【読み切り】一番星は金星だけじゃない

加汝岳都(くわながくと)

一番星は金星だけじゃない

 今日も放課後まで残る。一人じゃない。僕だけじゃない。この先、を結んだ中学からの同級生。高校生になった今でも、は変わらない。そんな誰もいなくなった教室を僕らの世界に塗り替える。それがいつもの日常。節電のおかげでクーラーが使えず生ぬるい室温だけは許せない。17時の鐘が鳴る。はいつものように帰ろうとする。「えぇ…もう少しだけ喋ろうよぉ…。」と嘆く僕をだるそうに見ながら軽い荷物を置く。あと、五分。あと、五分だけ。聞こえるんだ。西の空に輝く一番星の音色。フルートの音色が。


「どうした?」と聞かれ、

「んー?何が」としらを切り、

「またか。どうしていつも17時過ぎてから帰ろうとすんだよ」と疑心暗鬼もいい所を

「いいやん別に」と土俵際に押し出す。


 フルートはとっても繊細で静寂な環境でこそ、真価の花を咲かせる。なんていうのは、僕の勝手な想像でしかないがそんなものだろう。吹奏楽部のフルート隊は何人もいる訳じゃない。ただ、その中でも一人だけ群を抜いて、心の隙間を埋めてくれる。


 彼女と出会ったのは、中学1年生の終わりだった。出会ったという言い方よりも見つけてしまった、という方が合っているような気がする。忘れもしない、僕らの2個上、3年生の卒業式。最後に在校生含め校歌を歌う。僕らは吹奏楽部の豪華なフルオーケストラの迫力に包み込まれた。楽器たちは春の暖かい日差しが照らした朗らかな空気に喝を入れたようだった。思わず鳥肌が立った。そんな音色を一つずつ分解していくと銀色の横笛から蜘蛛の糸のように細くも強い音というか…あれは何だったのか…。言葉にすると、これがまた難しい。小学生の頃、読書感想文を親に手伝ってもらった報いを受けているのか、あの音色を正しくも美しく表せなくて腹が立つ。そんなフルートの音色に聞き惚れてしまった僕は、全校生徒が座るそのタイミングを逃してしまった。その瞬間だけ、主役になった僕がいた。


 彼女は僕と同じ学年で、小学校は隣の学区。中学に上がる時に一緒になった。彼女が吹奏楽部でなければ、僕はあの音色に出会えなかった。神様、ありがとう。顔が可愛かったからという理由で、今でも一途に思いを馳せている訳ではない。そりゃあ、確かに目はくっきりしていて鼻筋が綺麗で、身長も何ともイイ高さというか。兎にも角にも、容姿だけではないというのは、ハッキリしておこう。性格について?知るはずもないでしょうが。あれから、2年経って高校に上がると彼女もなぜか居て、同じクラスになったにも関わらず。もう1年目の夏が来てしまったんだ。もう、今さら話しかけようとも「久しぶり!」なんて間柄でもない。だから、こうして17時になると吹奏楽部の全体練習からほんの15分ぐらいだけパート練習に変わる、その瞬間をひたすら待っているんでしょうが。直接なんて、恐れ多い。そんなことしなくてもいい。


 僕と彼女が通っている高校は文武両道を高らかに掲げている。学力は中の中の上。アホは入れない。でも、僕みたいなバカは入れた。奇跡だった。その反面、部活には学校が暑苦しいほど応援している。特にうちの高校は野球部と吹奏楽部が全国大会の常連さん。だから、高校一年生で初めて吹奏楽を始めようものなら、部長がまず「お断りします」らしい。高校野球の監督は「まず、ベンチに入れる見込みはないと言われて、諦めたくなかったらどうぞ」なんて言うって。同じクラスの一人が「野球って何だろう…」と森羅万象の道に踏み出した所を止めた。危ない所だった。


 もう夏の始まり。そろそろ、甲子園の時期がやって来る。どうやら、僕らも応援に行くらしい。なぜ、知りもしない野球部の応援に馳せ参じないといけないのか。いと、をかし。可笑しいったらありゃしない。セミの鳴く声を聞きながら白昼に応援とはどこが面白いだろうか。しかし、それがなんと趣があるのよ。これがまた。甲子園といえば応援、という事は吹奏楽部で彼女も応援団として来るんじゃあないかッ!と気づいた頃には、熱中症対策バッチリの僕はクラスメートと一緒に冷房キンキンの観光バスに揺られていた。


 僕らが応援に駆け付けた頃には、地区大会では既に弱小チームを完膚なきまでに滅ぼすほどの快進撃。甲子園を夢見る一言さんを「お断り」している。今日は甲子園の準々決勝。


 相手も勝ち抜いただけあって、コールドゲームなんかじゃ終わらせない。意外にもいい試合をしていた。それでいい。頼むから延長戦までやってくれないか?MVP選手にはスポドリを奢ったっていい。それだけ、彼女のフルートを聴けるんだから。周りは甲子園を応援していればいい。僕は彼女を応援しに来たんだ。中学のあの時の感動をもう一度味わいたい。あぁ、もう隣で声枯らしてるのせいで音色が聞こえない。無理もない。


 真夏の日差しが本気を出してきた。スタンド席は蜃気楼が発生している。クラスの3分の2は暑さで溶けてしまった。僕は違った。打撃で冷える氷のうをいくつか持ってきたおかげで、まだ戦えた。彼女だって頬を真っ赤にして無我夢中なんだ。僕も応援し続ける。


 急に周りの気温が上がるのを感じた。地面が揺れて、耳は痺れた。どうやら誰かが思いっきりレフト方面に打ち上げたようだ。相手にとって痛恨の一撃だったのか、サヨナラホームランなのかサイレンが鳴り響いた。どんちゃん騒ぎのスタンドから彼女を見ると、フルートを胸で抱えて時よりホッとしているようだった。でも、僕は彼女のあんな顔を見て心を抑えていられなかった。なぜか心底穏やかにいられなかった。


 どうやら今年の甲子園は大どんでん返しだったらしい。うちの高校は準決勝でグラウンドの土を持って帰ることになった。優勝は「一見さん」の高校で、チームメンバーが出場条件ギリギリの人数。そんなチームが有終の美を飾ったとなれば、朝昼晩とテレビで同じ話題を回すだろう。さて、僕の甲子園は彼女を応援しに行った準々決勝止まりだった。実は、熱中症対策バッチリの僕だけが唯一、帰りのバスの中で意識が遠のいたようだ。最後に発した言葉は


 「バスのクーラーは心地いいよな…。あ、桜が見える…。」


 夏休みの始まりから終わりまで、もう縁が腐りかけたようなとそれなりに充実した日々を送った。ただ、夕方の熱い空気を吸いながら、一番星だけは必ず見るようにしていた。そんな夏の暑さが「俺らの夏を終わらせたくない!だよなぁ?あん!?」とイキりながら女々しく引きずっている。そんな今日、二学期が始まった。


 さっそく、クラスルームではもうすでに10月末の文化祭に向けて「学校賞」を狙うための作戦を立てていた。この時、たこ焼きを焼くか劇をやるかでバッチバチの睨み合いを続けてから3回目の会議を迎えていた。


 「じゃあ、みんな。顔伏せてー。」と、うちの担任がクラスの熱気をなだめると

 「絶対、たこ焼きだよな。」

 「劇に必ず入れてよね」などと密約を交わす。

 さて、肝心の僕はというと(正直、どちらでもいい…)が本音だが、何となく劇の裏方に興味があったからという理由で、劇に1票入れる事にした。


 「はぁい、全員顔上げて。じゃあ、とりあえず…台本。作っていこうか。言い出しっぺの南、掛橋。あと、麦島さん主体で話を進めてくれ。台本に余裕があったら、たこ焼き作る役でも作ってあげてくれ。」


 ちょうど、チャイムが鳴って昼休みになった。学食を食べに行くと友だちに言われて、胃に穴が開きそうなほど空腹で苦しみながら食堂を目指した。腹も心も満たした僕はクラスに戻ると、劇の台本作成に本腰入れていた3人がストーリーの大枠をあっという間に作ったのだ。題名は決まっていないが、どうやら女性1人を巡って男4、5人が求婚するという「かぐや姫」をベースにした劇にするらしい。黒板の落書きにヒロイン役を1人、それも絶対的なキャラが立った人を選出したいらしく、午後の授業が始まる1分前までアイデアを頭から捻り出していた。


 突然、麦島さんの脳内麻薬が溢れだしたのか。

 「これだ!」と大きな声を出した。すぐに誰かを目指し、歩みを止めない。

 「ねぇねぇ!そういえば、フルート吹いていたよね。青葉さん!」

 「うん…、そうだけど。どうしたの?」

 「今回の劇、本当はヒロイン役を演じてくれる人の個性を引き出して作ろうって思ったけど、そんなの難しいって分かっててさ。でも、青葉さんってフルート吹けるし!いい素材持っているのよねぇ…。」

 やめてくれ、そんな目で見ないであげてくれ…。困っているじゃあないかッ!と強く言えたのなら、空と彼女の間には今日も冷たい雨なんか降っていない。

 「ねっ?いいでしょ?おねが~い…!」と懇願する麦島さん。

 「青葉さんならいいんじゃね?」

 「確かに。可愛いというより、お淑やかで綺麗なイメージだよね…。」

 おいおい、さっきまでたこ焼きか劇で決めるのにあれだけ時間使っておいて、どうしてこうも団結するんだよ。流石に、断り切れんだろうよ。

 「皆がそう言うなら、やってみるね。」と頭をペコペコする彼女。

 ほーれ言わんこっちゃない。可哀想にもほどがある。彼女は部活で忙しいんだから、無茶させんじゃないよ。

「青葉さん、吹奏楽部は大丈夫なの?」

 「うん。先月まで大きな大会があったけど、それも終わったから練習する時間はあるよ。」

 

 前言撤回。おい、アンタら全力で彼女をお支えしろよ。時間作ってくれんだから。


 彼女がヒロイン役に決まってからの放課後は、舞台セットの作成を台本が出来上がるペースに合わせて準備に取り掛かった。僕はペンキで色を塗る作業を任された。意外にも退屈することなく楽しめた。肝心の彼女の事はというと、麦島さんの想像なだけかと思っていたが劇中にフルートの生演奏をするらしい。男たちに求婚されたヒロインは彼らに1つずつ、課題を伝える。しかし、この課題が激ムズらしく、男たちは志半ばで無残にも散っていくらしい。課題の答えは、「出来ませんでした。」と正直に答えた人と結婚するはずだった。そんな真面目で誠実な人を見つけたいだけで、課題を出したのも少しからうためだったが、多くの人の運命を変えてしまった。そんなヒロインは悲しみを嘆きながらフルートを吹いて弔う。そんな劇、文化祭に似合うんだろうか。吹いたら大丈夫、という事でもないし。 

 しかし麦島さん、よく考えたな。劇の構想を練る麦島さんに対して、南と掛橋は必死に食らいつく。もはや、プロデューサーとその取り巻きのような構図だ。


 そんな彼女は教室で練習すると迷惑をかけてしまうから、と吹奏楽部の練習の合間を縫って励んでいるらしい。せっかく、彼女のフルートの音色を聴けるかと思ったのに。お預けだ。当日まで待てるだろうか。楽しみで仕方がない。


 9月も終わりを迎え、文化祭もあと2日に差し迫った。いつも通り、17時を過ぎた辺り。夕方に見えるはずの一番星は見えなかった。最後の準備も終えたし、見えないなら諦めて帰ろうと冷たい麦茶を買った。

 一緒に歩いていたが一言。

 「あ、青葉さんじゃん。どうしたんかな?」

 思わず、振り返ると(ほんとだ。何か様子がおか…え?)


 「青葉さん!大丈夫か!?」

 「倒れた!?一旦、どうする!?」

 「とりあえず、お前保健の先生呼んで来い!」

 「わ、分かった…!」と全てを投げ捨てて2つ角を曲がった先にある保健室へ全速力で向かった。無我夢中で走りぬけて、勢いよくグラウンドから扉を開け、慌てながらも状況を伝え、偶然通りかかった体育の先生と一緒に担架を抱えて現場に急いだ。

 そこには、吹奏楽部の部員やら通りすがりの野次馬ばかりで覆われていた。お願いだから、こんな弱っている彼女を見ないでくれ。心で叫びながら持ち手をしっかり握って、保健室まで彼女の様子を伺いながら運んだ。涙が出そうになった。


 どうやら、熱中症のようだ。昨日は台風で雨が降ったからなのか。どうしても、今日は蒸し暑かった。しかし、それだけが原因では無かった。大会は終わって今は落ち着いていると言っていた彼女だが、11月のコンクールの選抜メンバーに選ばれるために寝る間も惜しんで練習していた。しかし、劇でフルートを吹く曲も同じように力を抜くことなく全力で取り組んでいたらしい。保健室で彼女を運んだ後、吹奏楽部の部員で彼女と仲が良い子が荷物を持ってきたついでに教えてくれた。


 保健室の先生と僕と一緒に彼女を運んだ体育の先生は、彼女の親に連絡をするため職員室へ向かった。僕と眠っている彼女。二人きり。僕が倒れそうだ。心臓がいつもよりも熱くなる。


 「…そこにいるのって。」と小さく儚い声が聞こえた。

 「あぁ…俺だけど…。」とうろたえながら答える。


 「そっか…。もしかして、堤くんが運んでくれたの?」

 「先生と一緒に、だけど…。」

 「そうだったんだ…。ごめんね、重かったよね?」

 「いや、別に誰だってあれぐらいだと思う…。」とあたふたする。

 「そこは、そんなことないよだけでいいのに。」

 「ごめん。」と素直に言った。

 しばらく、部屋の音が消えた。不思議な空間。神様は本当にこの世にいるのだろうか。どうして、今になってこんな機会をくれたのか。


 「そういえば、2人で話すのって何気に初めてだよね。中学も一緒でしょ?」

 「え、知ってたの?」と目を大きく開いた。

 「知らないと思ってた?クラス発表の紙に出身中学書いてあったよ。」

 「知らなかった…。へぇ、そうだったんだ。」

 「でも、中学の頃は全く接点無かったよね。私は少しだけ一方的に知ってるけど。」


 「なんで?」

 「ほんの少しだけ。」

 「いつから?」

 「いつだったかな。あれかな、卒業式だったのかな。」

 「…。」

 「違ったらごめんなんだけどさ、私たちが1年生の時に3年生の卒業式でさ。」

 もう言わないで下さい。それかよ…。ファーストコンタクトがそれだったのかよ…。


 「全員、着席って言われたのに独りでに立ち尽くしてたよね?」

 「忘れてくれない…?」

 「くれないね。」と少し元気な声で言われた。

 心がむずがゆい。こんな感情になったのは、あれ以来だ。甲子園で見た彼女の顔を見た時と同じ。いや、あれとは少し違うような気もする。


 「高校で初めて同じクラスになったよね。なんで話しかけてくれなかったの?」

 「いやいや、今さら話しかけられないでしょ。」

 「なんでぇ?言えば良かったのに。卒業式で座り損ねた時の俺ですって。」

 「いやでも、あれは…。」

 「…なに?」

 「なんでもない。」

 言えるはずもない。あなたの吹いたフルートの音色に聞き惚れてたら、座れませんでした、なんて。


 「青葉さん、お母さんが迎えに来たよ。」と保健室の先生と青葉さんのお母さんが一緒に入ってきた。僕がいると説明が面倒になるタイプのご対面じゃあないかッ!と思った時には、反射で彼女の傍から離れた。お母さんは関わった人全員に頭を下げて、彼女の荷物を抱えて帰っていった。

 体育の先生は僕の肩を叩き、「ありがとな。」と言って帰った。教師という道も悪くない。ちょっとだけ、カッコよく見えた。


 次の日、彼女は来なかった。うちの担任から一言。耳を疑った。


 「青葉さんの体調が悪い。明日の劇には間に合わないそうだ。だから、家にある練習用のフルートを録音して送ってくれるから代役だけお願いします、と伝言を預かったけど。誰がやれるか、みんなで相談してほしい。」


 「先生、私がやります。」とプロデューサーの麦島さん自ら、申し出た。半分泣いていた。自分が任せなければ、彼女はこうならなかったかもしれない。結果論だけど、当の本人である麦島さんの気持ちを思えば僕にはそれが痛いほど共感できる。

 劇はどうにか形にはなった。「学校賞」こそ取れなかったが、「審査員特別賞」をもらった。とりあえず、無事に終わってよかった。うちのプロデューサーもたこ焼き屋の店長役で頑張った人も泣いて喜んだ。これから、打ち上げが始まる。クラスでほぼ貸し切り状態でやるそうだ。場所はたこ焼き屋を推し進めたらしい。ただ、僕はずっと彼女が今、何をしているのかだけが気になった。タコが入っているかどうかで揉めている場合じゃない。今日、打ち上げに来なかった。どうしても心配になった。


 土日を挟んだ月曜日。彼女は眼を少し腫らして教室に入ってきた。すると、開口一番は謝罪から始まった。クラスのみんなは慌てて彼女の所へ走って、ごめんねとありがとうを繰り返していた。なるほど、いいクラスだな。このクラスでよかったかも。

 いつもの時間には雨が降っていた。僕は体育委員会の仕事で珍しく18時過ぎまで残業をしてから帰ることになった。といつ帰れるか保証もできないから先に帰した。一段落つけて職員室へ向かい、担当の先生に引き継いだ。もう体力の限界。傘も忘れてしまった。走って帰るか…と気後れしながら下駄箱へ向かうと、彼女の姿を見つけた。


 「あ、堤くん。今から帰るの?」

 「そうだよ。委員会の仕事が今終わったから帰るところ。」

 「そうなんだ。傘は?」

 「持ってきてない。」

 「じゃあ、傘。入る?」

 「いやいや!そんな相合傘だし、そんな」

 「私、折り畳みあるしいいよ。」

 

 あ、そうなのね?


 しばらく歩くと雨も止んだ。通り雨だった。夕方の空も夏ほど明るくはない。薄紫色に染まった空に一番星を探す。雲が邪魔で見えなかった。でも、今日は探さなくてもいいや。


 「実はね。倒れた時にフルート壊れちゃって。買い替えが必要なんだけど。」

 「そうだったんだ。」

 「楽器ってすごい値段が高いの。だから、すぐには買えなくて。」

 「そんなイメージあるかも。どれぐらいかかるの?」

 「聞いたら驚くから、言わない。」

 「そんなに高いんだ…。」

 「それに、クラスのみんなにも迷惑かけちゃった。」

 「それはまぁ、大丈夫だよ。麦島さんがどうにかしたし。賞も取れたし。」

 「不幸中の幸いだね。本当によかった…。ねぇ。」

 「どうしたの?」

 「せっかく練習したのに、このままじゃもったいないからさ。」

 「うん。」

 

 「堤くん、聞いてくれないかな。倒れた時に助けてくれたお礼になるか分からないけど。」

 

 えぇ…いいんですか…。確かに、あれほど待ち望んでいましたけども?聞けないんだ…とか思っていたけども?いいんですか?そんな直接、目の前で聞いてもいいんですか?いいんですよ、いいんですよ!あなたがそれでいいのなら。聞きますとも。


 「いいの?俺なんかで。ど素人が聴いても評価なんて出来ないし。」

 「いいよ!評価して欲しくて吹くんじゃないの!聞いてほしい、ただそれだけ!」

 河川敷まで遠回りしてやってきた。誰もいない。彼女と僕だけ。


 彼女の鞄から出てきた黒くて古そうな箱。慣れた手つきで組み立て、音のチェックをする彼女を見た僕は、初めて出会った時の瞬間を味わえるのかと心を躍らせる。


 「小さい時に買ってもらったの。これ。だから、あまりいい音色じゃないけど。ごめんね。いきます。」


 その瞬間、黄昏時の夕日が雲の合間から顔を出した。彼女のフルートから溢れ出す音色に合わせて、本来の力を取り戻したかのようだ。空が喜びの笑みを浮かべる。この音だった。僕があの時、初めて青葉さんと出会ったのは。このフルートだったんだ。今だけは、彼女の目に映るのは僕。僕だけなんだ。妄想を膨らませてしまったばかりに、心臓から鳴る鼓動が何かを焦らせる。じっとこらえていたはずの何かを。言葉にしなくても、分かってしまう。何かを。


 音色に曇りが見えた。あまりにも、音色に集中したばかりに彼女の表情を見ていなかった。どうしてだろう、彼女は目元を赤く染めて涙をせき止める事をせずにフルートを胸元へ。


 「私、この曲を吹いてあげられなかった。誰かが奏でないと、曲は死んでしまう。もう誰もこの子を見てくれなくなる。だから、頑張ったのに。見てほしかったのに。」


 僕は「芸術は爆発だ」という名言を聴いて、そういう絵の描き方があるんだなぁ…ぐらいにしか考えることが出来ない。それぐらい、芸術には疎くて仕方がない。

 彼女の表現に合わせられる言葉は見つからないけれど、伝えたいという思いなら拾い上げることはできるかもしれない。立ち尽くしている彼女の表情を見た時、甲子園で見たあの時の表情と同じように思えた。夕日は空を薄紫色から赤く塗り替えた。それなのに、僕の心の片隅まで滲んだのは黒い靄のような色だった。


 太陽は月にその日の最期を譲った。意外と田舎なのか、見上げると純度72%の夜景が広がっている。僕は彼女の家の近くまで送ることにした。帰り道が同じだからという理由しか言えない。

 今日はありがとう、聞いてくれて。低くも明るい声で呟いて歩いて行った。また、明日とは言えなかった。それでも、今日の出来事は一生、大切にしようと心に秘めてその場所を後にした。


 夜に一番星がどれなのか、探してたらもう遅い。もう分からなくなる。渋谷のスクランブル交差点で人を探すのと一緒だ。見つけられるのは、信号が変わるその一時だけ。


 昔、中学の理科の授業で習った。


 今日の授業は、星について。まぁ、この辺に住んでると結構見えると思うんだけども。あの、都会に行くと星が見えないのは、地上の明かりが空を照らしているせいで、星が見えないっていう仕組みね。で、今日の授業内容はテストに出るからちゃんと覚えといてよ。岩藤、言ったからね。次、赤点取ったら本気でやばいからね。みんなも絶対に覚えてよ?分かった?

 …で、次に金星。宵の明星、明けの明星という言い方もします。日没後に見える星と明け方に見える星でめちゃ光っているのは、だいたい金星だと思っといて。よく聞かれるのは一番星と言えばっていう質問ね。金星でだいたい間違いないです。ただ。ただ、先生。個人的にはその教え方は好きじゃありません。そりゃそうなのよ?すぐに見つかるのは、金星。だから、一番星は金星。その決め方でもいいのよ。でも、季節によってとか、自分がいる場所によってとか条件があったり、向いてる方向が違ったりって事を考えるとね。意外とね、光ってる星はあります。一番星も夜になると、素人じゃもうどこにあるのか分からなくなるでしょ。田舎に行くともっと光っている星があるから見つけにくくなる。全員が一番星を金星と決めなくていいんだよ。今、見つけた星が一番星でいいんだよ。なに?カッコいいなって?そりゃあ、先生だって君たちよりもオトナの経験を積んでるからさ。こういう深い一言だって言える訳よ。

 でも、一番星って誰よりも先に星を見つけた人が決められる権利なんだよね。だから、人気のある金星を一番星にしてごらんよ。大変だよ。みんな、見てんだから。逆に夜遅くに一番星を探し始めたってもう遅いのよ。例えば-。


 あの出来事以来、特に用事も無かったから教室で話す事は無かった。ただ、すれ違ったり目が合ったりした時には笑顔を向けてくれるようになった。毎日を心穏やかにしてくれた。小テストで低い点数を取っても。課題を持ってくるのを忘れても。親の印鑑がいる提出物なのに、名前だけ書いて学校に持ってきても。全く問題はない。ただ、心臓の鼓動と一緒に出てきた。未だに沸々と湧き出ているのを感じる。特に、笑顔をくれた時。あの瞬間だけ、自分じゃない気がする。


 気づけばもう年を越していた。何をしていたのか。覚えていない。二学期の終わる早さはあっという間だ。もう冬休みが終わる。布団の中で越冬していた僕も目覚める時が来た。布団から出てから床に足をつけると絶望を2回も体感させてくる。


 春を迎えた3月。待っているのは卒業式。甦るは黒歴史と彼女との出会い。なるほど、これが良くも悪くも春なのか。意外にも高校の卒業式はサッパリしていた。卒業する生徒の出席番号1番が各クラス代表として、卒業証書を受け取りに行く。たった、8人。座り続けたせいで、腰を痛めるほどの待つ時間は無い。まぁ因縁の校歌斉唱はあった。そこでも、吹奏楽部が惜別の別れを感じさせるような演奏だった。本当に綺麗な音色だった。残念ながら、彼女はこの席じゃ見えなかった。悔しい。

 来賓を代表して、僕らが住んでいる市長が喋る予定だったが急遽、来られなかったらしい。式の予定を変更した事もあり、9時半に始まった卒業式も10時半には卒業生は退場していた。しばらくして、僕らも体育館からぞろぞろと出ていき、各教室へ戻っていった。僕らも1年生から2年生に変わるって考えたら、ある意味卒業を意味する事になるのか。

 お昼の12時前。これで、僕らも堅苦しい時間から解放されたと同時に春休みがやってきた。いつもの奴らで学校近くのラーメン屋でも行こうかとダラダラ。あぁでもない、こうでもないと校舎を歩いていた。下駄箱まで靴を取りに行くと、卒業生と在校生で大騒ぎだった。写真を撮っては「盛れてない」と何枚も取り直す先輩方や、泣きながら卒業を止める後輩がいたり。とにかく、青春が押し寄せているのは分かった。


 「俺らが卒業した時は、誰が泣いてくれるんだろうな。」と言うので、

 「…居ないだろ。そもそも、お前部活入ってないし後輩いないだろ。」とツッコむと、知ってるわそんなもんとお互い不貞腐れながら青春を横目に門を出ようとした。

 すると、僕らの後ろの方で何やら悲鳴が上がった。いや、あれは黄色い声援なのか…。誰かを囲んでいるようだった。


 「卒業式って言ったら、第二ボタン渡すのが恒例行事よな。」

 「今時、そんなことってやってんの?」と疑問に思った。

 「まぁ、お前は渡す人も欲しいという人もいな…痛ッ!?」

 グーでド突いた。

 「うるせぇ、黙ってろや。お前の第二ボタン俺がもらってやろうか?」

 「はい、すいませんでした。もう二度とこの件は触れません。」


 見学しても冷やかしだもんな、と人だかりを気にはしたが昼飯を優先し、ラーメンを啜りにいった。見に行かなくて正解だった。


 あの注目を集めたのは、彼女だったんだから―。


 僕もひとつ、学年が上がった。の一部は僕と一緒のクラス。彼女とはクラスが離れた。離れたら繋がっていた糸が切れるのも、無理はない。

 彼女の噂話は卒業式の後から、色々流行り出した。全部聞き流した。でも、誰も真意は分からない。あくまでも、噂なだけだ。彼女とたまに会うのは、移動教室か体育の前か。もう目を合わせるなんてことは夢のまた夢だ。友だちと喋りながら歩いていく。彼女の目に映る景色の中で、僕はきっと道路横に立っている並木なんだろう。

 今年の野球部の代はらしい。去年の先輩らが強すぎた。夏の甲子園の前に地区大会の準決勝で終わった。当然、応援なんて行かない。彼女がフルートを吹くことも無い。今年の夏は、本当に面白くない。


 「あれ、今日はもう帰るの?」

 「まぁ…いいかなって。」

 「まだ17時前やん。なんかあった?」

 「いや、何となく。」

 「あっそ。じゃあ、帰るか」

 「何か食べて帰らん?ハンバーガー食べたい。」

 「二日連続やんけ、俺。ラーメンにしようよ。」

 「同じようなもんやろ。あれは?カレー。ナンが食べ放題の所は。」

 「あぁ、駅前のな。でも、寄り道の割に遠いじゃん。」


 もう、一番星を探すことはなかった。あるのはいつも隣でふざけ合ってる仲間たちとの楽しいひと時。これを大切にしよう。

 しかし高校2年生はどうしてこう、何もないんだろう。特にこれといった思い出もない。文化祭とか盛り上がったはずなのに、これと言って思い当たる節がない。不思議だ。あるのは、漠然とした「楽しかった」という文字が心に浮かぶだけで。確かに、1年生のようなフレッシュさは皆無。定期テストの雰囲気は分かってきたし、教室とか学校の設備も一通り、分かったし。音楽室の横にある倉庫にはギターが眠っているとか、理科室の棚をよく見るとネズミ、カエルとかのホルマリン漬けが置いてあったり。校舎裏の木の下で、告白すると成功確率が3割増しになるとか。全部、遊び尽くしてしまった。購買の品揃えが変わるとかは無いし、学食の献立も毎月変わっているけれど、1年を通して変わっていない。去年の4月と今年の4月は同じ内容だったことに気付いた。

 ただ、別に寂しくは無かった。あいつらと一緒にいたおかげで、僕が勝手に負った傷も癒えた。時間は何でも解決してくれた。


 毎度恒例の卒業式。今回は2回目だが、今年はインフルエンザが大流行した年で在校生の出席は無かった。その代わりの課題やら宿題は去年よりも多く出た。早く遊びたいからと3日間かけて課題合宿を仲間内の家で行った。当然、終わりはしなかった。

 大学受験が始まる3年生。もう4月から追い込んでいる人もいた。僕は一般で私学に入る予定でいた。決まるのは来年の初めあたりだろうか。毎日が憂鬱になりそうだ。やるのは自分だから、やれる事だけはやっとこう。とりあえず、今はいいか。

 クラスが決まった。1年生の頃と被る人が結構いた。いつものも入れ替わりはしたが、一部は一緒になれた。彼女も一緒のクラスになった。しかも、初めから隣の席。


 「久しぶりだね。堤くん。クラスが違うとこんなに会わないんだね。」

 「ほんと久しぶりだね。」僕はかなり見かけていたけれど。

 「大学、どこ行くか決めた?」

 「まぁ、私立の文系かな。偏差値が高いって訳でもないけど、勉強しないと入れないから頑張らないといけなくて。逆に、どうするの?」

 「私は吹奏楽で推薦狙い。公立大学に絞って考えてるんだ。」

 「そうなんだ。大学でも続けるの?」

 「うん。…聞きたいって言ってくれる人がいるから。」

 

 チャイムが鳴った。新学期が始まった。癒えたはずの傷口は少し開いた。


 受験シーズンということもあって、いつもの仲間とは少しずつ会える時間が減っていった。それでも、深夜に電話を繋げて勉強会を開いた。もちろん、朝方までやるのは当たり前。それが、受験生だから。数学の教科書は3ページ進んでから止まったけども。

 彼女と1年生の頃と同じような関係性に戻った。それが特別な訳でもない。ただの友だちの友だちぐらいの距離。相変わらず、並木には変わらない。考えないようにはしているけれど、彼女の噂話といい、卒業式で起きた事を直接、彼女に聞いてみたいと思っていた。聞くのは怖いけれど、このままだと聞かずに卒業してしまうような気がした。ただ、そんな昔のことを聞ける間柄じゃないんだなぁ…これが。

 いつか。いつかと思っていると、夏休みが来た。彼女はもうすでに吹奏楽部の最前線から退いていた。僕らも受験生だからという理由で、甲子園の応援には行かなかった。今年、4年ぶりにうちの高校が優勝した。

 最後の夏だからという理由で、僕は久しぶりにと揃って、海へ泳ぎに行った。台風で大荒れの海模様だった。急遽、僕の家でしこたまゲームをぶっ通しで朝まで続けた。レベルが43上がった。学力はだいぶ下がった。


 2学期最大のイベント、文化祭。何でも最後という言葉が付く。記念になるかと思い、文化祭の実行委員にでも入ってみた。夏休みから勉強よりもこっち優先で準備してきた。3年生ということもあり、リーダー的な仕事を任されたが経験も無く、すごく優しい後輩がフォローしてくれた。我ながら情けない、不甲斐ないと感じながらも協力しながら楽しく文化祭当日を迎えた。

 しかし、委員会に入ったはいいが誤算があった。委員には文化祭当日の見回りがある事を見落としていた。は集まって楽しむ中、僕は生徒同士でトラブルが起きていないかを確認しながら各教室を回った。まぁ冷やかしに来たが、飲み物を奢ってくれたに感謝した。

 次はうちのクラスの見回り。かき氷屋をやるらしい。僕は委員会の仕事で忙しく、クラスの話し合いに入れていないから、よく分かっていない。しかし、まぁまぁ人気らしい。内装も夢の国っぽい雰囲気でかき氷もシロップ多めで美味しいらしい。

 

 「おぉ堤。見回りか?」

 「皆さん、ご苦労様です。木村さん、売り上げどんな感じ?」

 「まぁまぁかな。私が計算した数より少し少ないぐらい。だけど、イイ感じ。」

 「堤は?まだ見回りしないといけないの?」

 「あと30分で交代。そしたら、一旦は休憩かな。」

 「もうすぐやん。じゃあ、終わったらクラス戻って来いよ。かき氷食わしてやるよ。」

 「めちゃくちゃ助かるわ…。ありがと…。優しさに感謝だわ。」


 30分、こうなったら長い。ひたすら歩いて汗をかいて、仲間の差し入れも飲み切ってしまった。ギリギリ限界の所で交代が来てくれた。ほぼ這いずりながら、交代場所から一番遠い自分のクラスを目標に向かった。

 教室に入ると、クラスの半分は休憩と文化祭を楽しみに出ていった。会計に立っていたのは、彼女だった。


 「あ、お疲れ様。かき氷食べてく?」

 「ありがとう。自分で作るから大丈夫だよ。」

 「いいよ、暇だもん。シロップ決めといて。」

 「…ごめん、ありがと。」甘えさせてもらった。


 「やっぱシロップ、好きなだけかけていいよ。」

 「じゃあ、イチゴとブルーハワイを。」

 「そんなにかけていいの?甘すぎない?」

 「まぁ大丈夫でしょ…いや甘ッ!」

 「やっぱね。」と呆れた口調でつぶやくと、紙コップで水をくれた。

 「今、ちょっと作る側がいなくてさ。手伝ってくれない?食べながらでいいから。」と頼まれたので、

 「もちろん。」と快諾した。河川敷の時みたいだ。思い出しただけで氷が早く溶けそうだ。

 

 「青葉さん。」

 「名前呼ぶなんて、初めてじゃない?」

 「いいんだよ、そんな事は。あの、聞きたいことがあるんだけど。」

 「なぁに?珍しいね。」

 「あの、去年の卒業式の時に何となく見たんだけどさ。誰の第二ボタンもらったの?」と様子を見ながら聞くと、食い気味に

 「ずいぶん、前の話だよね!何を聞かれるのかと思ったら。なに、気になるの?」

 図星。顔色一つも変えずに、「いや、なんとなく。」


 「あれね…。実は野球部のキャプテン。声かけてくれたの。」

 「おぉう…。そうなんだ。」

 「なにその反応。…まぁ、小学生の時から面識はあったんだけど。」

 

 私が小学4年生の時に、長野からこっちに引っ越してきたの。その時の班登校で班長だったのが清和君。その時から、野球頑張ってて。でも、応援に行けるほど仲良い訳じゃなくて。6年生の時、テレビで甲子園を見たら吹奏楽部を見て、親に聞いたらお母さんがフルートをやってたらしくて、よく甲子園に応援しに行ったって聞いてね。だから、中学生に上がるまでに必死で練習したら最前線で清和君を応援しに行けるかもしれないって子どもながらに考えてさ。可愛いよね。でも、中学に上がった時に清和君の代では県大会に行けるほどの実力が無かったらしくて、地区大会の2回戦負けだったの。私も1年と少しなんかじゃ全然上手くならなくて。でも、その年の卒業式までには何とか人前で吹けるようには上達したの。せめて、卒業式だけでも見てもらえたらなって思って。その後も私の弟と清和君の弟が同じ野球のクラブチームで、それなりに交流はあったの。そこで、この高校を聞いて一生懸命、勉強もしてフルートも練習してさ。何とか同じ高校に入学して吹奏楽部にも入部出来て。

 そしたら、清和君が主将になったって聞いたの。絶対、応援に行きたかったから死ぬ気で練習して、私も吹奏楽部でレギュラー獲ってやる!って気合いが入ってたねぇ…。それもあって、甲子園で2回だけだけど演奏できてさ。気持ちだけは誰よりも一番前で応援してたから、負けた時は本当に悲しかったけど。でも、準々決勝の時、サヨナラホームランを打って逆転勝ちしたの!あの時は本当に嬉しくて…。それでも結局、負けちゃったけど。結論、今までフルート頑張って良かったなぁって思ってるんだ。あ、でね。卒業式の時の話なんだけどさ。


 もういい。やめてくれ。そうか、全部繋がった。あの時、スタンドで見た彼女の表情も僕の目の前でフルートを吹いてくれた時も。全部、彼がいたんだ。彼女にとっての一番星は清和君って人だったんだ。目に映るのは僕だったとしても、彼女の心に映っていたのは僕じゃない事は分かってた。でも、いざ誰か分かるともう…どうやって情緒を落ち着けたらいいのか、何も考えられなくなる。


 「結局、別れちゃった。」

 ん?なんて?全然話聞いてなかった。


 「別れた?いつ?」

 「この間。なんか大学生って忙しいらしくて…。」

 そうなんだ…。それはそれで、心が複雑だ。

 「…他に聞きたいことは?」

 「いや、なんかごめん。」

 「全然!もう吹っ切れちゃったし。私もスッキリしたし。ありがと。大学も別の所にしようかなって思っててさ。」

 「そうなんだ。」

 「フルート、もうやめよっかな。」なんて寂しい笑顔で呟く。

 「なんで?」

 「まぁ…なんて言うか、全く知らない人の応援したってさ。別に気が乗らないし…。もう聞いてほしいって言ってくれる人も居なくなったし。本当の意味で引退しようかなって。」

 

 「…それは困るかもしれない。」ハッとした。言うつもりじゃなかったのに。

 「えっ?なんて言った?」

 「何も言ってないよ。」と置き土産に、僕は教室から出ていった。


 この文化祭から卒業式までの間、彼女とはこの事がきっかけで話さなくなった。別に話そうと思えば話せたが、僕にはなんて声をかけてあげたら良かったのか分からなかった。見当もつかない。


 お互い行きたかった大学に進学することが決まった。僕も彼女も。おめでとうを言い合う仲でもないが、心の中ではフルートだけは辞めないで欲しいと願った。あっという間の1年。明日には僕らの卒業式が待っている。


 いつもより早く目が覚めた。時間は…6時半。あと30分寝れるな。でも、1階でご飯を作っている音がする。


 「おはよう。」

 「あれ、なんでこんな早いの?」

 「なんか、早く起きた。何作ってんの?」

 「アンタの高校最後の朝ごはん。」

 「あぁ、そうか。今日か。卒業式。」

 「もうすぐ出来るから、先に準備済ませといで。」


 「いただきます。…今日、みそ汁が美味しい。なんかした?」

 「分かる?ちゃんと出汁を取ったの。」

 「だからか、美味しいわ。毎日、これ作ってよ。」

 「家に帰ってきたら、作ってあげるわ。ほんと、自分で何でも出来るように育てとけば良かった…。」

 「ちょっと心配?」

 「ちょっとどころか、ほんとに心配。家賃とか色々、払うものとか。息子はあなたしか居ないし、お父さんはもうすぐ単身赴任で帰って来るから独りで寂しい…ってことはないけども。」

 「まぁなんとかなるでしょ。」

 「そうだといいけど…。今、こんな話してもしょうがないね。」

 「あと半月以上あるし、大丈夫でしょ。」


 「今日まで色々、ありがとうございました。いってきー。」

 「…いってらっしゃい。いや、お母さんも後で学校行くから。」


 学校へ着くとこれまで見た桜の中で、一番散っていた。こんなものか。側溝には花びらでいっぱいに列を組んでいる。教室へ行くと制服の胸ポケットに花をつけていた。あぁ、本当に卒業するんだと実感した。

 卒業式って見送る側はあっという間に感じるけれど、見送られる側になると体感的に倍も違って長く感じられる。色んな記憶が蘇ってくる。なんか、大人になったなって。高校1年生の時は、中学生が抜け切ってない感じだったけど今は立派になった。

 自分でいうのもなんだが、それなりに大人になった気がする。だけかも知れないし、自信も無くなってきた。

 僕はこれから先、どんな未来が待っているんだろう。大学へ行ってもあいつらとは今と変わらずにいたい。いや、変わってしまっても繋がりだけは絶やしたくない。将来、どんな人と結婚するんだろう。その前に、大学か。その前に彼女か。そんな青春が僕のもとにも来るのだろうか。知っているのは、未来の自分だけか。どうしよう、ギターとかやってみようかな。髪も茶色に染めてみようかな。なんか、大学デビューとか思われるのも、ダサいかな。いや、どうなんだろう。大学に入ってみてから、周りを見てみよう。

 親元を離れて生活するってどんな風なんだろう。寂しくなるのかな。そうでもないのか、あるいは、月イチで帰りたくなるのか。今日、後ろで母さんが見てるけど僕はどんな風に映っているんだろう。少しは頼れる息子になれたのかな。今、なんとなく「式に集中しなさい」って聞こえた気がする。


 …ですが、本当に大事なのは過去よりも今です。今を生きる人は明日を生きる事が出来ます。しかし、とにかくガムシャラに頑張ればいいという訳ではありません。必ず、疲れてしまいます。人は思っているほど、強くはありません。よく笑う人はそれだけ、辛い過去を経験している人かもしれません。強がっている人はそれだけ人を信頼出来なくなるような悲しい経験をしたのかもしれません。皆さんが強いと思っている、父親や母親、家族もまた同じです。

 皆さんはそんな人と出会った時に何が出来ますか?ただ、黙って見ていることも出来ます。その方が、容易でしょう。しかし、もしも皆さんが何か行動した時。必ず、あなたとその人との間にある世界線には変化が起きます。それが、良くも悪くも結果として出るでしょう。特に悪い方向へ進んだ結果には、大きな後悔を抱える事は想像できます。その時、こう思ってほしいのです。それが、最高でもなく最悪でもなく「妥当」であるという事を。それ以上にもそれ以下にもなりません。所詮は、結果論なのです。何もしなかったとしたら世界線に起こる変化の可能性は万に一つもいい事も悪い事もありません。芸人をしていらっしゃる方の言葉をお借りするとしたら、様々な災難や困難は無い方がいい。でも、それは「無難」な人生だと。しかし、困難がある人生は「有難」、つまりは「有難いありがたい人生」という意味に変わると。

 どうか、変化を恐れて行動することを辞めないで。恐れることはあっても、行動しない人生でありませんように。困難を楽しんで下さい。これで終わります―。


 途中しか聞いてないけど、まぁまぁいい事言うじゃん。うちの市長さん。前々回、来れんかったしな。その分まで喋ったって所か。でも、何もしないよりかは何かした方がいいっていうのは、分かる気がする。自分には出来ないんだろうけど。

 

 「卒業式、意外と長かったな。」

 「でも、あっという間だよね。高校生活。」

 「まぁ…こんなもんだろうっていつか思ったりしてな。」

 

 「なぁ…将来、考えてる?」と唐突に聞いてみた。

 「堤くん、どした?暗い顔して。」と麦島さんは不安げに顔を覗いてきた。

 「別に変な意味じゃなくてさ。どうなんだろうなって」

 「俺はさ、家には母親しかいないし。大学行けるほど裕福じゃないからこのまま就職するけどさ。今が楽しいって思うから、後先のことは考えないようにしてる」なんて偉そうに、うちのが申したので、思わず

 「オトナ、ですね。」と敬語を使ってしまった。

 

  ―ただ、黙って見ていることも出来ます。その方が、容易でしょう。しかし、もしも皆さんが何か行動した時。必ず、あなたとその人との間にある世界線には変化が起きます―。


 「ホントだな。ちょっと行ってくる。」と言って、青春の中をくぐっていく。

 「どこ行くんだよ。」

 「ちょっと未来を変えに。」

 「お前はマーティーかッ!」いいツッコミだ。成長したな。


 とりあえず、吹奏楽部の部室から職員室の前。校舎裏から音楽室、理科室。あちこち探したがここまで探しておいて、うちの教室を見ていないことに気付いた。すると、どこからか聞いたことのあるメロディーが頭の中に入って来る。空耳じゃない。


 教室の扉前まで来ると僕が今まで聞いてきた、あの音色が聞こえた。そこには、あの銀色の横笛から蜘蛛の糸のように細くも強い音。鳥肌が終わらない。そして、春の暖かい日差しを浴びた青葉さんがいた。


 「それって。」

 「ビックリしたっ!驚かさないでよっ!」

 「ごめんごめん。フルートの音が聞こえたから、走ってきた。」

 「そうなんだ。実はこれ、前に壊れたフルート。治してもらったの。一応、買ったんだけど。どうしても、これがいいなって思って。2、3日前に届いて、せっかくなら教室で吹き納めしようかなって思ってさ。」

 「…フルートさ、本当にやめるの?」

 「なんで?」

 

 絶対、やった方がいい。中学1年生のあの時から、青葉さんとフルートの音色に出会ってからずっと聴きたくて。高校に上がった時に、偶然一緒だったけど声をかけられなくて。でも、本当は気持ちを伝えたくて。とっても綺麗な音色で、相変わらず表現は月並みだけど。本当に本当に素敵な音色なんだ。甲子園で聴いた時もそう。僕は熱中症で倒れたせいで準決勝は聴けなかったけど。文化祭で青葉さんが倒れてしまった時、心の底から聴きたいと願ったんだ。そしたら、神様は珍しく微笑んだ。青葉さんは僕の目の前で吹いてくれた。あの時、僕の目に映ったのは青葉さんが吹いている姿だけじゃない。夕方の空が赤く染まって、雲も消えて。人生でこれほど綺麗なフルートを聴くことはないだろうって思えたんだよ。

 

 確かに、清和君は青葉さんの元から去っていった。


 でも、これからは自分のためにフルートを吹いてよ。 


 言ってしまった。上から目線だったな、と反省した。でも、これで僕らとの間に存在する世界線がどう動いても僕は後悔なんてしない。それだけは自信があった。


 「ありがとう。そんな風に聴いてくれてたの?」

 「うん。なんか上から目線でごめん。」

 「ううん、すっごく心に響いた。本当にありがとう。これからは、趣味程度だけど私が楽しめるようにフルート、続けるね。」


 こうして、僕の高校生活に幕を閉じた。

 本当に素晴らしい3年間だった。


 あの世界線はきっと、どこかでまた動くはず。

 次に動く時があれば、2年後だろうか。

 

 20歳になって会える成人式。次はの結婚式。さらに先は薄毛だらけの同窓会。


 どんな世界が待っているんだろう。

 

 一番星は金星だけじゃない。それまでの楽しみに取っておこう。 

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【読み切り】一番星は金星だけじゃない 加汝岳都(くわながくと) @gakutokuwana

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