いつかまた、君と話を

三角海域

いつかまた、君と話を

  無数に灯る町の光がやたら眩しく感じられる夜。

 僕はスマホを手に、とっくに閉館した図書館の前でぼんやりと立っている。

 今日だけで何回意味もなくスマホのロックを外しただろう。

 そんな、何十だか何百だかわからないロック解除を経て、僕はようやくアプリをタップした。

 アプリの名は、「トンネル」という。

 アプリが起動すると、スマホの画面が暗転し、しばらく待つと、その闇の中心に光が点滅し始める。

 その光は、鼓動のように、一定のリズムで明滅する。

 しばらくその光を見つめていると、明滅が止み、柔らかな淡い光がスマホの中心に灯る。その光は、町の放つものと違い、僕の目を優しく照らしてくれるように感じた。

「もしもし?」

 スマホから声がする。聞きなれた声。懐かしい声。なにより、愛しい声。

「聞こえてる?」

「ああ、ちゃんと聞こえてるよ」

「良かった。ちゃんと声が届いてるか不安で」

「こっちの声も問題なく届いてる?」

「うん。大丈夫」

「久しぶり」

「うん、久しぶり」

「はる君、元気だった?」

「あんまり。そっちは? って聞くのも変か」

「そうだね、変」

 僕らは笑い合う。

 少し高めで、けれど落ち着きの感じられる声の主は、名前を仁科五月という。彼女は、僕の恋人だった人だ。

「はる君。ちゃんとご飯食べてる?」

 はる君というのは、僕、遠藤晴樹のことだ。

「あれからしばらくはゼリーとかそんなのばっかりだった。でも、いまは少しは食べられるようになったよ」

「……ごめんね」

「五月のせいじゃないよ。僕の心が弱いだけだ。それより、あんまり時間もないし、そろそろ出発しよう」

「うん。わかった」

 そう答える五月の声は、少しだけ悲しそうに聞こえた。



 スマホをブルートゥースに繋ぎ、ハンズフリーで夜の町をゆっくりと歩いていく。

「こうやって二人で話しながら歩くの、久しぶりだ」

 僕がそう言うと、五月も「本当にね」と嬉しそうに言う。

「でも、なんか、やっぱり変な感じ」

「どうして?」

「だって、私、当たり前にはる君と話してるから」

「なんだよそれ。いつも冴えてる五月らしからぬ曖昧さだ」

「……ねえ、はる君」

 五月が、何かを言おうとしている。

「あのさ」

 僕はそれを拒絶するように、言葉を重ねる。

「この店、おぼえてる?」

「忘れないよ。だって、ここで出会ったんだから」

 ここ、というのは、画材屋のことだ。

 僕は当時大学に通いながら詩を書いていて、その時は色をテーマにした詩集作りに励んでいた。テーマに沿った場所をあれこれまわっていく中、この画材屋で僕は五月と出会ったのだ。

 あの時、五月は絵具で線を引いてた。

「赤、青、緑。その他色々。あんなに綺麗な色の線を見たのは初めてだった」

「また始まった。大袈裟だよはる君。私はただどんな色か試させてもらってただけ」

「そんなことない。五月の描く線には、物語が感じられた」

「もう。そんな風だから友達出来ないんだよ。相変わらずアーティスト気取りなんだね」

「気取り、じゃなくて、アーティストなの」

「はいはい」

 少しずつ、僕らは「あの頃」にかえっているように感じられた。

 そう、「あの頃」。

 画材屋で、僕は五月に声をかけた。ろくに女の子と話したこともないくせに、この後お昼ご一緒しませんか? と誘ったのだ。

「不審者だったね、あの時のはる君」

「それは言い返せない」

 五月が笑う。

「でも、その後に、自分は詩を書いていて、あなたの描く線がすごく僕のインスピレーションを刺激して、なんてまくし立てて。それが面白くて、ついOKしちゃって」

「アーティスト同士惹かれ合ったんじゃなくて?」

「はる君と違って現実を見てたからね」

「五月の才能は本物だよ」

「自分じゃ自分の真贋は見分けられないんだよ。客観的な目でしか判断できないの」

「僕が真だって認めてるじゃないか」

「身近過ぎる人の意見はカウントしません」

「もっと自信もっていいのに」

「本当に、はる君は変わらないね」

「ブレないことがいい表現者の条件だから」

「ほめたわけじゃないんだけどなぁ。それに、自信なんていっても今更だし」

 思い出を振り返りながら、歩き続ける。目的地までは、ゆっくり歩けば一時間ほどかかる。ちょうどいい計算だ。

「僕は、僕の書いた詩集の表紙と挿絵を、五月に描いてほしかった」

「……うん」

「責めてるわけじゃない。これは後悔だから」

「そっちの方が辛いよ」

「ごめん。けど、やっぱり忘れられないから」

「はる君。忘れないってことと、忘れられないってことは、同じじゃないよ。綺麗な思い出も、引きずり続ければ傷ついていくだけなんだから」

 五月の言葉に、僕は何も返すことができなかった。五月は、いつも正しい。この言葉だって、きっと正しい。それはわかっていた。

「ごめん」

 だから、僕は謝ることしかできない。ずるくて、弱いから。

「……あ、はる君」

 重くなった空気を変えようとしたのか、五月が明るい調子で言う。

「どうした?」

「美術館」

「ああ、懐かしいな」

「最近行ってないの?」

「すっかり。そういえば、アートスペースで五月の絵を飾らせてもらったことあったよね」

「うん。他の子たちの絵と一緒にね」

 五月は、美大に通っていた。そこの学生の中から選ばれた何人かの絵を、美術館に飾らせてもらえるという催しがあり、五月の絵はそれに選ばれた。

 僕らは喜び、普段は冷静な五月もその時は大いに感情を爆発させていた。

「だから、才能あるって言ったじゃないか」

「選ばれるってことが、そのまま成功に繋がるわけじゃないんだよ」

「冷静というか、浪漫がないというか。五月だって昔と変わらないじゃ……」

 そこで、僕は言葉を止めた。

「そりゃそうでしょ」

 五月は明るく言う。僕を気遣うように。

「あ、謝るの禁止ね」

「ごめ……わかった」

「うんうん。偉いよはる君」

 五月の声は明るい。不自然なほどに。

「美術館、いまはどんな展示をしてるんだろう」

「気になる? しょっちゅう通ってたもんな」

「うん。私につき合わせるみたいで申し訳なかったけど」

「そんなことない。楽しかったよ。いろんな絵を見て、五月の解説でいろんな事を知れて、絵を見た後は併設されてるカフェでケーキとコーヒー」

「あそこのケーキ、美味しかったな」

「本当に」

「すごくゆっくりと時間が流れてた。楽しいと、時間はあっという間に過ぎちゃうっていうけど、二人でああして過ごしてる時間は、忙しない日常から切り離されたみたいにのんびりしてて」

「時間のことなんて気にならなかった」

「うん」

「僕は、そんな時間が、ずっと続くって思ってた」

「……うん」

「でも、僕らはこうしてまた話してる」

「うん」

「それで十分だって思える。思えてきた」

「はる君……」

「少しゆっくりしすぎたかもしれない。ちょっとだけペースを早めようか」

 僕は、少し足早に歩く。

 焦りが、心の奥から少しずつにじみ出てくる。

 焦り。もしくは恐怖だろうか。

 僕はそんな自分の感情から目を逸らし、歩き続けた。


 長い坂を、僕はのぼっている。

「はる君大丈夫? 息荒いよ?」

「この坂、こんなにきつかったっけ」

 ずっと引きこもっていたせいだろう。体力がだいぶ失われている。

「平気?」

「あんまり……でも、頑張るよ。というか、五月はこの坂を絵の道具持ってのぼってたんだよね。すごいな」

「そんなたいした坂でもないよ。はる君、元々貧弱だったけどさらに貧弱になっちゃって」

「ひどいな」

「旅行とかいっても、先にへばるのはる君だったもんね」

「一日中座って絵を描いてる五月のどこにあんな体力があるのか、ずっと不思議に思ってた」

「はる君が体力なさすぎなだけだと思うけどな」

「言えてるかも。運動しないとな」

「そうだよ。元気でいてくれないと」

 すぐに、そうだねと返したかったけれど、言葉が出てこなかった。それを誤魔化すように、僕は大きく息を吐きだす。

「あともうちょい」

「うん。もうちょい」

 いつもこんなやり取りをしていた。

 五月が坂の上で手を振りながら、頑張れと声をかける。必死で坂をのぼりおえた僕に、五月が手を伸ばし、僕はその手を握る。

 そして、僕らは手を繋いで公園へ向かう。

「あと、少し」

 声が揺れる。疲れなのか、それ以外の感情なのか。答えは出ているのだけど、「答え」を認識しないように僕は歩き続けた。


「やっと着いた」

「お疲れ様」

「変わんないな、ここは」

「うん。全然変わってない」

「僕はあそこのベンチに腰掛けて、五月が絵を描くのを見てて」

「全然デートっぽくないよね」

「けど、僕はそんな時間がすごく好きだった。絵を描いてる五月を見てると、どんどんいい詩が浮かんできて」

「お昼になったら、互いの作品を見せあって」

「楽しかった」

「うん。楽しかった」

 一瞬の沈黙が、尾を引くように続く。時間を無駄にしたくないのに、時間を意識すればするほど、言葉が出てこなくなる。

「はる君」

 だから、五月が僕に呼びかけた時、続けて何を言うかわかっていたのに、僕は黙っていることしかできなかった。

「ごめんね」

 何か言わないと。

「私が」

「五月」

 僕の呼びかけに上書きするように、五月は言葉を続けた。

「私が、死んじゃったから」

 あまりにも残酷で。

 あまりにも悲しくて。

 受け入れることなんて到底できない、けれど間違いのない事実が、僕を「あの頃」から現在へと引き戻した。



 何年か前、霊の存在が証明された。

 難しいことはわからないけど、死者の残留思念はしばらくは現世に残るらしく、それはある種の電磁波に似ているのだという。

 その電磁波のような残留思念にアプリを介してアクセスすることで、死者と話すことができるということらしい。

 トンネルと名付けられたこのアプリは、死者の世界と生者の世界を繋ぐという意味でつけられた名だという。

 けれど、厳密に言うと、死者「そのもの」と話せるわけではない。

 残留思念の電磁波は個別ではなく、ひとつの大きな波になっている。つまり、その電磁波は、五月の残留思念でもあり、見知らぬ他人の残留思念でもあるのだ。

 そこから、死者に合わせた電磁波の波形を見出し、それをもとに死者の人格や声を疑似再現することで、死者との会話を可能とするというのだ。

 だから、厳密にいえば、死者の国があるというわけではない。

 この技術を生み出したのは著名なAI研究者なので、もしかしたら、こうして話してる五月はAIとも言えるのかもしれない。

 けれど、そんなことはいい。

 僕はとにかく、五月と話したかった。

「時間もお金もかかったでしょ」

「そんなの、この時間を得るためには些細なことだよ」

「些細じゃないよ。存在しない人と過ごす時間のために、はる君はお金と時間をたくさん使っちゃったんだよ」

「五月はいまこうして存在してるじゃないか」

「してないよ」

「してるさ! だって、こうして話せてる! ここに来るまでに、たくさん昔のことも話して……」

「本物かどうかわからないよ? 私は再現されただけの偽物かもしれない」

「どうしてそんなこと言うんだよ」

 駄々っ子のように僕は言う。実際、目には涙が溜まっていた。

「はる君。私の死を、ちゃんと受けとめて」

「……嫌だ」

「お願い。きっと、必要なことだよ。はる君にも、私にも」

 五月は、優しく言う。

 僕は我慢できず、声をだして泣いた。



 トンネルを使うには、いくつかの手順を踏む必要がある。

 まずは、とんでもない倍率の抽選に応募する。この段階で、それなりの金がかかる。それでも常に応募が絶えないのは、それだけ、死者に会いたい人が多いということなんだろう。僕のように。

 その後、抽選で選ばれるとメールが届き、指定された場所でアプリの使い方を習い、希望する日付と時間を告げ、スマホにアプリを登録してもらうのだが、当日までアプリを開くことはできない。

 その後は、会いたいと希望する死者についていくつか質問されることに答えていき、あとはすべてお任せで、当日を待つ。

 トンネルは、時間により使用料金が決まる。話せる上限である九〇分を選べば、かなりの額になる。

 僕は、迷わず九〇分を選んだ。

 公園に来るまで約六〇分。五月と会話できるのは、あと三〇分と少しだ。

 二人で思い出を振り返りながら歩き、デートで最も利用していたこの場所で別れ、終わりにするつもりだった。

「私、ここから見下ろす町が好きだった」

 五月は、淡々と話す。

「はる君が町をテーマにした詩を書きたいから、表紙と挿絵を描いてくれないかって頼んできた時、ここからの景色を表紙にしようってすぐに決めた」

 僕ら二人で作る、初めての詩集。それを言葉にするだけで、世界が光って見えた。

「僕が、あんな所を待ち合わせ場所にしなければよかったんだ」

 けれど、そんな光輝く僕らの時間は、ある時唐突に奪われた。

 待ち合わせ場所の、交差点近くの広場に、車が突っ込んだのだ。

「せめて、一緒にいる時に突っ込んでくれればよかったんだ」

「そんなこと、二度と言わないで」

 強い口調で五月が言う。

「はる君のせいじゃないよ。あんなの、予測できる人なんていない」

 五月は、いつも待ち合わせの十分前には到着している。そのせいで五月は事故に巻き込まれ、僕はまぬがれた。

 まぬがれてしまった。

「もう。気にしないでって言ってるのに」

「無理だよ。無理だ。僕には、五月が必要なんだ……」

「……ねえはる君。通話が終わったら、どうするつもりだったの?」

 五月が問う。その声は、あまりにも優しくて、僕は嘘をつくことができなかった。

「……五月はいつも鋭いな」

「はる君がわかりやすいんだよ」

 死のうと思った。

 別に、今日が初めてじゃない。五月が死んだあの日から、僕はずっと死のうと思っていた。

 けれど、死ぬことができなかった。

 死のうと思うと、足がすくんでしまう。僕の五月に対する愛なんてそんなものだったのかと、そのたび悲しくなった。

 けれど、実際に五月と話して、電磁波だろうがなんだろうがあの世というものの存在を強く感じることができ、五月とまた会える可能性を感じることができれば、踏ん切りがつくと思った。

「ねえ、はる君。私たちは、いまこうして声で繋がってる。けど、本当の意味で繋がってるわけじゃないと思うんだ」

「どういう意味?」

「こうしてはる君と話してる私は、本当の私かどうかわからない。けど、はる君の思い出の中にいる私は、間違いなく本物の私なんだよ」

「実際に話せないなら、いないのと同じじゃないか」

「違うよ。存在するってことは、「いる」ってことは、そんなに特別なことじゃないんだよ。画材屋での時間を、美術館での時間を、公園での時間をはる君が思い出してくれるたび、私はちゃんとはる君の中で生きてるんだよ。死んじゃった人がその後も生きられるのは、生きてる人の思い出の中でだけなんだよ」

 五月が、少しだけ間を置いて続けた。

「すぐに受け入れてとは言わないよ。でも、死ぬのはやめて。そんなの、悲しすぎるから」

「僕には生きる理由がもうないんだ」

「詩集があるよ」

「え?」

「二人で作ろうって言ってた詩集、完成させて」

「無理だよ」

「どうして?」

「だって、五月の絵が……」

「私が今までに描いた絵の中から、はる君が詩集に合うと思うのを選んでよ。それで、完成したら、私のお墓まで持ってきて、はる君が一番よく書けたと思った詩を読み聞かせて。アプリじゃだめだよ」

「でも……」

「私、はる君が好き」

 いきなり五月が言う。

「なんだよいきなり」

「それと同じくらい、はる君の詩が好き。だから、完成させて。お願い」

「五月……」

「私は、はる君と出会えてよかったって思ってる。それは今も変わらない。わがままかもしれないけど、はる君にもそう思っていてほしい」

「思ってるよ。僕は、五月と出会えて幸せだった」

「ありがとう。ねえ、はる君。私はね、はる君が辛いとき、悲しいときに、一緒に過ごした思い出がそれを乗り越える力になってほしいって思う」

 五月は恥ずかしそうに言った。

「ね、はる君」

 スマホの画面の、淡い光。その向こうから聞こえる五月の声。

 光の向こうに、五月の顔が見えた気がした。

「生きて」

 まっすぐな言葉が、僕の心の深い所に刺さる。

「五月がいない世界で? できるのかな、僕は弱いから」

「体は貧弱だけど、心は弱くないよ」

「ほめてるの? けなしてるの?」

「ほめてるよ」

 僕らは笑い合う。極めて不自然な繋がりの中で、極めて自然に。

「……やってみる。出来るかどうかわからないけど」

 しばしの沈黙。けど、それは重苦しいものには感じなかった。


 町を見下ろせる場所。五月のお気に入りのその場所で、僕らは静かに話している。

「五月はなんで絵を描き始めたの?」

「そういえば、お互いどうして絵を描いたり詩を書いたりし始めたのかって話したことなかったね。どうしてだろ」

「お互い、それが自然だったからじゃないかな。僕らは、自分たちの生活の中に絵や詩が当たり前に存在していた。食事とか睡眠みたいな感覚だったのかも。自然すぎて疑問に感じないほどに」

「そっか。そうかもしれないね。うーん。どうして絵を描き始めたのか……元々、絵を描くことは嫌いじゃなかったけど、好きってほどでもなくて。けど、なんとなく描いた風景の絵が、親とか先生にすごくほめられたんだ。それで、またほめてほしくて絵をいっぱい描いて。それが、しばらくしたらちょっと変わってきたんだ」

「変わった?」

「そう。だんだん納得がいかなくなってきた。自分が見てる風景の美しさと、自分の描いた絵に差があるなって。全然表現できてないなって悔しくなって。そこからはもうどんどん沼にはまるみたいにして、絵にのめりこんでいった。ほめられたいって気持ちが、表現したいって気持ちに変わったのがその瞬間だったんだと思う」

「なるほどね」

「はる君は? どうして詩を書き始めたの?」

「僕? 僕は……まあいいじゃないか」

「人に訊いておいてそれはないよ。これでお話できるのも最後なんだから、ちゃんと訊いたことには答えてほしいな」

 五月は冗談ぽく最後という。実際それは冗談ではないのだけど。でも、それを笑えるほどには、僕の心は少しだけ前向きになったのかもしれない。

「僕は、とにかく自分の気持ちを言葉にしたかったんだ。好きとか嫌いとか、そういうストレートな言葉じゃなくて、もっと深い所にある自分の心を正確に言語化したいって思ってた。でも、上手くいかなくて。いろいろな本を読んだり、いろいろな場所に出掛けたりして、自分だけの言葉を探したんだけど、駄目だった。大学に進んで、本格的に文学や言語学を勉強をしても、やっぱり上手くいかなくて。でも……」

 少し間ができる。

「でも?」

 五月は先を促す。僕は恥ずかしさをこらえ、言葉を続ける。

「あの画材屋で五月を見た時から、自分の中に「何か」が溢れてくるの感じたんだ。僕だけの言葉があるのだとしたら、その「何か」の向こうにあるって強く思えるほどに」

「私のおかげなんだ?」

「そう。五月のおかげだ。初恋がくれたギフトだよ」

「なるほど。じゃあ、会えてよかった。はる君が詩を書き続ける理由になれたんだもんね」

「結局、その「何か」が見つかる前に、僕らの時間は終わってしまったけど」

「終わってはいないよ。続きはしないけど、消えもしない。過去は過去でしかないけど、思い出に変わった過去は、未来を開いていくから」

「五月は前向きだな」

「私はもうはる君の手を引いてあげられないけど、思い出の中で背中を押すことはできるよ。それを忘れないでね」

「ありがとう」

 少しずつ時間がすぎていく。二度目の別れが迫ってくると、やはり悲しみが心の底からわいてくる。

「あと少しだね」

 五月が言う。

「ああ。あと少しだ」

「楽しかったよね」

「楽しかった」

「思い出、多いな」

「僕だってそうさ。思い出が、五月を思い出させるものが多すぎて困るよ」

「そんなに?」

「どこに行ってもね。パスタよりそばがすきだったなとか、カレーはとろみがついたものが好きだったなとか、スタバの新作が出たら絶対飲みに行ってたなとか」

「食べ物関連ばっかりじゃない。そんなに食い意地はってないよ」

「それだけ日常に思い出が溢れてるってことだよ。深夜のコンビニを出た時に見上げた夜空の綺麗さに感動したこととか、その日のことを記念にしようって言って、コンビニのレシートをずっと残しておいたこととか」

「あの時のレシート、まだある?」

「あるよ。ちゃんと残してある」

「更新していきなよ、なにかに心が動かされた時、記念になにか買い物をして、そのレシートを残しておくの」

「いいね。詩的な行為だ」

「でしょ」

「更新していかないとな、日々を」

「できるよ。はる君は詩人なんだから」

「未熟な、がつくけどね」

「伸びしろがあるってことでしょ」

「プラス思考だな」

「残った時間を全部はる君を前向きにさせるために使おうと思ってるからね」

「もう残り少ないよ」

「だから、畳みかけていくんだよ」

「勢いがすごいや」

「私は良くも悪くも前進しかできない性格だから」

「それはいいことだよ」

「悪いことも多いよ」

「そう?」

「ひたすら前を向いて、前へ進んで。けど、思ったより進めてなくて。時々、どうしようもなくなることもあって。けどね、そんな私も、はる君と会えて、変われたんだ」

 急に自分の事が話にでてきて、僕は驚いた。

「僕が? 何かしてあげられたことあったかな」

「はる君は自分の心にすごく素直。悩んで、苦しんで、けど、好きなことをやめるとか諦めるって選択肢がそもそもない。私は、そんなはる君にいつも勇気をもらってた」

「大袈裟だよ」

「……あのね、初めてあの画材屋で出会った時、もう画家の夢は諦めようかなって思ってたんだ」

 五月は静かに語りだした。

「なんだろう。上手く言えないんだけど、急に疲れちゃって。それで、次に描く絵で最後にしようって思って、画材を買いに行ったんだ。そしたら、変な人に声をかけられたってわけ」

「反省してます」

「あなたの引いた線には物語がありますって必死に訴えてくるはる君の言葉で、自分にまた期待できるようになったんだと思う。心から思ったことを、心の赴くままにまっすぐ言葉にしてくれたから、どんなはげましの言葉より、私の心を動かしてくれた。それって言葉の力じゃない?」

「言葉の力……いつか、僕の言葉が、誰かの心を前向きに出来たらいいな」

「できるよ」

「できるかな」

「できるったらできる! ね?」

「わかった。頑張ってみる」

「うんうん。楽しみだね」

 僕らは、未来のことを話している。

 できることなら、五月と共にその未来を生きたかった。

 けれど、それはもう叶わない。

 時が過ぎる。もう間もなく、別れの時間がやってくる。

「そろそろ、だね」

 五月が言う。

「ああ。お別れだ」

 何か、前向きな言葉を発しようと思った。最後は笑って別れるために。

 けれど、少しの沈黙の後漏れ聞こえた五月の嗚咽が、喉元まで出てきた僕の言葉を飲み込ませた。

「五月?」

「ごめん……ごめんね。我慢しようと思ってたのに」

 嗚咽がどんどん大きくなり、五月は子どものように泣き出した。

 そうか、五月も、辛かったんだ。当然だ。当然じゃないか。

「私、もっと生きたかった。もっと絵をたくさん描きたかった。はる君といろんな所に行って、いろんなことを語り合いたかった」

「うん」

「はる君のまっすぐな言葉をたくさん聞きたかった。はる君の手を引いてあげたかった」

「うん」

「二人の詩集、完成させたかった」

「うん」

「どうして、どうして私、死んじゃったんだろ」

 五月は泣きじゃくりながら言葉を重ねていく。

「ごめんね、最後の最後に。本当にごめん」

「いいよ、大丈夫。こっちこそごめん。五月が辛いのは当然なのに、弱音とわがままばっかりで。僕はもう大丈夫だから。五月が思ってること、全部僕にぶつけてほしい。そのぶつけられた思いを抱いて、僕は生きていくから」

「はる君は優しいね」

「五月には負けるよ」

 五月は泣きながら、それでもなんとか笑おうとする。そんな情景が、声越しに見えた気がした。

「ありがとうはる君。はる君のおかげで、最高に楽しい人生だった」

「僕も、五月のおかげで最高の時間を過ごせた。これからも、それはずっと変わらない。ちゃんと生きるから。ちゃんと生き切って、また五月に会えたら、僕が経験したたくさんのことを五月に話すから」

「うん。楽しみにしてる」

 時間が迫る。何を最後に言おう。僕が一番五月に伝えたい言葉は何だろう。

 一瞬悩む。けれど、ふっと言葉が湧いてきて、僕は自然とその言葉を口にした。

「愛してる」

「私も」

 そう言葉を交わした後、通話が切れた。

 淡く灯っていた光は消え、スマホの画面には暗闇が広がる。

 その暗闇に、サービスを使用のお礼のメッセージが表示され、その後アプリが自動的に削除された。

 僕はスマホをしまい、立ち上がる。

「生きるよ、ちゃんと、生きる」

 僕は、そう呟く。

 しばらく町の明かりを見つめ、僕は歩き出した。

 明日から、詩を書こう。二人の詩集を完成させるために。

 内容は決まっていない。けれど、タイトルだけは、いま決めた。

 

 いつかまた、君と話を。

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