谷崎文章読本とわたし

 お世話になっている方が、他サイトにて谷崎潤一郎の「文章読本」を読んでいくエッセイを立ち上げておられました。

 谷崎文章読本、私も大学時代(たぶん)に読み、それまでの小説観を丸々ひっくり返された覚えがあります。

 当時はまだ実作には至らなかったのですが、三十代になって「小説を書こう」と思い立った遠因のひとつに、谷崎文章読本があったと思います。かつ、今に至るまで、私が小説を書くときの心構えの基礎にもなっています。

 せっかくなので、谷崎文章読本のどこらへんが今の自分に影響を与えているかという話を、ちょっとしてみようと思います。



 ……と、さも熟読したかのように語っておりますが。

 実のところ内容の大半は忘れました(苦笑)

 覚えている内容は4つだけ。「実用的な文と芸術的な文に差はない」「鯛を食べたことのない人に、鯛の味を文章で伝えることはできない」「志賀直哉『城の崎にて』の引用部」「悪文の見本」です。

 ですがそれぞれ、今の自分に絶大な影響を与えております。



 以下、順にみていきます。


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 ■ 1. 実用的な文と芸術的な文に差はない


 谷崎文章読本で一貫して主張されている内容です。

 最初に読んだ時は「本当か?」と思ったものですが、後の部分で志賀直哉の文章なども挙げつつ「名文はどのように『実用的』か」を解説してくれていて、言われてみればそうなのかもしれない……と、首を傾げつつも納得したものです。

 これを読むまで、自分にとって小説の文章は「ふだん書く文章とは違う特別なもの」でした。が、谷崎文章読本はその垣根を壊してくれました。


 正直、これを知らなければ、後に小説を書こうなどと思い立つことはなかったと思います。

 これがなければ、自分にとって小説の文章は「回りくどくてややこしい、何か特殊な文章」のままだったと思いますから。


 また、小説を書くようになってからの心構えや鍛練にも、この主張が多分に影響しています。

 私の中で、小説の文章とそれ以外の文章は全て繋がっています。垣根や区別はないです。

 なので、日々書いている全ての文章は小説の文に繋がっているし、鍛錬の場でもあると思っています。

 仕事で書くメールやチャットの文章も、システムの仕様書も、プライベートでやりとりするTwitterやメールの文章も、すべて小説の文章に繋がった練習の場です。もちろん、今書いているこの文章も。

 普段の文章を簡潔明瞭に、読みやすく、誤解を招かないように書けば、小説の文章も自然にそうなっていくと思います。

 逆に、小説の文章で伝わりやすさを意識することで、仕事の文章が読みやすくなることもあるでしょう。

 実用的に、伝わるように書く……が文章の大原則であり、そこに差はないはずなので。



 ■ 2. 鯛を食べたことのない人に、鯛の味を文章で伝えることはできない


 文章の限界について語った箇所です。

 文章には、読み手にとって完全に未知のものを伝えることはできないのだ……と深く納得した覚えがあります。

 既知のものを部品に使って、新しい何かを「組み立てる」。文章に可能なのはそこまで、ということだと思います。

 このことは、受け手にとって全く未知のものを「見せる」ことができる、映像媒体との違いでもあるのだろうと思います。


 これが頭にあるので、例えばファンタジーもので、読み手が全く見たことのない情景を書く必要がある時などは「どう既存のあれこれに分解すれば伝わるだろうか……」と、まず考えます。

 ありがたいことに、文章が読みやすいとお褒めいただくことがしばしばあるのですが、その一因には「読み手が想像しやすいように分解している」から、もあるのかもしれません。



 ■ 3. 志賀直哉「城の崎にて」の引用部


 良い文章の例として、志賀直哉「城の崎にて」の蜂の場面を挙げ、どこがどう良いかをひたすら解説している部分なのですが、最も驚いたのは、引用部の終盤にあった「寂しかった。」という一文も激賞していたことです。

 中学だか高校だかの頃、国語教師が「小説では『嬉しかった』とか『悲しかった』とかをそのまま書いてはいけない」という話をしていて、小説ってそういうものなんだ、感情にせよなんにせよ、単純には書かずにまわりくどい表現をしなきゃいけないんだ、と思い込んでいたのですが。

 ここで「寂しかった。」が賞賛されているのを見て、あれは間違いだったのだなあ、と、世界がひっくり返りました。

 具体的に「寂しかった。」がどう良かったと言われていたかは忘れてしまったのですが、どんな理由であれ「『寂しかった。』は小説的に良い表現になりうる」と知れたこと自体が非常に大きかった。


 おかげで後に小説を書き始めた時、「嬉しかった」「悲しかった」等のシンプルな表現を、なんの心理的抵抗もなく使うことができました。

 もちろんそれは、志賀直哉とは比べるべくもない初心者の稚拙な文章でしたが、「小説に『書いてはいけない表現』などないのだ」と確信できていたからこそ、臆せず書き始めることができた。

 そして今も、単純な表現を恐れていないからこそ、たくさんの話を書き上げることができています。


 結局、あるのは「効果的な表現」「効果的でない表現」だけであって、「やってはいけない表現」など(差別表現など、法的・倫理的にあかんやつを別にすれば)小説にはない。

 そう信じるからこそ、13年間、紆余曲折ありつつも休みなく書き続けられているのだと思います。



 ■ 4. 悪文の見本


 最大の衝撃を受けたのがここです。

 悪文とされる文章(婦人雑誌の投稿欄から持ってきたそうです)を取り上げて谷崎潤一郎が添削しているのですが……この際「ほぼ言葉を削ることしかしていない」のですよ。

 なのに、直した文章は一気に垢抜けて、直し前より遥かに趣深くなっている。


 文章は短く書くほど良くなるのだ、と実感として理解した瞬間でした。

 以来「情報量が同じなら、文章は可能な限り短く書け」が己の強固な信条になっています。

 これ、プログラミングにも通じる考え方なんですよね。実現できる機能が同じなら、プログラムは短ければ短いほどいい。その方がバグも混入しにくく、読んで理解しやすく、パフォーマンスも上がり、メンテナンスもしやすい。

 文章も変わらないと思います。伝わる情報量が同じなら、短く書いた方が誤解を招きにくく、理解しやすく、他の要素――全体構成や情報間の関連など――にも注力しやすくなる。

 なにより、短く簡潔な文章の方が美しい。短く簡潔なプログラムが「美しい」とされるように。

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 以上、柄にもなく創作論的内容を語ってしまいましたが、私ではなく谷崎潤一郎の論がおおもとですので、大目に見ていただければと。

 自分は商業出版実績等もない、ただの一アマチュアなので、自分の流儀を偉そうに語れる立場にはないと思っていますが……「偉い人の論をどう活用しているか」の話であれば何かの役に立つかもしれません。



 とはいえ前述のように、私も内容の大半は忘れてしまっているので、そのうちに時間ができたら読み直したいと思っています。

 本……どこにやったかな……。

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