第59話 もう一つのエピローグ
雲1つない月光の下。
風を切って空を駆ける1つの影があった。
月光に照らされた彼女の髪は、光を映しては斜陽のように爛々としていた。
人外の証たる黄金の瞳が見つめる先は緑色の大地。
神の如き造形美を持つ少女は、薄く口端を吊り上げると。
まるで海に飛び込むように、その肢体を真っすぐにした。
地面に吸い寄せられるように加速した少女は勢いそのままに。
木々に囲まれた大きな湖へとその身を躍らせた。
その瞬間、大量の水がしぶきと共に打ち上げられた。
水は鬱蒼とそそりたつ樹木を超えて、大木の幹を飲み込む勢いで宙を舞う。
その水に呼応するように青い光達が、空間を彩った。
空高くからの飛び込みを終えた少女――ルディは満足げに湖から顔を出すと。
そのまま、水上へと体を持ち上げた。そして、そのまま水面を滑るように歩いて、水辺へと向かっていく。
そんな彼女を呆れたように見つめる者がいた。
漆黒のドレスに身を纏った、妖艶な美女――ヤミである。
ヤミは黒い傘で、打ち上げられた水滴を弾くと、胸を張るルディへと声をかけた。
「……あなたは阿呆なんですの?」
「……え? いきなりひどくない!?」
唐突な罵倒にルディが驚愕の声を上げた。そんなルディをヤミは子供を見るような目で見つめると、小さく嘆息した。
「そんな恰好で水に入ったら……あぁ、そういうことですのね」
ルディの薄手の服を見て、何かを悟ったヤミが口をつぐむ。ルディが得意げに胸を張った。
「ふっふー。ちゃんと水弾いたからね! 濡れてないよ!」
ルディの言う通り、ルディの服も髪も水滴1つ付いていない。得意げに胸を反らすルディにヤミは半眼を向けた。
「なら、なんでこんなことを……。水に入りたかったのではなくて?」
「うーん? いや、なんだか、水を飛ばしてみたくなって」
ルディの言葉にヤミは今度こそ諦めて溜息をついた。
「……ルディさんは昔からこうでしたわねぇ」
「えっと。その話ぶりだと、ぼくが昔からあほみたいになっちゃうんだけど?」
「ええ、そうですわねぇ」
「……え?」
唖然とするルディをヤミは無視すると、彼女は黒い傘を放り投げた。
傘は黒い粒子となって形を崩し、空気に溶けて消えていく。
「それで? 雨が止んだということは、原因もわかったということですわよねぇ?」
「え? あ、うん。ちゃんと原因を潰してきたよ!」
ヤミの質問に、ルディが反応した。そして、少しだけまじめな顔になる。
「魔物だったよ。
「やはりそうでしたのねぇ。グレイズラッドさんの術が効かない時点で、そんな気はしていましたが」
「あー。あれやっぱりグー君だったんだね。随分上手になったねー。あれで少し抑え込むの楽になったから助かったんだー」
ルディがそう言うと、ヤミが胡乱気な眼を向ける。
「まったく、少し陽気すぎるのではなくて?」
「うーん、でも起きちゃったものは仕方ないしなー……」
「はぁ。それで? 誰がそんなものを持ち出したのかしらぁ?」
「えーと。たぶん人間」
「……たぶん?」
ヤミが首を傾げると、ルディが大きく頷いた。
「だって、あの辺にあったものはだいたい
ルディはその時の状況を思い出す。
地面はえぐれ、家屋はその柱の断片を見つけるのも難しい状態だった。
魔物は周囲の存在を根こそぎ糧とする。特に体の一部のみとなってしまった魔物はその傾向が強い。ある程度抗える存在でなければたちまち取り込まれてしまうだろう。そして、人間で魔物に抗える存在は、そう多くはない。
「ふーん? まあ、いいけれど。人間だというなら、その心臓を封じていたものがあるはずよねぇ」
「うん。たぶん<魔封じの箱>だと思う。もう残ってないと思ってたんだけどね」
<魔封じの箱>はかつて魔物に対抗すべく、様々な種族が手を取り合い作り上げた叡智の結晶であった。
魔物の生命力は尋常ではない。胴を分かつ程度では魔物を殺すことはできない。魔物を構成するあらゆるものを消滅させて、根源に還す。そこまでしなければ、魔物という存在は滅びない。
<魔封じの箱>は内容物と外界の繋がりを断絶することができる。これにより、魔物の生命力の供給源である魔力を断ち、封じ込めることができたのである。<魔封じの箱>は遥か昔に人々が魔物に抗った証であり、この世には今もその残骸が残っている。
「だいぶ潰したんだけどね。どうやら隠し持ってたみたい」
「伝承は薄れ、廃れるモノ。人間はその危険性まで忘れてしまったのですわねぇ」
人は愚かですわぁ、とヤミが冷笑した。
「ぼくは人間、結構好きなんだけどなぁ」
「だからあなたは変わり者って言われているのですわぁ。まあ、でもぉ。わたくしも別に人間が嫌いってわけではないですわよぉ? 現にグレイズラッドさんのことは気に入ってますし」
「いや、グー君はなんというか。もう存在がほぼ、ぼくたち側じゃん……」
くすくすと笑うヤミ。ルディがなんともいえない顔をする。
「ああ、そういえば。もう一人の金眼の人間、見かけましたわよ」
「ん? あ。もしかして、グー君が言っていたお姫様?」
「ええ」
ヤミが小さく頷く。
「やはりというか、なんといいますかぁ。お姫様のほうは『狭間』でしたわねぇ」
「あ、そうなんだね。でも、そりゃそうだよね。むしろ、あれほど根源に近いグー君の方がおかしいし」
「……それでも結構な逸材でしたわよ? あちらは目をかけなくてよいので?」
「うーん。そっちはどうにかするって言われちゃってるからねぇ。あまり干渉したくないんだよねぇ」
「……ふぅーん?」
「……まぁまぁ。いいじゃんそれはさ。それより、お姫様を見かけたってことはわざわざ見に行ったの? ヤミちゃんがそんなことするなんて珍しいね?」
ルディがまくし立てるようにそう言うと、ヤミが妖艶に微笑んだ。
「ええ。グレイズラッドさんが危なそうでしたので、助けに入ったのですけど。その時にいましたわぁ」
「え。グー君が危なかった? ぼくとしては、そっちの方が聞き捨てならないんだけど!?」
慌てふためくルディ。そんな彼女にヤミが苦笑する。
「そんなに心配なら、ルディさんが常に助けに入ればよいのではなくて?」
「ううー。いや、まあ、そうしたいんだけどさぁ。他にやることもあるし、ぼくにはぼくで事情があるし……」
「……まったく、難儀なことですわねぇ」
ヤミが仕方ないといった風に息をついた。
言葉を濁したルディは軽く咳ばらいをする。
「……とりあえず! 直近の問題はグー君の安全だね! 人間に殺されそうになるなんて、まだまだ修行が足りないよー!」
「……そうかしらぁ? 10歳の人間にしてはよくやってると思いますけれどもぉ?」
「甘いよーヤミちゃん。今後はもっとビシバシとやってかなきゃ」
「……グレイズラッドさんも大変ですわねぇ」
意気込むルディには、もうヤミの声は聞こえていなかった。
黄金の月が天高く君臨する時間。
生物の多くは寝静まり、夢の世界へと旅立つ頃。
静寂が包む大森林に、悲痛な声が響いた。
――ググォォォオ。
それは低く、くぐもった獣の嘶きだった。生暖かな風が木の葉を揺らして、森閑を破った。
耳に聞こえるその叫び。巨木の根元で一人目を閉じていたヤミは、薄く目を開いた。
「ああ、忘れていましたわぁ」
トン、と足で地面を蹴ると。
ヤミの姿が影へと消える。
そして、瞬きの間に。
ヤミはソレの目の前にいた。
視界を埋めるは漆黒の巨躯。その体は大量の毛に覆われており、時折呼吸に合わせて上下している。
複数の獣を混ぜ合わせたような顔貌。家すら丸のみにできそうな巨大な口端からは、真っ赤な舌が飛び出て、大量の唾液を垂れ流していた。
そして特徴的なのは闇夜でも目立つ黄金の瞳。
その深淵が覗く世界は、まさしくヤミの瞳が映すものと同じだった。
そんな誰もが泣いて逃げ出すであろう巨大な異形はしかし、弱弱しく地に伏していた。
体は暗黒の影によって地面へと縫い付けられていて、化け物が緊縛から逃れようと暴れるたび、周囲の木々が体毛に撫でられて、倒れていく。怪物の毛の1本1本は鉄をも貫く硬度を持つ。それを知っているヤミにとっては、なんら不思議な現象ではなかった。
だが、不快である。
精霊たちの住処である森、それが壊れるさまを見るのは決して気持ちの良いものではなかったから。
「……いい加減死んでくださいまし」
ヤミがそう呟いた瞬間に、怪物の目から一切の光が消えた。
開ききった瞳孔は戻ることはなく。ただの一瞬で、怪物は動かなくなった。
それは異形にしては、あまりにもあっけない幕切れだった。
いったい何をしたか。簡単だ。
あらゆるものには
体の不調は心の病を引き起こす。逆もまた然りだ。
「末裔如きが、思ったより粘りましたわねぇ」
末裔。
それはかつての魔物の血を引く存在。すなわち動物と魔物の中間のような存在である。
現在。魔物の血を引く存在の多くは血が薄れて、ただの動物に近い存在となっている。
しかし、稀に魔物に近い存在が生まれる場合がある。それが末裔だ。
その一例がこの怪物である。とはいえ、存在が近いとは言っても、古来の魔物とは天と地ほどの差がある。
魔物が
ヤミが怪物に手をかざす。
漆黒の光がヤミの袂からぬるりと現れて、息絶えた怪物の体を侵食していく。
そして、徐々に怪物の巨体が崩壊していき、最後には一切の断片を残すことなく、その体が消滅した。
怪物の最後を見届けたヤミは手を払った。
ここ何百年、見ることがなかった末裔。1か月ほど異様な晴れが続いていたのは、どうやらこの個体のせいだったようだ。
随分と上手に隠れていたが、本物の魔物の気配を感じてさすがに慌ててしまったらしい。
逃げようとしているところをヤミは捕らえることに成功していたのだった。その後、グレイズラッドの救援に行ったり、ルディと話したりしているうちに存在を忘れていたのである。
だが、末裔の出現は1つの予兆となりうる。
すでに同時期に
根源に近い存在が増える時期は、何かが起こる。それをヤミは経験的に理解していた。
特にその懸念を強めているのはグレイズラッドの存在だ。
あの人間は、もはや人ではない。本質的には、彼の存在は精霊に近くなっている。
そして、その傾向はヤミが出会うたびに強くなっていっている。
いずれ彼は精霊を超えていくのだろう。
そして、ヤミですら手の届かぬ深淵の先。ヤミが強く焦がれる場所へと至るのだろう。
深淵の先にあるものをヤミは知らない。それを知っていたのはヤミが知る限り、あの女だけだ。
「……また、荒れますわねぇ」
ヤミの呟きは閑散とした森の中に消えていくのだった。
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文末に失礼します。作者です。
「金眼の精霊術師」をここまで読んでいただきありがとうございます。
これにて、第1章は終わりとなります。
ひとまずここまで書き終えることができたのは、読んでくださっている皆様のおかげでございます。改めて感謝申し上げます。
今後は、いくつかお話を挟んだ後に第2章へと移っていきます。
幕間では、王族辺境訪問の詳しい顛末や、補完的なエピソードを入れる予定です。2章の開始までは、もう少々お待ちください。
それと報告ですが。
ここ最近は
それでも完結までは走りきる所存ですので、今後も読んでいただけると大変うれしいです。
以上、長文で失礼しました。
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