第五章 海賊が見た夢

 紫の果実から種を一粒だけ取り、ポケットに入れた。

 それから便利屋と一緒に出口を探した。出口は思っていたより簡単に見つけることができた。

 島の半分ほどは壁に描かれているだけで、そこに隠し扉があった。鍵はかかってなく、ドアをくぐると人工に造り上げられた熱帯の景色を保つための発電機や空調設備などが並んでいた。

 そこからスチール製の階段をのぼると、地上に出ることができた。出口の上には本来、三メートルほどの彫像が乗っかっているらしい。下からボタンを押すことで彫像が横に動き、僕たちが出ると彫像は自動的にまた元の場所に戻った。

「この入り口を見つけるのはまず無理だな。」と便利屋は彫像が動かなくなってから唸った。「こんな重い彫像が動くだなんて普通誰も考えない。」

 洋館の庭を見回すと夜明けが遠くの空を黄金に染めていた。草木は露に濡れ、土と雨の匂いが僕たちを抱擁していた。

 僕は時計塔を見上げた。最初この場所に来た時あの時計塔は禍々しくそびえていた。

 しかし今や時計塔は違う色の光に包まれている。

 海乱鬼洋館はこれから僕の家なのだと実感した。もう怖くも、心細くもない。

 これからはここに帰り、安心できる。そんな親しみの色に時計塔は包まれていた。

 一年後、僕は再びこの場所を去らなければならない。その時が来たら僕は悲しむだろう。三日前は東京への引っ越しが憂鬱で仕方なかったのに。

「アムブロシアーという植物の種、あれは本当に不老不死を与えるのでしょうか?」ふと僕は便利屋に尋ねた。

 彼は答えない。どうとも言えないの意味だと僕は解釈する。

「違うと僕は思います。もしそうだったら、海乱鬼っていう海賊はまだ生きているはずでしょう?」

 僕たちは洋館の玄関ホールから中に入り、時計塔に向かう。もし僕の考えが正しければ、怪物はまだそこにいる。

 螺旋階段に出ると、機械室から男がぶつぶつと悪態をつくのが響いてきた。「ここにあるはずだ。」とか「どこかに入り口が。」とかがぼんやりと聞き取れた。

 機械室には怪物が脱ぎ捨てた甲冑と刀が放り出されていた。怪物のマスクもあった。マスクはハロウィーン用の安物ではなく、細部まで巧妙に作られている。僕が騙されたのも無理もない。

 音を立てないよう慎重に僕たちは歩いた。

 便利屋は刀を取り上げ僕に見せた。無言で僕は受け取り、指を刃に当ててみた。

 刀は偽物で、刃はテーブルナイフより鈍かった。だから怪物が僕に襲いかかった時、刀はベッド・フレームに食い込まなかったのだ。足をフレームに当てて怪物は刀を大げさに抜いていたが、それは演技だった。パニック状態だった上、寝室が薄暗かったため、僕はまんまと騙されてしまったのだ。

 怪物の目的は僕を脅かすことだけであって、僕に危害を加えることではなかった。

 だから怪物は二日目の夜に脅し文句を鏡に残し、それでも僕が出ていかないから次の夜、寝ている僕を襲うふりをするという強硬手段を取った。強硬手段といっても、怪物は寝室に押し入る前にわざと大きな音を立ててドアを開けている。それは僕が目を覚ますためだったのだと思う。そして刀がフレームにぶつかったのも偶然ではなかったのだろう。

「くそっ! くそっ! くそっ! 絶対ここに秘密部屋があるはずだっ!」

 僕たちがさっき逃げ込んだ中央の部屋から必死の叫び声が上がる。どうやら落とし戸はまた閉じてしまったらしい。

 脱ぎ捨てられた甲冑を指先で触ってみた。よくできているが、これも偽物だ。

 原田巡査部長に僕がネグレクトされていると通報したのも怪物――いや、今落とし戸に拳をたたきつけている男だ。おそらく二日目から洋館に潜伏していた彼は、できるだけ穏便な方法で僕を洋館から追い出したかったのだろう。しかし鏡の脅しは効かず、僕は戻ってきた。いもしない幽霊と交渉しようと試みた。だから男は警察に通報して、僕が保護され連れて行かれるのを期待したのだ。

 僕と便利屋は機械室の中央に忍び寄った。四つん這いになって落とし戸をどうにか押し開けようとしている男は僕たちの気配に気づいていなかった。

(――やっぱりこの人だったのか。)

 僕の考えに間違いはなかった。

 怪物の正体は、交番で出会ったおじさんだった。病気の息子を持ち、二ヶ月も音信不通だったため、妻が行方不明者届を出した、あのおじさん。

 なぜ彼が、どんな病も治し不老不死を授ける種を求めているのかは明白だった。

 おじさんは二ヶ月前から洋館にいたのだろう。今までずっと彼は僕のポケットの中にある種を探していた。

 余命数ヶ月と言い渡された息子を救うために。

(アムブロシアーの種は本当にどんな病も治すのだろうか?)もう一度思案する。しかし僕がたどり着く答えはいくら考え直しても同じだった。(いや、そんな薬が存在するはずがない。伝説はあくまで伝説なのだ。)

 僕はおじさんが探し求めたものを持っていて、同時に持っていなかった。

 だからためらった。

 おじさんに幻の種を渡すのは簡単でも、おじさんは遅かれ早かれ幻は幻だと知ってしまう。

 しかし僕がためらうことで状況がよくなるわけでもなかった。

 コホン、と咳払いをした。するとおじさんは稲妻に打たれたように飛び上がって僕の方を向く。僕を見るなりおじさんの目が見開かれた。

「――お、お、おねがいだ。き、君は財宝室を見つけたんだろう? そ、そこにた、種のようなものはなかったか? あっただろう? あ、あるはずなんだ。」

 おじさんは僕の両肩を痛いほどに掴んでいた。

「そ、その種をくれたら――ほ、ほんの一粒だけでいいんだ――なんでもやる。おねがいだ。き、君が私を信用していないのは、わ、わかる。だ、だけどおねがいだ。種はあったのだろう? わ、私は海乱鬼洋館のことをく、詳しく調べた。」

 おじさんは僕を激しく揺さぶった。僕はそれに抵抗しなかった。

「し、調べたといっても、き、君とは関係ない。わ、私は時代劇の衣装を作っているんだ。だ、だから取材を通して海乱鬼洋館のことを知った。だ、だから君に危害を加えるために調べたんじゃない。た、ただあの種が欲しくて――。お、おねがいだ。」

 僕は力なく手をポケットに入れ、アムブロシアーの種を取り出した。

「早く息子さんのところに行ってやってください。」とだけ言うのが精一杯だった。


 高橋たかはしおさむと名乗ったおじさんは機械室を飛び出し、タクシーを携帯で呼びながら螺旋階段を駆け下りた。

 僕と便利屋は高橋さんの後を正面門まで追った。タクシーを待っている間、高橋さんは僕たちに感謝するのと、襲ったことを謝るのを交互に繰り返していた。

 高橋さんと一緒に病院に行く、と便利屋は僕に伝えた。

 僕にはお見舞いする元気はなく、後日行く、と答えた。

 タクシーが到着すると高橋さんはぎゅっと僕の手を握り、頭を深々と下げた。

「この恩は忘れません。」

 涙目でそう感謝されるとさらに気が沈んだ。

 しかし、高橋さんと便利屋がタクシーに乗り込もうとした時奇妙なことが起こった。

 便利屋が――僕からしてみればかなりわざとらしく――高橋さんに肩をぶつけたのだ。同時にタクシーの座席に乗り込もうとしたための間違い――そう便利屋は装い、高橋さんもそう受け止めたのだと思う。

 だけど僕は見逃さなかった。

 便利屋は肩を高橋さんにぶつけた瞬間、高橋さんが大切そうに背広の内側のポケットにしまい込んだアムブロシアーの種を引き抜き、代わりに見た目だけは似ている他の種を入れたのだ。

 なぜ便利屋がそんなことをしたのかはわからなかった。だけど僕だけが一瞬のスリ行為を目撃したのは便利屋の思惑だと悟った。彼は僕に気づいてほしかったのだ。まだ全て解決していない、だから一緒に来い、と。

 やっぱり高橋さんの息子さんをお見舞いしたい、と言い、僕もタクシーに乗り込んだ。

 病院に着くなり高橋さんはタクシーを飛び出し、正面玄関に向かって走っていった。便利屋は花屋さんに寄ると言うので、僕は一人で高橋さんの後に続いた。

 高橋匠たくみと名札が下がった病室に入ると僕と同い年ぐらいの、青ざめて、やつれた男の子が横たわっていた。人工呼吸器の音と消毒液の臭いが病室に充満していた。

 僕よりさきに着いた高橋さんは匠くんを抱きしめていた。

「お、と、う、さ、ん。」と匠くんは呼吸器のマスクの下から呟いた。

「もう大丈夫だ。」

 高橋さんは匠くんの頭を撫でて、偽の種を彼の口に押し込んだ。

「大丈夫だ。」と高橋さんは繰り返す。

 匠くんは焦点が合っていない目で父親を見上げ、小さくうなずいてから口に含んだ種を飲み込んだ。

 なにかが起こる――なにかが起こってほしい。僕はそう願った。

 しかしなにも起こらなかった。

 父親は息子を潤った目で見つめたまま佇み、息子は苦しそうに息をしていた。

 便利屋が種をすり替えたため奇跡は起こらなかった、もし匠くんが真のアムブロシアーを食べていたら――。

 だけど現実は違うとわかっていた。

 たとえ便利屋が高橋さんからアムブロシアーの種を盗んでいなくても結果は同じ。

「……き、きっと効果が出るまで時間がかかるんだ。」と高橋さんは言った。誰よりも自分を納得させようとして呟いた独り言のように聞こえた。

 病室の空気が重すぎた。僕はできるだけ速く自己紹介と形式的なお見舞いの言葉を口にして、病室を出た。

 廊下のベンチに座り、便利屋を待った。

 しばらくすると病室から高橋さんがすすり泣く声が響いてきた。

 高橋さんがどうやって海乱鬼洋館の伝説を知ったのかはわからない。たぶん僕が読んだ絵本ではないだろう。きっともっと信憑性が高い出典だったはず。

 どのみちどんな病を治す薬なんてありえない。

 しかし高橋さんはその幻の種の存在を信じ込んでいた。それだけ高橋さんは絶望していた。

 やるせない、と僕は立ち上がった。でも、ここは便利屋がお見舞いしてから一緒に挨拶して帰るのが道義だと思い、再び座り込んだ。

 便利屋は高橋さんが泣きやんでから現れた。彼は片手に花束を手にしていた。その花びらは黒く、とてもお見舞いに適しているとは思えなかった。それによく見ると、花は偽物のプラスチック製だった。

「やあ、中はどう?」

 無神経な質問であると僕は感じたが、怒りさえ湧いてこなかった。僕はプラスチックの花束を見つめながら首を横に振った。

「そうか。じゃあちょっとお見舞いしてくる。」

 便利屋は病室にノックしてから入り、高橋さんの知り合いだと匠くんに言った。

 挨拶しておくべきだ、と思い出し、便利屋に続いて病室に足を踏み入れた。

 高橋さんは便利屋が差し出した黒い偽の花束を見て、怪訝そうな顔をしたが、なにも言わずに受け取った。僕と同じく怒る元気もないのだろう。

「実はね、匠くん。」

 便利屋は横たわる少年に顔を近づけ囁いた。

「この花束にはおまじないがかかっているんだ。」

(こいつ、手品をやるつもりだ。)と僕は驚愕した。

 空気読めないのレベルじゃない。ここで手品を披露するなんて社交能力が凄まじく欠如している。

 便利屋のタンクトップを掴み、やめさせようとした。

 だけど同時に匠くんが便利屋に輝きを失った瞳を向けた。

「……ど、ん、な……?」

「ふふふ、とっておきのおまじないさ。」

 僕がいくら服を引っ張っても便利屋はやめようとしない。

「この花束が枯れる時、君の病気は完治する。だからこの花束をよく見守っているんだよ。」

 一瞬、僕と高橋さんは凍りついた。

「――きさまっ。」

 高橋さんが便利屋の胸ぐらを掴んでいた。

「造花が枯れた時に息子の病気が完治するだと?」

 真っ赤になった高橋さんは便利屋を殴った。便利屋は後ろに吹っ飛び、床に仰向けに倒れた。

 高橋さんは倒れた便利屋に馬乗りになった。

 僕は止めに入らなかった。便利屋の自業自得だと思った。

「造花が枯れるわけないっ。」

 高橋さんは拳を振り上げた。

 切れた唇から血を垂らす便利屋はへらへらと笑っていた。

 そして――。

「おとうさん。」匠くんの声がした。「見て。」

 テーブルに立てかけられた黒い花束を匠くんは指さしていた。

 僕と高橋さんは目を見開いた。あるはずのないことが目の前で起こっていた。

 プラスチック製の花は枯れていた。さっきまで黒い艶を帯びていた花びらは色あせ萎縮し、茎は今や冬に備える枝のように干上がっていた。

 開いた窓から夏風が吹き込んだ。

 刹那、造花はチリとなって崩れ落ちた。

「そんな……ありえない……。」

 高橋さんは造花が置かれてあったテーブルに駆け寄った。だが花束の残骸は風に吹き飛ばされ、跡形もなく消え去った。

「あれ、お父さん。息が苦しくなくなった……。さっき僕にくれた種はなんだったの?」

 上半身を起こし、呼吸器を外した匠くんが言った。よく通る爽やかな声だった。


 ――魔法使いは種明かししないんだよ。

 いくら訊いても便利屋はそうとしか答えないような気がした。

 だから訊かなかった。どうやったのかも考えなかった。

 ただ、便利屋と一緒に海乱鬼洋館に戻る帰り道、他の質問がいくつかあったので、それは尋ねた。

「ねえ、一から考えてみるとさ、いまだにわからないことがあるんだよね。」

「というと?」

 便利屋は病院からもらったクールパッドを頬に押しつけていた。

「最初、便利屋さんは幽霊の噂のことを話したよね。それで時計塔が真夜中に鳴るっていうのはたぶん財宝の隠し場所を探していた高橋さんの仕業。シャベルを持った亡霊っていうのも高橋さん。」

「そうだと俺も思うよ。」と便利屋は肯定する。

「だけど青白く光る女の子の霊とか、お茶碗が洗われていたこととか、僕の夢が夢じゃなかったようなこととか。」

 僕たちは海乱鬼洋館の前まで来ていた。

「まだわからないことがたくさんあるんだけど。」

「じゃあ最後になぞなぞだ。」と便利屋は言う。「どうして海乱鬼洋館を作った海賊はアムブロシアーを見つけた時そのまま食べずに持ち帰ったのでしょうか?」

「えっ?」僕は首をかしげる。

「不老不死をもたらすという種を見つけたんだ。普通その場で食べないか?」

「……実は毒性があるのかもって思ったのかもしれない。」

「海賊の船長なんだから毒味をする部下はいくらでもいたと思うよ。しかも不老不死を与えるかもしれないんだ。自ら進んで毒味をすると名乗り出る人は一人や二人ぐらいはいたはず。」

「じゃあ――。」僕は口ごもった。

「考えてみてごらん。といっても、もう時間切れか。」

 なにが時間切れなのかわからず僕は便利屋と一緒に洋館に入る。玄関ホールをぐるりと見回し、僕は安堵の吐息をついた。ここに帰ってくるだけで少し心が落ち着く。

 コツコツと二階の廊下から足音がした。えっ、と僕は目を見張った。

「グラーフ・フォン・アウグスト・玲音。」

 誰かが僕のフルネームを言った。命令口調で、低い女の子の声だった。

「最高のラザニアを作るという言葉に二言はないな。」

 二階の廊下から三角帽子をかぶった女の子が現れた。革製のジャケットを翻し、揺るぎない足取りで彼女は階段を降りてきた。

 黒いボーイッシュな髪と凛々しそうな瞳。眉は濃く、唇は薄い。それになぜか映画に出てくるような海賊衣装に身を包んでいる。

「私は海乱鬼琥珀こはく。よろしくな。」

 琥珀と名乗った女の子は右手を差し出すが、僕は仰天して尻もちをついていた。

(ど、どういうことだ……?)

「なに驚いている?」

 琥珀は不思議そうに僕の顔を覗き込む。彼女の顔に見覚えがあった。そう、夢の中で水面に映っていた顔だ。

「始めまして、海乱鬼さん。俺、便利屋です。仕事ならなんでも引き受けます。」と便利屋が営業スマイルで琥珀に名刺を押しつけている。

「は、はあ? べ、便利屋さん、彼女のことを知っていた?」

 なにもかも理解できなくて僕は琥珀と便利屋を交互に見た。

「んー、知っていたというよりは彼女がここに住んでいてもおかしくないな、と思っていただけ。」

「な、なぜ?」

「女の子の幽霊を目撃した人って実は俺なんだ。」便利屋は言いにくそうに答えた。

「ゆ、幽霊?」

 すると琥珀が「幽霊ではない。」とピシャリと言った。「アムブロシアーを食べると病は治っても、体の成長が止まってしまうのだ。ゆえに不老不死の力を授けると言われている。またアムブロシアーを食べ続けなければ体が少しずつ不確かなものになり、透明になっていき、いずれ消滅する。」

「えっ? 透明?」

「ああ。」と琥珀は面倒くさそうに言う。「一週間に一度食べれば充分だ。しかしそうしないと私の体は物理的な世界から離れていってしまう。そうなると物体は私の手からすり抜けてしまうし、体も青白く透けて見えるようになるのだ。」

「そんな馬鹿な。」

「……百年以上もこうして生きてきた私が言っているんだ。嘘はない。それに玲音、少しの間私はおまえに取り憑いていたのだぞ。」

「取り憑くって……やっぱ幽霊じゃん。」と便利屋がはやす。

 僕は大きく息を吸い込んだ。「……あの夢のこと……。」

「そうだ。」と琥珀はうなずく。「しかしよくやってくれた、二人とも。アムブロシアーは結局あの男の手に渡らなかったのだな?」

「ここに持ってます、船長。」

 なぜか便利屋はハイテンション。さっき高橋さんから盗んだアムブロシアーを琥珀に渡した。

「うむ。あの男には気の毒だが、私のようになるのは必ずしもいい運命ではない。玲音、便利屋、おまえたちにこの件を託して正解だったぞ。」

「ちょっと待って。」なんとか僕は立ち上がることができた。「お茶碗を洗ったのは琥珀だったの?」

「ああ。これから後片付けを怠けたらつまみ出すから覚悟しろ。」

「時計塔で僕たちを落とし戸に誘導したのも?」

 琥珀はうなずいた。「そうだ。さっきアムブロシアーを食べたから今は透けてみえなくても、あの時は壁もすり抜けられるほど透明だったからな。」

「でもちょっと待ってよ。アムブロシアーを見つけた海乱鬼っていう海賊、もっと年上の男の人だと思っていた。」

 琥珀は僕を見返した。その瞳の奥底にはどことなく寂しいような、悲しような光があった。

「アムブロシアーを見つけたのは私の父だ。」彼女はため息を吐き出し、天を見上げた。「必死になってアムブロシアーを探していたあの男のことがわからないわけではない。父も同じだったからな。」

 そこでやっと僕は便利屋が出したなぞなぞの答えを悟った。

 海賊が夢に見た財宝。東の黄金、西の翡翠、南の象牙、北の宝石より望み求めた財宝。世界の果てまで探しに行く価値のある財宝。

「私は生まれながら体が弱い。子供のころは寝たきりで、医者たちは私が十六になる前に死ぬだろうと言っていた。」くいっと唇を左右に広げ、琥珀は窮屈そうな微笑を浮かべる。「その予言は間違っていなかった。父がアムブロシアーを持ってこの屋敷に戻ってきた時私は死にかけていた。」

 話し終えた琥珀はもう一度僕に右手を差し出した。さっき僕は驚いて尻もちをついてしまったので、握手できなかった右手だ。

「グラーフ・フォン・アウグスト・玲音、これから私たちは同居人だ。よろしくな。」

 僕は琥珀の右手を握る。感触は普通の人間の手と変わらなかった。アムブロシアーを食べなければ僕の手を突き抜けてしまうのだろうか?

「最高のラザニアを作ってあげますよ。」と僕は琥珀に約束した。

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