベルマンに預けられた。

 ——何なんだ?

 この重厚な接遇は。

 それをバスローブで受ける事に強い違和感を覚えながらも、メモにある番号の部屋の前まで辿り着くと、ベルマンのノックに応じて既にラフな格好に着替えたらしい仮名が出て来た。

「あら早かったわね」

 ベルマンをさり気なく労いながらも、仮名が具衛を室内に誘う。大人しくそれに従い室内に入った具衛が、然も情けない調子で、

「また服が——」

 と言いかけると、先走った仮名が堪り兼ねた様子で「ぶはっ」と噴き出した。

「ごめんごめん! 前もあったなこんな事! 一言言っとけば良かったんだけど!」

 あははは、と、堪え切れず顔の様々なパーツを歪めながら笑う様子は、

 明らかに——

 確信犯であり、楽しんでいる事請け合いである。ひとしきり笑った仮名に、呆れて頭を掻きながらも、例によって広く頗る整えられた室内の一角にある椅子に、例によって申し訳程度に腰を下ろした具衛が、

「バスローブでウロつかせて、ひどくないですか?」

 満を持して抗議し口を尖らせた。が、

「リゾートホテルは、バスローブでウロついても問題ないのよ」

 仮名はあっさり覆したものだ。

 都市部のビジネスホテルならNGの向きが強いが、リゾート地のそれだと一般的には許容範囲なのだと言う。

「流石にタブーはさせないわよ」

 捕まったら困るでしょ、と仮名はにべもない。もっとも、はだけてしまうと捕まる可能性が強いのだが。

「どーですかね」

 やれやれ、と具衛が似合わないバスローブのまま溜息を吐くと、仮名はまた一つ噴き出した。流石に苦虫を潰し続ける具衛に、顔や喉を引き攣らせながらも

「ごめんごめん」

 一応謝り続ける仮名である。

 それでも、少しして落ち着くと、また、

「バスルームに着替えが届いてるから、着替えなさいよ」

 と来たものだ。

「え? また着替えですか?」

 今度は何に、と思いはしたが、やはりこの格好は落ち着かない。

「急ぎで洗濯して貰ったのよ。私は着替え持って来たけど、あなたは着の身着のままだったし。流石にその格好じゃビーチには行けないわ」

「ビーチ?」

「気に入ったのなら、そのままでもいいけど?」


 十分後。

 Tシャツ、ハーフパンツ、サンダル姿の具衛は、仮名と並んでビーチに面した並木道を歩いていた。下着のパンツ以外は具衛の所持品ではない。が、サイズ感は大体合っている。

「余り派手な物は避けたつもりだけど。それで少しは機嫌を直してくれると有難いわ」

 仮名が準備した物らしかった。

 オフホワイトのシャツは、グアム島の形をあしらったソフトタッチの絵柄がペイントされている。濃青のハーフパンツも、左足裾に同じペイントが小さく施されており、土産物屋から取り寄せたのだろう。が、サンダルだけは焦茶色のグルカサンダルであり、夏季に具衛が愛用している物よりも妙に質感が良かった。Tシャツとハーフパンツは大体の物をあつらえただけかも知れないが、サンダルだけはどうやら違うようだ。いつ何処でサイズを計ったものか。ぴったりだった。

「私が言うのも何ですが、ビーチサンダルみたいな物で良かったんですが」

 グアムのビーチと言えば、確かそうしたものではなかったか。

「いや、好きにさせて貰ってるだけだから」

 バスローブでは笑わせて貰ったし、と嘯くが、事実として宿直明けで風呂も入っていなければ、着替えもしていない具衛だったのだ。垢落としに対する配慮である事は明らかだった。

 着ていた服は冬物と言っても、綿パンはオールシーズン仕様であるし、ポロシャツも長袖ではあるが、素材的には綿とポリエステルの混紡品であり、やはりオールシーズン仕様だ。実のところ、袖を捲れば耐えられない事はなかった。が、やはり涼しげで清潔な服は、風呂上がりも手伝ってこの上なく心地良い。

 それならそうと——

 一言言ってくれれば良かっただけだ。その小憎らしさと言うか、照れ隠しと言うか、らしいと言えばらしいのだが。それにしても合わせて思わされるのは、その段取りと手際の良さである。

「まあ旅の思い出に、一つくらい何か残るような物があってもいいかと思ってね」

 とは、夏用のサンダルとして履き続けられる事を想定していたらしい。確かに具衛の手持ちのそれは、殆ど履き潰し状態ではあった。返す返すも、

 よく——

 覚えているものだ。

「また暑くなったら、履かせて貰います」

「お気に召して頂けたようで良かったわ」

 それでも流石に、下着だけは準備出来なかったらしい。そんな微妙な匙加減が、何となくもやもやする。

 歩いている並木道の向こうは、ひたすら海だった。既に水平線の向こうに沈んだ太陽が、西太平洋の海と空の一角を、美しい放心円状に染めている。

「雨が降らなくて良かったわ」

 セミロングの髪が海風でなびくのに構わず、仮名は横でそのグラデーションに目を細めた。

「雨? ですか?」

「グアムのこの時期は、雨季と乾季の境目だから」

 概ね年の前半は乾季、後半は雨季と言われるグアムの雨季は、仮名によると

「一日に何回かスコールがあるのよ」

 と言う事らしいが、今歩いている道には降雨の形跡は見られない。

「お陰で蒸し暑さもないし、夜は涼しいわ」

「はあ」

「グアムは初めて?」

「ええ」

 すっかり散歩のつもりで歩いていた具衛だったが、並木の向こう側に男女のウェイターが見えて来た。仮名は迷わず、その二人へ向かって進んで行く。結局、その二人の傍にあるテーブル席に座らされた。

「ここなら気兼ねなく、飲み食いしながら大話が出来るわ」

「はあ」

 今や日本だと、何処で盗聴盗撮データ泥棒つき纏いなどをされているものやら分かったものではない。

「だからあえて、こてこてのアメリカ系ホテルにしたの」

 グアムには日本人向けに日系企業のホテルもあり、慣れていなければ日本人にはそちらの方が無難である。もっとも仮名は、そう言う事に何ら不自由するとはとても思えない。その経歴だけで、それを覆す事に何ら無理はなかった。

「グアムまで来て、つけ狙われるとは思えないけど」

 念には念を押して、米国系ホテルを選んだらしい。確かに外国企業のホテルなら、日本の国家権力による妙な向きの介入は考えにくい。

 ——道理で。

 ホテル内に日本人が見当たらない訳である。そこは今回の周辺事情以外にも、仮名の志向が含まれているのだろう。

「ここならスマホの通信データや位置情報なんかも、抜かれないでしょ」

 海外ローミングでも契約していない限り圏外であり、電波が抜かれる事もない。

「ま、私は海外ローミング契約してるから、一応広島から電源切ってたんだけど」

「あ」

 具衛は福岡空港まで電源を入れていた。最悪を考えれば、出国記録を見られる可能性があるが、見られたところで要するに今手出しされなければ良いのだ。

「まあ、影響ないわ」

「すみません」

「私が行き先を言ってなかったのもあるし」

 そこで、飲み物とコース料理が運ばれて来た。

「ホテルのレストランのドレスコードで堅苦しくやるより、この方があなたは良いかと思ってね」

「それは、そうですね」

 そう言う仮名は、自分で準備していたものと思しき紺色のワンピースに着替えている。丈が長めのスッキリしたノースリーブのそれは、充分ドレスコードにも耐え得るように見えた。降雨時に備えていたのだろう。もしそうなれば、具衛などはそれこそ、貸衣装の急拵えでも何とでもなる。

 本当に——

 良く気が回る。

 世の人間が何と言おうと、具衛といる時の仮名は、過去の黒歴史が原因と思われる中傷めいた悪評を微塵も感じさせず、どう考えても具衛には出来過ぎの相手だった。

 ウェイターが、仮名と具衛のグラスに赤ワインを注ぐと、またすぐに何処かへ下がる。

「チップはいらないんですね」

 ベルマンにしても、ウエイターにしても、そのような素振りを全く見せなかった事に、具衛がつい漏らした。

「あら、少しは心得があるようね」

 仮名が、何処かしら含みのある言い方をする。

「それはまあ。海外のチップ文化ぐらいは」

 まるで無縁、と言う訳ではなかった具衛の人生ではあった。只、日本では殆どそれに無縁の生活を送っているだけに、戸惑いは大きい。

「エグゼクティブはサービスチャージ込みなのよ」

 仮名は、またあっさり言った。

「そうなんですか?」

「そ」

 払いたければ払っても良いのだそうだが、職域や役割、国や地域によって経済感覚も違えば相場も違うらしく、

「世界を股にかける人は、それなりに気を遣っているかもね」

 と言う事らしい。

「流石に詳しいですね」

「そりゃあ少しはね」

 外務省時代は、欧州内の在外公館を飛び回っていたようであるし、退官後も欧州で仕事をしていた仮名の事である。当然の向きではあった。

「日本の常識に慣れてると、正直なところ海外のチップは面倒な事もあったりしてね。実は」

 近年のチップはキャッシュレス化が進み、小銭を用意する必要もなくなって来てはいるらしいのだが、

「伝票にサービスチャージを書き忘れたりするとね、」

 思いがけぬ額のチップを請求される事もあるのだとか。

「サービスが無料って国は、少数派だから」

「まあ、そうですよね」

 それで余裕がある時は、エグゼクティブを使うのだそうだった。

 それを理由に——

 エグゼクティブを使うところが、また具衛などとは感覚が違い過ぎるのではあるが。やはりどう考えても、生きる世界が違う事を思わされると、少し寂しさを覚えた。

「まあここまで来て、周りに気を遣っても仕方ないわ。飲も飲も!」

 仮名が景気づけに、グラスを合わせようとすると、

「私は酒は——」

 具衛が一応、グラスは合わせようとしたが、言は曇らせた。のだが、

「いいじゃない。もう節制の理由はなくなったんでしょ?」

「え?」

「武智さんから聞いたわ」

 仮名がまたあっさりと、これまでの関係性を覆したものだから、具衛はグラスを持ったまま、しばらく固まってしまった。いつかは言わないとバランスが取れない、とは思っていたのだが、ついに自分の口から吐く事が出来なかった事に、今更ながらに後悔する。

「そう——でしたか」

「あなただって、私の会社まで来ちゃってるし——」

 仮名はそれ以上口にしなかった。

「何か、すみません。騙していたようで」

 重苦しく口から漏らすと、

「ホント詐欺師よね、絶対」

 全然見えないんだけど、と仮名は呆気らかんと笑い飛ばしたものだった。

「あなたの経歴。興味そそられたわよー」

「それは、私も同じですよ」

 具衛もそれには本心で同調する。

「じゃあ、もういいじゃない」

 仮名はさばさばと言うと、早速ワインを呷った。然も美味そうに感嘆するそのワインは、ボトルではなくデカンタに入っている。よく見ると、中に何やらハーブめいた物が入っているようだった。

「本格派の高級サングリア」

 ホテルにお願いして、事前に作らせたらしい。日本でなければ酒税法にはかからないが、ではグアムだとどうなのか、と具衛が口を開こうとすると、

「まあ作ってくれたから、大丈夫なのかしらね」

 と言うそれは、仮名好みの赤ワインで一夜漬けしたサングリアらしかった。

「これが好きでね」

 一度あなたにも飲んでみて貰いたくて、と端的に言った仮名がまた呷ったそれは、仮名が愛飲するには、やはりどう考えても明らかに大衆的だ。日本有数の富豪にしては、本当にこう言うところは意外、といわざるを得なかった。何かにつけて高級に盲目的であってもおかしくない階層であるにも関わらず、富豪然とした分かりやすい尺度に価値を見い出そうとしない仮名のスタンスは、何処か清々しい。

「こんな事をね、」

「え?」

「お互い、さ。もう少し、早く明かしてても良かったのかなー、何てね」

「そう、ですか」

「て言うか、もう少し早く会ってたらなー何て、思ったりしてるのよねー」

 さばさばしたその言葉の中に、何処か寂しさが滲んでいる。後に続く言葉が見え隠れするその分かりやすい導入句に、具衛はいつになく寂しさを覚えた。

 もう——

 終わり、と言う事らしい。

「そう言えば、今日は休みなんですか?」

 とりあえず、思いついた事を吐いて重々しさを払おうとする。

 日本の大企業の冬休み入りは、大抵クリスマスの後であるケースが多いものだ。有休を使わない限り、今時分はそれにはほんの少し早かった。

「あ、そうか。まだ言ってなかったわね」

 仮名は、呷っていたワイングラスの手を止める。

「私、辞めるの。年内一杯で」

「えっ?」

 絶句と言うのはこう言う事なのか。具衛は身をもって痛感させられた。結局、ごまかしの思いつきが、物の見事に話をより戻してしまい、それを聞く準備が出来ていなかった具衛は、何を吐いたら良いのか全く分からず固まってしまった。何を言っても嘘になりそうで、何も言えない。

「昨日、武智さんに離任の挨拶に伺った時、あなたの話になってね」

 その時仮名は、具衛の事情の一端を口にしたようだったが、具衛の耳は言葉を認識出来なかった。淡々と穏やかな笑みを浮かべながら語る仮名のそれは、つまりは諦めだ。その表情が具衛から音を遠ざける。

 高千穂の土産の尻尾を掴んでも、それを行使する事なく諦めた仮名は、息子大事を理由に挙げた。が、結局は

 ——非力だ。

 自分の身を気遣われたのだ。

 それが情けなく、悔しかった。

 結局のところ、自分が突っ走れば突っ走る程、中途半端な希望と引き換えに圧倒的な絶望感を与え、仮名を苦しめた。今回の高千穂の土産の件などまさにそうだ。中途半端に知るぐらいなら、あえて知らせなかった方が良かったぐらいだ。下手に気遣いをさせてしまっただけ、具衛の罪は大きい。

「ほら、乾杯」

「え?」

 訳もわからぬまま、仮名はまた、軽くグラスを合わせて来た。

「なんか辛気臭いわね。ようやく自由になったんでしょう?」

「自由?」

「おめでとう、で良かったのかしら?」

 何がめでたいのか。

「それとも、お疲れ様かしら?」

 それは何の慰労なのか。

「ほら、折角の祝いでもあるし、これが最後なんだし、飲んだ飲んだ」

「最後?」

「そうよ。私もう出社しないし、東京に帰るから。まあ、引っ越しは少し後になるんだけど」

「それはつまり——」

 次々出て来る衝撃的な現実に、つい知りたい欲が先行してしまい、本当は聞きたくない事をつい聞こうとして口が先走る。

「まあ、そう言う事ね」

 余りの情けなさに泣けて来てしまった。人前で目が緩むなど経験がないのだが、現実として異常な口惜しさに、仮名に勘づかれないように食い縛った奥歯が軋む。

「ほら、飲んでよ折角だし」

 今、飲むと——

 やけ酒になってしまいそうだ。

 自分自身に無性に腹が立つ具衛は、とても酒を解禁するような心境になれず、只々ワイングラスを掴んで固まった。

「これが、最後なんだから」

 が、消え入りそうな仮名の声に滲む無念さを感じ取ると、今尚自分の態度が仮名を苦しめている事を、この後に及んで更に思い知らされる。

 具衛は、仮名の中の思いを垣間見、グラスに入ったワインを呷った。葡萄の醸造酒である筈なのに、濃厚なバニラの甘やかな香りと、その裏で仄かに添えられたミントの爽やかさが心地良く香るそれは、アルコール分が含まれているためか、以前飲んだノンアルコールサングリアにも増して、悔しくも美味かった。


 小一時間後。

 重苦しい雰囲気を引きずったまま、大した会話をする事もなく出て来た七面鳥を喰らい終えた後、ホテルに戻ると衝撃が走った。

「あ、相部屋なんですか?」

「そうよ。この時期に急だったから、一室捩じ込めただけでもラッキーだったのよ」

「それは——」

 駄目でしょう、と口に乗せようとした具衛が、部屋の扉の前で一歩後退りしたその腕を、

「あたたたた!」

 例によって仮名がすかさず取る。無理矢理連れ込まれた室内は、少し注意を払って見渡すと、ツインベッドではあった。

「今更ガタガタ言わないの。もう一夜を共にしてるでしょ」

 自宅に押しかけた時に確かに泊まりはしたが、ベッドルームではなかった筈だ。しかも、気絶してそのまま寝落ちした手前、断じてこうもあからさまで艶かしくはなかった。何よりベッドの存在が、要らぬ動揺を掻き立てる。

「どっちみち、帰りの便は明日の朝七時台だから」

 仮名によると、帰国便は朝出るらしかった。明日の夕方には、具衛はまた宿直の身であるからして、その都合に合わせると忙しい行程にならざるを得なかったようだ。

「それは良いのですが、相部屋は——」

「別にただ寝るだけなんだから、もう一々言わないの!」

「しかし再婚前に——」

「だからよ!」

 敵方の思惑通りにされてしまった事が悔しい。ならせめて傷の一つぐらいつけてやりたいのだそうだが、

「そんな事しても、結局虚しいだけだし」

 結局、現実は変わらない。

「ならせめてそれまでは、好きにさせて貰うわ」

 だからって——

 敵方に傷をつけられないからと言って、自分に傷をつけようと言うのか。と言う事は、自分はその傷を負わせる役を

 ——負わされる?

 のか。

 思いがけず急な土壇場を迎え、部屋の片隅で悶々とし始める具衛を尻目に、仮名は風呂を宣言してバスルームに向かった。


 午後九時を過ぎた。

 お揃いのホテルパジャマに袖を通した二人は、大きな窓の傍にある小さな丸テーブルを挟んでそれぞれシングルソファーに座り、揃って窓の外を眺めていた。

「まだ九時?」

 それぞれ一風呂浴びると、仮名が

「バーに行く?」

 などと言い出したが、そんな所には全く縁がない具衛である。文字通りの及び腰をしてみせると、また仮名が

「分かった分かった」

 と言いながらも噴き出した。

 正直なところ、酒を解禁したばかりで悪酔いも心配である。大人しく部屋飲みで許して貰う事にした。相変わらず口にするのはサングリアである。

「他に何か欲しかったら言ってよ?」

「いや、これだけで十分です」

 以前の具衛が飲んだそれの味は、もうとっくの昔に忘れてしまっていたが、少なくともこんな上等な味ではなかった筈だ。仮名の事だ。使っている赤ワインは、良い物を選んでいるのだろう。そのバニラとミントの香りが仮名の匂いのようで、余計に酔いが回りそうだった。

「夜は長いなー」

 折角だから夜空を堪能したい、と言う仮名を尊重して、室内は足元灯をいくつか灯しているだけだ。それでも外は周辺の施設の照明で、そこそこ明るい。時期柄故、無理矢理予約を捩じ込んだ部屋、と言う割にはエグゼクティブフロアの高層階である。そこそこに広さもあれば高さもあった。当然眺望も良い。

「ここも照明がなければ、星は良く見えるんだろうけどね」

 二人で七夕の夜に見た天の川の事を言っているのだろうと思ったが、具衛はあえて何も言わない。只ならぬ状況に緊張していた。

「何とか言いなさいよ」

 もう酔ったの? などと少し覗き込む仮名は、恐らく殆どすっぴんである。

「いえ」

 久々にアルコールを摂取したが、それ程の酔いは感じない。痛飲するような嗜好こそないが、元々酒は飲めない事はなかったのだ。事情により自戒していただけである。しかし、未だに酒は詳しくないため、仮名のセレクト任せだ。恐らく悪酔いするような安酒ではない事は、

「酔い潰れても連れて帰ってあげるわよ」

 動悸のレベルでも何となく分かる。

 怪しげに笑うその剥き身の素肌が、妙に色っぽいと感じ入っては動揺しており、ほろ酔い気分どころではなかった。

 いつまで経っても

 この人は——

 心臓に悪い。

 肌もそうだが、一つ気づいた。

「髪——」

「え?」

「地毛に戻すんですか?」

 仮名の美しい赤と黒のハイライト仕立てで染められた髪は、時の経過と共に全体的に赤みが強くなる。それが最近では手入れがされておらず、放置されているように見えた。

「やっぱり分かる?」

 そうかぁ、と仮名は今更ながらに、少し恥ずかしそうに髪を撫でた。

「綺麗にハイライトで染め抜くのはね——」

 やはり相当手間がかかるのだ、と言う。

「もう人前に出る事も少なくなるし」

 などと投げ遣りな風を見せる仮名は

「身嗜みに気を遣っても、ろくな事はなかったし」

 寂しげに笑みを浮かべた。

 気を遣っても、擦り寄る者にろくなヤツはいなかった、と言いたいのだろう。

「その方が良いと思います」

「え?」

「地毛の赤。実は、何で染めるんだろうと思ってたんです」

 ばっちり決めた化粧がおかしいと言う訳ではない。それこそ、そうした仮名の美貌は絶対的で、近寄り難さすらあった。それが「赤い狐」などと揶揄されるなど、仮名でなくとも悔しくなる。が、その形は仮面でもあり、武装とも見て取れた。

「その方が、あなたらしいかと」

「でも、実はこれも染めてるんだけど」

「え?」

「薄くね」

「そうなんですか?」

「少しずつ地毛に近づけないと。一気に変えるとインパクトが強すぎるわ」

 それ程までに本人としては、気を遣っているらしい。

「学生の頃は黒に染めててね。長年染めてると髪の手入れが大変なのよ」

 この女傑でも、世間向きを考慮していたようだ。一昔前の教育現場は、地毛が赤いと、言っても理解して貰えるような時代ではなかったのだ。他人に委ねられる評価が大抵辛辣に触れやすい事を思うと、その髪は仮名の人生において、多少なりとも悪い方に影響を及ぼしたであろう事は容易に想像出来た。そのために図らずも、髪を痛め続けた仮名の無念は如何ばかりか。それを思うと、

「それは、大変でしたね」

 自然、労う言葉が出た。

 具衛は生まれてこの方髪を染めた事など一度もないどころか、整髪料すらつけた事がない。年齢的にもちらほら白髪が生えて来ているが、自然志向のこの男は、全く気にしていなかった。そんな気遣いなど無用でいられる身だったのだ。そんな男が、如何に想像力を働かせたところで、労い以外にまともな言葉など吐ける訳もない。

 きっと——

 本当に大変だった事だろう。

 具衛が俄かにその無念に思いを寄せ、湿っぽくなりつつある前で、

「そうよ。まあ、白髪も生え始めたし、ちょうどいいわ」

 仮名本人は呆気らかんと言ったものだ。

「え?」

「そりゃそうでしょ。あなたが生えてて、私が生えない訳ないじゃないの」

 具衛より四つ年上の仮名である。その若々しさ故、つい年齢を忘れがちになるのだが、

「でもあなたは、白髪も似合うんじゃないですかね」

「言うに事欠いて似合うと来たか」

「いや嫌味じゃなくて」

 この稀有の美女の素顔を垣間見る事が出来る男が、果たしてこの世に何人存在し得るのか。具衛はそう含ませたつもりであった。

 察しの良い仮名は、

「まあ男はそうなんだろうけど、女としてはやっぱり、まだまだ白髪は抵抗あるなぁ」

 毛先を摘んでは滑らせて離すその仕草が何処か子供染みていて、普段通り若々しくも落ち着きがある雰囲気と合わない。まるでハイティーンの多感な女子が、一瞬だけ乗り移ったかのような錯覚を覚えたものだった。

「お褒めに預かれた事は光栄としとくもんだけど、私の人生ではあなたの意見は少数派ね」

「そうなんですか?」

「それも超がつく程ね」

 つまりは理解者がいなかった、と言いたいのだろう。

「見た目では随分と振り回されたから——」

 仮名は生来虚飾を嫌い、清潔感にだけ気を配るような子供だったらしい。が、その稀有の容貌は幼少期からその意に反して暴れまくり、見映えが尋常ではなく、周囲とのバランスに悩んだそうだ。その一端が赤毛だったと言う。容貌に違わず濃く美しい赤毛は、その見映えを更に輝かせ、高貴な家柄も相まって、あらゆるところで目立って突出した。よってそれを抑えるために、

「苦肉の策で、早くから黒髪に染め始めたんだけど」

 その染めた黒髪がまた美しかったらしい。髪を痛めないよう、相当高価な質の良い染料を使っていたそうで、結果的に髪には優しかったが、外観的には裏目に出た。結局仮名は目立つ事を恐れる余り、大人しく無口なまま成長し、明らかに子供らしさに欠陥を抱えたまま義務教育期間を過ごしたらしい。大人びた風貌は巷では有名だったそうだ。

「小学生の時に、大学生に見間違えられた事があったわ」

「分かる気がします」

 一つ上、二つ上の就学階層に見間違えられる事など日常茶飯事で、

「身長も中一で伸び切ったから」

 明らかに早熟であった。

「じゃあ体型はその頃から」

「流石に骨や筋肉がしっかりして来るまでは、少しは横に広がったものだったけど、殆ど変わってないかしら」

 筋骨を語るところが如何にも素気ない仮名らしいのだが、それよりも何よりも具衛は、その成長の早さに思わず仰け反り天井を仰いだ。

 そりゃあ——

 注目されても仕方ない。

 具衛など中一と言えば、まだまだチビで、筋骨などと言えたものでは全くなく、ひ弱もひ弱だった。中一と言えば、まだまだ小学生が中学校の制服を無理矢理着さされている感覚に近かったものだ。

「私はまだ、確か一五〇そこそこでしたよ」

「まあ、小さかったのねぇ」

「大抵の子は、そうしたもんでしたよ」

「そうなのよねぇ」

 それが、中一で背が伸び切ったとあれば、周囲は驚くだろう。それも仮名は、一六〇後半と言う高身長の部類である。注目しない方がおかしい。

 言動も大人びており、成績も抜群であった事が、更に輪をかけて仮名を必要以上に大人びてみせた。それはまるで、無理矢理何かが仮名を早く大人にしようとしているようで、本人としても正直どうして良いか分からず戸惑っていたらしい。

「こうなるとね——」

「妬み、ですか」

「他五味ね」

「ごみ?」

「恨み、嫉み、嫌味、僻み、やっかみ」

「人の醜さの結集ですね」

 あらゆる事に整い過ぎた仮名は、男から追い回され、女から嫉妬され、ろくな事がなかったと言う。

「常に一人」

 身内からも羨望され、ややもすると貶めようとする向きすらあり、腹を立てた仮名は、記憶がある頃から家系、特に実母の教育方針に逆らい始めたと言う。

「理論武装するようになると、もう決定的だったわ」

 中学までは言われた通り、名の通った学校に通ったが、卒業後には反旗を翻し、進学せず独学で司法試験を突破すると、さっさと司法修習も済ませて弁護士になった。中学に入るなり、密かに勉強を開始していたらしい。

「弁護士なら、親を打ち負かせると思ったのよ」

「まあ、日本の国内資格では最難関ですし」

「若かったって事ね。周りの全てが敵に見えたもの。まあ実際のところ、それに近かったけど」

 などと自嘲するが、そもそも一〇代で弁護士などと聞いた事がない。

「——と、言っても」

 説得力を得るための事であり、弁護士としてのキャリアは、

「殆どないんだけど」

 らしかったのだが。

 その後は世に対して、更なる説得力を身につけるため、いきなり英オックスフォード大学院の博士課程に入学。現役四大生の卒業年次には、三年間で博士課程を卒業した。飛び級はたまに聞く話だが、就学階層を丸ごとすっ飛ばす、と言うのは余り耳にしない。

「海外じゃ、よくある話よ」

 日本の教育は、仮名には手狭だったようだ。

「まあ、オンライン講座なんだけど」

 それは、日本の全日制崇拝に対する挑戦とも聞こえた。

「それでも博士は博士だから」

 人文学の博士号を取得したらしい。

 どおりで——

 やたら哲学に詳しい訳である。

 梅雨時に出会った初日、ウィリアム・ブレイクの虎の詩をあっさり言い当てられた事を思い出す。これまでの人生において、人間関係と言うものをろくに構築して来なかった具衛にとって、仮名の教養レベルは、明らかにその範疇に収まり切らない人種だった。武智や山下も相当なものだが、単純な学では、仮名には全く及ばないような気がする。

 その半生が詳らかにされて行く中で、仮名は具衛のレベルに合わせて話をしてくれていた事を思い知らされた。具衛の知識など、根拠に怪しい人伝だったり、たまたま読んだ本から獲得したものだったりで、学校の勉学で得た確かな物など殆どない。継ぎはぎだらけも良いところだった。普通に考えれば、そんな具衛とこのような女の会話が、そもそも噛み合う筈がないではないか。

 本当に賢い人は、誰にも分かりやすく話をするものだが、仮名はまさにそうした人間だった、と言う事だ。決して具衛だけ特別に、そうしていた訳ではない。

 ——筈。

 と、思わないと、また暴走してしまう。

 そんな具衛を前に、仮名は淡々と恨み節のような半生を語り続けていた。

「全日制の大学は、とても行く気になれなくてね」

 義務教育での陰湿な逆恨みによるいじめ被害には、ホトホト呆れていたらしい。

「中学の時に、いい加減頭に来て。合法的にとっちめてやろうと思って」

 法曹を目指す要因にもなったそれは、実際に親の力を借りる事なく相手方を訴え、学校側共々散々に関係者を震え上がらせたそうである。相手の家に訴状が届いた後の展開は、最早訊くまでもない。

 日本の教育は基本的に横一列で、平等をモットーとしているだけに、授業はまるで物足りなかったと言う。

 それは——

 そうだろう。司法試験の勉強を独学で始めて、実際に訴えを起こすような中学生である。日本の大抵の学校の教師では手に余ると言うものだ。

 それにも増して、被害者退場型のいじめ対策こそが、仮名に根強い教育不信を植えつけたらしかった。

「イギリスは通信教育先進国だしね」

「そうなんですか」

「ネルソン・マンデラも獄中で履修したのよ」

「へぇ」

 彼の元大統領が、ロンドン大学のオンライン講座を受講した逸話である。インターネット環境があれば勉強が出来る、と言うその手軽さは、やる気はあるがスクーリングが叶わない人には有り難い事だろう。

「それこそ、学校に通って変な子に逆恨みされる事もないしね」

 この学歴は、通信制といえども、後の国連職員採用の際、きっちり認定されたそうだ。国連の正規職員になるには、基本的なステータスとして修士号以上を要すると言われており、条件さえクリアすれば、後は実力主義と言うのが世界の常識だ。

「日本の学歴至上主義が異常なのよ」

 既得権体質の根幹はここなの、と仮名は嘲笑した。成果主義の世界との決定的な差なのだ、と言う。あくまでも学歴が資格の範疇でしか作用しない世界のスタンダードは、その先を採用選考時に確認する。それであなたは、何を為して来たのか。ではあなたは、それに基づいて何を為してくれるのか。

「私はそれを、日本で突きつけてやりたかったの」

 日本の教育システムに対する復讐の如く、仮名はその異質な学歴と資格を引っ提げ強かに理論武装した後、就職は、やはり四大生有利の土壌において、通信制の院卒でも内定が取れた民放大手テレビ局のキー局に決まった、のだとか。

「世の中の歪みをとことん追求したらどうなるのかと思った事があって」

 弁護士としての僅かな活動の中にも、実際に世の歪みを垣間見、その経験を基にジャーナリズムに興味を抱いた、のだったそうだったが。国際部か政治部に入る予定が、

「またこの見た目のせいで」

 アナウンサーにさせられた。

 それでも我慢して二年勤めたが、全国放送中のCM中に、有名なコメンテーターが、

「事もあろうにお尻を触りやがってね!」

 それは確かに、

 ——分からないでもないよなぁ。

 手が届く所にそれがあるのであれば、弱い愚か者なら手を出すだろう。

 そう言うところが、

 迂闊って言うんだけど——

 具衛は密かに、小さく鼻を鳴らしてその言葉を飲み込んだ。

 その迂闊を怒りに変えた当時の仮名は、許していない手に触れられる事に対する憤りを直情的に表現したようで、

「世に一石を投じただけよ」

 当時はセクハラに対する理解は低く、文字通りジャーナリズムに関する者として、身を持ってその機運を高める使命感にかられた結果、その相手方を投げ飛ばして負傷させた事が問題となり退職。

「まあ、切り替えは早い方だから」

 あっさり人生のやり直しを期すべく、今度は国際関係に

「懸想してね」

「懸想?」

 心機一転、と言わないところが、また潔い仮名らしいが、懸想したのが外務官僚と言うから、只では転ばないとはこの事だ。何年かは現場畑で、欧州の在外公館を飛び回っていたそうだったが、やはりここでも、

「見た目のせいでね——」

 帰国させられてしまうと、広告塔にされかけ、嫌気が差して辞職。

「結局日本は、私に合わなかったって事ね」

 その古い組織体質に呆れ、職を海外に求める事にし、また海外へ出国。で、日本にいた頃の数々の黒歴史の熱りを覚ましている頃になって、ようやく風貌と言動が一致して見られるようになった。

「と思ったら、今度は見た目がついて来なくなって」

 三十路過ぎから年を取る事を忘れている、と言われるようになった。アラフォーを迎え、再び日本に帰国してからも、一〇歳若く見られる事がザラになってしまったと言う。

 世間一般に言われる典型的な美魔女は、

「四二年の苦悩の歴史を刻み込みながら今に至るって訳」

「そうですね」

 歪んだ目に晒され続けた、と言う事なのだろう。褒めそやされても、裏があると疑わざるを得ない苦労を重ねて来た結果が、

「こんな事人に話すの、あなたが初めてだわ」

 と言う事なのだ。

 要するに、素直に人の言動を受け入れられなくなってしまった、と言う

 悩める孤独の異能だな。

 その結論に至る。

 ではそれだけ、具衛は受け入れられていた、と言う事でも

 ——あるのかな。

 迂闊にも、自滅気味に勝手に脈を早めたものだ。

「私の事より、あなたはこれからどうするの?」

「え?」

「経済的自由を手に入れたんでしょう?」

「そう、ですね」

 最近は自分の事よりも、仮名の周辺事情を嗅ぎ回る事に躍起になっていた事もあり、そう言われてもまるで現実味が湧かない具衛である。

 と言っても——

 とりあえず、ろくに貯蓄がなく、身動きの取りようがなかった。

「とりあえず年度末までは、施設の契約が残ってますし」

「その後は?」

「うーん」

 考えていない。

 そもそも自由に慣れていない身である。これまでの具衛の人生は、重大な何かを犠牲にして束縛され続けて来ただけに、この春以降の浮ついた感覚は新鮮だった。が、それはそれで、心なしか張り合いがない。

「東京に来ない?」

「え?」

 その誘いは唐突だった。

「あなたの腕を買って、ボディーガードとして雇いたい、と思ったりしてるんだけど」

「それは——」

 ——フィクサーと高千穂が許すのか?

 と思うと同時に、耐え難い屈辱でもあった。

「敵には手厳しいけど、表向き味方になれば、あの二人も牙は向かないと思うけど」

「他を、当たってください」

 具衛は穏やかな中にも、はっきりとした口調で即答した。

「やっぱり、そうよね——」

 仮名は、少し残念そうに肩を落とす。

「高千穂の嫁には、力は貸せないわよねぇ」

 まあ今度は、向こうが養子になるんだけど、と今度は投げ遣り気味に漏らした。

「一つ、どうしても訊きたい事があるんですが——良いですか?」

「なぁに?」

 また——

 その柔らかい言葉と、まどろみそうになるその目線に動揺し、具衛は身体を強張らせながらも俯き加減に目を逸らす。

「答えたくなければ、答えなくても良いので——訊くだけ」

 その柔らかさに怯み、声が細くなったものだが。

「勿体つけるわね。何?」

 なよなよしていると、やはり仮名は容赦ない。少し険を含ませたその声に追い込まれると、

「高千穂とは、その——外務省時代に?」

 小さい反発となって、口から出てしまった。

 だって——

 この懊悩とした美女が、何故あのろくでもない男を選んだのか。求めたものが何だったのか。余り過去を抉るような事はしたくなかったが、どうしても

 ——気になる。

 拙くとも、彼岸花の実相を知る身である。最後とあらば、やはり訊いておきたかった。後悔は残したくない。

「その話しか——」

 仮名は軽く頭を垂れ、片手で目を覆った。

「一言で、若気の至りね」

「そうは思えませんけど」

「あら、どうして?」

 訊き始めてしまったからには、もう後戻り出来ない。若気の至りも多少はあるのだろうが、具衛は思わぬ推測を口にし始めた。

「とりあえずバツをつけようとされた、と言う事ですよね?」

 でなくては困る、と思った。

 一時とは言え、あの派手な男を選んだ女である。その女が時を経て、今また同じ相手から復縁を迫られているにも関わらず、社会的にその対局とも言える位置にいる資がない自分の目の前にいる。

 要するに——

 これは、求めるものの本質は、当時も今も高千穂にはない、と思って良いのではないか。もっとも若かりし頃の仮名と今の仮名とでは、少しは考え方も違うのだろうが、それでも根本は変わらない筈である。仮名の素性が分かって以来、具衛の一番の関心事だったそれは、

 絶対何か理由がある。

 と言う一念を強くかり立てた。

 そしてそれが、ある一事を掴ませたのだったが、それでも最終的には本人の口から聞きたかった。

「何か訳知り顔ね」

「そんなんじゃ——ある事は——」

 やはりそうか、と確信するのと同時に、やはり自分のエゴが、仮名の傷を抉ってしまった事を後悔する。

「あなたはホント、何処でそれを——」

 仮名は口の端で笑みを浮かべ始めると、しばらくうなだれるだけうなだれた。

 具衛は大人しく待った。と、言うよりも、何と声をかけて良いものか分からなかった。

 いい加減、待たされたと思った頃、

「とりあえず高千穂の家柄は良かったし、本人も見てくれや頭はそれなりだったから」

 仮名が徐に頭を上げ、口を開いた。

 事実上の当て馬だったらしい。

「母も一応、納得したしね」

 女癖の悪い高千穂が、他の女に手を出すようなら、それでバツをつけて終わり。続けばそれはそれで良し。そう考えた本当の訳は、

「なんだったか、分かる?」

「皇室入りの回避——ですか?」

 仮名は小さく苦笑した。

「何でそこまで分かるか」

 高坂の系図は、政財界はその血筋が脈々と貼り巡らされるも、貴族のそれは限りなく薄いように感じた。最初はただの直感だった。高千穂事務所を張り込みしていた時、図書館でその筋を掘り下げていると、過去の雑誌の端に思わぬ記事がほんの少し掲載されていた。が、一方で次週号では、その渦中の人の筈だった高坂真琴が、高千穂と婚約した事が掲載されている。皇室入りは根も歯もないガセネタ、と訂正記事が載る有様で、ネットにも情報がないどころか、結局某誌が一回だけ面白おかしく載せた程度の扱いだったそれは、

「お后候補になりそうになってね」

 どうやら事実だったようだ。

 外務官僚時代、ちょっとした接点で見初められたらしい。

「ちょうど高千穂もウロついてた頃だし——まあ、高千穂を利用させて貰ったって訳ね」

 皇室に入って喜ぶのは名誉を重んじる母ぐらい、と言って憚らない仮名の無念は察するに余りある。

「私には無理」

 確かに、これまでの仮名を見ていれば、皇室など務まろう筈がない。知性と教養は申し分ないが、感情の振り幅が大きく、到底大人しくしていられる筈がない。失言塗れで非難轟々は火を見るよりも明らかだ。

「全く、よく調べた上で見初めて欲しかったわよねぇ」

 それに具衛がつい失笑すると、

「あー笑った!」

 ようやく仮名から少し湿っぽさが消えた。

「だから実は、私も高千穂の事、悪く言えたもんじゃないの」

 仮名は悔しげに目を逸らして空の端を見る。

「結構、都合の良い女なのよ。全部周りのせいにして。私は悪くないの」

「悪くないでしょう」

 家柄に負けず、その周囲に邪な思惑ばかりが渦巻く悪辣な環境下で、自らの意志を強く持ち、自己を律して力強く歩んで来た。そうした薄幸の美女が救いを求めて入籍を望むなど、

「私が高千穂なら、あなたを手放そうとは。確かに利用されたのだとしても、あなた程の人が目をかける程の利用価値があった訳で——」

 それは、何も誇るものを持たない具衛から言わせれば、男冥利に尽きると言うものではないか。

「同じ男として、悔しいです」

 具衛は、男だ女だのジェンダーを意識するような生き方は余りして来なかった。どんな人間だろうと、良い事をする者は良い。悪い事をする者は悪い。社会の底辺に長らく身を置いて来た者ならではの、人を肩書きで判断しない絶対的見地は、それでもどうしても、富裕層に対する偏見が拭えなかった。

「私では、そう言う利用のされ方が出来ない訳ですから」

 それは己の不甲斐なさ以外の何物でもない。自分の利用価値など、仮名にしてみれば、ボディーガードが関の山なのだ。片や高千穂は、その力を傘に二度までも、この美女を絡め取ろうとしている。文字通りの力負けだった。

 ——無力だ。

 初めて何かの権力を欲した。

 それがあれば、この薄幸の女をもう少しましな格好で支える事が出来たのではないか。少なくとも、勝者の傍で無様を晒すような支え方を、依頼される事などなかったのではないか。具衛は断じて武人ではないが、今なら少し、古今東西の戦に興じた武人達が口にした「二君に仕えず」と言う言葉の心境が分かるような気がした。

「だからその傍で、あなたを見守る事など、私には到底出来ません」

 男として、これ程の完敗はない。

「バカね」

 仮名は噴き出すように即答した。

「そんな真面目な答えを聞きたかった訳じゃなかったんだけど」

 そしてまた片手で目元を覆う。

「そんなんじゃ、この何か月かは遊びだったって言えないじゃないの」

 笑っていた筈の末尾は声がよれて、聞いていた具衛は耳を疑った。

「あーもう!」

 よれた声を荒げながらも、仮名は立ち上がるとベッドのサイドテーブルに置いているポシェットから何やら取り出し、ベッドに尻を置いて目元を拭い始める。

「年のせいでね。最近涙腺が脆くて困ってるのよ」

 良く見ると、仮名が具衛の施設に視察に来た時、貸してやったタオルハンカチではないか。

「これ以上、お力添えが出来ない事は、本当に残念です」

 その安物のハンカチを、何故これ程の富豪が使い回しているのか。具衛は、今はその先を考える事を恐れ、止めた。

「何よその公式コメントみたいな物言いは」

 笑いながらも、やはりよれよれな声の仮名は、ハンカチで顔を覆ったまま

「はぁ——」

 盛大に溜息を吐く。

「だから、もう少し早く、さ」

 後はもう、絶え絶えになった。

「会えてたら——」

 堪え切れない分だけ、

「と思うと、さ——」

 小さく漏れ出たような嗚咽が耳に届くだけだった。


「終わっちゃったわ」

「え?」

「卒業旅行」

 帰りの新幹線が広島に近づき、スピードを落とし始めた。

 結局昨夜は、お互いソファーに座ったまま、ろくに物も言わずに朝を迎えた。

 交わした言葉と言えば、

「寝ないんですか?」

「眠れないのよ」

 ぐらいの事だった。

 朝になると、朝食も摂らず身支度をして帰国便に搭乗し、昼前には福岡空港に到着。

「少し早いですが何か食べますか?」

「欲しくない」

 結局、そのまま博多駅まで戻り、昼食も摂らず新幹線に乗った。で、気づいたら、ろくに口も聞かず広島に戻って来た、と言う訳である。

「折角のグアム旅行が」

 グリーン車の窓際に座った仮名は、車窓の一点を睨みつけたまま、恨み節を吐いた。

「誰かさんのせいで台無しね」

 然しもの仮名も、サングラスをかけた横顔の隙間から見える目の下に、少しばかり黒ずんだ隈が見える。

「すみません」

 具衛は素直に謝った。

 仮名の欲しかったであろう言葉が言えなかったのだから仕方がない。未だに何と言えば良かったのか分からないのだが。何を言っても

 結局——

 こうなったような気がする。

 つまりは自分の至らなさが原因なのであれば、謝るしかなかった。

「旅行なんて行くんじゃなかったわ」

 言に比例したそのむっつり顔の目が充血している。その理由が、具衛には恐れ多い事ではあった。

 日本一の金持ちに

 利用のされ方を——

 言及するなど。日頃の具衛ならば、まず口にしないような図々しい言である。同室だったにも関わらず、何事もなかった弾丸旅行だったが、それでも何処かの部分で解放的な南国マジックが働いた、と言う事なのか。具衛は最後の最後に言いたい事をぶつけ、聞きたい事を聞けたため、割とすっきりしてはいたのだが。一方で、こう言う事は普通、

 男が飲み込まないと——

 いけない事のような気が、今更ながらにしたりしている。そのせいで仮名が何かに立腹しているようであり、具衛は改めて情けなくなった。

「ほら、降りてよ」

 気がつくと新幹線が駅に着いて殆ど止まりかけている。窓際の仮名が通路側の具衛をけしかけた。

「あ、すみません」

 慌てて仮名のキャリーバッグを持って乗降口へ向かう。二人が乗降口に着いた頃、ちょうどドアが開いた。そのままホームに降り、黙々と改札へ向かう。そしてあっと言う間に、乗り換え口に着いた。着いてしまった。

「ここまでね」

 ロングコートに両手を突っ込み、ふて腐れて後ろを着いて来ていた仮名が

「あなたの家まで送る気になれないから。ここからは電車とバスで帰ってよ」

 その態度そのものの冷たい口調で、具衛の歩みを止める。

「ありがとうございました」

「それだけ?」

「え?」

「これが本当に最後なんだけど」

 具衛は恐る恐る、キャリーバッグを仮名に手渡した。

「本当に最後」

 一歩の距離に迫ったところで、仮名が念を押すと、

「最後——と言う事でしたら」

 具衛は生唾を飲み込み、その近さに今更ながらに動揺を見せる。

「どんなに辛くても、生き抜いてください」

 如何にも辛気臭そうな面構えで、真面目腐ったその言葉を具衛が吐くと、

「刺し違えるとか、」

 まだ句を繋ごうとするその前で、仮名は瞬間で、火がついたように目を見開いた。

「言うに事欠いて——」

 大振りながらも、腰の入った強烈な平手打ちが、正確に具衛の左頬を捉える。

「どの面下げてどの口が!」

 多くの人々が行き交う改札前において、高々と頬を弾いたその異音は、冴え冴えと響き渡ったものだった。

「訳の分からない事言ってんじゃないわよ!」

 首が捩じ切れる勢いで、思う様に引っ叩かれた具衛が向き直ると、既に目の前に仮名はいない。

「いてて」

 然も情けない様相で頬を摩る具衛は、颯爽と立ち去るその後ろ姿をすぐに見つけると、やはり女傑の平手打ちは

 ——痛い。

 事実を痛感させられつつも、周囲の視線に構わずのんきげにその姿を目で追い続けた。


 年の瀬。

「ふー」

 引越しを控え、自宅マンションで身の回りの片づけをしている真琴は、エプロンをつけてパタパタと室内を動き回っていた。大体の物は引越し業者が梱包から全てやってくれるため、真琴が手をつけるのは身の回りの物だけで良い。が、無心になって片づけたくとも

「あー」

 ——帰りたくない。

 実家へ帰らされると言うこの上ない苦痛が、真琴の手を度々滞らせた。

 実のところ、片づけなどとっくに終わっているのだ。日頃から余り物に執着がない真琴は、身の回りの物などこざっぱりとしたもので、もう片づける必要のある物など本当はないのだが、じっとしていられず何か忘れてはいないかと探し回っている。

 母に申しつけられた年内一杯の身辺整理期間は、今日を含めてあと二日に迫った。明日の夕食からは実家だ。もう連絡はつけている。明日、昼下がりの新幹線のグリーン車を確保しており、数年振りに実家に戻る事になっていた。その前に帰ったのは、正確には四年前の八月。実家グループ企業の役員に就任させられるため、国連を辞して帰国した際、一応節目と言う事で立ち寄った。が、最終的には口喧嘩になってしまい、物の一〇分といなかった。その前はいつだったか、思い出せない遠い記憶だ。実家で生活していたのはハイティーンまで。ひょっとしたら、その時家を出たのが、その前なのかも知れなかった。

 事実上、

「今日が人生最後の自由の日ね」

 と言う事になる。

 高千穂と復縁するまでは実家で籠の鳥。高千穂と復縁したら、何処かの新居かそのまま実家で籠の鳥、と言う事だ。波乱めいた人生も、

 これでおしまいか——。

 後はつまらない余生が待つのみであった。

 一瞬何かの希望を見出そうとしたが、もう諦めた。だから自由がなくなる前に、何か今後の惰性の人生の支えになるものが欲しかった。それを期待してのグアムだったのだが。

 離任挨拶で武智邸に立ち寄った際、

「最後に思う存分、お互いの話をされては如何ですか」

 と勧められた。真琴は素直に、

「それならば、」

 と、まずは武智から先生の素性を聞く事にした。先生は既に真琴の予備知識を得ている。ならば真琴としても、先生の予備知識を得ていた方が、釣り合いが取れるのではないか。そう思ったのだ。

 武智から聞かされた先生の素性は、今日日の日本人には余りない特殊なもので、何処となく悲壮感漂う過去と、今の先生は重なりにくかった。その素性を聞いたところで、真琴の中で今更先生の為人が何ら変わる事はなく、逆により興味を覚えた筈だったのだが。

 あれが最後の——

 しかもクリスマスイブだったとは。

「有り得ないわ」

 真琴はクリスチャンでも何でもない。敬虔な信者からしてみれば、お祭り事にはちゃっかり乗っかる大多数の尻の軽いご都合主義者でしかない。それでも五十歩百歩と言われようと、大多数の大衆よりは、その日の意味意義に向き合い、寄り添う心を持ち合わせてはいたつもりなのだ。

 武智の言う通り、最後はお互いのよもやま話で締めるつもりだった。その聖なる日に託けて、出会いの不思議を語ったりするのだろうと思ったりもしていた。それ以上は何も期待していなかった。ツインルームの一室が辛くも取れたと言うのは事実だった。クリスマスシーズンに無茶振りを駆使して割って入ったのだ。今更相部屋になったところで、別にあたふたするつもりもなく、逆にこの土壇場に来て意外に腹が据わったものだった。二人がその気になるようなら、そのまま成り行きに任せようとも思っていた。が、結果的に

 あの有様で——

 予想外に感傷的になってしまい、とどのつまりが

 ——あのビンタ。

 と言う、有り得ない幕切れ。

 真琴はワインセラーから、未開封のミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。早速開栓しようとして、何本か残った自家製サングリアが目につく。

「あ——」

 引越しまでに飲み切れると思っていたのだが、結局何本か余らせてしまった。これを機会に、とある思いから、しばらくは酒を断つつもりの真琴である。実家に持って帰ったところで捨てるだけだ。

「どうするか——」

 捨てるには少し勿体ない。ぼんやり考えを巡らせつつ、開栓した水を歩き飲みしながらソファーに座り込んだ。こんな不作法、実家の母が見たらそれこそすぐに小言が飛んで来ようものだ。

「あー」

 嫌な事を思い出したものだと、込み上げてくる苦々しさを水と一緒に流し込む。嫌な事を思い出すと、ついでのように、またあの別れ際を思い出したものだった。

 それにしても——

 返す返すも、もう少し言い方がなかったものか、と後悔する。最後だと思えば思う程、感情が溢れてしまった。が、先生の身を思うと、共同戦線など以ての外だ。冗談抜きで抹殺されかねない。つまりは、形振り構わず奪いに来て

 なんて——

 言える訳もなく、それが悔しくて我慢するうちに、先生が言いたい事を言っては、勝手に話を畳んだ事にも腹が立った。先生からすれば、甘んじてなどいようもない事は分かってはいたのだが、その身を案じれば案じる程、命懸けを強いるような「形振り構わず」など言えよう筈もなく。そのどうしようにもない鬱屈を他にぶつけるところがなく、最終的には先生にぶつける他なかった、と言う訳だ。二人しかいないのだから、当然と言えば当然である。

「何て我が儘なんだろう」

 結果として、全部人のせいにしようとしている自分が嫌になる。

 ペットボトルの横には先生のハンカチがある。自宅で身体を休める時にはソファーでだらける事が多い真琴は、動き回る事を避けるため、必要最低限の物を身の回りに置く癖があった。目の前のテーブルの上には、盆踊りの時に使った巾着も置いている。流石に実家向けの荷物に紛れ込ます訳にも行かなかった。思い出の品とは言え、子供染みたおもちゃでしかない。実家の連中に見られよう物なら、何を言われたものか分からなかった。思い出が膨らむ前に、これまでに何度か捨てようとしたのだが、結局、

 捨てられなかったのよね——。

 それが最近では、先生のハンカチも追加されている。

 真琴は堪らず、

「はぁ——」

 大きな溜息を一つ吐いた。

 もう何度も洗濯して、先生の家の匂いなどとうの昔に飛んでいる。だが、真琴は事ある毎に、濡れた目を拭っては匂いを嗅いでいた。そうする事で、鼻の奥に記憶された匂いを思い出すのだ。思い出すと不思議と落ち着き、愛おしくなった。

 頭の中では、本当の意味での最後は今日だと言う事を理解している。あの平手打ちが最後であってはならない事など分かり切っている。でも、中々身体が動かない。今日しかないと思えば思う程、頭では分かっているのに身体が動かなくなる。それはつまりは、

 乙女のそれか——

 と言うヤツに相違なかった。

 世間では稀有の美貌でちやほやされてはいるが、もう四〇を過ぎているのだ。いくら若々しいといえどももういい加減な年である。着実に押し寄せてくる年波は正直だ。染みもあれば皺もある。服に隠されたところには、痣や傷跡もある。瑞々しさなどは実のところもう殆ど枯れかかっており、女として残された時間など果たして後どのくらいあるものやら分かったものではないし、正直なところ知るのが怖い。見方を変えれば、とっくに終わっているものの方が多いのではないか、そう思えてさえ来る。

 スマートフォンで時刻を確かめると、もう夕方前だった。

「乙女って何年遡れば良いのよ!」

 誰に言うともなく音を立てて立ち上がった真琴は、そのまま浴室に向かった。


 同日夜。

「年の瀬だなぁ」

 具衛は相変わらず、山小屋で一人だった。ミニノートPCのワンセグでテレビを見ながら、貰い物の蜜柑の皮を剥いでは黙々と食っている。剥いだ皮は陳皮の元だ。捨てずに皿の中に入れていた。外では燻製機で肉を燻らせている。最近の飯と言えば、蜜柑と燻製肉と漬物とご飯のオンパレードだった。一人なのだから気を遣う必要もなく、好き勝手やっている。

 テレビはバラエティーばかりやっていた。具衛は殆どバラエティーを見ない。夕方のニュース時も終わり、バラエティーしかやっていないのだがとりあえずつけている。何か音でも出していないと侘しい事この上なかった。

「どうするかなぁ」

 仮名に言われたとおり、ようやく完全なる自由を手に入れた。のだが、貯蓄は殆どない。施設の契約も年度末まではある。とりあえず年度末までは勤めるとして、今のところ後は気分次第、と言ったところだった。

 しかし何処へ行こうが、もうこんな事は

 ——ないだろうなぁ。

 この半年のような経験はまずないだろうと、ぼんやり蜜柑を喰らいながら振り返る。文字通り、人生最大のチャンスが過ぎ去って行ったのだ。

 いずれは捨てられると思っていたそれが、いつしかひょっとすると、このままずるずる行くのではないか。頭の片隅にそんな思いが芽生え始めたものだった。が、結局は当初の予想通りに捨てられて終わってしまった訳だ。これが中々の喪失感で、本に手が伸びない有様である。

 コンロで火をかけていた炊飯器が、先程からカタカタ音を立てていた。

「さてと」

 後は晩飯を食って、歯を磨いて寝るだけの身である。具衛は立ち上がってコンロの火を止めると外に出た。庭先で燻らせている燻製機の蓋を開けると、煙が溢れ出て流石に軽く咳込む。そうしていると、音がない筈の周辺において、闇の中から自分の咳とは違う音が聞こえ始めた。

「車?」

 音を辿ると川土手の道をやって来る車が一台ある。国道であればまだ通りもあるが、川土手の市道を走る車など夜は殆どないのが常だ。それもこの年の瀬にどうした事か。

「ん?」

 ベッドライトが近づいて来ると同時に、胸騒ぎがし始めた。

「まさか」

 聞き覚えのある轟音は、田舎にはそぐわないスポーツカーのものだ。具衛は燻製機の肉を取り出すのを忘れ、車の動きに目を囚われた。車は予想通りの動きで橋を渡り、庭先をバックで下がって来る。

「あっ」

 慌てて、設置したままのライトアップ用の電源をつけた。すると、慣れた動きでこの半年間、庭の端へよく止まっていた車が、暗闇の中を滑り込んで来てすんなり止まる。止まるなり降りて来たのは、ダウンのロングコートにデニムと言う、ここに来るには随分とラフな格好の仮名だった。

 何で——

 また、来るか。

 いつもは仕事帰りに息抜きで立ち寄っていたその女は、普段着で山小屋を訪ねる事など殆どなかった事を思い出す。そんな事よりも、

「仮名さん」

 もう、終わった筈ではないか。押しかけられる理由に、全く思い当たる節がない。

「もうその呼び方をする必要はないんじゃなくて?」

 燻製機の煙に燻られながら、ジャージ姿で呆然と立ち尽くす具衛は、さながら

「何? 浦島太郎か何かのつもり?」

 の様相であり、相変わらずの容赦ない皮肉に、ふと我に返った。

「え? あ——」

 そんな声にならない声を何言か吐いていると、

「中に——入りますか?」

 遇する言葉が、どうにか出はしたのだが。中に入れてどうしたものか。何の用なのか。思いがけない急展開に、戸惑いが高回転で脳内を渦巻く。

「当たり前でしょ。ここ寒いし」

 然も当然に言われてしまうと、具衛は、

「あ、はい」

 かろうじて、辿々しくも居間に誘うような何言かを吐いた。慌ててそそくさとガラス障子を開けて中に入ると、手早くテーブルの上を片づける。

「そのままでいいわよ」

 散らかってないじゃない、と言う仮名を尻目に具衛は

「むさいですけど——」

 端末を片づけ、堪らずとりあえず台所へ逃げ出す。

「お茶は良いわ」

 が、捕まった。

 さっさと上がり込んだ仮名は、テーブルの上に、落ち着いた色合いの洒落た箱と、風呂敷に包まれた長細い四本のワインボトルを置く。

「誰かさんと最後の最後に、これを飲み食いしたくて来たのよ」

「え?」

「いいから開けなさいよ」

 何やら乱暴に言われた具衛が、仕方なさそうに居間のテーブルに戻り、とりあえず言われた通りにする。それぞれ開けると、洒落た箱の中からは漆器のような風合いを持つ大きな饅頭の一塊が出て来た。ワインボトルの方は、然も落ち着いた感のラベルがついている。七夕のバーベキュー時、やはり仮名が持って来た物を思い返すに、そのラベル一つとってみても、明らか重厚感が違った。その渋い瓶の四本ともが同じ物で、ディープルビーの液体で満たされている。

「大きなチョコレート饅頭ですね」

 サイズ的には五号のホールケーキであるが、

「見た事ないなぁ」

 普段菓子を食う事がない具衛には、幼少期に食べた饅頭のデカい版ぐらいにしか見えなかった。そんな事をのんびりと語られてしまっては、角を出していた仮名も堪らず噴き出す。

「モンブランよ!」

 言われてみれば、確かにチョコレートにしては少し色が薄い。しかも頭頂部には、麺状のマロンペーストがデコレートされており、上には白い粉砂糖がまぶされていた。サイズこそ大きいが、モンブランの定義には当てはまっている。

「これを捕まえてチョコレート饅頭って——」

 しばらく喉を引き攣らせて笑った仮名だったが、喉を整えると

「正確にはモン・ブラン・オ・マロンね」

 それを紐解き始めた。

 実はその発祥はフランスではなく、イタリアの家庭菓子が原型であると言われている。名前の由来はヨーロッパアルプス最高峰の山名であり、正式な名称は仮名が言ったとおりだ。

「聞き覚えあるでしょ?」

 何やら含みを匂わせる物言いを

「いえ、甘い物は詳しくないので」

 具衛は真正面から受け流した。

 その前に添えられたバースデープレートが具衛の目を射抜く。そのホワイトチョコレート仕立ての板には、具衛の名前がアルファベットの筆記体で綴られていた。

「最後の最後くらい、本名としたもんでしょ」

「ご存じ、でしたか」

「私も誕生日を祝って貰った事だしね。まあ、返礼よ返礼」

 湿っぽい雰囲気になるのを嫌ったような仮名が、相変わらずてきぱきと手を動かし、箱から取り出す。

「ほら、始めるわよ。晩御飯まだなんでしょ? 湯飲みと箸ぐらい持って来なさいよ」

 何やらまたせっかちそうに煽られ、矢継ぎ早に指示を出す仮名に、具衛は慌てて台所へ向かった。その隙に仮名はさっさとワインを開栓する。栓はコルクではなく、金属とプラスチックの加工品だ。重厚感のあるいかり肩のフルボディーボトルにしては、栓は何処かしら機械的で似合わない。それに違和感を覚えた具衛が軽く訝しんでいると、

「ほら、早く」

 湯飲みを出せと言わんばかりに、真琴がボトルを手にして傾けて来た。とりあえず言われるままに、用意したグラスを滑り込ませると、赤ワインを波々と注がれる。

「これでも一応、例のノンアルコールサングリアだから。車だし」

 七夕でバーベキューをした時に飲んだそれ、と、仮名に催促された具衛が仮名とグラスを軽く合わせると、

「これが、ですか?」

 と言いながらも、それぞれ一口飲んだ。見た目からしても、到底同じ物には見えないのだが。

「はい、おめでとー」

 早速飲み干した仮名が、手酌で二杯目を注ぐ前で、具衛は喉から鼻に抜ける爽やかながらも甘く重厚な味わいと、深いアルコール分に軽くむせた。

「これ! 本物じゃないですか!?」

 慌ててよくラベルを確かめると、カリフォルニアのビンテージワインのようである。更に驚いた事に、そのボトルの中に何やら草のような物が入っているではないか。

「私特製の自家製サングリアよ。美味しいでしょ」

 好みの米オーク樽特有のバニラ香が好きらしく、それに一味、好みのハーブをサングリアスタイルで加えたら、すっかり病みつきになってしまったらしい。世の既製品のフレーバードワインでは、好みの香りや旨味に辿り着けなかったのだそうだ。かと言って、サングリアのように、果物やスパイスや砂糖などを加えるのではなく、好みの高級ワインにその時々の気分で、シンプルにいくつかのハーブを漬け込むのみ。その繊細な隠し味が痛く気に入って、もう何年にもなるのだとか何とか。

「だから——」

 本当のところは「ハーブワイン」と呼んだ方が正しいらしかった。が、たまに果物を入れて飲む事もあるとか、フレーバードワインの事を知ったきっかけがサングリアだったとか、

「語源が気に入っててね」

 血を意味するその名称が、如何にも血気早い自分らしいとか何とかで、結局そう呼びつけているのだそうだ。

 しかし、本来赤ワインの賞味期限は、開栓後一週間以内が限界と言われたものなのだが、一方で、濃厚なビンテージワインであれば二週間は平気なのだそうで、更にワインセーバーを使えば余裕で一か月は酸化を抑えられるらしい。

「それがこの栓ね」

 仮名は、具衛が疑問に思っていた機械的な栓を手にして笑んだものだった。本来のサングリアは、果実を使う手前、長期保存には向かない。が、真琴のハーブ漬けだとそれが可能であり、一種の薬酒のようでもあった。只、それで片づけてしまうには、余りにも出来が良い。

「確かに、これは——」

 今まで仮名に飲まされて来た酒の中では一番美味い、と思った。上品なコクとでも言うのか、柔らかい舌触りとしたものなのか、これなら国民的な大衆酒の安物などと蔑しては、サングリアに怒られようものだ。何処を捉えても上質なまろやかさのそれは、やはりバニラの深い甘さの中に、微かなミントが鼻をくすぐる癒しの美酒だった。何かとストレスの多い仮名であれば、この香しさに取り憑かれるのも分かる気がしたものだったが、それを個人が作る事は、日本では酒税法に触れてしまうのだ。

「ふぅ、おいし」

 そんな具衛の目の前で仮名は、上品な酒を立て続けにグラスに注いでは、せっせと口内に流し込んでいる。つまりは、

「これで今夜はもう、車は運転出来ないわ」

 飲酒の既成事実を作り上げる事に躍起になっていた。

「なっ!?」

「あなたも私もね」

「そのつもりだったんですか?」

「そうよ。作戦通り」

 引越しの準備で荷物を纏めていたら、ワインセラーの中に自家製サングリアが残っているではないか。捨てるには惜しいし、かと言って流石に一人では飲み切れない。ではどうしたものか。

「実家に持って帰ればいいのでは?」

「実家じゃ酒を呷る気になれないのよ」

 折りしも今日は、それなりに世話になった山小屋の主の誕生日である事だし、それならこの美酒を手土産に、最後に飲み明かしても良いのではないか。との結論に達した結果がこの暴挙、と言う事らしかった。

「飲み明かすって——」

 いつまで居座るつもりなのか。

「あなたにいつか、この曰くつきを飲ませたいと思ってたのよ。ね、元お役人様?」

 意地の悪そうな笑みを浮かべた仮名に先手を打たれた具衛は、思わず小さく痙攣し顔を顰めた。そこまで知っていると言われてしまっては、一口程度の飲酒なら飲酒運転にはならない、と言う抗弁が封じられたも同然である。元お役人の大抵は、何処まで行っても無意識的に、法に窮屈な生き様を送っているものだ。

「そう言うあなただって——」

 元外務官僚と言う、それこそ立派な元お役人様の仮名である。それが細やかではあるが、明白に法を犯した酒で人を陥れ、無理矢理居座ろうとするそれは、具衛がそれを認めなければ、

「まあ、不退去罪って言いたいんだろうけど」

 と言う論法など、あっさりお見通しの仮名の才弁縦横振りは、少々酒を呷った程度では全く動じない。

「それにしてはあなたも随分——」

 花火大会とか、現役外相の選挙事務所とかでまあ色々とねぇ、などと、意味深な口振りで逆を取られると、ぐうの音も出なかった。

「でも——」

 そのくせ、顔を曇らせた具衛を見ると、

「お願いよ——」

 迷惑かけないから、などと、今度は急にしおらしくなる仮名である。

「はあ」

 乗り切らないながらも、若干肯定を匂わす曖昧な声を出すと、

「良かった」

 今度は、包み込まれるかのような柔らかい微笑をくれたものだった。その役者振りも大したものならば、大胆な行動力も敵わない。

「じゃ、折角だから飲んで食べてよ」

 言いながら仮名は、またてきぱきとして、今度はモンブランを切り分けた。具衛が合わせて持って来ていた小皿に載せると、さっさとフォークを入れる。

「甘さ控えめでおいしいわ。ぼさっとしてないで食べなさいよ」

「仮名さん」

「まだそれを言う?」

 戸惑う具衛をよそに、

「あ、運転代行は使わないからね。自分の車のハンドルは、情を知る人じゃないと預けられないから」

 仮名は呆気らかんと言い切った。

「前にも言った事があったと思うけど」

 覚えてる? などと悪びれもせず、したり顔をして見せる今日の御尊顔は、随分色々な表情を見せては、中々具衛を困らせてくれるものである。

「覚えてますけど——」

 合わせて色々と言ってくれたものだが、この時点で既に

 ——迷惑かけられてんですが。

 夜の山奥の小屋で男女が二人切り。しかも女は、どう言う魂胆か知らないが自ら酒を呷っていて、後は男の自制頼みと言うこの状況。それは普通、良識を持つ男の観点では、常識的に考えて既に立派な迷惑と言って良い。

「はあぁ——」

 只ならぬ戸惑いで、片手を額に当てて堪らず溜息を吐く具衛の横で、

「五合瓶四本じゃ少なかったかしら」

 仮名はせっせと手酌で、サングリアを注ぎ直していた。


「しかし、誕生日に漬物とご飯って」

 それに豆腐? 冷蔵庫使ってないのに? と言う仮名に、

「冬は冷蔵庫なんていりませんよ」

 寒いので、と具衛が細やかな反論をする。

「干し肉の燻製もあったでしょ。これは普通のご家庭じゃ中々食せないと思いますけど」

 熊肉ですし、と具衛が呟くように言うと、

「熊!?」

 仮名はあからさまに、身体を痙攣させて驚いた。どうやら知らずに初めて食べたらしい。因みに、熊肉の旬はその冬眠直前であり、冬眠に備えて食い溜めしたその肉は、脂が乗って濃厚と言われる。

「猟師さんからの頂き物で、最近はやめられないとまらないでして」

 しかしねぇ、と仮名は、

「色合いや気分ってもんがあるでしょう? 漬物や熊肉は確かにおいしいし、悪いとは言わないけど」

 軽く嘆息して見せた。

「一人でケーキって柄でもないですよ」

 一通り食べ終わって片づけも終え、卓上にはまたPCを載せている。映りの良くないワンセグでも見聞きしていないと、間が持てない。火鉢を挟んでいるとは言え、距離は一歩以内だ。とにかく、近かった。

 旅行が最後だと、

 宣言してたのに——

 その横で仮名は、相変わらずちびりちびり、曰くつきのワインを啜っている。その形は駄々を捏ねる若い娘の「今日は帰らない」ポーズに見え、何処か微笑ましくもあった。が、現実的な状況は生々しく、到底楽観視出来るものではない。とりあえず滞在する事を認めただけだ。

 その仮名は、と言うと、

「食べる物食べたら、とりあえず歯は磨きたいわね」

 言うなり、茶色系の良さそうなボストンバッグの中から、歯磨きセットとタオルを取り出して立ち上がった。

「用意が良いですね」

「泊まるつもりで来たんだから当然でしょ。洗面所借りるわよ」

 返事を聞かず、極小スペースを誇る台所脇の洗面所へ行く。

 ——何なんだ。

 あれ程の勢いで引っ叩いた筈ではないか。理由は良く分からなかったが、自分の何処かに失望した上の犯行である事は理解しているつもりではあった。だから、しばらくは柄にもなく、傷心期間を迎えるつもりでいたのだが。

「ちょっと物干し部屋借りるわよ」

 歯磨きが終わって戻って来ると、今度はバッグを持って干物を作っている隣室へ、やはり具衛の返事も聞かずに勝手に入った。

「何よ、もうお布団ひいてるじゃない!?」

「後は寝るだけでしたし、押し入れに入れとくより湿気が飛んで良いんですよ!」

 具衛の弁解のような反駁を聞く気があるのかないのか、

「あ、もう一つ火鉢がある。意外にあったかーい」

 仮名は一人ではしゃいでいる。

「寝る前に部屋と布団を暖めとかないと、余りに寒くて寝れないんで、大家さんから余ってるヤツを借りたんですよ!」

 何で一々こんな説明をする必要があるのか。具衛が独り言ちていると、部屋着に着替えて仮名が戻って来た。起毛仕立ての暖かそうなチュニックとパンツは、月見の時期に仮名の自宅へ押しかけた際の格好に似ていたが、足元は流石に冷えるのか、フットウォーマーを履いている。冬物の部屋着だと言うのにボリューム感はなく、相変わらずスッキリ着こなす様は、

 ホントに何を着ても——

 絵になり、この期に及んでも、目のやり場に苦労させられ困ったものだ。

「お風呂は済ませて来てるからね。後はいつ寝落ちてもいいわ」

「然いですか」

「あなたは?」

「は?」

「着替えよ」

「このままですよ」

「お風呂は?」

「だから、後は歯を磨いて寝るだけです」

「そう」

 一体全体、

 ——何の?

 確認か。

「じゃ、続き続き」

 仮名は、自分の言いたい事を言っては、また勝手に再開した。

「歯を磨いたばかりじゃないですか!?」

「だから、食べ物食べた分は予め磨いておいたのよ。酔い潰れるかも知れないし」

「それ、意味あるんですか?」

 アルコールの糖や酸の放置も、歯には大きなダメージになり得る筈である。要するところ、気分なのだろう。

「ほら、飲むわよー」

 既に三本目のボトルを開栓しているが、具衛も仮名も酔った様子はなかった。

「あなた酔ってないでしょ」

「飲みつけてないだけで、飲めない事はないんですよ」

 そう言う仮名こそ、全く酔っていない。顔色も言動も、全くの普段通りだった。只、何処か陽気である。

「私も、自分で言うのも何だけど、強いからねー」

 言いながら、最早何杯目か分からない酒を波々ついでは平然と飲んだ。

「酔いたい時があっても、酔えないからねー」

「そうなんですか」

「そうなんですかって、あなた——」

 相変わらず人ごとねー、と呆れる風を見せる仮名は、ついさっき注いだばかりのグラスを一気に傾けて、また呷る。

「うわ」

 これは何か——

 悪い酒か。思わず声が漏れ出た具衛の横で、仮名は空けたグラスを、音を立ててテーブルに置いた。

「三回目だからね」

「え?」

「一夜を共にするの」

 途端にグラスを傾けていた具衛がむせ返った。その余りにも生臭い台詞に怯んで固まり、一瞬嚥下反射が遅れた分だけ気管に酒が入ったのだ。

「少しぐらい、慌てふためいたらいいのよ」

 咳き込む度に、アルコールが喉の奥で香ってまたむせる。以前、仮名の病み上がりの昼下がりに、ここで一緒にお茶を啜っていた時にも、その生々しい言が影響して盛大にむせ返らされた事があったが、それよりも量は少ないものの、アルコールだと咳が咳を呼び込むようで辛かった。

 悪循環に身を捩る具衛の横で、

「どれだけ女に恥をかかせれば気が済むんだか」

 仮名は只ならぬ事を連発する。

「それが最後の最後で、辛くても生き抜けとか、何をほざいたものか」

 また手酌で波々と注いだ仮名は、口に傾けて一気に呷ると

「くそー全然酔えないわ!」

 また、たん、と音を立ててテーブルにグラスを置いた。

「あ、余り一気飲みすると身体に良くな——」

「うるさい!」

 また手酌で、どぼどぼ注ぐと、途中で瓶の方が空いてしまう。

「くそ、空いた」

 中途半端にグラスに入ったそれを、また仮名が呷った。

「ちょ、ちょっと!」

 流石に具衛が、その手を掴んで止める。

「触るな!」

 軽く振り払うその手を、また具衛が掴んだ。そんな事を何回か続けると、仮名が諦めて手を止める。それを見た具衛が、そっと手を放そうとすると、

「放すな!」

 今度は逆を言って仮名が怒った。

「——酔ってますね」

 流石に何回か立て続けに呷ったせいか、目が据わって見える。頬も少し赤身を帯びているようで、これはこれで

 妙に——

 色っぽい。

 戸惑った具衛は、やはりそろそろと手を放した。

「そりゃぁあなたはね!」

 その手を、だん! と音を立てて、仮名が上から握り潰した。

「いたっ!」

「世界中の何処にいたって、ちゃちゃっとネット検索すれば、私の事は分かるでしょうよ!」

 驚いて痛がる具衛を、仮名は構わず続ける。

「でも、こっちはどうしろって言うのよ!」

「はあ?」

「残りの人生、全部籠の鳥で、夢も希望もない死んだも同じのような人生!」

 感情が昂る余り、狭ばる喉に構わず絞り出した声の末尾が、震えて高くなった。

「せめて何か支えになるものが欲しかったのに、あなたときたら月並みな妄言だけで!」

 震える手が爪を立て始めるが、具衛は我慢する。地位や財を始め何一つ持ち合わせず、身一つでしか答える事が出来ない身だ。受け止める事が出来るものは、大人しく受け止めようと思った。

「あなたなんて一度目を放したら、あっと言う間に見えなくなっちゃうじゃない!」

 その爪が、震えながら手の甲の皮膚を激しく突く。

「それをさ! どうやって無名のあなたに接しろって言うのよ! 後に残されたあなたの物なんて、それこそこのハンカチだけよ!」

 片方の手で、仮名はバッグの中から具衛のタオルハンカチを取り出し、テーブルの上に叩きつけた。片手ですぐに取り出せる程、確かなところに常備している事を裏づけるそれは、

「こんな安っぽいハンカチだけで、どうやって気持ちを切らさず、それこそ生き抜けって言うのよ!」

 良くある百円均一の量販店で、アイロンをかけずとも使い回せる勝手の良さを見込んで、特に拘りなく買ったものだ。それを、日本一の金持ちとも揶揄される大富豪の令嬢が

 支えって——

 哀れであった。

 突き立てられた爪は、人差し指から薬指の三本が、ついには皮膚を突き破り、具衛の手の甲と仮名の爪の間に血が滲み出している。

「——ごめん」

 血を見た仮名が我に返った、ようだった。

「こちらこそ、失言でした」

「何が?」

「酔いにまかせて妄言を吐いている、と決めつけて」

「酔ってるわよ!」

 仮名はテーブルに出していたハンカチを、具衛の傷に押し当てる。

「酔ってなきゃ、こんな愚痴なんか言えないわ」

 しばらく押し当て、滲んだ血を丁寧に拭き取ると、またハンカチを自分の手元に戻した。

「私も、さ。最後の最後に、あなたに訊きたい事があって——」

 まるでそれは、これからの余生の支えを掻き集めているかのようだ。

「それで、あなたの誕生日に託けて来た、つもり」

 言う割に、照れ隠しの上辺の祝いしか受けた覚えがなく、それどころか量こそ微弱だが流血の惨事を呈している事は、この際飲み込んだ。

「私、明日の新幹線で実家に帰るの」

「そう、ですか」

「母親から、年内一杯で身辺整理するよう言われててね。この年でママの言う事を聞かざるを得ない事が、情けない事極まりないんだけど——」

 年内一杯だったのか——。

 具衛は、仮名が諜報工作を諦めた理由にようやく思い至った。それを上回るような対抗策を講じるには、余りにも時間がなさ過ぎた。つまりは、初めから負け戦だった、と言う事である。それを分かって仮名が、具衛の無策無謀を止めたのだ。

「今更どんな顔して帰れば良いか、分からなくて」

 仮名は具衛の目にすがるように

「——あなたは、親を許せる?」

 弱々しく吐いた。

 具衛より年上の、聡明な稀有の美女の正体が、今、資がない名もなき大多数のバカな男の中の一人である男の目の前にあった。色々と難しい身の事である。ここまで晒した事など、まずなかった事だろう。それこそ一大決心だったに違いない。だからこそ酒を呷っていたのだ。そうした人間の、後の人生を左右しかねないその答えを、この土壇場で求められている。

「あなたの思いに、添えるような事を言えるかどうか分かりませんけど——」

 取り繕った答えではない事を含ませた具衛の真摯な口振りに、仮名の身体が小さく痙攣した。

「それでも、聞きますか?」

「——うん」

「私の父親の話は、もうご存じですよね」

「——うん。武智さんから」


「あれが生まれたのは、年末が差し迫った小晦日でして——」

 離任挨拶で武智邸に立ち寄った際、真琴が先生の素性を尋ねたところ、武智は物語調で語り出し、真琴は一人で微笑んだものだったが、顔が緩んだのは最初だけだった。

 先生こと不破具衛が、広島都市圏近郊の安アパートに居を構える資がない貧困家庭の一人息子として出生したのは、今日からちょうど三八年前の事だ。寺の住職から名を貰ったらしい具衛少年の最も古い記憶でさえ、父親は既に酒とギャンブルに狂っており、ろくに仕事をしていなかったと言う。逆に母親は、早朝から深夜まで、いくつもパート勤めをかけ持ちしており、家計を支えていた。当然母親は家事に手が回らず、同居していた父方の祖母がしていたらしい。

 具衛以外の大人達の言い争いが絶えた日は一日たりともなく、その一角の母親が、ついに愛想を尽かして離婚し家を出たのは、具衛が小四の時だった。稼ぎ頭が抜けた後の不破家の末路は想像に易しい。母親が出て行った後、祖母はやはり生活を改めない自身の息子に愛想を尽かしていたが、みるみるうちに借金を積み重ねていく息子を積極的に咎める事はしなかった。どの道、自分が先に逝くと高を括っていたのだろう。母親がいた頃、ジリ貧ながらもどうにかやり繰りしていた不破家の家計は一気に転落。あっと言う間に所謂消費者金融から金が借りられなくなると、酒やギャンブルつき合いで意外に交友が広かった父親は、今度は数々の知人に借金をするようになり、借金は着実に増えて行った。

 更に出費は増え続けるもので、母親なき後、父親がアルコール精神病となり精神病院を入退院するようになるのに、そう時間を要しなかった。祖母と具衛の二人の間にも、父親がいない分だけ、僅かながらの平穏が訪れたものだったが、その分入院費用で家計は圧迫され続けた。

 祖母も細々と働いてはいたが、膨らみ続ける借金の前には焼石に水だった。加えて祖母は、現役時代ずっと非正規雇用で、保険年金の類いは完全未払いであったため、受給年齢を迎えていたにも関わらず年金を貰えず、それどころか医療費は全額負担で家系を更に圧迫した。父親については、最早言うまでもないだろう。

 その頃、中学に進学した具衛は、学校に内緒でアルバイトを始め、朝夕刊配達やスーパーの倉庫で小銭を稼ぎ、余り物の食材を貰うようになり、食い繋ぐ術を養ったものだった。が、一方で元々の勉強嫌い、学校嫌いが手伝い、また登校しても貧乏や学がない事をバカにされるだけの学校生活に飽きて、登校したりしなかったりを繰り返すようになった。

 家計は借金を重ねても、殆ど父親の入院費、酒代、ギャンブルに消えて行くため、生活は更に困窮を極め、祖母は一時期、生活保護の受給も考えたようだ。が、結局、親子揃って保険年金未払いであるため、痛い腹を探られる事を嫌がり、結局役所に相談すらしなかった。どのみち年金も生活保護も貰ったところで、父親の酒代とギャンブルで泡沫と化す事は目に見えていたからだろう。

 不幸中の幸いと言えば、祖母が死ぬ直前まで具衛を食わせながらも、進学を渋る具衛を無理矢理近くの平凡な公立高校へ進学させ、通わせていた事ぐらいだろう。祖母は具衛のアルバイト代と合わせた少ない見入りで、借金に追われながらも、どうにかやり繰りをしていた。料理に関してはやり繰りが上手かった祖母は、限られた食費の中で、一家の腹を飢えない程度には食わす才能を持っていた。その祖母も、具衛が高三の一学期に突然倒れるとそのまま鬼籍に入った。心臓が弱っていたが、医師の言いつけを守らず通院を渋っていた事が祟ったのだ。死因はやはり心疾患だった。

 その頃にもなると父親は、殆ど入院状態であり、禁治産者に認定される寸前まで荒んでいたが、借金をする事はなくなったにせよ、やはり最後の最後まで入院費用で家計を苦しめ続けた。その父親は、奇しくも祖母が亡くなった数日後に精神病院で死亡した。死因は鉄格子が入った病院の個室で、自ら頭を打ちつけた事による脳挫傷だったらしい。

 親族、親戚はいたようだが、完全に音信不通であり、離婚した母親も全く音沙汰がなかったため、具衛はあっと言う間に天涯孤独となった。借家には家財めいた物は何も無く、元来物が何もない家だったが、唯一、膨大な督促状の山が残されていたと言う。

 具衛の父親の最大債権者の顧問弁護士である山下が、借金取り立ての依頼を受けて具衛の家を訪ねたのは、具衛がない知恵で、役所の人間に聞きながらも、どうにか二人の死亡届や火葬を済ませた直後の事だった。

 山下と具衛はこの時が初対面で、以後今日に至るまでの長いつき合いになるのだが、当時の山下は四〇半ばで、現役バリバリの弁護士だった。片や具衛は、まだ一見して頼りなさそうな高三のひ弱な男子であり、どう見ても山下の圧勝と思われたお悔やみ口上後の社交辞令は、開口一番で、返済計画策定を無心して土下座する具衛が圧倒したと言う。

 弁護士として様々な家を押しかけては、その絶対的な法的知識と社会的地位で、常に優位であり続けた山下にとって、具衛の落ち着き振りは異常で、かつてない経験に驚かされたそうだ。

「まあ、その理由がまた、哀れでしてな」

 具衛の落ち着き振りの理由は、実は極簡単で当然と言えば当然なのだが、この荒んだ家庭に育ちながら、少年が出来る事と言えば、押し寄せて来る借金取りの対応だったらしい。保護者と言われる立ち位置の家人達は責任逃れで逃げ惑い、本来責任の及ばない立ち位置の具衛を人柱にし、借金取りの対応をさせていたのである。これにより具衛は、ない智恵で世知を少しは学び、大人と話をする事に何の苦痛も感じない、妙に冷めた落ち着きのある年寄り臭い若者に成長したのだと言う。

 山下は、依頼とは言え余りにも不憫なこの若者を庇うべく、依頼主の代理人たる立場を留保し、相続放棄による支払い逃れの術を思わず教示した。どの道、何の資産もない債務者であり、返済を迫る事を諦めての事だったのであるが、

「それでは父の知人である多くの債権者に、一家の生き残りとして申し訳ない——と無茶を申しまして」

 具衛は頑として受け入れず、法の範囲内で債権者が望む利息をつけて「一生かかってでも返済する」と言い切ったのだそうだ。これには代理人の山下も武智本人も、呆れ返ると同時に感じ入るに至り、半信半疑ながらも具衛の希望に添う形で、債権整理出来るものは整理し返済計画を組んでみた。結局、半月後に出来た返済計画は、元金二千数百万円の借金を、利息をつけて約三〇年で返済するものとなったのだそうだが、

「それは——」

「当然、無茶な話でしたよ」

 だった。元金の返済で満足する債権者には、謝罪も兼ねて年利一割の利息をつけて返済。それ以上望む者には年利の法定上限の利息をつけて返済と言う、一種の無謀とも言える計画は、具衛が通常のサラリーマンとしてまともな会社に就職し、順調に出世してどうにか返済出来る内容である。その裏には、長年の倹約生活は勿論の事、家庭を持つ喜びも奪う内容である事は、年々上がって行く返済額がはっきりと物語っていた。

「計画上の返済総額は、一億三千万を超えましたからな」

 サラリーマンが安定した企業の正社員として定年まで全うに働いて、ようやく生涯年俸二億円と言う時代である。それを具衛は、その後の人生で、返済すら難しいような額を、逆に一〇年前倒しで完済する事で、総額一億円と少しの返済に止めたと言う。

 が、庶民にその代償は大きく、三八にもなって預貯金はおろか、衣類を始め手元には未だに必要最低限の物しかない。

「まあ、物や金はそれなりに後から取り戻せるとしても——」

 輝かしいと言えないまでも、人並みには望んでも罰は当たらないであろう青春時代までも、当然その代償として払わされた。人生で一番眩しい時代を、具衛は自暴自棄になる自由すら許されず、修行僧並みの倹約と厳しい戒律を守りながら、只々シビアに歩み続けた。

 天涯孤独となった具衛が、高校を中退して過酷な道を選び、冠婚葬祭を除いて酒に手を伸ばさず、パスポートを武智に質入れして逃げない意思表示をするなど、酔狂とも言うべきスタンスで頑固な生き方を貫き、借金返済に漕ぎ着けたその糧を、武智は上っ面しか知らず詳細を訊く事は叶わなかったのだが、その借金を完済したのが、つい数日前となるこの一二月の給料日、と言う事だった。


「本当はグアムで、不破具衛と言う人の半生を聞きたかったんだけど——」

 真琴は顔を逸らすと、

「これが最後だと思うと、今日みたいに自分の言いたいばかり溢れて」

 また手酌で注いでは、それを呷る。

「おまけに強行軍だったし、ろくに観光も出来ずに、戦没者の慰霊だけって寂し過ぎるでしょ!?」

 何だか論点がずれているが、先生は黙って聞いていた。酒も入って血の巡りが良くなっている分、抑揚も激しければ舌も回る。手が出せない、と判断したのだろう。

「確かに慰霊だけでも有意義だとは思うけど」

 今では常夏の観光地として人気のグアムも、先の大戦では激戦地の一つとなった。将兵はおろか先住民も、そのために数多く命を落とし帰らぬ人となっている。それに対して二人は、

「黙祷だけでも」

「そうね」

 史跡こそ巡る時間を持ち合わせなかったのだったが、太平洋に向かって黙祷し、哀悼の誠を捧げてはいた。が、

「それはそれ。観光は観光よ」

 あくまでも主眼としては観光で来た訳で、その気分を大事にしたかった。

 それが結局、

「つい、あなたに当たり散らして。こんなのDVとかストーカーなんかと変わらないわ」

 機嫌を悪くして、そのまま終わってしまった事を後悔した。真琴はテーブルに片肘を突いて一息吐くと、その手を両目当ててうなだれる。

「情けない事に、自分で暴走してるのは分かってるんだけど、もう止められなくて」

 盛大に溜息を吐くと、

「嫌なら嫌ってはっきり言いなさいよ。何なら訴えても構わないわ」

 また同情を誘うかのように、自虐を吐いた。情につけ入るなど、それを嫌う真琴ではあるし、本気で訴えられても良いと言ったつもりだが、状況としては明らかに情を誘うやり方であり、如何にも情けない。

「実家の看板に多少なりとも傷をつけられるし、私も——」

 その止まらなくなる口の代わりに、先生は真琴の両目に添えられた手を取る事で無理矢理止めさせた。その手から伝わる熱や感触に、思いがけず動揺した真琴は素直に驚き、言葉を失い、目を剥く。

「嫌だったら、とっくの昔に訴えてますよ」

「何の罪で?」

 少し顔を綻ばせた真琴に先生は、

「籠絡の罪で」

「何それ」

 くしゃりと失笑して見せた。

「聞いた事ないんだけど」

「親が死んで、もう二〇年が経ってますから——」

 先生が妙なタイミングで、真琴の問いに答え始めると、真琴は俄かに戸惑いを浮かべた。

「諦めがつくんです」

「諦め?」

「ええ。良くも悪くも二〇年前で、親の善行や悪行の一切合切は終わってますから。まあ、殆ど悪行でしたけど」

 先生は、握る手をじわじわ強める。

「未だに恨み辛みや、許せない思いも当然——」

 言葉の強さに比例するその手を感じた真琴は、少し身体を固くした。

「でも一応、五体満足に育てて貰いましたし、今の私はあの親がいないと存在しない訳ですから」

 先生は、また少し手を緩める。

「だから?」

「諦め時が来るんです。何かもう仕方ないって言う——」

「そんなものなのかしらね?」

 真琴の言の末尾に反感が滲んだ。

 親が健在の真琴には、まだ通じない話なのだと言う落胆から、語感が頑なになる。

「許さなくても、恨んでも、喧嘩しても、良いんです」

 今度は逆にその手が完全に脱力した感があり、真琴が逆に先生の手を上から握り返した。

「気を遣わなくても良いわよ」

 が、先生は、謝意を含ませた真琴のその手に反応を示さなかった。それに真琴が違和感を覚えた時、先生の口から予想外の言葉が吐き出された。

「一番いけないのは、無関心だと思うんです」

 はっきりと否定を示すその答えに、

「——え?」

 真琴は目を剥いて動揺を示した。

「関心がなかったら、お互いいないも同じで——まあ、恨みや怒りは、事態を深刻にするんでしょうけど」

 真琴の人生は、文字通りその深刻に陥った負の感情に塗れた人生だったのだが、先生はあえてそれを口にする。

「親子間で、自分に繋がる血脈で、お互いの存在に意義が見出せないのは切ないです」

「意義って、必要なのかしら?」

 真琴は、また反駁した。

 殆ど子供の駄々である事は明らかだ。自分で答えを求めておきながら、どんな答えが出てもそれに対して受け入れられないと駄々を捏ねるのは、つまり子供の甘えである。

「同じ生きるのなら、有意義でありたいと思うのは人間なら自然でしょう。生きるだけじゃ切な過ぎるし、そう言う人生は長過ぎます」

「まあ、宗教や多くの哲学は、そんな事を言ってはいるわよね」

 丁寧な説明をする先生に、真琴は殆ど屁理屈で返した。要するに甘えたいが故の屁理屈なのは、自分でも分かっている。分かってはいるのだが止まらない。止められない。それをどこまで受け止めてくれるのか、その深さも知りたい。結局は、それだけの事らしい。

「逃げ回られるのはきっと寂しい。どうしても良い関係にならない時は、諦めるだけの事です」

 そんな屁理屈の尻尾を、先生は逃がさず真面目に掴もうとする。

「折角ご健在の肉親です。許すも許さないも、それが出来るうちにやっておかないと——」

「諦める事になる訳?」

「相手がいなくなれば、結局は自分の中で都合良く解釈して結論づける事になる。だから、諦めるしかなくなる。選択肢を一つ失う分、人生の幅が狭まる」

「要するに、その分だけ偏屈になるって事かしらね」

 それは今、先生に対してやっている事と同じ事である。人と言う人に対して、とにかく素直でない自分。そんなであるから、母親と話をする時は特に、文字通り話にならない。徹頭徹尾、必ず嫌味の応酬と言う醜態が常だった。その記憶をいくら遡っても、母との会話で穏便だった事など、一度たりともあった事があろうか。

「だから、とことんやり合えば良いと。あなたの肉親は、皆さんそんな柔な方々じゃないでしょう?」

「まあ、ね」

 真琴はつい、コミカルに顔を顰めて見せた。頑なになろうとする向きを、つい真摯に語る先生に絆された。このような事など、答えようによっては回答など無数にあるのだ。単に、不破具衛と言う薄幸の男の観点から、意見を求めたに過ぎない。

「古今東西、千差万別の事情で、先の人生を失った人達の分まで生きる」

 結局のところ何を言われようと、本当に欲しかったのは、真琴の甘えを受け止めてくれるだけの深さだった。

「大抵の余人は自分の事で精一杯ですが、あなたはそれに寄り添う資質と、それを仕事にしておられた筈でしょう?」

 国連に勤めていた真琴は、確かにそうした崇高な使命を帯びていた事もあった。が、今ではすっかり自己の人生に悲観的になり、駄々を捏ねてばかりの甘えん坊に成り下がっている。

「分かったわよ」

 全ては、頼れば必ず何かの答えを出すと言う、この意外に深い懐を持つ詐欺師のせいなのだった。

「私の甘えね」

 孤軍奮闘して来た真琴にとって、その存在は最早何物にも変え難い支えとなってしまっている。それは実は、出会ってかなり早い段階で感じていた事なのだが、動揺しては無理矢理蓋をし続けたためか、この期に及んでは蓋が完全に壊れてしまった。

「でも、あなたの言う通り生き抜くにしても、このままあの伏魔殿に帰るのはやっぱり辛いわ」

 後はもう、中身が溢れるばかりである。真琴は不意に立ち上がって、

「もう寝る」

 酔った素振りで物干し部屋の戸を開けた。

「布団借りるわよ」

「ええっ?」

 男が使っているむさい布団がどうたらこうたらと御託を並べながらも、先生が慌てて追って立ち上がり、ふらつく真琴の両肩を持つ。

「スキあり」

 その瞬間、酔った振りをしていた真琴がまんまと先生の足を刈り、敷かれた布団に先生を押し倒した。

「酔ってたんじゃないんですか?」

 面と向かって真琴に上から押し潰された先生が、堪らず顔を背けながら生唾を飲み込んでいる。

「だから、あんなもんで酔うもんですか」

 先生が慄くその顔の真上で、真琴は平然と嘯いた。

「嫌なら訴えなさいな。もうどうにも何とやらだし」

「しかし、私なんかを——」

 側頭を、真琴の両腕に挟まれた先生のその顔に、

「気のない女が三回も、薄化粧で部屋着を晒す訳ないでしょう」

 真琴の垂れ下がった髪が、怪しく触れる。その妙に艶かしく据わった真琴に、気圧された先生が堪らず、

「四〇前のウブなおっさんですよ?」

 年齢を揶揄して自虐した。が、

「四〇過ぎの枯れかかった女が、どれ程の覚悟でこんな事してるか、あなたに理解出来て?」

 真琴はそれを自虐的にも論い、上から被さりその耳元で怪しく囁く。

「で、でも、仮にも再婚前でしょう」

「だから、籠の鳥になる前に、余生の支えを貰って行くのよ」

「支えを求めるところを間違えてません?」

「あなたの他に誰がくれるって言うの?」

 耳元で囁いたその口で、早速ウブな男の首筋を怪しく弄り始めた。まるで自分ではない別人格が、それをしているかのようだ。

 先生が生唾を飲み込む間隔が早くなると、

「一応言っとくけど、こんな事するの、後にも先にもあなたが初めてだから」

 周囲に、仄かな葡萄とバニラとハーブの混ざったような匂いが立ち込めているのを鼻が感じ始めた。それにアルコールが加わっている事で、状況共々頭がクラクラする。それでも酔っている感覚は遠く、只ならぬ動悸で血圧が上がってのぼせているようだった。

「いい匂い——」

「うぅ——」

 先生がついに、言葉にならない声を上げ始める。覆い被さり、衣服越しだが胸と胸が触れている。互いの心臓が、飛び出そうな程に脈が触れていた。こんなに興奮するなど覚えがない真琴である。

「ほっぺた」

「はい?」

「痛かったでしょう?」

「い、いえ」

 今度は、ついこの前、盛大に引っ叩いた当たりを頬擦りする。

「私ね」

「はい?」

「あなたの事聞いた時、泣いちゃったわ」

「そ、そう、なんですか」

 事実だった。

 しかも武智に指摘されるまで、頬を伝う涙に気づかなかった、と言う失態つきだ。

「あなたは本当に、生き抜いて来たのね」

 自分とはまるで立場が違う正反対の世の底辺で、この柔そうな男の中に秘められた苛烈な半生に驚きが隠せず、素直な感情が頬を伝ったのだ。

「嬉しかったわ」

 腐らずに地道に歩み続けた末に自分の前に現れ、一時ながらも大きな支えになってくれた事が、素直にこの上もなく嬉しかった。当然、その歩みが真琴のためではない事は確かだったが、その歩みが自分の心を掴んだ今の先生を構築したのだとすれば、その生き様は愛おしかった。

 武智から聞いた話を思い出すだけでも想いが溢れるその勢いそのままに、先生の口を吸おうとすると、

「い、いけません!」

 土壇場で先生が、真琴の両頬を挟んで食い止めた。

「どうして?」

 真琴が構わず力任せに迫るが、先生も踏ん張り、目の前でそれぞれ顔が歪む。

「私の遺伝子は、ろくな情報が入ってません!」

 家計の事を言っているのだろうが、真琴にはどうでも良かった。

「そんなことないでしょう」

 実際、自分のような偏屈者を、この男は物の見事に落としたのだ。その一事だけでも、

「大したものだと思うけど?」

 押してダメだと判断した真琴は、すぐに顔を引いて先生の両手を取った。手の支えを失い、そのまま自由落下に任せて身体を押しつける。

「ちょ、ちょっと!? 待って——」

「もう、つべこべうるさい」

 戸惑う先生の抵抗を躱した真琴が、その顔の上でまた少し身体を起こすと、小刻みに震えながら目を剥いているその目を見据え、幼児をあやすように言った。

 そして続け様に、それでも何やら動いている先生の口を確かめると、有無を言わさず乱暴に蓋をするかのように、自らの唇を容赦なく被せた。

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