これを優しさと呼ばないのなら過ちでもいい

マキノゆり

これを優しさと呼ばないのなら過ちでもいい

 小金井がそのお客を見つけたのは土曜日の朝の5時前、ちょうど夜勤と交代して動き出した頃だった。

 その郊外の住宅街は、人の住む地域と小さな林がまだら状に連なっていて、朝の澄んだ空気と鳥の囀りがとても心地良かった。

 そんなのどかな町の道端に、一見してサラリーマン風の男が寝転んでいたのである。

 

 運転していたタクシーを近くに停め、近くに寄ってみる。

 男は年の頃は40代手前のように見え、身体は筋肉が程よく付いて引き締まっている。仕立ての良さそうなシャツとネクタイ、革靴を身につけており、この近辺の企業に勤めているようには思えない。そして、土曜日の朝にこんなところに寝っ転がっていることからして、酔っ払いであることはお天道様が昇る前から明白であった。


「まいったな。すいません、起きてください」


 小金井は、律儀に男を起こそうとする。肩に手をかけ、軽く身体を動かしてみるが、一向に起きようとしない。

 このままにしては、道路に転がって他の車に轢かれかねない。見つけてしまったからには、保護するのがドライバーとしての務めだろう。そう思って、小金井は力を入れて男の身体をゆすった。


「ちょっと、起きなって。ここは道路だから危ないよ」


 何回か身体を揺すると、男が小さくうめき声をあげて、目を開いた。男は、小金井の方をぼんやりと見ているようだ。


「やっと起きたね。ここは道路だから、安全なところへ避難したほうがいいよ」


 朝早いので、小金井も声を落として話しているのだが、男は顔をしかめて地面に突っ伏した。動くと酒の匂いが漂い、よく見るとシャツやズボンにも泥やごみが付いている。鞄は身体の下に落ちていた。

 鞄もあるし、撥ねられてもいない。まあ、酔っ払いの割りにラッキーだったなと思いながら、小金井は男の様子を窺った。何やらうなっているので、口元に耳を寄せると、一気に酒臭い。


「……水。水」

「水? ちょっと待ってろ」


 近くの自販機へ行き、ペットボトルの水を買って男のところへ戻ると、また寝ているようだ。


「おい、起きろ。喉乾いてるんだろ。ほら、水持ってきたから飲みな」

「う……あ」


 どうにか男を起こし、水を飲ませる。ようやく男は少しはしっかりしてきたようだ。


「あ、ありがとう……どなたさんですか」

「通りがかりのタクシーの運転手です。道端で寝るなんて、昨日は深酒したようですね。大丈夫ですか」


 男は眉をしかめ、しばらく考えていたが、ようやく記憶が戻ったようである。


「ああ、昨日ちょうど職場の同僚と飲みにいったんですよ……」

「そこまで飲むくらいだから、お祝いかなんかですか」

「ああ、俺の昇進祝いで」


 呟いてから、男が不審げに小金井を見る。ああ、と小金井は笑った。


「私、いろんなお客見てるから、何となく判ります。身なりからして、会社勤めの方ですよね。ここら辺に会社は少ないし、会社帰りに寄れる飲み屋がある駅っつったら、ここら辺じゃない。飲みに行ったお友達は、同期かそれに近い方でしょう。あなたが一人先に出世したから、激励半分やっかみ半分で飲まされたってとこですかね」

「……その通りですよ。昨日は大変だった」


 はは、と男は苦笑いした。よく見ると顔立ちも整い、髪をかきあげる指もきちんと爪を切ってある。身なりも良いから、かなり出来る男なのだろう。


「でも、どうやってそこまで詳しく判るんですか」


 不思議そうに聞く男に、小金井は笑いかえす。


「勘です、勘。それより、もうすぐ日が昇ります。駅まで乗りますか?」

「ああ、ありがたい。それなら家までお願いしようかな」


 表示が「送迎中」になり、タクシーは差し始めた朝日の中を動き出した。小金井はバックミラーに映る男とちらりと一瞥した。

 身なりからして、そこそこいい収入なのだろう。人柄も良さそうだし、二日酔いであちこち転んで汚れているが、それでもすっとした立ち振る舞いは変わってないのだと思う。


「ご自宅はどちらです?」

「ああ、山の井です」

「それって、ここより二駅戻りじゃないですか。なんでここまで来たんですか」


 本当にどうしたんでしょうねと、男は少し悪戯好きな小学生のような表情で苦笑いした。前髪が額に落ちてるのに気づいたのか、その前髪をかきあげる。


「……小学校までここに住んでたんです。親はもう亡くなっててね。酔って記憶が戻っちゃったのかな」


 差して来た朝日に照らされた男の顔に目をやり、この男は周囲の人に愛されてるのだなぁと小金井は思う。恐らく同僚達は、酔っぱらったこの男をちゃんとタクシーに乗せて、家に送り届けたはずなのだろう。まあ、この男が途中で行き先を変えてしまったのかもしれないが。

 小金井は、朝日に照らされた男の顔を見た。形のよい額の真ん中に何か書かれている。


「こんなんじゃ、うちのに笑われるだろうな」


「 肉 」と額に黒い油性ペンか何かで書かれた男は、楽しそうに笑った。


 まあ、これくらいの憂さ晴らしなら可愛いもんさ。


 小金井は、何気にバックミラーを男に見えないように直す。タクシーは朝もやの中を静かに走っていった。

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