幕間3 カーリナの苦悩
カーリナ・ステファン。
聖金騎士団現団長。ルーカス・レーンの除隊により、聖金騎士団の正式な長となった彼女の朝は早い。
日が昇る前に起床した彼女は、宿舎内の貯水場へと向かう。
貯水場は王城や隣接する騎士団の寮にある水汲み場である。ここでは、王国直轄の水属性魔術師が定期的に貯水をしており、いつでも水を得られる環境が整っていた。
ルーフレイム王国の都市部にはこういった貯水場がそれなりに存在する。
王国の水属性魔術師が派遣されて、市民の生活基盤を作っているのだ。
他の属性魔術師に関しても同様だ。
ルーフレイム王国内の魔術師は基本的に王国直属の人材として扱われる。彼らは魔術師の多くを独占しており、こと魔術が関わる仕事に関して独占的な商売を展開していた。例えば、家を建てるのも、武器を作るのも、それぞれ地属性、火属性の魔術師がいると能率が良い。王家はそこを狙って、比較的高い契約金を以て、魔術を売っていた。それを富裕層や領主に対して行っているのである。近年、ルーフレイム王家にお金が集まる理由には、こういった側面もあった。
桶に水を汲み終えたカーリナは、領の庭へと向かった。
本来ならお金がかかる水も、騎士団員は無料である。その恩恵にカーリナは改めて感謝していた。
薄っすらと冷えた早朝の風を浴びながら、カーリナは水を手に
数度にわたり顔を洗ったカーリナは、懐から
桶を空にしたカーリナは貯水場に、それを戻したあと、騎士剣を取り出した。そして、静かに素振りを始める。
暫くの素振りのあと、姿勢や剣の振りを整えながら、型の練習を行う。
そして、日が昇るころに彼女は再び桶に水を汲んで、今度は自室で身を清めるのである。
これが、カーリナの毎朝の日課だった。
身を清め、騎士の正装にカーリナは着替えた。
白を基調として、黄金の紋様で装飾されたマント。それが、今の
身支度を整えたカーリナは宿舎を出た。
向かう先はアリシアのもとである。
早朝、アリシアが起床する前に彼女の元へ行く。それは、王族辺境訪問の事件後から始まった新たな習慣であった。
当時10歳だったアリシアがあの事件で受けた心の傷は大きかった。
信頼していたはずの騎士団長に裏切られ、殺されかけるという経験は、まだ幼かった少女にとってはあまりにも酷なものだった。
王族辺境訪問の間のアリシアは一見何も問題がないように見えた。変化と言えば、少しばかり我儘になったくらいだった。
だが、実際は違った。彼女は不安定な精神状態を隠していた。あの忌み子――グレイズラッドを支柱とすることで。
彼との別れの後、アリシアの状態はみるみると悪くなっていった。
不安や悪夢による寝不足、それに伴う体の異常。
精神が不安定になった彼女は、人形姫と呼ばれていた時と思えないほどに、情緒が表に現れていた。
そんなアリシアが求めたのが、カーリナを側に置くことであった。
カーリナとアリシアは年齢に差こそあれ、比較的長い付き合いであり、他の団員t比べて圧倒的な信頼関係にある。
カーリナとアリシアの出会いは幼少期にまで遡る。カーリナは中央貴族の公爵の娘――すなわち公爵令嬢であり、父は現国王ヴァレンティンの従兄弟にあたる存在である。現王家の親戚筋にあたるカーリナは、アリシアと幼少よりよく出会っていた。他の王族とも交流はしていたが、その中でも特に良い関係を築けていたのがアリシアである。そんな経緯もあり、いわば幼馴染のような関係が、カーリナとアリシアの間にはあった。
カーリナの可能な限りの献身もあって、今のアリシアは比較的落ち着いている。
だが、完全に彼女の不安を取り除くことができていないのを、カーリナは理解していた。
アリシアにとって、自身の窮地を救った存在は
アリシアと同じ金眼を持つ、忌み子のグレイズラッド。アリシアの支えとなっているのは、今やあの大人びた少年であった。
そのことをカーリナは複雑な思いで受け止めていた。
カーリナは当時のことをあまり覚えていない。グレイズラッドがアリシアを襲ったと勘違いをして、切りかかったことは覚えているが、それ以降の記憶はあやふやであった。
だが、カーリナは知っている。アリシアを救ったのはグレイズラッドであると。
10歳の子供がどのようにルーカスに対抗したのかは定かではない。しかし、カーリナはただそれを事実として受け入れていた。
意識できない心の奥底で、カーリナは確信しているのだ。
それがどうしようもなく、気持ちが悪い。
理性はグレイズラッドを嫌っているはずなのに。心の深層はグレイズラッドの功績を讃えている。
両価性にも似た情緒の変動はカーリナをひどく悩ませた。
そしてそれは、カーリナに限った話ではない。
自分自身の不可解な忌み子への評価を受け止めきれない団員達は多かった。
彼らは
故に、今の
現在は騎士団再建の最中である。その業務の大半をこなしながら、アリシアの世話までしているカーリナの仕事量は、推して知るべしであろう。
アリシアの居城へとカーリナは歩み始めた。
騎士団の宿舎は城下町とアンデルシア城の間に存在する。王城は高台に位置するため、向かうには坂を上る必要があった。
警備のしやすさを考慮して、居城までの道は整備されている。景観を保つために木々や草花も残っているが、侵入者の隠れ蓑とならないように配慮されていた。
しばらく歩けば城門が見えてくる。
そこに、見慣れた馬車と中年の男性の姿をカーリナは見つけた。
門番の騎士に何やら話しかける男はカーリナに気が付くと、早足にカーリナの元へと駆けてきた。
その手には上等な革鞄。
彼はカーリナの元に辿り着くと、その場で頭を下げた。
「ご機嫌麗しゅう、カーリナ・ステファン様。本日はお日柄も良く」
「……ああ。この前ぶりだな、ボリス」
ボリス、と呼ばれた男は破顔した。
中年の男の満面の笑み。その意図が分からず、カーリナは困惑する。
「……何がそんなに嬉しい?」
「いやはや、今を時めくアリシア様。彼女の威光たる
「……そ、そうか」
捲し立てるようにそう言ったボリスに、カーリナは引き攣った笑みを浮かべた。
ボリスは平民だ。平民の間では、先の王族辺境訪問を経て、さらにアリシアの名が広まっており、同時に騎士団の名も広まっていた。ボリスの興奮度合いから、彼女達の扱いのほどがわかるというものだろう。
英雄の再来とその意思を実行する力への崇拝。平民にとって、英雄の存在はもとより、騎士団という存在も大きいものなのだ。
キラキラとしたボリスの瞳に、居心地が悪くなったカーリナはこほん、と咳ばらいをした。
「それで、お前が来たということは……」
「――ええ! 王女様宛のお手紙を預かってます! 少々お待ちください!」
少し食い気味にそう返答したボリスは、手元の鞄を開いた。
その中からきめ細やかな木箱を取り出すと、それを慎重に開いてカーリナへと見せる。
紅色の布地の上、そこには丁寧に封をされた手紙がある。
「……それでは、カーリナ様、こちらを」
ボリスは箱を慎重に閉じると、カーリナへと箱ごと差し出した。
カーリナがそれを手に取ると、ボリスが少しほっとした顔をする。
貴族や王族の手紙を運ぶのはボリスの仕事の1つではあるが、その重圧は並大抵のものではない。汚したり、傷がついたりすれば、彼の仕事の進退に関わる。それが英雄と謳われしアリシアの物となればなおさらであろう。
「……確かに受け取った。商人組合にはこちらから連絡しておこう」
「はい。ありがとうございます」
「それとわかっているとは思うが……」
カーリナの視線を受けて、ボリスが姿勢を正した。
「誰にも言わない、ですよね。承知しております!」
「ああ。民の間に流れたら命は無いと思え」
「は!」
緊張した面持ちで胸に手を当てるボリス。
カーリナが疲れたように、口を開いた。
「……また、近く呼ぶ。その時は頼む」
「畏まりました!」
元気よく返事をしたボリスは、再び礼をすると。
馬車に乗り込んでゆっくりと坂を下りていった。
その姿を見送ったカーリナは、木箱をしっかりと懐に入れると。
アリシアが住まう場所へと向かうべく、門を潜り抜けていった。
*
「失礼いたします」
カーリナがアリシアの部屋に足を踏み入れると、アリシアは長椅子に座って待機していた。
装いは淡い水色のドレス。手紙が来るとき、アリシアは決まってこの服を着る。
彼女は既にわかっているのだ。あの忌み子から、今日手紙が来ているということを。
カーリナがアリシアの側に行くと、彼女は手を差し出した。
「ん」
その意図するところを察したカーリナは、懐から木箱を取り出して彼女へ手渡した。
途端にアリシアは俊敏な動きで木箱を開けると、封蝋を確認して小さく笑みを浮かべた。
「……アリシア様、不思議に思ってたんですが。なぜ、いつも手紙が来るとわかるのですか?」
「……? なんとなく? あとは、カーリナが手紙を貰うときに確認した」
抑揚なく返答するアリシアの言葉に、カーリナは思わず目を瞬かせた。
なんとなく、という超感覚的な不思議発言はもとより、この部屋にいながら目視で差出人を確認するなんて可能なのか。
この部屋から門までの距離は比較的遠く、あの一瞬でノルザンディ家の封蝋を確認するなどそうできるものではない。
アリシアの目が非常に良いことはカーリナも知っていたが、その程度は想像の外にあったようだ。
静かに慄くカーリナに首を傾げたアリシアはしかし、すぐに手紙の方へと視線を向けた。
彼女は銀のペーパーナイフを手に取ると、丁寧に封を切り始める。
切り取られた断片を取り払い、アリシアは便箋を取り出した。紙は比較的上等な羊皮紙である。
王族への手紙ともなれば、便箋も相応の質のものを用意しなければならない。故にあまり手紙では使われない高価な羊皮紙をわざわざグレイズラッドは用意しているのだ。貴族同士でも羊皮紙を手紙に使うことはそうないが、それだけ彼はアリシアに配慮し敬意を表しているのだろうとカーリナは考えていた。
もっとも、その心遣いがますますアリシアを喜ばせているということには、当の本人も気が付いていないだろうけれども。
グレイズラッドからの手紙を一心に読むアリシアの姿を、なんとも複雑な気持ちでカーリナは見守っていた。
と。
アリシアがおもむろに目の動きを止めた。
じーっと、手紙の一文に視線を送る。
何事かとカーリナが思う間もなく、アリシアはカーリナへと視線を転じた。
「……カーリナ。貴族の子供は皆、王立学園に行く。そうでしょう?」
アリシアの言う王立学園とは、ルーフレイム王国が設立した教育機関の1つである。首都ルーデシアに存在するこの学園は、国内随一の高等教育が行われている場所だった。
貴族にとって学問は重要である。特に爵位や騎士を目指す場合、王立学園で教育を受けるのは最低限の教養であった。
王立学園以外にも国内に教育機関はあるが、そこでは魔術を始めとする専門的で高度な教育は行われていない。さらには爵位を得るなど以てのほか。騎士になるのも非常に難しくなる。端的に言えば、貴族の子供にとって王立学園に通えないのは非常に不名誉なことなのである。
アリシアの当たり前ともいえる質問に、カーリナはコクコクと頷いた。
その反応を見たアリシアは、手紙に視線を戻して、さらに表情を固くした。
「……グレイズラッド、来ないって」
「……へ?」
「彼、学園に来ないって、言ってる」
「…………」
冷たい声でそう呟くアリシア。
アリシアの言葉を静かに咀嚼したカーリナは思う。
――それって良いことなのでは?、と。
アリシアと忌み子の関わりが減る。それは誰もが望むことだろう。
だが、そんなことを静かに怒る主人の前で言えるわけもなく。
カーリナは、白々しくも言葉を選んで返答した。
「……都市学校にでもいくのではないでしょうか?」
都市学校とは、王家が作ったもう1つの教育機関である。
ルーフレイム王国の教育は基本的に王家と教会が独占している。
地方貴族が教育機関を作ることは禁じられており、地方には比較的大きな都市であっても学び舎はない。代わりにあるのは、教会の修道院くらいだろうか。そこでは、文字や比較的簡単な算術、宗教学などを学ぶことはできるが高度な教育を受けることはできない。
しかしながら、この国では平民であっても、それなりの職に就くためには相応の教養を身に着ける必要がある。
そのために作られたのが、都市学校というものだ。
王族領の大きい都市には最低1つの都市学校が存在する。平民の多くはこの都市学校を目指し、比較的高度な教育をそこでは受けることができた。
一方で、貴族がこの学校にいくことは殆どない。
というのも、基本的に為政者側となる貴族にとって必要な知識の多くは、都市学校では学ぶことができないからだ。
特に貴族の象徴に等しい魔術を学べないのは、貴族にとっては致命的だった。
そのため、都市学校に向かう貴族の子供は相当な落ちこぼれと判断されることが多い。
グレイズラッドが知能の面で落ちこぼれとは思わないが、彼は忌み子である。それに、グレイズラッドは魔術が使えないという噂もある。貴族の象徴たる魔術を使えないのならば、彼が都市学校に向かうという選択肢もありえよう。
ルーカスを撃退するほどの剣の才がある可能性はあるが、あったとて彼に貴族としての未来はないわけだし。
「…………」
カーリナの言葉に対して、アリシアから返答はなかった。
ただ、無言で手紙を見つめるアリシア。
彼女の横顔から覗く黄金の瞳。そこに不快感はない。あるのは畏敬の念。ただ、それだけだった。
カーリナの脳裏に忌み子の姿が浮かぶ。爛々とした彼の瞳は邪悪に満ちていた。
アリシアとグレイズラッドの瞳。その明確な差異は言葉にできない。だけど、アリシアと忌み子の眼は違う。カーリナはそう確信していた。
そうでなければ、説明がつかない。グレイズラッドの眼が生み出す不快感を。それをアリシアが持たぬ訳を。
そんな思考の中にいたからか。カーリナは小さく零したアリシアの言葉を聞き逃してしまった。
「……絶対、来てもらう、から」
「……? アリシア様?」
「……なんでもない」
小さく首を振ったアリシアは手紙を丁寧に折りたたんだ。
そして、再び視線だけをカーリナへと向けてくる。
「……そういえば、騎士団は、どうなった?」
「そう、ですね。……少し、難航しています。あまり目ぼしい人材がいないもので」
最低でも200人以上。できることなら、王国騎士団1つ分程度の規模をカーリナとしては揃えたかった。
だが、騎士というのはなかなかすぐに集められる存在ではない。
基本的に騎士という身分は王や教会の叙勲によって得られるものだ。厳しい入団試験や試練を経て、その上で叙勲を得る。そうして初めてなれるものなのだ。そのため、数を揃えるのは結構大変な作業である。そんな、ただでさえ大変な数集めなのだが、アリシアの要望がその作業をさらに難しくしていた。
あの事件以降、アリシアは男全般が少し苦手になってしまったらしい。できることなら、女性か、怖くない男の人が良いとカーリナに要望を出していた。
しかしながら女騎士は男に比べて少ない。貴族の娘の多くは嫁に行く前提の場合が多いこともあり、血なまぐさい職業を避ける傾向にある。
また、男の騎士もその多くは筋骨隆々で怖くない男の方が少ない。魔力を上手く使うことで、鎧の重さを軽減できるとはいえ、素の身体能力が高いに越したことはなく、結果として騎士にはがたいの良い男が多かった。
アリシアも無理は承知らしく、好きなようにしてほしいとは言っていたが。カーリナとしてはできる限り、期待に応えたいというもの。
それもあって彼女は頑張ってきた。しかし、思うように人が集まっていないのが現状だった。
「……今は現職の女性騎士や魔術職の女性を勧誘しています。他に、学園入学前の子女を勧誘して育成することなども考えています。最近も1人、将来有望そうな子を見つけたところですし。彼女を従騎士扱いで仮入団させようかと」
「……そう。……別に男の人でも大丈夫だから、無理はしないで」
「は。御心遣い、感謝いたします」
カーリナが礼をする。
「……お返事書く。侍女に言伝、お願い」
「はい。承知しました」
アリシアに命を受けて、カーリナは席を立つ。
騎士団の再建。できることなら、アリシアの学園在学中には形にしたいところである。
3年か、4年か。暗部組織の動き、他国の状況もきな臭い今、国としては英雄たる彼女の騎士団を早いうちに形にしたいと思っていることだろう。
その期待に、カーリナは中々応えられていない。
(平民の娘を入れることも考えるか? 近く、都市学校をまわってみるのもありかもしれないな)
平民を騎士団に入れすぎるとそれはそれで安い騎士団と馬鹿にされかねない。だが、手段の1つではある。とはいえ、今すぐにできることではない。
様々な考えを浮かべては、消す。
部屋前の侍女に声をかけたカーリナの悩みは決して尽きることなく、その後も続いていくのだった。
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