第9話 不気味な生き物
「ほう、寺さんの言いたいのは目的のない犯罪ということか?」
刃条署長は、どちらかと言えば、言いたいことは分かっているが、聞き返した。
「いやね、誰だって、散歩するときに、次は右足、次は左足と、いちいち考えて歩くことは無いでしょう?人間は行動するときは、そういうことは、考えないようにできてるからね。だから、目的地を決めて、そこへ到着しなくたって、歩くこと自体が、一から十まで楽しかったら、それでいいんですよ。だから、犯罪を犯すこと自体に充実感を感じるから、必ず利益を狙った目的があると決めつけないほうがいい気がするんです。犯罪を犯すこと自体に我を忘れて夢中になってる異常な犯罪者なら、犯罪がもたらす成果や利益なんかに意味を持たないでしょうよ」
鼻田も、寺場の言いたいことに同調するように付け加えた。
「つまり、やつの異常な犯罪行為は、本性を露わにしただけで、行動に理由などないということか?だとすると、他人の顔にスプレーを吹き掛けるのは、相手の苦しむ様子を見たいとか、スプレーの威力を知りたいとか、ストレスを解消したいとかの理由じゃなくて、人に向けて、指でスプレー缶の噴射口を押す行為自体に喜びを感じるってことだな」
寺場は、相槌を打った。
「その通り!重ねて言えば、目の前を飛ぶきれいな蝶は、誰かを楽しませるために飛んでいるんじゃなくて、蝶の性質にそって、ただ生まれ、ただ飛んでいるだけってことで、やつだって同じですよ。自分の性分にそって、やりたいことをやってるだけですよ。人は何のために生きているのかという問いに対して、家族のために生きてるとか、仕事を成し遂げたいために生きてるとかじゃなくて、ただ、心臓が動いて、脳が働いているからこそ生きてるって答えるのと同じですよ」
「ただ理由もなく犯罪自体が楽しいっていうこと?いくら考えても、実行したあとの利益を考えない犯罪なんて本当にあるんですかね?かりに人間的感情の欠落したサイコパスだって、そんな犯罪を犯す気はしませんけど……」
都真子は、いつものように犯罪論となると、一歩も引かない強情さを見せた。
俊介も、都真子に刺激されて、どっちつかずの意見を言った。
「いや、それはあるかもしれないよ。犯罪っていうのは、ある時は恨みをはらすため、ある時は金銭を得るため、ある時は欲望を満たすためなど何らかの目的をもって起きるように見えるけど、実際のところ、あと先のことなど考えていないように見えるじゃないか。だいいち、犯罪行為によって、自らは拘束され、家族は非難され、友人知人からも見放されることを真剣に考えれば、失うものが、あまりにも大き過ぎることは分かりきっているだろうに、結果として、罪を犯してしまうことは間違いない。でも、今回の犯人が、そういうタイプなのかどうか……」
俊介も都真子も、寺場が言うように、犯人が、すっかり骨の髄まで常軌を逸した人間なのかどうかは、正直なところ、判断できなかった。
それというのも、万事抜かりなく、賢く行動する犯人が、自身の利益を度外視して、持って生まれた性分だけで、行動するとは思えなかったからだ。
何のことはない、係長の鼻田も、犯人イコール異常人格者説に傾いていた。
「そうだ。やつのとっぴな犯罪行為を見ると、犯罪を実行することが目的であり終着点なんですよ。そこへもってきて、中々、尻尾を出さいないってのは、犯罪行為だけに神経を集中してるからとも言えますね。それだけに、邪魔されたしっぺ返しは、それに輪をかけて、でかくなったわけですよ」
遠山は、ダメを押すような口調で心配を口にした。
「つまり、それで、紫蘭先輩の身が危険にさらされたんですね!そればかりか、無差別放火とかやるなんて……犯人が得するように思えるのは、われわれに報復して困らせた勝利感だけに決まってますよ!」
刃条は、若手が事件について、こうして勝手な意見を言っているのを聞くのが好きであり、こういう中から未来の警視幹部が生まれるのを楽しみに感じていた。
刃条は、とくだん、偉そうな調子で言うことなく、それでも威厳をもってしめくくった。
「よし!やつのプロファイルは捜査支援室に依頼しよう。防犯カメラによる発見と並行して、煙町の空き工場や郊外の空き家を当たって、やつの拠点を見つけてくれ。警察の威信にかけても犯人逮捕に全力で取り組むんだ!」
鼻田をはじめ俊介たちは、かねがね、部下たちの意見をよく聞き、あるいは、未熟であっても、ことのほか信頼してくれる刃条の態度を、掛け値なしに尊敬し、刃条の期待に全力を尽くそうと心を高ぶらせて部屋を出るのが常だった。
「寺場と遠山は煙町のマンションの捜索、俊介と都真子は蝙蝠団地の屋敷の捜索だ!俺は防犯カメラの情報を確認する!みんな、崖から飛び下りる決意で、やつの発見に当たってくれ!」
鼻田は、熱っぽい口調で言明した。
「拠点にしてるのは、まぎれもなく蝙蝠団地の屋敷よ!だいいち、あそこで、車を乗り換えたのよ!事件に使ったガスを製造したり、車を改造したりする広さもあるんだからね!」
都真子は、蝙蝠団地の怪しさが、やけに気になって意気込んで口走った。
「ここは無人の屋敷のはずよ!どこからでもいいから中へ入って!」
俊介は、柵のない正面の入り口から、雑草の生い茂る庭に車ごと入ると、一部に車が出入りした跡が残っていた。
「ここで、車を乗り換えたのよ」
屋敷の玄関も鍵はかかっておらず、建物に足を踏み入れると、かび臭さが充満し、多くの部屋があったが、どの部屋も蜘蛛の巣が張って、家具類や生活用品はそのままで、がらんとしていた。
「人が入った形跡は皆無ね。えーっ!ここじゃないのかな……」
「庭の樹にTS1を使ってみよう」
俊介は、建物に近い庭木を選んで、TS1を当ててみた。
「最初は見たくないわね」
都真子が言う通り、野生のイノシシがいきなり現れ、小さい蛇を食べていたが、しばらくすると画面が変わった。
「あっ!この車は、私たちが追っていた車よ。待って!誰?この男?どこのどいつ?」
「ほう、おどろいたな!第三の人物がいるのか……」
ふいに映像に現れた男は、犯人よりひと回り身体が大きく、色白の上、きわめて表情の乏しい男で、大鳥が乗って来た車に乗り込むと、屋敷から出て行った。
「思いもよらぬ展開だわ。やっぱりこの屋敷には何かあるのよ!ただ、この車を追うには防犯カメラが必要ね。いったい、この事件、何人の人間が関わっているのかしら?」
こうなると事件は、秘密めかしく、底知れぬ謎に包まれた。
こうして黒屋敷からは、それ以上は何も見つかることはなかったが、こともあろうに、俊介たちが必死に捜している犯人は、実際のところ、その屋敷から、おどろくほど近くにいたのである。
なぜなら、蝙蝠団地の黒屋敷からきっかり西へ進むと、一端、住宅は途切れて、まるっきり境を作るように雑木林が広がっている。
なにしろ、雑木林の外側はと言えば、すっかり人影もまばらで、古ぼけた空き家や廃工場、廃棄物の処理場、資材置き場などが点々とあって、その一画に有刺鉄線に囲まれた広い敷地の中に倉庫とも工場とも見える怪しげな建物が建っていた。
その建物こそが、犯人のまぎれもない本拠地だったのである。
建物の中は、がらりと一変、研究室のようなスペースになっていて、その日は、薄汚れた白衣を着た一人の男が、透明なガラス室の中にいる、全身が茶色のまだら模様の羽をつけた小さな生き物に視線を釘付けにしていた。
言わば、蛾のような生き物は、右にも左にも、あちこち飛び回ると、やがて中央にある器の中の真っ赤な液体をすすり始めた。
「そいつは使えそうだね」
後ろから近づいて来た体格の良い男が低い声で言った。
「この前の種類は飛行距離が数百メートルだったけど、今度のはもっと飛ぶな」
白衣の男は、モニターの置かれた隣の机に移り、キーボードを打ち始めると、とたんに建物の屋根の一部が開いて、茶色の生き物はだしぬけに、宙に舞い上がった。
モニターには、生き物に取り付けた高性能の機器からの映像が映り、街を上空から見た風景や、生き物が飛行しているのが分かり、しばらくすると、生き物は、ガラス張りの高層ビルの壁にへばりついて静止した。
男は、キーを操作すると、生き物はビルを巡るように旋回したあと、ふいに急降下して、建物の正面玄関の自動ドアから、人々の流れにくっついて侵入したのだ。
「今度は、上の階だ!」
男は、モニターを見ながら、巧みにキーを操作すると、生き物は、やにわにエレバーターの中に入り込んで最上階まで上がり、社長室の前の天井に張りついて、じっと人が来るのを待った。
「どう!いい動きをしてるでしょ!」
白衣の男は、自慢げに言った。
やがて、数名の役員らしき男たちが、書類を片手にやって来ると、社長室の扉を開けたとたん、一斉に入る瞬間を狙って、その生き物も追いかけるように中に入った。
社長は、いかめしい口調で、白髪頭の役員に尋ねた。
「金は上手く門田議員に渡ったか?やはり受け取ったな。例の土地のことは動いてくれそうか?」
「はい!我が社に決まるように口利きの約束をもらいました」
天井の生き物は、途切れることなく映像と音声を送り続け、男は一部始終を収録した。
生き物は、仕事を終え、帰路の途中、息絶えて地上に落下した。
「まだ、寿命が十分じゃないな……回収をよろしくな」
体格の良い男がせきたてるように言うと、白衣の男は、くるりと入り口に向いて、たちまち建物を出て行った。
翌日のこと、その会社の社長あてに、宅配便が届いた。
中には、一個のUSBメモリーとメモが一枚入っている。
『このUSBメモリーの映像と音声を公表されたくなければ一億円用意しろ』
USBメモリーのデータを見た社長は、あわてふためいて、すさまじい剣幕でわめき散らした。
「いったい……どうやって隠し撮りされたんだ?」
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