夏の秘密は目に見えない
青井かいか
1
「昔、お母さんが言ってたことで、ずっと覚えてることがあるんだけどね」
「うん」
「夏には、秘密があるんだって」
「なんだ、それ?」
「知らない?」
「ごめん、知らない」
「そっかぁ」と、彼女は少し残念そうに言ったあと、「夏の秘密の話だよ」と、いたずらっ子のように笑った。とっておきのオモチャを見せびらかす子供のようでもあった。「夏にはね、秘密があるんだ」
彼女は言う。
「夏の中にはね、不思議な世界があるの。そこには夏の魔法がかかっていて、夏の素敵なものがたくさんあるの。とっても眩しくて、ぽかぽかして、気持ち良くて、素敵な所。夏の世界」
まるでその不思議な世界とやらに行ったことがあるかのように、彼女は語る。
「それは、他の季節より気合を入れて輝く太陽が見せてくれる、とってもキラキラした、素敵な夏の秘密みたいなものだって、お母さんは言ってた」
「その世界には、さ」
「うん」
「どうやったら、行けるんだ?」
「私も詳しいことは分からないんだけど」と彼女は前置きして、夏のように笑った。「君と一緒なら、行ける気がする」
〇
夏、快晴、白いワンピース。
彼女の笑顔を見た瞬間、俺の夏は始まった。
〇
太陽の光を反射して、水面がきらめいている。きらきら、ゆらゆらと、水が流れている。
川の流れに沿うようにして、青々とした芝生が広がっている。
視線を少し左にズラして、遠くに視線をやる。フェンスに囲まれた小さなグラウンドの中で、小さな少年たちが野球をしている。打ち上げられた白球を目で追って空を見上げると、燦々と輝く太陽に目が眩んだ。青い空と白い雲がそこにはあった。
河川の向こうには、平凡な民家と平凡なアパートが立ち並んで、素朴な街並みをつくっている。小鳥の小さな影が二つ三つ、視界を横切った。
俺は、河川から少し離れた位置にある堤防の斜面に腰を下ろしている。芝生に覆われていて、人に踏みしめられた芝生は少しくたびれている。
斜面下の舗装路を、犬を散歩する女の人が歩いて行く。体の小さな柴犬が、チラリと俺を見て、また前を向いた。散歩が楽しいのか、犬の足取りは軽い。ラフな格好をしたサングラスの女性は、犬に引っ張られるように小走りになる。
「セミ」と、不意に彼女が言った。
右隣を見やると、彼女の白いワンピースがそよそよと風になびいていた。長い黒髪もふわふわと揺れる。彼女は膝を抱え込むようにして、「セミが鳴いてるね」と言った。
「そうだな」と俺は返す。野球をする少年たちの歓声が聞こえてきた。犬が元気よく吠え、それに応えるようにどこかで別の犬が鳴いた。
まぶたを閉じて耳をすませると、セミの鳴き声がよく聞こえた。蝉時雨。うるさくて、やかましいけれど、この音を聞くと夏という感じがする。夏の音。
「セミの声を聞くと、夏って感じがする。みんなうるさいって言うけど、好きだな、私は」
彼女は楽しげに言った。口元が笑みの形をつくっていて、その唇に視線を吸い寄せられる。
「まぁ確かに」俺は彼女を見つめながら言う。「セミは夏って感じがする」
「そうだよね」
何が可笑しいのか、彼女はくすくすと笑った。
じっと、俺は彼女を見つめる。艶めいた桜色の唇だとか、形の良い眉だとか、小さくて可愛らしい鼻だとか、健康的に焼けた素肌だとか、黒染めした絹糸みたいになめらかな長い髪だとか、線が細くて今にも折れてしまいそうなほど華奢な体付きだとか、そして、長く伸びたまつ毛と、そっと閉じられたやわらかそうなまぶた、だとか。
そんなことを考えながら彼女に見惚れていると、彼女のまぶたが開いた。まぶたの奥にあった瞳は虚ろだった。ここではないどこか遠くを見ているようで、何も見ていないようにも思える。ただそれは、宝石みたいに美麗な瞳で、俺に向けられている。彼女は、俺を見て言った。
「ねえ、もしかして今、私のこと見てる?」
「どうして分かるんだ? いつも」
俺が驚くと、彼女は得意げに口の端をつり上げた。
「なんとなく」
彼女は続けて言う。「なんとなく、ね。分かるんだ。君が私のことを見てると。不思議だよね」そう言う彼女は、嬉しそうだった。
いつもそうだった。彼女の目は見えていないのに、俺が彼女を見ていると、気付かれてしまう。そして、そのことに俺が驚くと、彼女はいつも得意げに嬉しそうに笑う。「なんとなく、分かるの」
彼女はふっと力を抜いて、背後に倒れた。足を伸ばして、気持ちよさそうに伸びをして、芝生の斜面に寝転がる。彼女の右手が、側に置いてあった白杖を軽く握りこんでいる。
沈黙が落ちる。
セミの声と川のせせらぎが、静かに、どこか遠い世界の出来事のように響いていた。
彼女と隣り合って座っているのだという強い実感があった。俺と彼女の間にある微妙な隔たりが、触れ合うか触れ合わないかという距離感が、その何もない空間が、強く熱を持っているように感じた。
「んーっ」と唸って、もう一度彼女が伸びをした。彼女の息遣いが、やかましいセミの鳴き声より、ずっと大きく聞こえた。
さぁっと、少し強い風が吹いた。芝草が波打った。空をたゆたう雲みたいに真っ白なワンピースの裾が、はためいた。
まぶたを開いたまま、瞳を空に向けながら、彼女は言う。
「今日の空は、青いですか?」
「うん、青い」
「どれくらい青い?」
「そうだな、濃い青だ。濃くて、鮮やかで、快晴の日の夏って感じの、綺麗な青。群青っていうんだっけ」
「群青、か。群青って英語でいうとなんていうか、君は知ってる?」
「いや、知らない」
「群青はね、ウルトラマリンっていうんだよ」
「そうなんだ」
「うん、そう。なんか、かっこいいよね」
「そうかな」
「そうだよ、かっこいい」何が可笑しいのか、彼女は笑っていた。
俺は足を伸ばして、後ろ手を支えにしながら空を見上げる。「あと、雲は白い」
「そっかそっか」彼女は大きく深呼吸した。息を吸って、吐いて、「青と白、か。夏の色だね」と言った。「あと、この眩しさも、夏の色だ」
俺は、先日彼女が言っていたことを思い出した。
「私はね、昔、まだちっちゃい時、事故にあって、失明したんだ。視力を無くして、両目とも何も見えない、いわゆる盲いた目? になっちゃったの。でも、よく聞く全盲っていうのとはまた別で、光覚弁っていうんだけど、今目の前にあるのが、明るいとか暗いとか、そういうのは分かるんだ。光を感じることはできるの」
「だから、夏の眩しさは私にも分かるんだ」彼女は笑っていた。「夏の、晴れた日の、太陽の眩しさは、すっごく分かりやすい。私にとっての、夏の色」
「夏っていいよね」と彼女は言う。
「そうだな」と、俺は返した。
「好きだなぁ、夏」
歌うような声音でそう呟いた彼女を見ていると、胸の奥が疼いた。夏の日差しに焼かれるように、心の底まで熱くなる。ジリジリと焦がれ、ドクドクと高鳴る鼓動の音が、セミの鳴き声よりやかましく響いている。頬が火照り、体の芯が沸き立った。
〇
この時期になると、いつも夏の始まりをさがしている。
夏が始まる瞬間は、いつだろう。
例えばそれは、
うだるような暑さに気が滅入った時だったり、
長く続いた梅雨が明けたと確信した時だったり、
セミのやかましい鳴き声が外で響き始めた時だったり、
ふと視線を上げると、群青色の空が広がっていた時だったり、
視線の先、遠く遠くのその先に、もくもくと入道雲が聳えた時だったり、
昼食に、冷えたそうめんが出てきた時だったり、
夜、見上げた空に、天の川と大きな光の三角形を見つけた時だったり、
真っ白なワンピースを着た彼女の眩しい笑顔を見た時だったり、
色々あると思う。
人がどこに夏を感じるかは人それぞれだし、夏という季節をどう思うかも人それぞれだ。
ただ、俺にとって、夏という季節はとても特別な何かを内包している。それは、サイダーの中で弾ける泡みたいに、儚く、淡く、綺麗で、清々しく、一瞬のものだったりする。
その特別な何か、というのが具体的に何なのか、自分のことながら俺も上手く言葉にできないのだけど、それが俺にとって特別であることに違いはなかった。
あえて言葉にするのなら、彼女が夏に似ているから、とか、俺の中での夏の象徴が彼女だから、とか、そのあたりだろうか。
俺にとって夏というのは、彼女がいる季節で、俺にとって彼女が特別だから、夏を特別だと思うのかもしれない。
河川敷で風に吹かれて、白いワンピースと長く艶やかな黒髪をなびかせている彼女の姿を見つける瞬間、いつもその時、俺の夏は始まった。
〇
俺の夏は、彼女の姿を見つけることで始まり、彼女の姿を見なくなることで終わるようなところがあった。
例えば、夏休み。
終業式が終わり、周りが「夏が来た」「夏休みだ」とはしゃいでいても、あまり夏という感じがしなかった。
どんなに暑苦しくても、太陽が燦々と主張していても、セミがやかましく鳴き喚いていても、それがいわゆる夏という季節によるものだと理解はしていても、どこかしっくりこなかった。
でも夏休みに入って、河川敷で風に吹かれている彼女を見ると、白いワンピースと黒く艶やかな長い髪がゆらゆらとなびいているのを見つけると、あぁ夏が始まったと、俺の中で何かがカチリと気持ちいい音を立ててはまる感覚があった。
夏という季節を決定づける最後の一つ、それが彼女だった。
〇
その日も空は青く、雲は白かった。
日差しはジリジリと焼き付くようで、でも湿気は少なく、からからとした熱気がそこにあった。さわやかな風が彼女のワンピースと黒髪を揺らしていて、相変わらずセミはうるさかった。
俺と彼女の間には沈黙が続いていた。
俺はただ彼女の隣に座って、彼女のことを眺めていた。
夏の中にいる彼女は、いつだってその中に馴染んでいた。夏の風景の一部に溶け込んだように、彼女は夏を過ごしている。いつも、いつも、いつも。
「夏って、なんだろね」と、不意に彼女が沈黙を破った。
「なんだろう、夏って」と、俺は呟いた。考えるより先に口からこぼれた言葉だった。
彼女はひざを抱えたまま、あごの先をひざの間にうずめるようにしていた。
「君はさ、夏と言えば何を思い浮かべる?」と言いながら、彼女は頭を倒して、俺に顔を向けた。口元には、朗らかな微笑みが浮かんでいた。「例えばほら、暑い、とか」
「セミ、とか?」と、俺は言う。
「プール、とかも」と、彼女は笑った。
「じゃあ、海」
「潮風、潮の匂い、夏っぽいね」
「なら、水着も」
「君は、私の水着、見たい?」
「見たいって言ったら見せてくれたり?」
「見たいって、言ってくれたらね」
「その内、言うかもしれない」
「なにそれ」
「あー、夏と言えば、ほら、他には、肝試し」
「怖い話は定番だね」
「蚊、とか?」
「蚊取り線香の匂い、わりと好き」
「カブトムシ」
「虫取りも、夏って感じだね」
「スイカもあるな、スイカ割りとか」
「ソーメンとか?」
「アイス、とかも」
「かき氷もあるね」
「じゃあ、わたがし」
「ラムネ」
「お祭り」
「縁日、出店、いいね」
「祭りなら、花火だな」
「七夕も夏だよね、もう過ぎちゃったけど」
「天の川も、そうだな」
「夏の大三角」
「うちわ、とか」
「扇風機、とかね」
「入道雲」
「青い空」
「白い雲?」
「いいね、他には?」
「風鈴とか、どうだ」
「あるある。あとはお盆も夏だね」
「朝顔も」
「向日葵も」
「夕立」
「あー、夏だねー」
「あとは、白いワンピース、とか」
「お、私の服じゃん」
「いつも着てるよな、白いワンピース」
「好きなんだよね。だから何着も持ってる」
「にしても毎日着るのはすごいな」
「これを着ないと夏って感じがしないんだよね。私の他の服、見たい?」
「見たい、かもしれない、けど」
「けど?」
「その服が、一番似合ってると思う」
「なにそれ」と、彼女はお腹を抱えて、けらけら笑った。明るく、眩しく、夏のように思い切り笑った。「君、これ以外の服を着た私、見たことないじゃん」
「そうなんだけどな」
「なにそれ」と、また笑われる。
目も眩むような笑顔に目を細めながら、夏ってなんだろう、と自分に問い直す。
彼女の笑顔が一番夏らしいな、と俺は思った。
〇
俺にとって夏は特別な季節であり、彼女には夏がよく似合う。彼女を見ていると、夏を強く感じる。
高校生最後の夏休み、河川敷で彼女と並んで言葉を交わすようになって、段々とその夢のような状況にも慣れてきた頃、俺は彼女にそういったことを伝えた。毎日のようにそんなことを考えていたものだから、ふとした時に、ポロリと口からこぼれてしまったのだ。
すると彼女は、くすくすと可笑しそうに、楽しげに、嬉しそうに笑った。
「君にとっての夏は大切なもので、君にとっての夏は私なんだね」
「そうなんだよ」
ほとんど告白みたいなことを言ってしまったなと思いつつ、この時の俺は比較的落ち着いていた。
「それは、なんと言いますか、すごく、すごく、すごく、うれしい」彼女は一言一言、噛み締めるように言った。「私は夏が、大好きだから」
彼女はことあるごとに、口癖のように、「夏が好き」「夏っていいよね」と言っていた。
「君は夏が好き?」
そしてことあるごとに、口癖のように、彼女は俺にそう問いかけた。
その度に俺は「うん」と頷いて、「夏は、好きだよ」と言った。
普段はそこで、彼女が嬉しそうに「そっかそっか」と頷いて、会話が途切れたり、別の話題に移ったりするのだけど、この日はいつもと様子が違った。
彼女は少しの間、考え込むように俯いてから、俺の方に顔を向け、まぶたを閉じたまま、恥ずかしそうにはにかんで、「じゃあそれはつまり、君は私のことが好きってこと?」と、首を少し傾けた。
自分でも意外なことに、彼女にそんなことを聞かれても俺はあまり動揺しなかった。
たぶん、俺が彼女を好きで好きでたまらないということが、言動の端々からにじみ出てしまっていて、それがとっくに彼女に気付かれているというのを、なんとなく察していたからだろう。
だから俺は冷静に、
「そう、かもしれない」
と言った。本当は「かもしれない」なんて付ける必要はなくて、確実に、間違いなく、俺は彼女のことが好きだったのだけど、それを俺は自覚していたのだけど、中途半端に日和ってしまった。
やっぱり、面と向かってそうだと断定するのは、恥ずかしかったのだ。
でも彼女は、その「かもしれない」という余計な付け足しを、ないものとして受け取っているようだった。
彼女は「そっかそっか」と、とても、とても嬉しそうに微笑んで、「そっかぁ、そうなんだぁ」と、分かりやすく口元を緩ませていた。隠す気すらないようだった。
この時の彼女が心底嬉しがっているように見えたのは、どうかそうであって欲しいという俺の願望が見せている幻覚、ということもできるのだけど、そんな風に思ってしまうのは、失礼なことであるような気がした。
だって、俺の願望が見せている都合のいい幻覚というにしては、俺の隣で笑っている彼女はあまりに可愛すぎた。本当に、嬉しそうに、嬉しくてたまらないというように、彼女はだらしなく口元を緩めて、にやにやと笑みをこぼして、そして、ふぅと自分を落ち着かせるように息を吐いたかと思うと、頬に手を当て、徐々に顔を赤くした。
いつもは堂々、悠々と、余裕を持って、夏の輝かしい太陽みたいに元気よく振舞っている彼女が、そんな風にしおらしく恥ずかしがっているのは、珍しかった。
これを嬉しがっていると判断せず、他にどう判断すればいいのだろう? つまり、これは、そういうことなのだ、と俺は思った。
俺の顔も一気に赤くなって、体が熱くなった。俺の口元もだらしなく緩んで、胸が震えた。
彼女にはそんな俺は見えていないはずなのだけど、だけどやっぱり、彼女はこの時の俺がどんな表情をしているのか、分かっていたのだと思う。
彼女は、いつでも俺を見透かしているようなところがあった。
ふとその時、俺の中に仄暗い感情が湧き上がって、熱が冷めた。自己否定感、とでもいうのだろうか。
嬉しくて仕方がないのに、こんな俺が彼女の隣にいてもいいのか、と思ったのだ。
こんな俺が彼女の隣に立つ資格なんてないという考えが根底にこびり付いて、全くはがれそうにない。
そんなことを考えていると、やっぱり彼女は俺を見透かしたように、「どうしたの?」と首を傾げた。
俺は「なんでもない」とウソを吐いた。
俺は、彼女のストーカーだった。
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