波の音
犬屋小烏本部
波の音はなにかを連れて
プロローグ「いのうえ よしみ」
「よっちゃんは冷たいね」
昔からよくそんなことを言われた。悪い意味ではなかった。性格が冷えていて冷酷だということではなかった。
「よっちゃんのおてて、とっても冷たいね」
触れた指はもっと冷たかった。だが、不思議とそれらは彼女にとって嫌なものではなかった。
もともと体温が低い彼女は冷え性だった。冬には足先が冷えきって、湯たんぽがどうしても欲しくなる。いくら冷え性といっても寒さに強いわけではないのだ。
かといって、暑さに強いわけでもない。夏には冷房を効かせた部屋で読書をしたい。
ただ、外出は嫌いではなかった。山や森の中を散歩するのは楽しい。運動は得意ではないが、周りの景色を眺めることは好きだ。
どちらかといえば、彼女は友人たちと騒いでいるよりも一人でいる姿の方が多く見られたかもしれない。
孤立しているのかと思われがちだがそうではない。ただ、同年代との付き合いが少ないだけだ。
彼女は面倒見が良かった。それは同年代の友人たちから見ても明らかであった。
「兄弟か姉妹いるの?」
付き合いが浅い人からは、いつも彼女はそう聞かれた。いいえ、一人っ子ですよ。彼女は苦笑しながら答えた。
お節介と言うほどではないが、彼女は世話焼きだった。特に年下の子供に対しては顕著であった。逆に年上の人から敬遠されるということもなく、妹のように扱われた。
どこにでもいるおとなしい少女。それが、彼女への大人の評価である。
周囲よりも多少古めかしい雰囲気を感じさせる、時代に置いてけぼりにされたと言うべきか、そんな印象を与える少女。
それが井ノ上由実であった。
初対面で彼女の名前を紙面で見た人は、大抵彼女を「ゆみ」と呼ぶ。進学、進級時や役所、病院ではその機会は特に多かった。
彼女は「ゆみ」ではなく、「よしみ」である。
だから、幼い子供が彼女を呼ぶ時の呼び方は決まって「よっちゃん」であった。彼女も決まってそう呼ばせていた。
自分と同じ制服を着て机に向かい、テレビやゲームの中の話に空想し、恋愛話に華を咲かせる女子高生は可愛いと思う。だができれば自分はそれに混ざりたくない。ああ、でも愛らしい雑貨や美味しいパンケーキの店が新しくできた時は珍しく会話に入ろうかな。
彼女はいつもそう思っていた。
花も恥じらう乙女というわけではないが、彼女は周りと比べればおとなしい女子高生であった。おとなしいだけで、彼女はただのどこにでもいる女子高生。恋もしたいし、誰かに甘えたいし、憧れもする。
代わり映えのない日常が目の前を流れていくように彼女もまた、景色と同じく、ただ、当たり前にそこにあるのだ。
古いアパートの一室に住む彼女は、学校から帰るとまずポストを覗く。そこには年に数回だけ、母からの手紙が届く。
少ない家具が置かれた部屋に入ると、荷物を置いて丁寧に封を切る。
同居していない母と父のことを思うと、彼女の心にはいつもすきま風が吹く。心の中にぽっかりと隙間を開けた空洞が、乾いた冷たい風を吹かせるのだ。なぜ、自分だけが一人でいるのかと。
手紙の中には彼女の健康を気遣う言葉と一緒に、母の近況が綴られる。そして、決まって最後はこう締められるのであった。
「半年に一度でいいから、こっちへ帰ってきて」
もう、何年帰っていないのだろうか。何年、帰ることができていないのだろうか。
その理由は、彼女自身にもわからなかった。
開いた部屋の窓からは海が見えている。今の寒い季節では灰色に見える海が、彼女の視界の映っている。
遠くて波の音は聴こえてこない。
ただ、どことなく潮が混ざった風が肩まで伸ばした彼女の髪を揺らしていた。
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