憧憬
太田肇
1
新千歳空港から大阪行きの飛行機に乗った。初めての一人旅で不安だったけれど、なんとか最後の目的地の大阪にはたどり着けそうだ。青森からフェリーに乗り、函館、長万部、登別を経由した長旅も、もう終わろうとしている。
僕はこの旅を忘れないだろう。登別で出会った彼女の、いや彼女たちのことも。結局、最後まで彼女たちのことは、難しくてよく分からなかったけれど、少しは理解できたと思う。今を生きようとする彼女は美しかった。彼女のきらきらは唯一無二のもので、僕はきっとそれに惹かれたのだと思う。言うなれば運命、つまり意味がありそうな偶然。メロドラマチックだけれど、それも悪くないと思った。
この感情が、思い出になる頃には、いろいろ脚色されて実際のものとはかけ離れたものになってしまいそうだから、こうして記録している。飛行機の中だから上手く書けないけれど、時間はあるからゆっくり書こうと思う。
✳︎
僕は登別駅からバスに二十分くらい乗って温泉街に行った。バスを降りると膝丈まで積もった雪が太陽の光を浴びて、煌々としていた。まだ春風とは言えない冷たい風が吹く。硫黄の独特な匂いがした。僕は温泉街に来るのが初めてだった。
この春、僕は大学生になる。地元の東北を離れて、関西の大学に進学することになった。引っ越しなどで忙しくなる前に卒業旅行をしようと思い立ったわけだ。友人と一緒に旅行することも考えたが、一人の方が気楽で、自由にできると思ったので一人で旅行することにした。それに、旅をすることは人生を考える良いきっかけだと、昔の偉い人が言っていた気もする。
バス停を出るとすぐ左手に白く濁った川が流れていた。湯気が立っていた。お湯が流れているのだろう。川底の石が所々黄色くなっていた。その川を跨ぐ橋の欄干には、写真を撮る人たちがいた。僕もその人たちに習って、川の写真を撮った。橋を渡り、しばらく歩くと、青い暖簾が懸かった蕎麦屋があった。お昼を食べていなかったので、そこで食べることにした。
店内は質素だった。和室で畳の上に机と座布団が置かれていた。僕は厨房の目の前に腰を下ろした。厨房には背が低く、痩せて骨と皮ばかりの男がいた。
「すみません」
「はい。なんでしょう」
「蒸籠蕎麦お願いします」
「ありがとうございます」と男は言うと蕎麦を茹で始めた。
「お兄さん、お兄さん。旅行でもしているのかい?」と男は話しかけてきた。
「そうです。時間ができたので」
「ここ登別の語源はね、アイヌ語なんだ。ヌプルぺッってアイヌ語で色の濃い川って意味なんだけど、そこから来てる」
「確かに来る途中の川は白かったですね」
「そうだろう」
男は手際よく蕎麦を湯から揚げ、お湯を切り、蒸籠に盛り付けた。
「もう地獄谷へは行ったかい?」と男は思い出したかのように言った。
「いや、まだここに着いたばかりなので」と僕は首を横に振った。
「なら行ってみるといい。登別の温泉街と言ったら地獄谷だからね」
「ここから近いんですか?」
「歩いて十分くらいだ。坂道だけどね」
「へぇ。なら蕎麦を食べた後にでも行ってみます」
「そうするといい」
そう言いながら男は蒸籠に盛り付けられた蕎麦を僕の席まで持ってきてくれた。
「ありがとうございます」
「お勘定はここに入れておくからね」
とても匂いが強い蕎麦だった。鼻を抜ける香りがどこか懐かしく感じた。一通り食べ終えて、骨と皮ばかりの男に礼を言い店を出た。
男に言われた通りに坂を登っていくと『地獄谷この先一キロメートル』と書かれた看板があった。ここからそんなに坂を登るのかと思うと、少し憂鬱になった。口から吐き出される息は白いというのに、僕は汗をかいた。
十二、三分歩いたところで、地獄谷の展望台に着いた。谷は灰色と鈍い赤が混じり、至る所から煙が出ていた。この地獄谷だけ雪が積もっていなかった。温泉が有あるから他の山々よりも表面の温度が高いのであろう。他の周りの山々は色が無いのに、この谷だけに色があることがどうにも気持ち悪かった。街の中でも硫黄の匂いがしたが、ここは更に匂いが強かった。地獄谷という名前に負けない風景だった。
展望台の端にあった地図が描かれた看板を見に行こうとしたときだった。展望台から地獄谷を眺める女性がいた。肩くらいまでの黒髪で、黒いコートを着ていた。妖怪じみた白い肌に、何も映していないかのような、全てを吸い込むかのような漆黒の瞳。まるで、地獄から出てきたかのような女性だった。妖美で浮世離れしていると言うか、何かそういう雰囲気があった。
兎に角、その女性にはこの地獄谷がよく似合っていた。
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