第四幕 偽の太陽、再び

「……もしもし、便利屋です。」

「こんばんは、こんなに遅い時間に電話をかけてすみません。僕は、あの、フォン・アウグスト・玲音っていうんですけど――。」

「あっ、毎日俺の手品を見に来てくれる、洋館に住んでいる子ね」

「そうです。」

「なにかあった?」

「そのことなんですけど、便利屋さんは前言ってましたよね。どんな仕事も引き受けるから便利屋と呼ばれているって。」

「うん、そうだけど。」

「よかったです。実は僕がかけた理由はですね、便利屋さんを雇いたいからです。時給ではなくて、成功報酬なんですか、大丈夫ですか?」

「しっかり者だね、君は。ものにもよるけど、成功報酬でもいいよ。」

「よかった。成功した場合にはちゃんと相応の額を支払いますから。」

「ははは、初めてだよ、中学生の子に成功報酬にしてくれって頼まれたの。で、仕事ってなに? 夏休みの宿題?」

「いえ。」僕は息を吸い込み間を取った。「幽霊退治です。」


 ペガサスに乗った便利屋が公園に到着したのは電話をかけてから三十分ほど後の午前二時半ごろだった。彼はまたタンクトップとジーンズ姿。がっしりとした体格が薄暗くても強調されている。

「やあ、玲音くん。」と彼は僕を見て言った。

「こんばんは。こんな遅い時間にわざわざすいません。」

「いいんだよ、そんなことは。どうせ起きていたからね。昼間は仕事で忙しいから、夜中の間に新しい魔術の研究をしているんだ。」

 便利屋はそう言って茶化すが、僕は突然電話番号が現れた名刺のことを思い出した。

「ところで便利屋さんが僕に渡した名刺、あれはきっと汗に反応する化学薬品ですよね。」

 前は便利屋さんと呼ぶのは失礼かな、と思っていたのだが、彼が電話でも便利屋と名乗っているから、そう呼ぶことにした。

「というと?」便利屋は訊き返す。

 僕は慎重に自分が考えたトリックのタネを説明する。「便利屋さんの電話番号は普通は透明な薬品で印刷されていた。しかし、その薬品は人の汗に触れると黒く変色する。そういう仕掛けなのではないですか?」

「……ノーコメント。」と便利屋は微笑を浮かべた。「なんども言ってるけど、手品師はタネを明かしちゃいけないんだ。」

 それより、と便利屋は話題を変える。「どうして俺を雇いたいのか詳しく説明してくれるかな? 電話で聞いたことと、今の君の疲れ果てた様子から察して、海乱鬼洋館が呪われているって噂、あれは本当だった。そうだね?」

 僕はうなずいた。「幽霊を見たんです――いや、それだけじゃなくて、ついさっき、僕は幽霊に殺されそうになった。」

「初めから説明してくれるかな?」

 それから僕は便利屋にできるだけ詳しく洋館で起こったことを話した。最初の夜に見た夢のことも、お茶碗のことも、鍵がかかった時計塔のエレベーターのことまで。

 便利屋はずっと黙って聞いていた。そして僕が話し終えると、彼の真剣な顔は少しゆるんだ。

「玲音くんって――なんて言えばいいだろう? 名門の子息であるとわかるような性格をしてるっていうか、プライドが高すぎるっていうか。うーん、どれも合わないな。」

 指を顎に当てて便利屋は考え込み、やがて「ああ、わかった。」と声を上げる。

「すごい負けず嫌いなんだね、君は。」

 そう言われて僕は赤くなった。自分が負けず嫌いだと思ったことはなかった。

 たとえば母とたまにチェスをしても、チェックメイトされるまで無駄にゲームを引き伸ばさない。負けたとわかったらいさぎよく投了する。そんな僕が負けず嫌いだなんて――。

「あっ、気を悪くさせちゃった? でもさ、血で書かれた『出ていけ』って脅し文句の後、幽霊と交渉しようなんて思いつく人はそうそういないよ。それに君は幽霊に殺されそうになったのに、オカルトに通じているかどうかわからない人を幽霊退治に雇おうとしている。ほら、すごい負けず嫌いじゃん。」

 歯ぎしりして僕は訊く。「で、便利屋さんはオカルトに通じているんですか? 幽霊を退治することはできますか?」

「うーん、たぶん無理かな? 幽霊に出会ったことないから。」

 僕は天を仰いだ。(負けず嫌いだとズケズケ言ってながらできないだとお?)

「だけど大丈夫さ。君が見たのは幽霊なんかじゃない。」と便利屋は断言した。

 えっ? と僕は首をひねった。

「なぜわかるかって? 簡単だよ。君はさ、密室状態だった寝室に入ってきて脅し文句を残していったから幽霊かもしれない、と思い始めたんだろ?」

「ええ。それと、泥棒とかだったらそんなことはしないはずだから。」

「でもさ、君はさっき幽霊とやらが部屋に入ってくるのを目撃している。幽霊はドアを開けて入ってきたんだろ? ドアをすり抜けてではなく。」

(――あっ、そういえば。)

「だから一番可能性が高いのは幽霊じゃなくて、洋館の合鍵を持った人間じゃないかな?」

「――で、でも顔は生きた人間のように見えませんでした。」と僕は反論した。

「そんなことはメイクかもしれないし、うまく作られたマスクかもしれない。」

 便利屋の推理を聞いて、僕は唸らずにはいられなかった。言われてみると、幽霊がバリケードされていたドアを押し開けて入ってきたのは確かに変だ。

「でもどうしてそんなことをするんです? 甲冑まで身につけて。」

「さあそこまでは、俺も。」

 考え込んだ。便利屋の推理で全てがひっくり返ったような気がした。もし幽霊ではなく生身の人間なら追い払う術はいくらでもある。そもそも住居侵入罪だし。

 だけど同時に生身の人間の方がある意味怖い。僕を刀で襲ったのだから、かなりやばい人だ。

 僕は顔を上げた。

「幽霊退治のオファー受け入れてくれますか? 幽霊ではなく、生身の人間だったとしても、とにかく僕がまた洋館で安心して寝れることができたらいいんです。」

「報酬は?」

 よしっ、と僕は心の中でガッツポーズする。つまり金さえ払えば便利屋はやってくれるのだ。

 父は僕に百万円ほどを送ってくれると約束した。それだけあればなんとかなるだろう。

「五十万。」と僕は言った。

 ちょっと多めだとは思ったが、最初っから高い額を口にすることで便利屋を圧倒したかった。

「いいよ。」と便利屋はすんなり受け入れる。「でも成功報酬はダメだ。こういうのは前払いでしかやらないっていうのが俺の主義なんだ。」

「……六十万。成功報酬で。」

「ダメだ。」とかたくなに便利屋は首を横に振る。

 思いがけず壁にぶつかり、犬歯を舐め回した。危険が伴うとはいえ、六十万は大金だ。それなのに前払いと頑固にこだわるとは。

「お金ならちゃんとあります。保証が必要なら契約書にもサインします。成功報酬のどこが悪いんですか?」

「主義だからね。」と便利屋は表情一つ変えずに答えた。

「……父は僕に百万円を送ってくれると言いました。」自分の経済状態を他人に話すのは嫌いでも仕方ないと判断した。「だけどそのお金はまだ届いていない。僕はあの洋館以外に住む場所がないんです。だからどうか成功報酬でお願いします。」

「そうか。じゃあ今何円持ってる?」

「えっ? 今ですか?」

 財布に残ったお金は見ないでも承知していた。

「百二十五円。」

「じゃあ百円で引き受けるよ。」

 便利屋は優しく微笑んだ。


 残高二十五円の僕と、百円の対価で幽霊退治を引き受けた便利屋は、海乱鬼洋館の前に立っていた。

 武者震いして便利屋を見上げる。

「……武器はもってきていないんですか?」

「ん? いや、物騒なものは嫌いなんだ。」

 緊張しているのは僕だけのようだ。

 便利屋はためらわずに洋館の敷地に入り、振り返る。「玲音くんは別についてこなくてもいいんだよ。さっきも言ったけど、俺のアパート近いから、そこで待っていても――。」

「いえ、大丈夫です。」僕は便利屋を遮り、彼に続いた。

「中学生のくせに無鉄砲だなあ。」と便利屋は呆れる。

「自分こそ。」

「それもそうか。」

 洋館の玄関に鍵はかかっていなかった。僕が逃げ出した時、施錠しなかったので、それは当たり前といえば当たり前なのだけれど、僕は幽霊説が少しだけ有力になったような気がした。もし合鍵を持った生身の人間だったとしたら、僕が逃げ出した後、玄関に鍵をかけるのではないだろうか?

「じゃあまず君の寝室を見せてくれる? 血に塗られた鏡も。」玄関ホールで便利屋は言った。

 うなずき、便利屋を上階の寝室に案内した。

 便利屋は僕の寝室に入る前、膝を追ってドアの鍵穴を調べていた。ルーペは使わず肉眼で鍵穴を覗き込んでいる便利屋の姿は、映画とかに出てくる探偵とはほど遠く、アマチュア臭くて頼りない。

 しかし鍵穴を調べ終え、立ち上がった便利屋は迷いなく「合鍵だね。ピッキングされた形跡はない。」と言い切った。

「どうしてわかるんですか?」

「俺がピッキングの名人だからさ。これくらいの錠前を数秒でピッキングできなければもう何度も溺れ死んでいたよ。」

(水中脱出マジックのことか。)と僕は納得する。

 それから便利屋はウォーキング・クローゼットにしまっておいた全身鏡を点検した。『出ていけ』と血で書かれたあの鏡だ。

「うん、血だね。」と彼は今度はすぐに結論を言った。「しかも人の血だ。でも多い量じゃない。マグカップ一つ分かな?」

「筆跡からなにかわかりますか?」

「うーん、筆で書かれたようではないようだね。たぶん指で書いたんだと思う。でも面白いことにどこにも指紋らしき跡はない。これ、君はどう思う?」

 さあ、と僕は肩をすくめる。「もしかして幽霊には指紋がないとか?」

「玲音くんはまだ幽霊説にしがみついているね。俺は手袋をはめて書いたんだと思う。幽霊ならそんなことはしないだろ?」

 次に便利屋はベッドのフレームに向かう。

「刀が切り込んだ場所を見たら君の寝室は終了。その後は時計塔に上がってみよう。」

「厨房は見ないんですか? ほら、お茶碗が洗われていたから……。」

「ああ、そのことか。」と便利屋は思い出したように言った。「いや、それは見なくてもいいよ。この事件とは直接関係ないし、綺麗にしまわれたお茶碗の列を調べても仕方がない。」

 なぜそう断定的に言えるのかわからず僕は口をへの字に曲げた。

「そう怒るなよ。玲音くんを襲った人がお茶碗を洗うわけないとだけ言っているんだ。――って、あれ?」

 ベッド・フレームの横に立った便利屋は突然黙り込んだ。

「どうしたんです?」

 僕の方を向いた便利屋は眉をひそめていた。

「フレーム、どこも傷ついていないよ。君は確かに刀が食い込んだのを見たんだよね?」

「――そ、そんなはずは……。」

 ベッドの横に駆け寄った。刀が振り下ろされた瞬間は脳裏に焼きついている。見間違えたはずなんてない。

 しかしベッド・フレームには便利屋が言うとおり、刃物が残したような凹凸は見当たらなかった。

「た、確かに見たんです! 怪物は足をフレームに当ててまで刀を抜いていました。嘘じゃない。」

「だけどその跡がないのも事実だ。」と便利屋の返事は冷淡としている。

「本当です。嘘じゃない。」僕は繰り返した。

「まあいいよ。鏡に血が塗られているのは確かだからね。次は時計塔だ。」

 部屋を出ていく便利屋の後ろ姿を見つめた。僕が話したことを彼はどこまで信じているのか判断しかねた。しかしベッド・フレームに刀の痕跡が残っていないのは、僕の信憑性に傷をつけたはずだ。

 僕は歯をくいしばった。

 一連の事件の真相について、幽霊でも、生身の侵入者でもない、別のストーリーができあがってしまっているように思えて、気がきではなかった。もしかしたら便利屋は今、僕が話した出来事は僕の妄想が作り出した幻覚だと思っているのかもしれない。あるいは両親に見捨てられて寂しくなった中学生がでっち上げた幽霊事件。

 第三者にとって物的証拠が少ないことに僕は今更気づいた。

 お茶碗、夢、怪物。それ全ては僕の証言にすぎない。特に夢のことは関係ないので黙っておくべきだった。

 唯一物理的な証拠といえば、それは鏡に残された脅し文句。でも、第三者の視点から考えれば、僕が自分でやったという可能性もありうるのだ。

「……嘘じゃない。」と僕は独り言を呟き便利屋の後を追った。

 僕たちは狭い螺旋階段をのぼり、時計塔の機械室に入る。ここで事件は発生していない。強いて奇妙なことがあるとしたら、僕に与えられた鍵ではエレベーターのドアを開けられないということぐらい。

「君はエレベーターって言ってたけど、本当にそうなのかなあ?」便利屋は中央のシャフトを一周しながら言う。「だってさ、エレベーターを呼ぶ操作盤さえないじゃん。君の話しではここ以外にはエレベーターのドアもないし。エレベーターだとしたらどこに繋がっている?」

 僕は機械室の済に設けられた操作盤を指さした。「もしかしたらそこでエレベーターを呼ぶのかもしれません。」

 便利屋は操作盤の前に立ち、納得がいかないように首を振った。

「これはきっと時計を操作するためだよ。それに面倒じゃないか。エレベーターを呼ぶのに一々ここに行かなきゃならないだなんて。」

「じゃあ鍵がかかっているドアの後ろにあるのはなんだと思うんですか? まさか箒を置いておくための部屋じゃないでしょう?」

 挑発的に僕が言うと、便利屋は僕の方を向いてニッと笑った。

「確かめてみよう。」

 便利屋はポケットからヘアピンを取り出し、つかつかと開かずの扉の前に行く。

 ――これくらいの錠前を数秒でピッキングできなければもう何度も溺れ死んでいたよ。

 その言葉に嘘はなかった。便利屋がヘアピンを錠に差し入れてからほんの数秒の内にカチャリと音がしてドアは開いた。

「さてなにが隠されているんだろう? 玲音くん、君の家なんだから君が最初に見るべきだ。」

 便利屋にうながされてドアノブを握る。

(エレベーターじゃなかったら、なにがあるんだろう? まさか海乱鬼という海賊が隠した秘宝? いや、こんなところに隠されていたらもうとっくに誰かが見つけていたはず。)

 ちょっとドキドキしてドアを開け放つ。

 その後ろにあったのは――。

「あれ? なんにもない。」と僕は呟いた。

 鍵がかかったドアが守っていたのはエレベーターでも秘宝でもなく、ただの狭い、なんにも収納されていない物置部屋だった。

「……ちっ。」便利屋が大げさに舌打ちした。「どうやら君の箒を置いておくための部屋っていうやつが的中したみたいだね。」

「少し期待し始めて損しました。」

 はあ、と僕たち二人は同時に吐息をついた。

「で、後はどうするんですか? やっぱり厨房を見てみますか?」

「上から順に全ての部屋を一回チェックしてみるよ。玲音くんを襲った人はおそらくこの屋敷に潜入しているからね。」

 無言で僕たちは機械室を出て階段を下りる。二人並べるほどの幅はないので便利屋が前を行き、僕がその後に続く。

「よく外から見ているからわかってはいたけど、海乱鬼洋館って本当に広いな。いくつかの部屋しか回っていないのに結構歩いたような気分。」便利屋はふと思い出したように言った。

「僕もこの広さには少し困っています。廊下も多くて迷路のようですし。」

「うん、わかるわかる。やっぱり君は洋館の一部しか使っていないんだろう?」

「今のところは厨房、寝室と図書室だけです。」

「じゃあ俺もここに引っ越そうかな。幽霊が本当にいたらそれはそれで面白いし。」

「……家賃払えばどうぞ。」

「ははは、中学生のくせに――。」

 先を行く便利屋が突然立ち止まったのはその時だった。

 あまりにもいきなりだったので、僕は彼の背中にぶつかりそうになる。

 便利屋は真っ直ぐ前を見たまま片手で僕の胸ぐらを掴んだ。

「――えっ?」

「上階に逃げるんだ。今すぐに。」便利屋は囁く。そして急げと言わんばかりに僕の胸を押した。

(な、なにが起こったんだ?)と僕は背伸びをして便利屋の前にはばかる光景を見ようとした。

「なにをやっているっ? 早く行けっ!」

 便利屋に怒鳴りつけられても自分の目で確かめられずにはいられなかった。

 そして――。

 僕は間違っていなかった。怪物は僕の幻覚などではなかった。

 漆黒の甲冑で身を覆い、鋭く光る刀を抜いた怪物が便利屋の前に立ちはだかっていた。

「早く行くんだっ!」

 便利屋は手の甲で僕の頬をたたく。それが合図だったかのように僕は振り向き階段を走り上がった。

 背後で怪物が吠えた。そして刀が空を切り、なにかにぶつかる鈍い音が続く。

 一瞬立ち止まった。まさか便利屋は――。

 タンクトップの青年が切られて倒れる光景が目に浮かぶ。

「なにやってるんだっ!」

 背中を便利屋に押される。肩越しから後ろを見ると、空振りした怪物が体制を立て直している。

「立ち止まるなっ! 急げっ!」

 言われるがままに階段を駆け上がった。便利屋と一緒に機械室に飛び込み、ドアを閉めた。それに続いて怪物がドアに体当たりする音が響く。便利屋はすぐさま立ち上がり、ドアを押さえつけた。再び怪物はドアに肩をたたきつける。

「こ、これからどうするんです?」

 相手は刀を持っている。ドアがこじ開けられるまでは時間の問題。この機械室には螺旋階段以外の出口はない。

「知るかっ。」と便利屋は叫ぶ。「なにか武器になるもの――。」

 僕はあたりを見回した。機械室なのだから鉄棒のような物があってもいいはず。しかしここにあるのは済に積み上げられた木箱ぐらいで、刀に太刀打ちできるようなものは見当たらない。

「――こっちだ。」

 かすかな声がした。便利屋の声より高く、僕の声より落ち着いた、誰かの声。

 便利屋は僕を見返した。彼も同じ声を聞いたのだと悟った。

「早くしろ。」

 考えている暇はなかった。声は中央の、エレベーターだと思い込んでいた部屋からした。

 僕たちは同時に中央のドアに駆け寄った。

 瞬間、怪物がドアを破って機械室に足を踏み入れる。

 それと同時に僕と便利屋は、中央の部屋に転げ込んでいた。


 落下する感触を全身で覚える。暗闇の中で僕は悲鳴を上げていた。

 次の瞬間、僕たちは暖かい水に飲み込まれる。方向感覚をなくし、僕はがむしゃらに手足を動かした。すると突然僕は水面を突き破り、息をしていた。

(――ここは……?)

 ギラつく太陽、水色の海と白く焼けた砂浜。デジャヴだと一瞬思い、すぐにそうではないと気づく。

 この光景は僕の記憶の中にある。夢に見た、カリブ海の景色だ。

 しかし夢の中で見たより太陽の光は暗く、潮風の匂いは鈍く、あたり全体の色彩があせていた。

「玲音、ここは?」と隣で立泳ぎをしている便利屋も驚いている。

 肩を揺さぶられても反応できなかった。目を見開いたまま突然放り込まれた状況に圧倒されていた。

「……一先ず生き延びたんだ。あの島まで泳ぐぞ。」

 近くには夢で見た時と同じように小さな島が浮かんでいた。便利屋はクロールで泳ぎだした。だが僕は、体に重石をつけられたように頭を水の上に出しておくのがやっとだった。

(どうしても確かめなければならないことがある。)

 おそるおそる下を向いた。自分の顔を確認したかった。夢の中では僕とは似つかぬ顔が水面に反射された――。

 波のせいで水に映る顔はうごめいている。見極めるのが難しい。

 だけど間違いなく自分の顔だ。

「おい、なにやってるっ?」ほとんど波打ち際まで泳いだ便利屋が叫ぶ。

 胸を撫で下ろして、僕は便利屋の後を追った。

 砂浜にたどり着いた僕たちは仰向けに倒れたまま動けずにいた。

 怪物に襲われ、時計塔の機械室に逃げ込んだかと思うと、この果てしない海にポツリと浮かぶ島に漂流していた。

 なにもかもが信じられなくて、身体だけではなく、思考まで麻痺しているようだった。

 時計塔に上がった時は間違いなく夜中だった。それなのにここでは太陽が中天まで上がっている。

 そこでやっと海乱鬼洋館のからくりに気づいた。

「人工だ。」便利屋が呟いた。「俺たちは南の島にいるんじゃない。これは全部人工だ。」

 便利屋は僕と同じことを察していた。しかし信じられなくて、僕は砂を手のひらに掴み、海の風を鼻から吸い込み、太陽を見上げた。

 なにもかも作り物だ。

 砂は焼けるように熱くはなく、風は機械で循環され、太陽はドーム状の天井に取り付けられた巨大な電球だった。よく見ると、空は空ではなく、青く塗られた壁にすぎない。海も地平線まで広がっているようでも、実はそのずっと手前で終わっているプールだ。

 この景色が人工だと認識しても、その規模がまた信じられなかった。

 海だと思っていたプールは地平線に届くほど広くはないが、数百メートルの幅を持っている。僕たちが寝っ転がった島だって小さくはない。奥に建つ小屋まで二、三分は歩くだろう。

 しかも、カリブ海が再現されているドーム状の空間は地下にある。

「誰がこんな場所を作ったんだろう? とにかく大金持ちだったのは間違いないね。」

 便利屋は砂浜にあぐらをかいた。

「……機械室の部屋に飛び込んだ時、一瞬落ちるような気がしましたけど、あれって、僕がエレベーターだと思っていたドアとこの場所が繋がっているっていうことですよね?」

「そうだと思う。君が言ったエレベーターっていうのは間違ってなかった。時計塔の中央は空洞で、中央の部屋の床は落とし戸みたいな仕掛けになっている。」

「すごく手が込んでいますね。」

「ああ、俺も信じられない。」

 これからどこに行けばまた外に出られるのかはわからなかったが、向かうべき場所は一目瞭然であるようで、僕と便利屋は目で合図するだけで島の奥の小屋に向かって歩き出した。

 小屋はごく簡単な作りだった。屋根は束ねた藁を乗せただけのようだし、窓はガラスではなく、布が下がっているだけだ。

 屋内も素朴で、一人の漂流者がやっと生活できるようなキッチンとベッド、それに済に小さな植木鉢を置いた机があった。棚には綺麗な食器が並び、ベッドの横には本が積み上げられている。ついさっきまでここに誰かがいたのではないか、と僕は思った。

「これを見てみろ。」

 机の前に立った便利屋に呼ばれた。彼は植木鉢を指差す。見たことのない紫色の果実を実らせた植物が植えられている。

「それにこれ。」

 植木鉢の隣に一枚のページがあった。下手な挿絵とつたない文章。僕が図書室で見つけた海乱鬼伝説の最後のページだとすぐにわかった。


『アムブロシアー。その植物の種はどんな病も治し、不老不死を授けると言われています。海乱鬼は夢に見た、その幻の植物を世界の果てで見つけることができました。アムブロシアーの種を持てるだけ持って、海乱鬼は故郷に戻ります。黄金よりも、翡翠よりも、象牙よりも、宝石よりもすてきな財宝を手にした海乱鬼は、やっと枕を高くして寝ることができました。おしまい。』


 不老不死を授ける種。僕は植木鉢の植物を見直した。この果実にそんな力が備わっているのだろうか?

(そんなわけがない。)と反射的に思った。

 だけど絵本がアムブロシアーと称するこの植物のためにこの人工の島は作られたのではないだろうか? もしそうだとすると、海乱鬼という海賊は相当な財力と労力をアムブロシアーのために行使したのだ。

 本当にこの紫の実に潜む種は不老不死を授けるのかもしれないという気がした。

「――あっ。」

 そこまで考えて、唐突に怪物の正体がひらめいた。

 怪物は海乱鬼洋館に隠された財宝を守っていたのではない。

 一心不乱に探していたのだ。

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