漫画家の娘として生まれてきた私が、親と一緒に漫画を作る話

田中京

第1話

 昔から絵を描くのが好きだった。

 真っ白の何もない場所が、自分の思い描いたものに染まっていく。それがとてもつもなく快感だった。

 絵はどんなものでも表現できる。

 翼の生えた人間、宇宙まで手が届きそうなスケールの巨人、美しい黄金色に染まる父の景色、太陽と満月が同時に存続する、空の空間。この世に存在しないものを捉えることができる。その無限の可能性に心をひかれた。


「今日の分はこれで終わりっと……」


 机でずっと作業してた私、涼城朝凪は、タブレットからペンタブを離すと、椅子の背もたれに身体を預け、気持ちよく伸びをする。

 その後、タブレットの画面に視線を落とす。そこには完成した漫画のデータが表示されている。

 それを見てやりきったように、わずかに口元を緩ませると、そのデータをさっそく漫画投稿サイトにあげる。

 一旦風呂に入って、また投稿サイトを見ると、さっそく感想が3つか、4つ、ついてる。


「誠治と雪のキスシーン、激あつです!! 絵が原作にすごく似てるから、余計ドキドキしました。これだけでご飯3杯いけます」

「雪の誠治への思いの深さに泣きました」

「原作ではカップルになった後のイチャイチャシーンがなかったから、この漫画でその成分を補充できて満足です」


 よしよし、いい感じの反応だ。

 私が投稿した漫画は「初恋トライアングル」という、ラブコメ漫画の完結した後をかいた、いわゆる二次創作である。

 初恋トライアングルはメジャー漫画雑誌で連載してた恋愛漫画で、繊細な心理描写と多くのドキドキする恋愛描写で多大な人気を博した。

 私にとってこの作品は深い思い入れのある作品で、もう六年以上、二次創作を描いている。

 ポケットの中の携帯のアラームが鳴る。午後0時になると、鳴るように設定していたものだ。

 もう寝る時間か。作業をしていると、時間が一瞬で過ぎ去ってしまう。

 高校の夏休みに入ってから、二週間。私はずっと家にこもって漫画を描いている。

 海に行くとか、花火をしたりとか、なにか、夏休みらしいことをしたほうがいいかなと、思ったりするが、実行に移すことはない。

 漫画と家族以外のことになると、とたんに関心の度合いが下がるのだ。

 タブレットの電源を切ると、自室を出る。そして廊下をまっすぐ進み、向かいの部屋の扉を叩く。


「おーい、時間だから、ベッドいくよー」


 そう気安く声をかけるも、返事はない。

 だけど、扉をわずかにあけると、ちゃんといるのがわかる。

 デスクで作業をしてる彼は頭をかきむしって、うなだれている。

 つらそうな顔だ。かなり憔悴してる。大事な大事な私がきても、まったく気づかないのが、何よりの証拠だ。

 ああ、今日もだめだったか。内心ため息をつく。

 彼が対峙してるパソコンのディスプレイには文書作成ツールが表示されている。そこには文字がほとんど書かれておらず、最初の二行しか埋まってない。

 彼は私の父親、涼城海、三十五才のプロの漫画家だ。厳密に言うと、漫画のお話を考える、漫画の原作者だ。

 といっても、もう六年以上商業で漫画を描けていない。ずっとスランプの状態に陥ってる。

 作るお話のクオリティが格段に落ちたという話じゃない。漫画のネームはおろか、プロットすら、満足に一本完成させることができなくなったのだ。


「こーら、娘が声かけてんだから、無視すんな」


 父のとこまでいき、彼の膝をゲシゲシと軽く蹴る。


「うおっ、朝凪、いたのか」

「いたのかじゃないって……まったくもう」


 わずかに瞬きして、驚く彼をむすっとした顔で見る。


「悪い……」


 ばつが悪そうに彼はそう言うと、彼はパソコンをスリープ状態にし、作業を中断する。


「結局今日も進歩なしだったか……」


 廊下に出て、寝室に向かう途中、父はやるせなさそうにそうつぶやく。

 全身から哀愁がただよっている。そのせいか、せっかくかっこいい顔をしてるのに、年齢より年をとってるように見える。


「まー、明日こそはきっとうまくいくって……」


 そう言った後、このセリフを言うのはもう何回目になるだろうと、自問した。 


「……そうだな」


 彼は無造作に頭をかくと、わずかに目をほころばせる。

 その表情を見て、まだ彼は大丈夫そうだと、私はひそかに安心した。

 


 寝室に入り、すぐ電気を消すと、私と父は一つのベッドに入る。


「なぁ……ちょっと話したいことがあるんだが……」

「何?」


 あと少しで、夢の中に落ちるという所で、父が言いづらそうに、そう切り出してくる。私は仰向けだった身体を横にして、父を見る。

  

「お前……今年でもう高校一年生だろ?」

「うん……そうだけど、それがどうかした?」

「高一で父親と一緒に寝るのはおかしいだろ? そろそろ別々に寝ないか」


なんだそんなことか……。


「いや……拒否します」


私がそう突っぱねると、父は困った顔をする。


「拒否しますって……何か問題が起こってからじゃ遅いんだぞ。そうなったら、一生後悔するかもしれない」

「一緒に寝るくらいで何を大げさな……」

「いいか……俺とお前は男と女だ。親子だとしても男と女だ。何かの間違いで、一母の過ちが起こらないとも限らないんだぞ」

「はぁ……?」


 何言ってんだ、こいつとばかりに、真剣に語る父親の顔を見る。

 

「今のお父さんの発言……最高にキモかった。今世紀最高のキモイ発言だった。えっ何、常日頃から私のこと、えっちな目で見てるの? ムラムラしてるの?」


 あえて茶化すように言うと、父が慌てて、弁明する。


「おい待て、変な誤解してるぞ。確かにお前は母親に似て、美人だ。スタイルもいい。だからといって、性的な目で見たことは一度もない」

「ならいいじゃーん」


 思わず、弾んだ口ぶりになる。

 母親に似て、美人。

 これほど嬉しい褒め言葉はない。

 口元がにやけてしまう。


「でもな……万が一、いや億が一、ふとした拍子に女性として意識してしまうことがあるかもしれない。」

「考えすぎだって……」


 私ははーっとため息をつく。


「これ以上、この話続けるようなら、明日からは私、家の中で裸で生活するよ?」


 真顔で言う。ただの脅しで、本当にするつもりはなかったが……。


「それだけはやめてくれ」


 父は真に受けてしまったようで、顔を青くしておもむろに動揺している。

 私がじゃあもう寝るよと言うと、彼はしぶしぶ分かったと答え、それから眠りの時間に入った。



 深い眠りに落ちると、どこかの部屋に私はいた。辺りを見回すと、子供の頃の私と、自分の母親がそこにいた。

 ああ、自分は今、あの夢を見てるんだ。すぐにそう認識できた。

 それは何度も見た夢の光景だ。見るたびに、懐かしい気持ちになって安心してしまう。と同時に悲しくなってしまう。

 子供の私は、母の膝の上に座っている。母は無邪気な笑みで鼻歌を歌ってていて、子供の私はそんな彼女の横顔を嬉しそうに眺めている。

 そして、視線を、母が今、作業してる漫画の原稿に移す。そこには美麗と呼ぶにふさわしい素晴らしい絵があった。

 私は惚れ惚れとした表情でそれを眺める。

 私の母、涼城夜鈴(すずしろやすず)は父と一緒に漫画の仕事をしていた。

 父がお話を考え、それを母が絵におこし、一つの作品を作っていた。

 その出来はすばらしく、多くの人から人気を集めた。漫画は飛ぶように売れ、アニメ化や映画化もされた。もっとも、当時の子供の私にとって、その凄さは実感がわかなかったけど。

 母が筆を止め、少し休憩とばかりに、身体をほぐし伸びをする。機を見計らってた子供の私は、わざとらしくこう言う。


「あっそうだ。お母さんに見せたい絵があるんだ」


 そわそわとした動きで、ポケットから四角に折り畳んだ紙を取り出す。それを母に見えるように広げる。


「おっ、私が描いてる漫画のファンアートじゃん。嬉しー、ありがとね朝凪」


 母がお礼とばかりに子供の私のほっぺたにキスをする。

 子供の私はあまりの嬉しさに、天にも昇る気持ちになった。

 私は母の絵が大好きだったが、母のことはそれ以上に好きだった。

 母は私にたくさんの幸せをくれた。

 母のお日様のような眩しい笑顔は私を明るい気分にさせた。

 母と話してるとすごく楽しい気分になった。だからいつも一緒にいた。

 母が仕事で漫画を描いてる時は、その作業を彼女の膝の上で眺めてた。眠る時は、母に抱きついて一緒に寝た。他にも母が家の中でくつろいでる時、外に遊びにいく時、お風呂に入る時も片時として離れなかった。一日のほとんどの時間を母と共有してた。

 どうしても一緒にいられない時、私が学校に行かなきゃいけない時間は母にしがみついて、「学校いや、いや。お母さんがいない学校はやだ」と泣き叫んだこともあった。      

 つまり、それぐらい、私は母のことが好きだった。


「ねぇ、私の絵、よく描けてるかな?」


 有頂天になった子供の私は、得意げになって、そう訪ねる。 

 すると、母は少し唸って、真面目な顔をする。


「よく描けてる……と言いたいところだけど、技術的に未熟な点は多いかな」


 そう言うと彼女は、優しげな口調で、事細かく絵の反省点をあげつらった。

 まだ子供だからという甘さはなかった。ありのままの事実を、容赦なく、浴びせてきた。

 ただ誉めてくれるとばかり期待してたから、その落差に子供の私はひどく落ちこんだ。

 でもいま思うと、子供に対しても、誠実に正直な感想を言ってあげる母は優しかったと思う。良かった点しか言わなかったら、そこで満足して成長をやめてしまう。

 母はそれを危惧していた。今ならそう察することができるが、当時の私は母の真意に気づけなかった。

 絵の指摘が終わると、子供の私は力なく顔をうつむかせる。

 すると母が私の頭に手を乗せ、撫でてくる。彼女はまっすぐに私を見つめて、こういった。


「でもさ、私は好きだよこの絵。今まで見てきたどの絵よりも好き。世界で一番好きだな」


 母が愛おしそうに、子供の私の絵をそっとなでる。

 私はその言葉を素直に受けとめることはできなかった。

 落ち込んだ私の機嫌を取ってるのではないかと勘ぐってしまった。


「この絵にはあなたの好きだって気持ちがあふれてる。愛情がある。純粋で尊い人間の心の光が伝わってくる。そういう絵は人を惹き付ける。あなたには素晴らしい才能があるよ」


 でも、どこまでも真心のこもった彼女の言葉に、子供の私はようやく顔をあげた。

 口をぽかんと開け、母の顔をまじまじと見つめる、

 その視線に母は笑顔で返す。

 すると、子供の私は、ゆっくりと笑みを作る。


「じゃあ私これからもっとたくさん絵を描いて、もっとすごい絵をかくよ。お母さんがもっと満足できるような絵を描く。それこそ、お母さんの世界一好きな絵が毎日更新されるくらいの勢いで!」


 小さな手を目いっぱい広げ、目に光を宿す。


「おっ、それは楽しみだね。期待して待ってるよ」

「うん!」



 約束をした二人の親子はすごく幸せそうだった。

 できるなら、この夢のような時間をずっと見ていたい。

 思い出に浸っていたい。

 でもそれは無理だ。叶わない。

 目の前の幸せな光景が、ぱっと一瞬で、別の光景に切り替わる。

 すると私は、重々しく顔を歪める。

 視父の先には、病院のベッドに横たわる母。

 安らかな顔をして目を閉じている。

 そのそばでは、父が泣き崩れている。

 大の大人が外聞を気にせす、ワンワン泣いている、

 子供の私は、それを見て、呆然としていた。

 親子の約束をした三日後のことだった。

 何の前ぶりもなく、母はこの世を去った。

 心臓の病気で、帰らぬ人となった。

 すごく悲しい出来事だった。

 悲しすぎて、当時の私はそれを信じたくなかった。

 だから、母の亡骸を見ても、他人だって思いこもうとした。

 母と同じ顔同じ名前をした人が死んだと、自分に言い聞かせた。でも無理だった。現実を受け入れるしかなかった。

 母が死んだ次の日、家族のあいさつが一人分減った。家族の食事、三人分の席は一人空いていた。

 自分といつも一緒にいた人がいなかった。いつも明るく話しかけてくれる人がいなかった。

 喪失感を味わった。当時の私はすごく悲しい気分になった。目頭が熱くなると、嗚咽をもらし、静かに泣いた。

 そうか、お母さんはもういないんだ、この世のどこにも。彼女の笑顔はもう二度と見られないんだ。私はそこでようやく、受け入れた。どうしようもない、無情な現実を理解した。

 この時の悲しみは、時間と共に薄れていったけど、完全には消えない。今もまだ心の片隅でこびりついてる。

 だからたまに、想像してしまう。「久しぶり、元気してた?」って、私の前に突然現れる母の姿を。ありもしない幻影を追い求めてしまう。

 初恋トライアングルの二次創作を描いてるのは、そういう理由からだった。

 この作品は、母が父と一緒に作ったもの。母が心をこめて作ったもの。

 それを自分の中で再び蘇らせて、彼女の心に触れてみたかった。

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