ショートショート(習作)

軸音

そら豆のスープ、ビーフシチュー、ショートケーキ

 生まれついての奴隷だった彼女にとって、その男は四人目の主人だった。優しそうな男に思えた。だからといって彼女は幸せを願わない。農場を転々としてきた彼女は、いつだって過酷な労働を強いられ、ろくな食事も与えらず、体が大人になってからは男たちの慰み者にされてきた。そんな生活が、ただ違う土地で、再び繰り返されるだけだと彼女は確信していた。


 奴隷市で買われてから十日ほどで新たな主人の館に到着した。しばらくすると大きな部屋に案内され、長い食卓の一席に座らされた。奥の席には主人が座っている。

 黙って待っていると、侍女達が食事を運んできた。見たことの無い美しい食器に盛られた、豪勢な料理が次々と目の前に並んでいった。

 目を丸くしていると、主人が微笑んで言った。

「世界中で修行を積んだ、うちの自慢のシェフの料理です。どうぞ遠慮せず、ご堪能なさい」

 そう言われて、彼女は豆の入ったスープを、恐る恐る、一口だけゆっくりと飲んでみる。

 喉に通した瞬間、身体が固まった。

 それが彼女にとって生まれて初めての、本物の、美味しい、という感覚だった。

 我に返った彼女は皿を鷲掴みにして貪るようにスープをかきこんだ。空いたスープの皿を乱暴に押しのけて、シチューの皿を手元にぐいと引き寄せてみると、彼女はまた驚愕する。

 ごろんとした大きな肉が、何個も入っていたのだ。

 いままで食べてきたシチューはせいぜい芋などが数個入っているだけだった。けれども今、目の前にあるシチューには肉がごっそりと入っている。シチューに肉を入れるなど、彼女には信じられなかった。目を見開きながら、肉のひと固まりを口に運んで噛んでみる。

 柔らかい。そして濃厚な肉汁が口の中いっぱいに広がっていった。

 涙がとめどなく溢れ出た。嗚咽を交えながら、咳き込みながら、彼女は食卓に並べられた料理を食べ散らかした。「食事のマナーを覚えないといけないですね」と笑う主人の声が耳に入らないほど、彼女は得も言われぬ幸福感で満たされていった。


 彼女の目の前に最後の一皿が運ばれてきた。

 ショートケーキだった。

 彼女は泣き笑った。

 こんなに笑ったのは、生まれて初めてかもしれない。

 明日からどんな生活が待ち受けているかなど、もうどうでもいい。夢にまでみたケーキが食べられる。そこに一生分の幸福が詰まっていると思えたから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ショートショート(習作) 軸音 @jikon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ