銃とチョコケーキ
かのん
トウヤ
最初の弾丸が胸に当たった瞬間。
私はトシ・ヨロイヅカのバースデーケーキのことを考えた。
オフィスの冷蔵庫にある、『アキ』という付箋が貼られたチョコケーキだ。息子は今日で六歳。まだハイアットのお子様ランチを前に「マックのハッピーセットが良い」と言う年齢だ。六本木ミッドタウンで高級ケーキを買ったのは、自分を慰めたかったからだ。「これを買えるくらい、ママは頑張ってきた」と。転職先で、今回こそ周りから好評価を得て出世しようともがき、失敗している自分を。それは誕生日に有給を取らない罪悪感を払拭させてもくれもした。でも、これで良かったのか? バン! 二発目が放たれた。私は膝から崩れ落ちた。床は硬く、ひんやりと冷たく、死を連想させた。まるで答えのように。
オフィスの片隅でコーヒーマシンのボタンを押すと、トウヤが話しかけてきた。
「アキさん、迫真の演技でしたね」
彼の圧倒的に整った顔立ちと、ほっそりとした体がすぐ横にあった。大きな嘘という労働の数少ない利点は、こうしたバレエダンサーのような二十三歳と話せることだろう。
「ありがと。ほぼ無観客だけどね」
私はつとめて冷静にカップを持ち上げ、横のテーブルに置き、フロアを見渡した。四名は無言でパソコンをにらみ、私たちが見えていないかのようだ。賃料が勿体ないので近々移転するらしい。彼はマシンにカップを置き、言った。
「ま、避難訓練ですし」
「じゃないと有り得ないよね。銃なんて」
彼は表情のない目でカップを取り、私の向かいに来た。甘ったるいココアの匂いが漂っている。
「でも考えるよね。人生これで良いのかなって」
「え? アキさん全部持ってるじゃないですか。BCGの旦那さんと、お子さんと……」
「夫は別居中」
彼は私の言葉を、頭の上を通り過ぎるままにした。物静かな彼に、今日はいつもに増して静かな時間が流れているようだ。彼はマシン横のスナックコーナーに行き、私はポケットからスマホを取り出した。IT企業で働くと誰もがスマホ依存症になる。Slackというチャットアプリに張り付き、そこに住所を持つからだ。
「うわ」
私の住む部署の全体チャンネルは、ある強盗に荒らされていた。
『避難訓練、やる意味あります? 五人だけで? マニュアル作れば良くないですか? そもそも出社自体のが非効率だと思います』という、女性社員の投稿が発端だった。メンション先は私だ。他のメンバーから『ですよね』『完全同意』などスタンプが押されていた。彼女とはリアルで会ったことはない。
「この言い方はないっすよ。フルリモートだからって」
トウヤが自身のスマホを見ながら言った。
「でも前に出勤日を作ろうって言ったら、珍しい虫を見るような反応されたよ」
昭和の生き物は、この会社では絶滅危惧種なのだ。私はため息をつき、スマホを机に置いた。
「もう疲れたな。頑張るの。いつも言われるんだよ、悪口……」
「アキさんがかわいいからじゃないですか?」
「は?」
「もしアキさんがブスで貧乏だったら攻撃されませんよ」
彼はチョコの包みを開け、どちらかというとその紙に向かって言った。
「羨ましいんですよ、アキさんのこと。だから悪いとこ探そうとするんです。だからスルーで良いっすよ。私って嫉妬されるくらいの人間だな、って」
「……ありがと。何か奢ろうか?」
「ヨロイなんとかのケーキ、食べてみたいですね」
「あるよ。冷蔵庫に。だって今日は……」
口から出かけた日付は、舌の上で溶けた。
「あれ。今、トウヤ長休中じゃなかった? 帰省は?」
彼はココアをすすり、口を開いた。
「僕、採用面接からずっとリモートだったじゃないですか」
私は頷いた。
「でも入社日にアキさんは出社してくれた。出身が洞爺湖の近くって言ったら、トウヤってあだ名つけてくれて」
「安直で悪いね」
「いえ。で、付箋にトウヤって書いて、僕の胸に貼ってくれて、オフィスにいる人たちに紹介してくれましたよね」
「あの時も六人しかいなかったけど……あ」
私はSlackを開いた。全身が冷たくなり、スマホを落としそうになった。トウヤは北海道の裏山で密猟者に撃たれたと書かれていた。
「嬉しかったんです。僕の場所はここにあるんだって。だからお礼が言いたくて。あの日と同じように、リアルで」
私は目の前にいる、洞爺湖近くの児童養護施設から来たという、透き通るような青年を見た。
「一年間、ありがとうございました」
彼は微笑んだ。あたたかく、深い笑みだった。
彼が消えたフロアを横切り、冷蔵庫を開けた。
トシ・ヨロイヅカのロゴが入る箱を取り出して中を見ると、一切れ欠けたケーキが入っていた。箱に貼られた『アキ』の付箋をはがすと、下にもうひとつ付箋があった。角は欠け、紙はへたっている。持ち主と長い時間を過ごしてきたのかもしれない。
そこには見覚えのある字で『トウヤ』と書かれていた。
銃とチョコケーキ かのん @izumiaya
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