第6話
帰らなければ。
なぜ駆け出したのかわからなかった。
帰りたい、その焦燥が指し示しているのは、あの湖に浮かぶ城だった。まばたきをするたびに、あの精巧な装飾のされたブラックエボニーの扉の向こう、広い玄関ホールの右側にある塔間、そこの天窓から差し込む柔らかい光、舞い散る埃に照らし出されたキルトのソファに戻って早く眠りたい、そうして安心したいという感情がままならないほど強くなっていく。雨さえ降り出した。なぜ雨というのはこうも忌々しく、人を孤独な気持ちにするのか?
それでもナナヤは【家】に向かって踵を返すことができず、石畳を走り続けた。
この石畳の先には何がある? 敷地の外、そこには何もない。そこに帰る場所などないとわかっている。なのにどうしてか、止まることができなかった。
雨粒が目の前で、ざあっと天に戻っていく。
それを見て理解した。
自分はあのいかれた魔術師から逃げるために走っているのだ。
べつだん足が速いわけでもない。
ナナヤは足がもつれた瞬間、あ、転んだな、と思った。しかし、その瞬間、自分の身体が斜めに滑り、右隣の垣根に突っ込んだあと、衝撃に振り落とされた痛みがくじいた右足に追いついた瞬間に、あの博士がなにかをやったのだ、と思い至った。
痛い。
「馬鹿馬鹿しい……まったく理解しておらんようだな」
博士は言った。
「私こそが、アーロヌド・ゴーストポイズン・スーパーストロング。貴様ら凡骨のもっとも敬うべき真なる魔術師だ! 貴様はただ、私に言われたとおり、必要十分の雑事さえこなしていればそれでいいのだ。わかるか?」
博士が胡乱に左右へぶれながら一歩踏み出すと、そのかかとが石畳に触れた瞬間、彼はもう垣根をなぎ倒したナナヤのすぐ目の前にいた。
彼は眉間に皺をよせ、ひどく面倒そうな顔をしたあと、ナナヤを指さし、「立て」と言った。
その瞬間、ナナヤのくじいた右足から痛みが霧散した。最初からそんなものはなかったかのように。
彼女は言われたとおり立ち上がった。
「さあ、帰るぞ。このままパンを焼くことすらままならないようでは、いつまでたっても原稿が終わらん!」
博士が城に向かって踵を返す。
彼はナナヤがその後ろをついてくるであろうことを疑わなかった。
だが、ナナヤは言った。
「嫌です」
博士は立ち止まった。
「嫌です」
ナナヤはもう一度言った。
俯いて、腫れひとつない右足首を見つめたまま。
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