海乱鬼洋館の種明かし

トポ

第一幕 不思議の国の落ちぶれ貴族

「おまえの日本語は変だ。」

 七年生に上がった夏のある朝、突然父に言われた。僕が黒パンにバターを塗ったばかりの出来事だった。

「中学からは一年日本に行って、おまえのその変な日本語をたたき直すんだ。」

「Warum? Ich bin ein Deutscher, ich brauch’ Japanisch doch gar nicht.(どうして? 僕はドイツ人、だから日本語なんて必要ない。)」

 いつも家では日本語で話すようにと言われている。だけどその時ばかりは母国語のドイツ語で言い返した。

「ドイツ人? ああ、そうかもしれない。しかしおまえは日本人である私の息子でもある。おまえ、昨日夕食の場で言ったことを覚えているか?」

 父は憤怒の形相だった。

「……う、ううん。なんて言ったっけ?」

 怖くなって慣れない日本語で僕は答えた。

「おまえ、和食を作ってみたいから、調味料を買ってくれとねだっていたよな。」

 料理は僕の趣味だ。いつもは主にイタリアンだけど、たまには日本の家庭食も作ってみたいと思い、レシピをネットで検索して、父に必要なものを揃えてくれと言ったのだ。

 僕が見つけた和食のレシピはちゃんと日本語で書かれていた。だから問題ないはず――。

「うん。」僕は慎重にうなずく。「あの、だからデジルを買ってくれって……。」

「デジルじゃないんだよ!」

 父は今にも泣き出しそうな顔で絶叫する。

「えっ、でもレシピにはデジルって書いてあった――。」

「ダシっ! ダシって読むんだよっ! ダシって!」

 気まずい沈黙が食堂を満たす。

「……えっ?」

「出ると汁と書いて出汁! デジルじゃないっ!」

 なにが悲しくて我が息子の日本語は――と、大げさに嘆く父。

 僕は助け舟を求めて日本語ペラペラに喋る、ドイツ人の母を見る。

 しかし母は肩をすくめるだけ。

「日本語ってムズカシイわね。玲音れおんちゃん、東京ではタッシャでね〜。」

 どうやら僕の日本行きはすでに決定事項。文句を言っても意味がない。親の理不尽に僕は十三年間振り回されてきた。

 僕は黒パンを置いた朝食ボードを覗き込み、ため息をつく。

「Verdammt.(畜生。)」


 ベルリン空港から羽田までの時間を陰鬱に過ごした。

 地球の反対側にある島国にいきなりの引っ越し。しかも一人で。転校はもちろん、友達とも会えなくなり、父と母もそこにはいない。言葉を一応は喋れると言えど、僕は日本に住んだことがないから、文化の違いに苦労することだろう。

 ファースト・クラスのゆったりとした席でも息苦しさを感じた。

 日本行きを言い渡された朝、僕は無意味だとわかっていても父に反論した。住む場所はどうなるの、とか。未成年の僕が一人で外国で暮らしてもいいのか、とか。学校はどうする、とか。

 しかし、父はデジル・インシデントがあった夜のうちに、僕を日本に飛ばす準備を速やかに済ませてしまっていたらしい。

 東京で僕が住む場所は手配されていた。親代わりの執事さんと家政婦さんは雇われていた。名高い私立中学校の入学手続きも完了していた。

「――ちょっと待って。」

 僕はその朝、私立中学の名を言った父を止めた。

「日本の学校には受験っていうテストがあるんでしょう?」

「そうだが。」

「ドイツの学校は九月から始まるけど、日本の学校は四月から。それで今は八月。つまりさ、僕は受験のタイミングをのがしてしまったわけだ。それにたとえ学校側が僕のために特別にテストを用意してくれたとしてもだよ、僕の日本語レベルじゃあ国語は絶対落ちるじゃん。」

 その時僕は父の計画の中に欠点を見つけた、と心の中で拳を丸めた。もしかしたら勢いで決まった日本行きはキャンセルされるのではないか、と。

 しかし僕は親の金の力を過小評価していた。

「そのことは……。」父は目をしばたたき、一言だけ口にする。「気にするな。」

 僕は頭を抱えた。

 ――これってつまり、裏口入学じゃないか。恥ずかしい。

 大金持ちの両親を持つと、変なことで恥をかく。母はドイツの古き貴族の血を引いているから、上品というか、気品があるのだけれど、成金の父は金遣いが凄まじく、贅沢好きで、趣味も悪い。

 たとえば僕は、飛行機は別にファースト・クラスじゃなくてもいい、と言ったのに、父は聞く耳を持たなかった。我が息子をビジネス・クラスなどに乗せるものかっ! って。

 この突然の日本行きだって、父が金の力でなんでも思い通りにできると信じているための因果だ。

 しかしそんなわけで僕の日本行きはトントン拍子に進み、その週が終わる前に僕は故郷であるドイツを後にした。

 ポーンと音がして、ベルト着用サインがつく。飛行機はかすかにかたむき、ランディングを始めた。

 窓から東京上空の景色を眺める。日本ヤーパン。父が生まれ育った国であり、僕は写真を通してしか知らない国。この国ではどのような毎日が僕を待ち受けているのだろうか?

 様々な不安が僕の脳裏で渦巻いていた。

 飛行機を降りれば僕は移民だ。国籍を持っていても、言葉を喋れても、移民であることは変わりない。育った文化が違うし、日本人のスチュワーデスは僕にドイツ語で話しかけていたから、外見からしても僕は日本人ではないのだろう。

 友達はできるのだろうか? 日本の中学はどういう場所なのだろうか?

 飛行機が着陸してからも僕はずっとそんなことを考えていた。

 機内から出ると、蒸し暑い東京の空気に包み込まれた。本当に祖国を離れたのだという実感が湧いてきて、足取りがさらに重くなった。

 ベルトコンベアに乗った自分のトランクを受け取り、入国手続きを済ませ(未成年なので飛行機会社のサポートに手伝ってもらった)、出口ゲートに向かう。

 父の話によると、僕の世話をしてくれる執事さんと家政婦さんがゲートの前で待っていてくれる。

 ふと、ゲートのガラスドアを前にして、このままいくらくよくよしていても仕方がないと思った。

 父の気まぐれ、わがまま、理不尽は今に始まったことではない。それでも今日まで頑張ってきた。だからこの僕に押しつけられた日本での一年もなんとか制覇できるだろう。

 僕には執事さんと家政婦さんもついている。二人とはまだ会っていないけど、両親ほど扱うのが面倒な人たちではないはず。

 それに――と、僕は自分を元気づける。僕はグラーフ・フォン・アウグスト・玲音だ。貴族家と大企業の御曹司。こんなことでくじけてばかりいられないんだ。

「Ich schaff’ das schon!(やってやるぜ!)」

 大股で出口に踏み出した。ゲートをくぐり、お迎えの執事さんと家政婦さんを探す。

(あれ? 誰もいない?)

 ぐるりとゲート付近を見回してみたが、僕の名前が書かれた紙を持っている人はどこにもいなかった。お手伝いさんらしき人も見当たらない。

 変だな、と思って空港のWi-Fiに接続した。もしかしたら二人は遅れてくるのかもしれない。

 携帯の画面に現れたのは父からのメールという通知。嫌な予感がして通知をスワイプした。


 玲音へ

 パパの会社は倒産した。パパとママは現在借金取りに追われている。安心しなさい、隠れ家はなんとか用意してある。しかし、パパは借金まみれのため、日本のお手伝いさんたちは解雇することになった。玲音が住む場所と中学校の方は一年分前払いしているので、そっちは大丈夫。日本では一人で頑張れ!

 パパより


 PS: 仕送りは(いつか)必ず送る。


 引きつった僕の笑顔が凍りつく。

「そんな馬鹿な。」

 僕のか弱い悲鳴が空港の屋内に響いた。

「はあ? 知らない国で一人で生きて行けって? 俺って十三だぜ、それって違法じゃないの? しかも借金取りに追われているって、パパはどこまで危ないことやってたんだ? それに括弧の中の〝いつか〟ってどういう意味の〝いつか〟なんだよ? この――。」

 それから口汚く父親のことを罵った。もしそれがドイツ語じゃなかったら、警備員につまみ出されていたほどに。

「なんだろう?」と不思議がる人たちを無視して僕は空いているベンチに座る。

 御曹司エトセトラで自分を元気づけていたのがとてもアホらしく思えた。飛行機に乗っている数時間の間に僕の一家は一気に落ちぶれてしまった。

 ――果たして父は本当に大丈夫なのだろうか?

 少し不安になったが、父のことは心配しなくてもいい、とすぐに微笑んだ。父は成金趣味のどうしようもない人だけど、たくましく生きるという点では誰にも劣っていない。きっと父は借金を返して、また新しい事業を始めるのだろう。良くも悪くも金儲けは父の生きがいなのだから。

 そう考えると、気が落ち着いてきた。もう父のいきあたりばったりの計画には慣れてしまっているのかもしれない、と苦笑する。

 だけど現実的にお金がいる。母から旅行中の食費として二十ユーロをもらい、結局使わなかった紙幣のみが全財産。仕方なく窓口で円に交換してもらったけど、ざっと二千三百円。これだけで、いつ来るかわからない仕送りまでもたなければならないのか。

 バイトはやはり十三では無理だろう。きっと誰も相手にしてくれない。持ってきたスマホやノートパソコンを売るという手もあるけど、毎日使う機械だから簡単に手放すのは惜しい。

 一先ず空港を出て、電車に乗る。二千三百円から切符代を出すのは惜しかったが、空港にいても意味がない。向かう先は母が「万が一のことがあったら。」と書いてくれた僕が滞在する家の住所。

 電車に揺られながら、僕はもう一度――今度は違う意味で――日本での一年、なにがなんでもやってやるぞ、と胸に誓った。


 始めてのカルチャー・ショックは電車を降りてから到来した。

 日本の住所が全くわからないのだ。

 どの駅で降りればいいのかは母が書いてくれたからなんとか大丈夫だったが、それからは五里霧中に一軒家が立ち並ぶ道をトランクを引いて歩き回った。

 このあたりに僕の滞在場所があるはず。しかし、〝三丁目〟とか〝二番〟というのはどう解釈すればいいのだろう?

 ドイツでは道の名と番地があれば目的地が一発でわかる。だけど日本のシステムはどうやら違うようだし、どこにも道の名が書かれた標識が下がっていない。これでどうやって目的の場所を見つけられるのだろうか?

 炎天下の中を三十分ほど歩いた後、僕は諦めた。汗でびっしょりになったTシャツで額をぬぐい、交番に向かった。

 ドイツに交番はないから、こういうところが日本のいいところだとは前まで思っていたけど、この時ばかりは交番がなければ誰も行き先を見つけられないのだろう、と邪険に考えた。

 駅近くの交番はこじんまりとした作りで、その向かい側ではタンクトップ姿のお兄さんがひっくり返した自転車を修理していた。

「すみません、この住所を探しているんですけど。」

 交番の中に入ると、女性の警官さんと中年のおじさんがどうやら取り込み中だった。二人の間には湯気立つセラミック製のコップが置かれているし、おじさんは気まずそうにうつむいている。

 女性警官は顔を上げ、「迷子なの?」とちょっと面倒くさそうに言った。

「まあ。」と僕は愛想笑いを浮かべて、自分が置かれた状況を簡潔に説明した。

 すると彼女は同情するような表情になった。

「そうなの。坊やが探している家はこの近くだから、一緒に行ってもいいんだけど、今はちょっと手が離せなくてね。」婦警さんはちらっとおじさんの方を見る。

「私は大丈夫ですよ。」おじさんはゆっくりと言った。「逃げませんから、安心してください。」

「そういうわけにもいかないでしょう。仕方ないから坊や、他の人たちがパトロールから戻ってくるまで待っていてくれる?」

 僕は不思議そうにおじさんを見つめた。彼はどうしてここにいるのだろう? 逮捕されたわけではなさそう。手錠もかけられてないし。だけど居心地の悪い雰囲気が漂っている。

 おじさんは僕の怪訝を感じ取ったのか、やんわりと微笑んだ。

「どうやら妻が私の行方不明者届を出していたようでしてね、こうやって親切な婦警さんに保護されたわけです。」

 女性警官さんが肩をすくめているから、おじさんが言うことが嘘でも冗談でもないとわかった。

「自業自得です。」とおじさんは続けた。「妻子になにも言わずに逃げ出して、二ヶ月も音信不通でいたのですから。しかしもう逃げはしません。私はここにいますから、坊やの方を優先させてください。」

「――どうして?」

 婦警さんが反応できる前に僕は訊いていた。興味というよりかすかな怒りが胸に湧いていた。

「どうしてあなたはそんなことをしたんですか?」

「坊や、大人には大人の事情ってものがあるのよ。」

 女性警官さんは強い口調で言った。しかしおじさんは彼女に向かって手のひらで大丈夫だと示した。

「……私にはあなたと同い年ぐらいの息子がいます。」おじさんは吐息をつく。「数年前に息子は肺に重い病気を患いました。それからお医者さんたちは息子のために手を尽くしてくれましたが、もう限界のようです。私が逃げ出す前の日、息子の余命は長くて数ヶ月だと言われました。」

 おじさんは乾ききったまぶたを人差し指で抑えた。大人が泣くのをほとんど見たことがない僕は、おじさんの頬に数多くの涙が残した痕跡が見えるような気がした。

「だから逃げたんです。息子が死ぬ姿を見ることができなくて。ええ、坊やが言いたいことはわかりますよ。だけど私はそんな強い人間ではない。自分勝手で、弱く、こうやって許されないことをしてしまった。」

 おじさんが話し終わると深い沈黙が訪れた。車の騒音と、道の向かい側でお兄さんが自転車を修理する音がうるさく耳に響いた。

「……すみません。さっきは追求するべきではありませんでした。」と僕はやがて頭を下げた。

 おじさんは首を振る。悲しみに浸った彼の表情にどことなく解放されたような色が表れていた。

 突然、下げた頭にポンと手を置かれた。

 驚いて振り向くと、自転車を修理していた袖なしのお兄さんが立っていた。

「やあ、猫の手も借りたい気分だろ?」と彼は笑いながら婦警さんに言った。

「ああ、便利屋! いいところに〜。」

 彼女もにっこりしている。さっきまでの重い空気がお兄さんの登場によって消し去ったみたいだ。

「君が探している場所ってどうせあの立派な洋館だろう?」

 お兄さんは僕に訊くが、洋館と言われてもわからないので、助けを求めるように女性警官さんの方を向いた。

「うん、そうだ。便利屋、連れて行ってくれるか?」

「いいよ。どうせバイト先の途中にあるから。君もいいよね。」

 僕は便利屋と呼ばれた青年にうなずいてみせる。警察官が信用している人なら大丈夫だろう。

「じゃあそういうことで。」と女性警官さんは肩の荷が下りたように鼻から息を吐き出した。そして僕の方を見て、安心させるように言う。「大丈夫、便利屋はいいやつだし、このへんをよく知っているから。」

 婦警さんとお兄さんに促されて僕は交番を出るが、最後に引っかかることがあった。

 洋館という言葉を聞いてから、おじさんの目の光が変わったのだ。悲愁に浸る光沢を失った瞳は、突如として燃え上がり、ある決意を宿してずっと僕を見返していた。


「ねえ。」

 交番から数分無言で歩いてから、僕は沈黙を破った。さっきからあることが気になってしかたないのだ。どうやら便利屋は自分からは説明してくれないようだから、僕の方から訊かなければならないらしい。

「お兄さんって、もしや手品師?」

「――ん?」お兄さんは立ち止まって不思議そうな顔をする。

「しらばっくれないでよ。お兄さんはさっきバイトに行く途中って言ってたけど、バイトって手品ショーなんでしょう?」

 だけどお兄さんは涼しそうな顔をして首を振る。「違うよ。今日はコンビニでバイト、明日は花屋さんで、明後日は八百屋さん。色んな場所で働いているから、便利屋って呼ばれてるんだ。」

「じゃあ、これどうやってるの?」

 僕は振り向いてお兄さんの自転車を指差す。

 誰も触っていないのに自転車はさっきから僕たちの後ろを自分から走ってきていた。まるで透明人間が押しているかのように。僕たちが立ち止まると自転車も止まり、今はハンドルを斜めにかしげて僕の方を向いている。

「ああ、これ? こいつは俺の愛車、ペガサスだよ。」彼は何気なくつけ加える。「生きているんだ。」

(――嘘こけ。)とは思ってものの、それは口にしなかった。

「きっと透明なワイヤーで引っ張っているんだと思うけど、うまいね。普通に歩きながらこんなに巧みに操っているなんて。」

「まいったな。君の言うとおりなのかもしれないけど――。」と便利屋は苦笑する。「手品師は種を明かさないんだよ。」

(――やっぱり手品師なんじゃん。)と、僕は内心飽きれた。

 僕たちが再び歩き出すと、自転車も一人で転がり始めた。青年はどうにかワイヤーを操っているはずなのだけれど、そんなふうには全然見えない。コンビニのバイトより手品ショーをやったほうが儲かるのに、と僕は思った。

「ところで、君は一人でカイラギ洋館に住むの?」お兄さんは話題をそらす。

(――カイラギ洋館?)僕は首をかしげた。(洋館の名だろうか?)

「まあ、お手伝いさんが二人来る予定……。」

 予定だったとまでは言わず、僕は言葉を濁した。本当のことを言えば面倒なことになりそうだ。

「へえ、やっぱり君の家はお金持ちなんだー。」と便利屋は目を丸くする。「あの洋館にはね、もう長い間誰も住んでいなかったんだよ。」

「どうしてですか?」

「うーん、言ってもいいのか迷うけど、幽霊が出るって噂だよ。」

 幽霊? 父はその噂のことは知っていたのだろうか? いや、たぶん違う、と結論付けた。きっと父は東京の都内にある立派な洋館とだけネットで読んで、さっさと地主と一年契約を結んでしまったのだろう。見栄ばかり気にしている父がやりそうなことだ。

「幽霊なんて非科学的なものは信じてませんから大丈夫です。」と僕は強がった。

「そう? ならいいんだけど。」

 便利屋は僕を怖がらせまいと思ったのか、途端に口をつぐんでしまった。だけど僕は幽霊屋敷のことが気が気でなく、平静を装いながら尋ねてみた。

「……噂というと、どんなのがあるんです? 信じてはいないんですが、そういう伝説に興味があって……。」

「うーん、色々あるよ。百年前から壊れているはずの時計塔が突然深夜に鳴り始めたり――。」

 それは空耳だろう、と僕は自分を納得させる。

「庭園でシャベルを持った亡霊を目撃したっていうのもある。でも――。」

 見間違え……かもしれない。

「噂の中で一番多いのは、窓の外をずっと見つめている女の子かな?」

 女の子? どういうことだろう?

 お兄さんに詳しく話してくれと頼んだ。だけど彼は申し訳なさそうにうなじをかいた。

「俺もよく知らないんだ。でも夜中に洋館の前を通ると、時々窓から青白い光が漏れていることがあるんだって。そして驚いて洋館の方を向くと、身体が白く透き通った女の子の霊がこっちを見つめているんだって。」

 ゾワッと項の毛が逆だった。

「女の子は目を三日月にして洋館の前を通る人を見下ろしている。含み笑いをこらえるような感じに。」お兄さんは立ち止まる。「聞いているのはそれだけ。さあついたよ。」

 僕は驚いて顔を上げる。確かに僕たちは洋館の門の前に立っていた。ずっと塀沿いの道を歩いていたので、近くまで来ていたことに僕は気づいていなかった。

 漆黒の門の格子を通して洋館が見えた。

 煉瓦の塀に囲まれた巨大な敷地の中央に建つ石造りの館。外壁は蔦と苔にところどころ覆われ、僕の背丈の何倍もある洋風の窓が並んでいる。そして、奥にそびえる時計塔。動かなくなった六角形の数字番は敷地全てを見下ろしていた。

「やっぱり君の家は大金持ちなんだね。」と便利屋はちゃかした。

 しかし僕は笑う気分ではなかった。ただ一つの言葉が脳裏に浮かぶ。禍々しい、と。

 この洋館が長い間無人だった理由がわかる気がした。幽霊屋敷と噂されるのも。

「鍵はちゃんと持っているかい?」

 お兄さんに訊かれて僕は我に返った。

「えっ? は、はい。母から預かっています。」

 バックパックから鍵がいくつも下がっている鋼鉄のリングを取り出し、手当たりしだいに門の錠に差し込んでみた。運良く三つ目が入り、お兄さんの手を借りて門を押し開けた。

「じゃあ俺はこれで。もうすぐコンビニのバイトの時間だし。」

「――あの、ちょっと待ってください。」と僕は心細くなってお兄さんを呼び止めた。

「ん? どうした?」便利屋は振り返り、ニヤリとした。「怖いのか?」

「……幽霊なんていないってことは知っているんですが、こんなお屋敷に一人で住むってなると――。」

「ふふふ、やっぱり君一人? お手伝いさんたちが二人来るっていうのは嘘だったの?」

(喋りすぎちゃった。)と、僕は舌打ちした。

「ええ、来るはずだったんですけど、家の事情で……。」

「そうか。君も大変だね。」お兄さんは優しそうにうなずいた。「じゃあなにかあったら俺に電話して。便利屋はどんな仕事でも引き受けるから。」

 一人で転がる自転車を連れた青年は、片方の手のひらを差し出した。空っぽだ。なんのことだろう、と僕は首をひねる。

「よく見てろ。」

 便利屋は手のひらを閉じる。それはほんの一瞬だけのことで、彼がまた手のひらを開くと、その上には名刺が一枚置かれていた。

「手品が好きなんですね。」と僕は微笑んだ。

「まあね。」

 今回のトリックもすごい、と僕は舌を巻いていた。あらかじめ名刺をどこかに隠していたというのはわかるんだけど、手さばきが絶妙に素早く、うまい。しかもお兄さんは袖なしだ。普通の手品師のように名刺を袖の中に仕込んでいたわけではないのだ。

 僕は表側に一言〝便利屋〟とだけ印刷された名刺を受け取る。

「じゃあ俺はこれで。」

 便利屋は手を降って、歩き出す。自転車もさっきと同じようにひとりでに動き出した。

 しばらく僕は洋館の入り口に立ったまま青年の後ろ姿を眺めていた。もしかしたら自転車のタネがわかるのかも、と期待を寄せて。

 ことが起こったのはその時だった――。

 道角から最初はボール、そしてそれを追うように小学生ぐらいの男の子が飛び出してきた。

 道を曲がろうとしていた便利屋は「おっと。」と声を上げた。

 そして男の子は、全速力で便利屋と自転車の間の空間を通り抜けたのだ。

 そこに自転車を操るための透明なワイヤーがあるはずなのに。

 男の子はなににもぶつからず、ボールをキャッチする。

(ワイヤーで操っていたのではない?)僕は目をこすった。(ならどうやって? わけがわからない。)

 便利屋はそのまま道角を曲がって僕の視界から消えた。その後も僕は佇んで色々考えを巡らせた。

(もしかしたら自転車にはモーターが内蔵されているのかも? でも止まっていても倒れなかった。磁石? いや、そんな強力な磁石なら僕の携帯とかも引っ張られるはずだし、便利屋と自転車の間に隙間があるのもおかしい。)

 しかしいくら考えてもわからなかった。

 ――俺の愛車、ペガサスだよ。生きているんだ。

 青年が言ったことを思い出し、それだけはありえない、と首を降る。

 洋館に入る前に僕は彼が渡した名刺をひっくり返してみる。電話番号は多分裏側に書かれているのだと思って。だが、奇妙なことに名刺の裏側は真っ白でなにも印刷されていない。表側に便利屋とだけ乗った変な名刺。

「日本には不思議な人がいるんだなあ。」

 狐につままれたような気分で僕はこれから一年暮らす洋館に足を踏み入れた。

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