第2話「落ち着いてるよ」
部屋は、雑木林の中に建てられたプレハブ小屋だった。
走が外に出た直後、ドアは自動でロックされる。
声の主が宣言した毒ガスとやらはハッタリではなかったらしく、ぷしゅう、と気の抜ける音とともにロックされた室内が紫色の気体で満たされた。
「……クレイジーだろ」
下半身と嗜好がクレイジーな性獣はガスの充満した部屋にドン引きしながら呟いた。
空はドームらしき何かに覆われており、遠くにはビル群も見える。住宅街らしきものも顔を覗かせており、まるで街一つがすっぽりドームに覆われているようだった。
「……鍵探し、か」
はぁ、と溜息を吐いた直後。雑木林がカサリと揺れた。
驚いて飛び退く。
「あっ、酷ぉい。久々の再会なのに、そんなに驚かないでよぅ」
現れたのは、ショートカットにやや目尻の下がった優し気な少女。走の529番目の元カノだった。
「え、エリカ。久しぶりだな」
「覚えててくれたんだぁ。RINEもpwitterも連絡つかなくなっちゃったから、忘れられちゃったかと思ってた」
「わ、忘れるわけないだろ」
「そうだよね。私たち、将来を誓いあった仲だもんね」
蕩けるような笑顔で歩み寄るエリカの手には、二つのものがぶら下げられていた。右手には婚姻届け。左手には手提げ金庫だ。
室内工事などで使われるツールボックスくらいの大きさをしたそれは、声の主が言っていた『脱出用の鍵が入っているかもしれない金庫である。
「エリカ、それ」
「これ? 婚姻届け。親切な人が走くんと私のために、って用意してくれたの。ほら、もう私のところは書いちゃった♡」
「あ、あはははは。そっちの金庫は?」
「んー……何か、大切なものが入ってるから、って持たされた。こんなのより、走くん用のペンと印鑑を用意してくれた方が良かったのにね」
当たり前のように話すエリカに、走の背筋が嫌な汗で濡れる。
口調こそ穏やかだが、走の気持ちが自分に向いており、何が起きても揺らがないと確信を持っているかのような話し方だった。
夜になれば太陽は沈む、氷は水に浮く、くらいの真理を喋るかのような感覚である。
「ペンがないから……血で書いてもらおっか」
「……血?」
「うん。走くんの指とか太ももとか切れば血が出るから、それで書こ? ちょっと痛いけど早く結婚したいもんね? 印鑑の代わりに拇印も押せるし。どっかに鋭い石とか折れて尖った枝とか落ちてないかなぁ」
――狂っている。
走は震えだす身体を必死で押さえつける。
脳内では、部屋の中で声に宣言された『ヤンデレ』の言葉がぐるぐると回っている。
「走くんも探してー? 私と結婚が遅くなっちゃうよ?」
「あ、あはは。エリカ、お、重そうだし俺は金庫を持ってあげるよ」
「ありがと。もー、過保護なんだからぁ♡ ガラス片とか、すぐ見つけるからね!」
エリカは何の疑いもなく金庫を渡し、走がガラス片を望んでいると言わんばかりの態度で周囲を捜索し始めた。
雑木林に隠れてその姿が見えなくなったところで、走は大きく息を吐いた。
たった数回の言葉のキャッチボール。それだけで、背中はおろか全身が汗でぐっしょりと濡れていた。
会話をしているはずなのに、意志疎通ができている気がしなかった。
「に、逃げなきゃ」
言いながら金庫の電子錠に手首の『鍵』を押し当てる。
ぴ、と短い電子音が鳴って開錠される。
震える手で手提げ金庫を開け――
「逃げなきゃ? 誰から?」
かしゃん、と金庫が手から滑り落ちた。ふたが開いて、中に収められていたアイスピックが零れ落ちる。
走が振り向けば、そこにはエリカがいた。
先ほどまでの蕩けるような笑顔はおろか、感情の全てを失ったかのような無表情で走を見つめている。
まるで人の皮を被っただけの、別の何かのようだった。
「逃げるの? ねぇ、走くん。誰から? なんで?」
「エリカ、落ち着いて」
「落ち着いてるよ」
エリカはそう言いながら、緩慢な動作でアイスピックを拾った。
「走くんがいなくなってから二年間。じっくり考えたもん」
「な、何を……?」
「走くんは私が幸せにしてあげなくちゃいけないのに、走くんが私から逃げたら誰も幸せになれないの。だからさ、もう二度と離ればなれにならないように、」
言いながらアイスピックを腰だめに構えた。
「一緒に死のう?」
エリカの顔に狂気じみた笑みが浮かぶ。
瞬間、走は弾かれたように走り出した。
「逃げるなァァァッ!!!」
背後から聞こえる絶叫。怒声のようで悲鳴のようでもあるソレに追いつかれないよう、走は全力で雑木林を駆け抜けた。
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