第2章 王立学園編

第60話 王立学園編1 王命

 真っ暗な空間に僕はいた。


 上も下も右も左も。

 見渡す限り、黒、黒、黒。

 

 ただただ、一切の光がない漆黒が続いている。


 ――ここはどこだ?

 

 声は出なかった。


 暗闇は何も答えてはくれない。


 しかし、僕の心は存外に穏やかだった。


 通常なら不安を感じる闇も、どこか安らぎを感じる。それは不可解なことのはずなのに、なぜだか至極当然なことだと僕は思った。


 ふと、妙な暖かさを感じた。

 全身を包む優しい光。

 そのぬるま湯に身を浸したような心地よさ。


 僕が感じているのは――懐かしさだった。


 僕はこの光を知っている。

 僕はこの場所を知っている。

 

 僕は……ここに居たことがある。


 気が付けば。

 目の前に誰かがいた。


 光を纏った女性は、とても優しい顔をしていて。そして、どこか困ったような顔をしていた。

 彼女の姿には見覚えがあった。だけど、わからない。どこかで会ったことがあっただろうか?

 

 ――あなたは?

 

 僕の問いかけに彼女は答えなかった。

 それもそうか。なにせこの場所では、声が出ないのだから。

 

 目の前の女性の姿が、陽炎のように揺らいだ。

 暖かな光が徐々に消えていく。

 

 冷たい風。僕は身震いした。

 それは本能的な嫌悪だ。

 深淵の奥底から漂う怨嗟に満ちた呻きの唄。


 暗闇が深く濃くなっていく。


 そして――。



 

 *




 「…………」


 目覚めた僕を襲ったのはひどい不快感だった。

 

 寝衣は汗まみれ。体を襲う倦怠感。頭痛。眼痛。

 何か夢を見ていた気がする。けれど、その内容は思い出せなかった。


 視界が明滅して、頭痛が一層ひどくなる。僕は顔を顰めた。

 

 窓から差し込む日の光が目に毒だった。

 死んだ顔で僕は目を擦る。

 

 そんな僕を心配そうに見つめる緑の少女スイ青の少女アイを見つけて、僕は努めて平静に朝の挨拶をした。


 「おはよう、スイ、アイ」


 スイとアイが僕の声に頷いて、挨拶を返してくれる。


 体調でも崩したのだろうか。

 

 僕は気怠さを振り払うようにベッドから降りた。

 すると、徐々に体の不調が取り払われていった。

 

 先ほどまでの痛みも、何もかもが消えていく。


 本当に何なんだ。


 手を握ったり開いたり、顔を叩いてみたりするけれど。

 不快感は嘘のように消えていた。

 汗だけが気持ち悪いが、それ以外はまったくの健康である。

 

 (ベッドが悪かったのか……?)


 一応、ベッドに戻ってみる。しかし、体調に変化はない。


 そんな僕をスイとアイが不思議そうに見つめていた。

 

 ……うん。傍から見たら、僕の行動はすごく変だ。


 僕は咳払いをすると、今度こそ身支度を整えるべく再び立ち上がった。

 スイとアイが、部屋の扉の方へと飛んでいった。おそらく人の気配を察知しての行動だろう。

 僕が目覚めると、真っ先に部屋に来る人物がいるのだから。


 「失礼します」

 

 扉を叩く音。鈴の音を転がしたような少女の声と共に、シラユキが部屋へと入ってくる。

 端正な顔立ち。真っ白な獣耳。いつもの侍女メイド服が良く似合っている。しかし、以前とは違う点が1つあった。


 彼女の首元。そこには奴隷の証である首輪がある。しかし、その首輪はかつての無骨で無機質なものではない。

 そこにあるのは銀を基調とした綺麗な首輪だ。

 派手な飾りこそないが、それは1つの装飾品と言っても相違ないものだ。奴隷の首輪と呼ぶには些か出来が良すぎるものだった。


 彼女がつけている首輪は、かつての地球でいうチョーカーに似た装飾品だ。

 シラユキの細い首にピタリと取り付けられた銀の首輪は雪のような彼女の肌と調和していた。

 

 この国で首輪に類する装飾品を身に着けることは、奴隷であることの証明となる。そのため、奴隷の首輪は、その首輪と呼べる範疇であれば、主人の権限で変更することを認められていた。


 ルーフレイム王国では奴隷の扱いは基本的に主人の裁量に委ねられる。

 人によって奴隷の扱いは異なり、そこには明確な差が生まれるものだ。

 そして、その扱いの差を見分ける1つの基準として首輪がある。

 

 端的に言えば。

 他者から見てこの奴隷は大切に扱われているのかどうか。それを判断するために、この国の人々は首輪を見るのである。


 シラユキが元々つけていた首輪は奴隷にとって一般的なものではあったが、それすなわちシラユキが特別な奴隷ではないということを示唆していた。僕がシラユキを大切に思っていたとしても、周りからはそう思われるのである。

 

 今思えば、王族辺境訪問の際に北辺境伯の息子であるクリストフ・エーデルシュタインがシラユキに声をかけたのも、彼女の首輪を見て彼女が大切に扱われていないと思ったからなのかもしれない。

 

 どちらにせよ、他者からシラユキを不当に扱っていると思われるのは僕にとって少々癪であった。

 そのため、僕は王族辺境訪問のあとシラユキに銀の首輪を贈ったのである。忌み子である僕が自由にできるお金は殆どないため、そう高価なものは買えなかったけれど。


 ちなみに首輪の購入先はシラユキを買った奴隷商ドーベルドのお店である。というか、彼のお店以外に僕はおいそれと赴くことができなかった。彼は僕相手でも商売をしてくれるし、極端に怖がることもないけれど。

 他の商人はどんな反応をするかわからない。ドーベルドのように商売さえできればよいという人間ばかりではないだろうから。


 「……おはよう、シラユキ」

 「おはようございます」


 シラユキは深々とお辞儀をすると、「失礼します」と言って僕の側に寄った。

 

 彼女の朝のお仕事、主人の身なりを整えること。そのために彼女は毎朝僕の部屋にやってくるのだ。


 僕は為すがままに服を脱がされる。

 今年でシラユキは11歳になる。今年で12歳になる人間である僕よりも背は高く、力も強い。僕の服は一瞬で剥ぎ取られていった。


 シラユキにお世話されるようになって数年が経つが、未だに僕はあまり慣れていなかった。

 なんなら、シラユキが大人に近づくにつれて恥ずかしさが増してきている。


 大人と子供の中間。徐々に女性らしくなっていくシラユキに、お世話されることに対する背徳感。

 年を重ねるごとに、羞恥と罪悪感が増えていく。


 だけど、拒否をすればそれはそれでシラユキを傷つけるので、僕は何も言えずにいた。

 

 僕の服を脱がし終えたシラユキは、小さな鼻をひくひくと動かすと、少し心配そうに話しかけてきた。

 

 「ご主人様、すごく汗をかいているようなのですが、体の調子が悪いのでしょうか……?」

 「んー。ちょっと寝苦しかったのかな。今は全然大丈夫だよ」

 「……それなら良いのですが……。お身体を拭かせていただきますね」


 シラユキが布と桶を用意し始める。

 僕は青い髪の少女アイを手招きする。そしていつものように、桶いっぱいに水を入れた。

 水の精霊術と風の精霊術はこの数年の上達が著しい。細かな操作も苦ではなくなってきた。


 「ご主人様、ありがとうございます」

 

 シラユキはそう言うと、水を浸した布で僕の体を拭いてくれる。

 ちなみにパンツは履いてるのであしからず。完全な全裸は僕の羞恥心が天元突破してしまう。恥部を見せて喜ぶ趣味は僕にはない。


 こうして僕の朝の日課が過ぎていく。


 朝の着替えが終わったら、シラユキは侍女メイドとしての仕事がある。今のこの家には僕以外にノルザンディ家の人間はいない。だが、常に各部屋を綺麗に保つ必要があるのだとか。ここにいる他の侍女メイドも随分と減ったため、仕事の量はむしろ増えているらしい。

 正直そこまでやらなくても、と思わなくはない。だがシラユキ曰く、少しでも僕の品位を落としかねないことはしたくないとのこと。「侍女の出来は主人の品格を映す」とは、メイシアの教えである。シラユキはその言葉を守っているようだ。


 一方、僕はというと。

 基本的にやることがない。

 第3近衛軍の訓練にはもう行っていない。バルザークは今も誘ってはくれるが、あの場所に僕の居場所はもうない。明らかに僕を拒絶する空気が漂っているのだ。

 それに第3近衛軍の駐屯場所も、この屋敷の敷地内ではなくなっていた。

 どうやら、イースタンノルンの別の場所に他の屋敷を建てているらしく、それに伴って場所が変わったらしい。


 クソ親父アーノルドは本格的に僕を隔離しようとしているのだろう。

 かといって放置しているのかと言えば、そうではない。

 王族辺境訪問で下手に功績を上げてしまった故か、僕に対する監視が厳しくなった気がする。


 今も屋敷に残っている侍女メイドも、立ち振る舞いが普通の侍女メイドとは異なる気がするし。屋敷の周辺をいつもうろうろしている監視役みたいな奴もいるし。

 

 まあ、闇の精霊術で色々と誤魔化しながら、屋敷は抜け出せるからあまり困ってはいないのだけど。


 人と関わること以外なら、今の僕は結構何でもできる。

 姿を隠すこともできるし。空も飛べるし。

 

 できないことは黄金の眼を誤魔化すことくらいかもしれない。ちなみに、これは精霊術を以てしてもできないことが発覚している。

 いくら幻惑して僕の瞳の認識を変えようとしても、僕の姿を認めると金色の瞳に見えるそうだ。これはシラユキと実験した結果、確からしいと結論が付いている。理由は今のところ不明である。


 さて。

 生活には困っていないけど、息苦しさを感じる日々。

 今後を決めかねている僕には、焦りの感情があった。

 

 これは覚悟の問題なのだ。

 

 逃げようと思えば、シラユキを連れ出していつでも逃げることはできる。

 でも、それ以外の選択肢も僕は考えてみたかった。その方法は、なにも思いついてはいないのだけど。

 

 今年で僕も12歳。

 一応この国の教えに則れば、まだ3年の猶予があるはずだ。

 ここまで生かした以上、いきなり殺すようなことはクソ親父アーノルドもしないだろう。それにもし、殺されそうになったら――。


 ――何もかもを捨てて、シラユキと逃げればいいのだから。


 できれば迎えたくない、されど可能性の高い未来。

 それを憂いつつも過ごす単調な日々。


 それは突然の呼び出しによって、僕の想定外の方向へと進むことになる。



 

 *

 


 

 東辺境伯領の第1都市――ノルン。

 「生活に必要な全ての荷物を持って今日中に来い」というクソみたいな指令を受けて、僕は本家へと呼び出された。

 そして、不機嫌そうな様子を隠しもしないクソ親父アーノルドは開口一番にこう言い放った。


 「学園へ行け」

 「はい?」

 

 思わず目が点になる僕。

 僕が学園に行くということは、僕の存在を他の貴族たちにも知らしめることになる。ノルザンディ家の威厳を貶めうる選択であり、クソ親父アーノルドにとっては嫌なことのはずである。

 今の僕はもとより学校に行く気はなかったが、それはなにも魔術を習ったところで意味がないから……というだけではない。

 現実的に考えれば忌み子を学校に行かせるなんて、ありえないことだからだ。ノルザンディ家にまったくの利点がない。

 昔の僕は能天気に行けたらいいな、なんて考えていたけど。今の僕はもう少し現実を知っている。だから、学校に行くのを諦めていた部分があった。


 そんな僕の内心など知る由もないクソ親父アーノルドは淡々と言葉を続けた。

 そして、彼の口から放たれた言葉に、僕は思わず天井を仰ぎそうになった。


 「――これは王命だ」


 感じたのは既視感デジャブ。僕はつい最近もこんな状況を体験している。

 

 僕は諦念と共に確信していた。

 

 これ、間違いなくめんどくさいやつだ。

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