第51話 幼少期編51 王族辺境訪問23
アリシアは悪意を知らない。
周囲の人は基本的にアリシアに対して優しく接してくれる。
本来なら忌むべき黄金の瞳も、英雄と祀り上げられる彼女にとってはむしろ象徴ともいえるものだった。
精霊のことを口に出さなくなってからは、アリシアは周囲に褒められこそすれ、嫌われることはなかった。
だから、アリシアは気が付くことができなかった。
自身に対する害意を。その衝動を。
部隊を先導していたルーカスが突如としてその歩みを止めた。
隊の長の行動、それは隊員への命令と同義である。
アリシアが相乗りをしていた女性騎士がルーカスに倣うように、手綱をとって馬を減速させる。
アリシアの周囲を追従していた3人の騎士もまた、同様に足を止めた。
騎士の1人が、ルーカスの元へと駆けよる。
「団長、どうかしまし――」
しかし、彼が問いかけた言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
「……え?」
呆けた声は誰のものだったのだろうか。
あまりにも唐突に――騎士の兜が宙を舞った。
振りぬかれた剣先に滴るは鮮やかな赤い液体。
残った胴体に首はなく。ただ、断面からおびただしい量の血があふれ出る。
頭を失った騎士の体はそのまま馬上から落下して、ぐしゃり、と嫌な音が響いた。
唐突な味方の幕切れに、残った騎士たちが呆然としている。
自分たちが敬愛する隊長の凶行に、誰一人としてとっさに動くことができなかった。
そして、その隙は騎士たちにとってあまりにも致命的だった。
ルーカスの凶刃が別の騎士を襲った。目にも留まらぬ速度で振るわれた剣は、
鎧と兜の僅かな隙間を的確に縫う斬撃は彼が凄絶な剣技を持つ証。
だが、そんな妙技も
「っ!?」
立て続けに仲間を2人殺された騎士の1人が声にならない叫びをあげながら、ルーカスへと突貫する。
しかし、冷静さを失った彼に勝機はなかった。ルーカスは自身に振り下ろされた剣を容易く弾くと、流れるような動作でその騎士の首を刺し貫いた。
残るはアリシアと女騎士の2人のみ。
ルーカスの突然の反逆に動揺した女騎士の選択は――逃亡だった。
背を向けて駆ける女騎士。しかし、その命はそう長くは続かなかった。
敵に背後を向ける騎士に勝機も機運もない。
ルーカスは容赦なくその背後を取ると、そのまま頸部を斬り裂いた。
断末魔の叫びと共に女騎士の首が折れて落ちた。
頸動脈から溢れる血液がアリシアのローブを濡らして、生生しい鉄の臭いが馬上に充満した。
屍が地に落ちるのに引きづられて、アリシアの乗る馬がのたうって暴れた。
その揺れと衝撃に耐えられず、アリシアの体は宙へと投げ出された。
浮遊感も束の間に。アリシアの全身を衝撃が走った。
それでも彼女が何とか意識を保てていたのは、地面が泥水に濡れ、柔らかくなっていたから。
これがもしも乾いた大地だったとしたら、アリシアの全身の骨が砕けていたかもしれなかった。
「これが新米騎士。軟弱極まりないですね」
耳元にそんな言葉が聞こえたかと思うと、アリシアの体が強引に持ち上げられた。
「う、ぐ」
「暴れられると厄介ですね」
ルーカスの声と共に口を何かでふさがれる。何とも言えない臭気がアリシアの鼻腔を侵食した。
徐々に朦朧としていく意識。
体に力が入らない。
「ど……、て……」
どうして。
アリシアの言葉は発されることはなく。
そんなアリシアをルーカスは担ぐと再び、馬に乗り走り出した。
「仕事が増えてしまいましたね。本当にあの阿呆共は」
苛立たし気にそう呟いたルーカスの言葉を最後に、アリシアの意識は暗くなった。
濃厚な土と草木の臭いで目が覚めた。
瞼を開けた先には土と汚泥ばかり。顔を覆う不快な感触はおそらくこの泥によるものだろう。
舌先にざらつく砂利の感覚。苦みと吐き気に襲われて、アリシアは泣きそうになった。
口元に流れる泥水を飲み込まないように体をよじらせようとして、アリシアはそれができないことに気が付いた。
体に力が入らない。四肢の全てが自分の物ではないかのよう。
それでいて全身ひどく傷む。左頬と額にも鈍い痛みがある。心なしか呼吸も苦しい。
アリシアにとって今までに経験したことのない苦痛。死の訪れを感じさせる体の変調に、アリシアは底知れぬ恐怖を抱いた。
「……起きてしまいましたか。せめて苦痛がないよう終わらせようと思ったのですが」
冷たい男の声が聞こえて、アリシアは背筋を凍らせた。
ルーカスの声だ。
いつもは安心感さえある彼の声が、いまや別人のようにアリシアには聞こえた。
「やはり、ロクロの実の催眠効果は薄い。ほんの少し移動しただけでこれとは」
動けなくするのにはとても便利なんですがね、とルーカスは誰にともなく呟く。
「……ぅあ……ぅ」
「ああ。話そうとしても話せないでしょう? これはそういう薬なんですよ」
淡々と語るルーカスが恐ろしかった。
アリシアにはわからなかった。なぜ、彼がこのようなことをするのか。
味方の騎士を殺して、今のルーカスはアリシアさえもその手にかけようとしている。
何か彼を怒らせるようなことをしたのだろうか。
アリシアはルーカスのことをあまりよく知らない。父とヘンドリータ司祭の推薦で自分の
会話をあまりしなかったのが良くなかったのだろうか。わがままを言って、グレイズラッドの馬車に同乗したのが良くなかったのだろうか。
必死にアリシアは考える。
だが、まだ齢10歳のアリシアには思いつくはずもなかった。世俗から離れ、王宮で蝶よ花よと育てられたアリシアには到底思いつかぬものがこの世にはたくさんある。
「……っぁ」
自分はどうなるのか。殺されるのか。
迫る焦燥に、アリシアの恐怖心がさらに膨れ上がる。
だが、動けないアリシアにはルーカスの様子がわからない。雨音に紛れた物音をアリシアは本能的に探した。幾分か弱い雨の音の元であれば、雑多な音を聞き取れるかもしれない。不自由な体と視界の代わりに、アリシアは耳を使ってルーカスの動きを探ろうともがいた。
必死なアリシアとは対照的に。
ルーカスは動いていなかった。土を蹴る音も、甲冑がこすれる金属音も聞こえてはこない。
まるで何かを待つように、ただじっとしている。
その静寂が、アリシアにとっては不気味だった。
そして唐突に。
雨と水の流れる音しかない世界に変化が訪れる。
泣きそうになりながら耳を澄ませていたアリシアは――その音を聞き取った。
アリシアが背を向けている方角から、草木を静かに踏みしめる音が聞こえる。
(誰か、来た……?)
他の騎士か。あるいは東辺境伯の軍人か。あるいは、もしかしたら、グレイズラッドの可能性もあるかもしれない。
アリシアの心に一筋の希望が灯る。
物語において、お姫様の窮地にはいつだって騎士が駆けつける。それは、物語の鉄板であり、お約束の展開だろう。騎士は姫を助け出し、物語は大団円を迎える。アリシアが読んだ童話の多くはそうして良い結末を迎え、一方で悪は滅びることとなる。
アリシアは知らない。現実は物語ほど甘くはないことを。生まれて間もない彼女に、現実を全て理解せよというのは難しいことだろう。
それに、たとえ知っていたとて。恐怖心はその人の現実を歪ませるものだ。人は苦しみから目を逸らし、自身の心の安寧を保つ。
10歳のアリシアにとってもそれは例外ではない。むしろ、いままで苦痛を知らなかった彼女にとって、この状況はあまりにも酷だった。
だからこそ、なおさらに、アリシアは縋る。縋ってしまう。まだ幼い彼女は希望を求めてしまう。
だが、この世はアリシアが思うよりもずっと醜いものだ。
アリシアの耳に聞こえてきたのは。
「おいおい、なんだか楽しそうなことをしてるじゃねぇか」
邪悪な笑いと共に訪れた――もう1つの悪意だった。
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