第二幕 虚像に潜む者

 父が一年契約を結んだ洋館は、見て回るのが飽きるほどだだっ広かった。

 図書室に書斎から地下のビリアード・ルームまで、想像できるかぎりの種類の部屋が揃っている。ガラス張りの温室や室内プールなどもあり、寝室と客室は数知れず。

 しかし僕が使うのは三階のバスルームがついたベッドルームと図書室だけにした。寝室には南側にバルコニーがついていて、爽やかそうだ。また、図書室は勉強用。書物に囲まれていればモチベーションが上がるはず。長テーブルが陣取っている食堂は使わず、食事はそのまま一階の厨房ですることにした。

 トランクに詰めた服をクローゼットにしまい込み、シャワーを浴びた。バスルームから出ると空腹で目眩がしたので、スーパーに行くことにした。

 できるだけお金を節約するためには安いパンとバターが一番、と考えながらスーパーまで歩いたが、スーパーに入ってみると、ここではドイツの感覚で生きていけないと悟った。郷に入っては郷に従え。日本のパンは僕が知っているのとはかなり違い、値段も思っていたほど安くはなかった。

 一円あたりのカロリーを色々計算しながらスーパーを歩き回った後、結局僕はお米に決めた。しかしそれだけではやはり素朴なので、ナットウと呼ばれている豆を数日分買い込んだ。どうやらそのままご飯にかけて食べるらしい。

 洋館に戻ると厨房の窓を通して落ち始めている夕日が見えた。東京はベルリンより赤道に近い。だからベルリンより早い時間に夜が訪れる。

 ナットウは本当に白いご飯に飽きた時のために取っておくことにして、その夜はお米だけを食べた。

 食事の後、時差ボケと一日の疲れがどっと押し寄せてきた。ご飯を一粒も残さずに食べたお茶碗を洗う元気もなく、僕はそのまま三階に上がり、キングサイズのベッドに倒れ込んだ。


「時計塔を守って。おねがい――。」

 夢の中で僕は目覚める。かすかな声の余韻が僕の耳に届いていた。

 次の瞬間、身体が落下する錯覚を覚えた。「あっ。」と叫び、差し伸ばされた僕の手は空を掴んだ。

 ――ザブン!

 大量の水が僕を包み込む。僕の吐いた息は泡に変わり、見上げるとキラキラと輝く水面の裏側が広がっていた。

 平泳ぎで太陽の方向を目指した。海面を突き破ると、暖かい海の空気が僕の肺を満たした。

 驚いて、あたりを見回した。水色の海と群青の空。近くには真っ白い砂浜。僕は、絵に描いたようなカリブ海の景色の中で立泳ぎをしていた。

 わけがわからず、砂浜まで泳いだ。さらさらの砂の上に仰向けになり、太陽光線の熱を頬で感じながら塩水を吐いた。

(――ここは?)

 僕が漂流したのは小さな島のようだった。砂浜を沿って歩けば一時間ほどで一周できるような小さな島。ヤシの木が海の近くにポツンポツンと生えていて、島の奥の方には一軒の小屋が建っている。

(――どうして僕はここに?)

 ちぐはぐな記憶をたどり、思い出そうとした。海に落ちる前、僕はどこにいたのだろうか? 飛行機の中にいたような気がする。僕を乗せた飛行機は落ちたのだろうか? いや、空旅の記憶は憂鬱だったようだけど、恐怖はなかった。

(――だとしたら……。)

 そこで僕は気づく。

 これは夢なのだ、と。僕はドイツから日本に飛んだが、飛行機はちゃんと着陸した。そして僕は洋館の寝室で眠りについた。だからこれは夢。

 しかし確証を得たかった。僕を取り巻く潮風の音、透明な青のさざなみ、弾ける白い泡と揺らぐヤシの木の木陰。それ全てはあまりにもリアルで、夢を見ているとは思えなかった。

 この前本で読んだことが脳裏に浮かんだ。夢の中では顔がうまく鏡に映らないらしい。だから鏡を覗けば夢を見ているのかどうかわかる。

 しかし見回す限り、この島にある唯一の人工物はあの小屋だけ。そこに鏡があるのだろうか?

 そこまで考えて、僕は自分の顔を海面に映せばいいのだと気づいた。

 熱く焼けた砂浜に膝を折って、小さな波が立っている海を覗き込む。

 サラサラとした短い黒の髪。まん丸い顔の輪郭と、くりっとした瞳。唇は薄く、眉毛は濃い。

(――僕の顔じゃない。)と驚く。

 僕の髪は茶色で縮れている。顔も水面に映っているより角ばっているし、唇と眉毛の形も違う。

(――見たことのない顔だ。誰なんだろう?)

 しかし水はうごめき、別人の顔ははっきりとしない。

 唐突に全身から力が抜けた。水面を覗き込んでいた僕は前に倒れ、薄い青が反射する顔と衝突した。


 目を開くと朝だった。窓からやんわりと朝日が射し込んでいる。

(あれ? ここは?)と一瞬迷ったけど、すぐに洋館に引っ越してきたことを思い出す。

 僕は大きすぎるベッドから這い出して、あくびをしながら窓を開けた。太陽が左側の空に上がっている。初めての日本の朝は、昨日の夕方と同じく蒸し暑い。

 厨房に降りて、水道水を飲めるだけ飲み、お米を研ぐ。炊飯器をセットしてからやっと眠気が消えて、僕は昨夜の夢のことを考えた。

(――カリブ海の夢。いや、カリブかどうかはわからない。でも、南の島であるのは確か。)

 父が贅沢好きだから、カリブ海や南の島に僕は幾度も行ったことがある。しかし夢の中に登場したような、小さくて、ほぼ無人の島に立ったことはない。

(あの小屋に誰か住んでいるのだろうか? 待てよ、そういえば、波打ち際にはどこにも船がなかった。もしあの小屋に誰かが住んでいたとしたら、どうやって島から離れるのだろう?)

 僕は首を振り、苦く笑った。夢のことを真剣に考え過ぎだ。

 だけど、洋館の中央にそびえる時計塔のことが気になった。「時計塔を守って。」という声を耳にして夢は始まったのだ。

 後で時計塔に上がってみようと僕は決めた。

 ご飯ができたので、立ち上がり棚からお茶碗を取り出す。

 妙な違和感を覚えたのはその時だった――。

(なにかがおかしい。)僕は厨房をキョロキョロと見回した。(なんだろう? 全部昨日と同じ。掃除はちゃんとされているし……。)

 しかしいくら考えても違和感の理由がわからず、落ち着かずに白いご飯だけの朝食を口に運んだ。


 昼は外で過ごすことにした。洋館の周りの街を探検したいし、学校が始まる九月までできれば友達も作っておきたい。

 出る前に電子メールをチェックしてみたが、両親からのメールはなかった。多分、父が今隠れている場所にはネットがないのだろう。それでも一応父と母にメールを送っておいた。心細いというより両親のことが心配だった。

 洋館の近くには、普通にバーガー店やモダンな喫茶店、それに商店街と公園があった。てっきり僕は、お屋敷街に引っ越してきたのだと思っていたので、少し驚いた。

 洋館とその敷地だけが町並みに溶け込んでいない。まるで中世のヨーロッパを時流からくり抜いて、現代の東京に丸投げしたみたいだ。

 午後ごろ僕は商店街の入口付近に面した都市公園のベンチに腰を下ろした。日本にはドイツより食べ物を売っている店が多い。たこ焼きとか、たい焼きとか、つくねとか。お金がないのでいい匂いをプンプンさせているのは本当に腹が立つ。

 ベンチに座って、ぼおっとしながら商店街を眺めていた。やはり昨日みたいに暑く、Tシャツは汗で湿っていた。

 すると商店街の花屋さんの前で便利屋が立っているのが見えた。彼の周りには主婦らしき女性たちが数人。みんな便利屋に注目している。

「実は今日、素晴らしい種を仕入れることに成功しました。」髪をバンダナでまとめた便利屋は声を張り上げた。「この種を見てください。」

 僕の方からはよく見えないけど青年は買い物バッグを肘に下げた女性たちに一粒の種を披露している。

「……百合の種? そうでしょう?」女性たちの一人が慎重に言った。

 だけど便利屋はニヤリとして首を振る。

「百合は百合でもまたたく間に育つ百合なんです。」

 彼は指の間に挟んだ種を植木鉢の土の中に押し込む。そして大きなじょうろを持ってきて、今植えたばかりの種にゆっくりと水をかけた。

 その瞬間――。

 僕と女性たちはあっと息を呑んだ。

 二枚の小さな葉を持った芽が土の中から飛び出てきたのだ。つむじ型の葉っぱは、じょうろの水を浴びてさらに広がり、天を目指して伸びる。緑色の茎はぐんぐんと太くなり、仕舞いには蕾が現れ、白い百合の花が咲いた。

 本当にまたたく間の出来事だった。

 僕が唖然とする中、女性たちは拍手をしていた。

「いつもすごいです、便利屋さんの手品は。」とか「今回のトリックはどうやったんですか?」という声が上がっている。

(えっ? 手品? そんな馬鹿な。)

 手品だとは信じられなかった。しかし女性たちは僕ほど驚いていない。逆に眼前で開花した百合の花を面白そうに買っていく。

(……本当に手品? だけどどうやって?)

 公園のベンチに座ったまま色々考えた。その間、便利屋はなにもなかったように花束を売ったり、植木の世話をしていた。

 しかしいくら考えても納得がいくトリックのタネは思いつかなかった。いくつかの可能性は浮かんだけど、現実的ではないような気がする。

 しばらくすると、便利屋の方から僕の方にやってきた。そのまっすぐした足取りからして、彼はさっきから僕がここに座っていることを知っていたのだろう。

「やあ、幽霊屋敷での初日はどうだった?」と便利屋は訊いた。

「問題ありませんでしたよ。」

 奇妙な夢を見たことは黙っておいた。夢の話をするのは嫌いだし、幽霊とは関係ない。

「それはよかった。」便利屋は僕の隣に座る。「今、昼休みなんだ。お弁当を食べる前にちょっと君の様子を見てこようと思ってね。」

 お弁当と聞いてよだれが出そうになった。

「僕は大丈夫ですよ。」と強がる。「それよりさっきの百合の花、どうやったんです?」

 便利屋はわずかに微笑み僕の方を向いた。「君はどうやったんだと思う?」

 オウム返しに聞き返されて、僕は仕方なく自分で一番有力だと思っている説を言ってみた。

「たぶん、あの植木鉢に仕掛けが隠されているんです。もしかしたら二重底のような仕掛けが。すでに咲いている百合の花を二重底の上に植えて、上から土をかける。その後、どこかボタンでも押すと、その二重底が持ち上げられて、百合の花が土の表面から出る……。」

 僕は便利屋に向かって肩をすくめた。説得力にかけているのは自覚している。

 たとえば、僕が考えた方法のためにはおそらく大きな植木鉢が必要となる。しかし便利屋が使った植木鉢は百合がようやく収まるように小さい。

 また、僕たちは百合の蕾が咲く瞬間を目撃したのだ。二重底だけではそんなことはできない。

「ふふふ、いい線行っているよ。」

 便利屋は僕が押し上げた肩をたたいた。

(つまりタネの一部はやはり二重底だということだろうか?)

「やっぱりどうやったかは教えてくれないんですか?」

「手品師はタネを明かしちゃいけないからね。」

 ため息を吐き出そうとしたが、その代わりにお腹がぐぅーっと鳴った。

「君、ご飯はちゃんと食べてる?」

 青年は心配そうに頭を横に倒した。

「食べてますよ。ちゃんと昼食のおかずも買ってありますから。」

 ナットウと呼ばれている豆を買い込んだことを思い出し、僕は立ち上がった。


 鼻歌を歌いながら炊飯器のスイッチを入れた。

 ドイツを飛び立ってからちゃんとした食事を取っていなかった。機内食に味のしない白いご飯。もううんざり。やっときちんとしたランチにありつける。

 ナットウという豆は発泡スチロールの小さな箱に一食分ずつ入って売られている。箱を開けると丁寧にもタレと辛子までついていた。

 ちょっとナットウの臭いが気になったけど、賞味期限は切れてないから、OKだと思う。タレと辛子を混ぜ込み、ネバネバになった豆を炊きたてのご飯にかけた。

「いただきま〜す。」

 スプーンでご飯とナットウをすくい、口に入れる。

「――っ!」

 声にならない僕の悲鳴が厨房を貫く。

 思わず手のひらを口に当てていた。

「……お、おいしいっ! こんなうまいもの食べたことがない。」

 そのままナットウをもう一口掻き込む。

 父は和食はドイツのめしよりうまいといつも言っていたけど、それは本当だったのだ。僕がお金がないばかりに買ったナットウで頬が落ちるということは、日本にはもっともっとおいしい食べ物があるはず。

 そこまで考えて、ふと、自分の一家が落ちぶれたことを悲しく感じた。もし父が以前のようにお金持ちだったら、僕は――。

(……食べられる時に食べておくんだった。)

 だけど食事しながら長々と嘆いたり、悔やんだりするのは性に合わない。僕は気をとりなす。ナットウは十分おいしいし、これからは僕の好物だ。

 一食分のナットウをあまりにも速く平らげてしまい、僕は恨めしげに冷蔵庫に視線をやったが、ダメだと自分に言い聞かせた。いつ父が仕送りを送ってくれるのかわからない。食料とお金がなくなれば、警察に保護されるしか道はないだろう。そうすれば、僕はおそらくドイツに送り返されて親戚の元で暮らすことになる。父と母は逃走中なのだから。

 ダメだ、ともう一度首を横に振った。

 両親と親戚の関係は良くない。その理由はあまり知らせていないのだけれど、結局は成金事業家の父とフォン・アウグストの貴族家が相容れないということなのだと思う。

 親戚たちに引き取られれば、僕はきっとフォン・アウグスト家の中で行われている駆け引きの駒として使われるだろう。それはまっぴらごめんだし、父に対しての裏切りであるような気もする。

「Es wird schon.(大丈夫。)」と独り言をつぶやく。

 僕が餓死する心配は一先ずないのだ。だから可能なかぎりこの洋館で生き延びる。

 厨房にいるとお腹がまた鳴りそうだったので、僕は重い腰を上げて後片付けに取り掛かった。

 その時だった――。

「あれ?」

 僕は目をしばたたいた。

「――お茶碗が……。」

 やっと僕は今朝厨房で感じた違和感がなんだったのか悟った。

 昨夜、僕は夕食を食べてからお茶碗を洗わずに寝室に上がった。普通はそんなことは絶対にしないのに昨日はあまりにも疲れていて怠けてしまったのだ。

 しかし今朝、厨房に降りたらテーブルに残したお茶碗がなかった。逆にお茶碗はきちんと食器棚にしまわれていたのだ。確かにテーブルに置きっぱなしにしたはずなのに。

 ぶるっと震えた。急に厨房の温度が下がったかのように。

 ――幽霊。便利屋が言ったことを思い出す。

「いや、非科学的だ。僕はきっと自分で洗ったのを忘れているんだ。」

 声に出せば嘘だとわかっていても納得するかもしれない、と思って言ってみたけど、そのセリフは虚しく厨房の壁に響いた。


 気を紛らわすために図書室で勉強することにした。

 正直薄気味悪いので、外に出ることも考えた。だけどまた炎天下の中を歩くのはさすがに嫌だし、どうせ夜はここに戻らなければならない。だったらここにいて、洋館の雰囲気というか、奇妙さに慣れるべきだ。

「……幽霊なんているわけないんだから。」と呟きながら階段を上がり、図書室に向かった。

 他の部屋と同じく図書室は広々い。だから天井まで届く本棚に革表紙の書物が並んでいても、重苦しい感じはしない。カウチやデスクも揃っていて、勉強するのはもちろん、リラックスするのにも適している。

 僕は中庭に面した窓近くのデスクに陣取り、早速勉強を始めた。

 まだ学校から教材はもらってないけど、父が買った漢字ドリルを持ってきてある。日本語は喋れるし、読めるけど、漢字は一切書けない。だから一年生の漢字から頑張らなければ。

(僕の日本語力で大丈夫なのかなあ?)と首を捻りながら〝学〟という字を綴る。(少なくとも英語の授業はOKかも。英語はドイツ語に近いから。)

 日本語は――ドイツ語や英語と比べて――無駄に難しい言語であるような気がする。

 日本人の大人は一般的に四千字ほどの漢字を読み書きでき、書き順とか、どこをのばすとか、どこをはねるとか、一つ一つの字の細部まで暗記している――と、父は言っていた。

 習うことにおいて効率的な言語であるとは思えない。

 〝学〟から〝日〟と〝本〟の二文字に移る。

 どうして〝本〟という字は読む本と、物事の始まりという異なった二つの意味を持つのだろうか? 漢字ドリルにその理由は書かれていない。いつか調べておこうとページの済にメモる。

 しかし暗記という点ではヨーロッパの言語もそこまで違わないのかもしれない。僕だってドイツ語の単語の綴を頑張って勉強した。

 といっても、書き順なんてものはアルファベットではない。ドイツではみんな書きたいように文字を書いている。それがいいのか悪いかはわからないけれど。

 ドイツ語は難しいぜ、とトルコ人の友達が言っていたのを思い出す。どうやらドイツ語で難しいのは、全ての名刺が女性系、男性系、中性系に別れていることらしい。それによって名刺の前に来る冠詞――つまり〝die〟なのか〝der〟なのか〝das〟なのか――が違い、ドイツ語ではそれを一々覚える必要がある。英語は〝the〟しかないので簡単。

 僕は直感的にどの冠詞が正しいのかわかるので、彼が指摘するまでその難しさに気づかなかった。でも考えてみると、冠詞が三つにも別れているのに統一性が全くない。たとえば、両方とも車という意味でも〝der Wagen〟は男性系で、〝das Auto〟は中性系。

 〝女〟と〝男〟を十回ずつ書き写す作業に入り、笑ってしまう。田んぼと力で男。漢字を考え出した人たちは面白い人たちだったに違いない。

 結局――僕は手を動かしながら考えていたことを締めくくる――どの言葉にも難しい部分があるということなのだろうか? 漢字はもしかしたらアルファベットを組み合わせるのと大きく違わないのかもしれない。

 ただ、ドイツ語と日本語には決定的な違いがある。それは言葉の思想というか、言葉の考え方というか、文章を作る時の違い。

 ドイツ語はかなり正確な言語だと僕は思う。冠詞があるおかげで、長いセンテンスを繋げたり、こね回したりしても、どの名刺がどの動詞や形容詞に関係しているかわかる。毎日使う動詞の量も英語と比べてやたら多いし。でもだから、ドイツ語を喋れば自分の考えを高い精度で相手に伝えることができる。

 その一方日本語は――。

 ボールペンを投げ出して、手のひらをマッサージする。ドイツの学校では主に万年筆を使っていたけど漢字の勉強のためにはやはり鉛筆を買った方が良さそうだ。ドリルがインクで汚れてしまっている。

 日本語はドイツ語よりずっと感情的で、勘違いしやすくて、とても詩的だと思う。美しい言葉だ、と父が言うのはわかる。でも僕にとって日本語は、美しいより面白く、自由な言葉であるように感じる。

 休憩する前、最後に〝休〟と書き連ねる。

(このスピードじゃあ夏休みが終わるまで六年分の漢字をマスターするのは無理だな。)と僕はドリルを見下ろしてため息をつく。(まあそれはわかっていたことだけど。)

 立ち上がり、図書室に置かれた書物を見て回った。本当に色々な分野の本が集まっている。日本語の勉強のために一冊寝室に持っていこうかな、と考えていたけど、どれも百年以上も前に書かれたような本で、僕の日本語力では解読するのに苦労する。ライトノベルあたりがよかったのに、と僕は少ししょげた。

(――あれ? これは?)

 書棚の前で立ち止まった。小奇麗に並ぶ革表紙の間に一冊だけ他とは違う本が置かれている。表紙は湿った紙を乾かしたのか、ブカブカだし、ページは紐で閉じられている。

 本を抜き出してみると、僕は目を丸くした。なんとこの本、手作りだ。しかもどうやら製作者はかなり不器用であったらしい。表紙の端にはナイフらしき刃物で切った跡があるし、綴じ紐もゆるゆるだ。

 だけどなぜか僕はこの本に惹かれた。魅入られた――とでもいうべきか。

 表紙には手書きで『海乱鬼かいらぎ伝説でんせつ』とある。ふりがなまで入っていて、全体的に子供っぽい。

(といいながら、ふりがながなかったら僕は『海乱鬼』をカイランオニと読んでいただろう。)

 タイトルの下には下手な表紙絵が描かれている。これはなんなんだろう、と本を太陽の光に向けて掲げた。

(……これは? まてよ……。)

 本当に驚いたのはその時だった。

 よく眺めてみると、表紙にはこの洋館の景色が描かれている。中央の長細い黒い線は時計塔だし、その天辺にはあのユニークな六角形の数字番。

 ――ところで、君は一人でカイラギ洋館に住むの?

 便利屋が尋ねた質問が脳裏に浮かぶ。彼は確か、カイラギ洋館と言っていた。カイラギとは海乱鬼のことだ。つまり海乱鬼伝説とはこの洋館の伝説という意味。

(も、もしかしたらこの本に幽霊のことが書かれているのかも……。)

 僕は慌てて手作りの本を開いた。

 ページごとに挿絵と一文が入っている。どうやら絵本のようだ。


『むかしむかし、海乱鬼という海賊がいました。

 海乱鬼は誰よりも強くて、誰よりも勇敢で、誰よりも賢い海賊でした。

 だからいくら国の兵士たちが頑張っても海乱鬼を捕まえることはできません。

 海の上では負けず知らずの海乱鬼は、どんどんと富を増やしていきます。

 でも、海乱鬼は血を流すのが嫌いで、船を襲ってお金や宝石を盗んでも、人はめったに殺しません。

 東から黄金を、西から翡翠を、南から象牙を、北から宝石を奪った海乱鬼はやがて故郷に戻ってきました。

 しかし自分が海賊だと知られてはまずいので、商人に変装してきます。

 故郷で海乱鬼は大きな洋館を建てました。海を渡って集めたお宝を隠すための洋館です。

 海乱鬼は洋館で幸せに暮らすつもりでしたが、ある夜、不思議な夢を見ます。

 夢の中で海乱鬼は見たことのない財宝を手にしていました。その財宝と比べたら、黄金も、翡翠も、象牙も、宝石もゴミクズみたいでした。

 次の朝、目が覚めても海乱鬼は夢に見た財宝のことが忘れられません。

 財宝のことばかり考えて、海乱鬼は三日間も眠れぬ夜を過ごします。

 そして三日目の朝、海乱鬼は決めます。夢の中で見た財宝を必ず手に入れる、と。

 海乱鬼は再び船に乗り、海を渡り、世界の果てまで夢に見た財宝を探しに行きます。

 もう他の船は襲いません。だって、人が作った船があの財宝を積んでいるはずはないのですから。

 そしてようやく海乱鬼は世界の反対側で夢に見たお宝を見つけます――。』

 

 最後のページが破り取られていた。

 海乱鬼伝説を抜き取った書架を点検してみたが、破り取られたページはそこにもなかった。

(もしこの絵本に書かれていることが本当だとしたら、この洋館を建てたのは日本の海賊だったということになる。誰が書いた絵本なんだろう?)

 作者の名前はどこにも書かれていない。

(いたずらなのだろうか? もしそうだとしたらかなり手が凝っているし、どこが面白いのかわからない。)

 ――東の黄金、西の翡翠、南の象牙、北の宝石。

 もしこの洋館を建てたのが海賊だとしたら、彼が略奪した財宝はいまだここにあるかもしれない。

(お宝さえあれば、毎日ナットウが食べられる……!)と僕の思考は意地汚い方向に流れていってしまう。

 しかし、海賊が見た夢の財宝というのが気になった。きっとなくなっている最後のページには彼がなにを見つけたのかが書かれているのだ。

「ま、どうせ作り話だろうけど。」

 僕は再び漢字ドリルに向かった。


 その夜は遅くまで勉強し続けた。早く床につく気分ではなかったし、後二週間ほどで六年生までの漢字をマスターしなければいけないので焦りを感じていた。

 十二時ごろに僕は図書室を出た。それから洋館を周り、きちんと戸締まりしているかチェックした。今朝のお茶碗事件がやはり気がかりだった。

 だけど玄関ホールの両開きのドアはたたいてもびくともしないし、裏庭と繋がっている図書室の扉にもちゃんと鍵がかかっていた。

(そもそも泥棒たぐいの侵入者がお茶碗を洗っていくなんてありえない。)と考えながら階段をのぼる。(やっぱり思い違いなのかな?)

 寝室に入り、ドアを内側から施錠した。鍵はナイトテーブルの引き出しにしまった。

 電気を消して、ベッドに入ると、部屋が真っ暗で心細くなり、僕はもう一度床から這い出しカーテンを開けた。天気予報では今夜も晴天の満月のはず。だけど空は黒く、月はどこにも見えなかった。

 仕方なくナイトテーブルのベッドサイドランプをつけておいて、僕は眠りについた。

 その夜、僕は夢を見なかった。もしかしたら見たのかもしれないけど、次の朝目覚めた時、夢の記憶は残っていなかった。

(まだ眠い……全然眠っていないようだ。)

 手のひらの下の方で目尻をこすりながら僕は上半身を起こした。ベッドのそばに置かれた全身鏡に自分の姿が映る。

(――赤い。赤い。どうして鏡があんなに赤いんだ……?)

 すぐには鏡に映っている光景が理解できなかった。

 そしてあっと息を呑んだ。

 どす黒い赤で鏡には文字が書かれている。

『出ていけ』

 その一言だけが僕の虚像を滴る血の色で歪めていた。

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