74話 湖上にて
ハンスの罵声に、思わず体がすくむ。
王宮で、婚約破棄を宣言されたこと。ドラゴンを飼う資格を取り上げられたこと。
アールトネン家を名乗ることを、禁止されたこと。
それら全てが蘇ってきて、目の前が暗くなる。呼吸は浅くなり、手が震える。
一瞬自分がどこにいるのか分からなくなって、瞬きも忘れかけた、その時。
「ミルカ嬢」
低い声が耳元で呼ぶ。
私はいつの間にか、地面に降り立っていたらしい。
イスクラにまたがったままの私の横に、ヴォルテール様の姿があった。
(呼吸を、――呼吸の仕方を、思い出して)
私はすうっと息を吐き、何度も瞬きしながら、ハーネスを外した。
そうしてヴォルテール様に手を取られ、地面に降り立つ。
「この女……ッ!」
ハンスの声がして顔を上げる。
彼は凄まじい形相で私を睨んでいたが、近づけないようだった。
(それはそうでしょうね。アルファドラゴンに睨まれているんだもの)
カイルの鋭い爪が、ハンスと私の間に距離を作ってくれていた。
それでも、どす黒い憎しみと怒りを露わにした表情が見えてしまうのは、仕方がない。
「アンナをどこへやったか今すぐ言え。それに、お前がプラチナドラゴンだというあの生き物は、プラチナドラゴンではなかった。その点についても説明してもらうぞ!」
「アンナさんのことは知りません。プラチナドラゴンについても……。まだ分からないことの多い種であることは承知の上で、王宮で世話していたはずです」
ハンスがちっと舌打ちした。
「知らないわけがあるか! お前のような悪知恵の働く狡い女のことだ、アンナをたぶらかして、私から引き離したのだろう! アンナに王宮の宝石を持ってこさせれば、金になるしな」
「いいえ。私は何も知りません。宝石も知りません」
「ふん。どうせプラチナドラゴンについても、何も知らないと言うのだろう。そうすれば全ての責任から逃れられると思っているのだろうが、そうはいかんぞ!」
イスクラが前のめりになりかけたので、両手で強く押さえる。よく堪えてくれている方だ。
するとヴォルテール様が屈みこみ、イスクラに囁く。
「イスクラ、少し待て。もうすぐだ」
「『長く』『時間を』『かけるな』!」
アンナさんについては、本当に知らないのだ。プラチナドラゴンについては、私がブランカを取り戻すための方便だし。
どう答えようか迷っていると、ヴォルテール様が私を制した。
「全てをミルカ嬢の責任にすればいいと思っているのは、お前の方だろう」
「何だと?」
「ドラゴンの飼育についてもそうだ。プラチナドラゴンが育たないこともそう。アンナが逃げ出したというのも、みんな、全て、ミルカ嬢に押しつけようとしている」
ヴォルテール様は唸った。
「甘えるな。ミルカ嬢はお前を楽にしてやるための存在ではない」
「貴様は一体何様のつもりだ?」
「北方辺境領主として。そしてミルカ嬢に恋する男の一人として。今この場でお前を断罪する」
ハンスは一瞬ぽかんとした表情になって、それからこわれたおもちゃのようにけたたましく笑い始めた。
「あはっ、ははははは! ミルカに恋する男と来たか。それはそれは、良いご趣味をしておいでだ」
カイルがその顎を開け、ぐるる、と低く唸った。ハンスは滑稽なほど飛びあがったが、嘲笑するかのような歪んだ表情はそのままだった。
ヴォルテール様がさっと手を振ると、カイルはすぐに口を閉じて唸るのを止めた。
ハンスはそれを不気味そうに見ている。
(ヴォルテール様は、カイルほどの偉大なドラゴンを、手振り一つで操ることができるのだと、ようやく気づいたみたいね。遅すぎるけれど)
「なに、ミルカ嬢に恋しているのは、私一人ではない。――後ろを見てみろ」
「そんな手には乗るか。私が後ろを向いた隙に襲い掛かろうというのだろう」
「お前じゃあるまいし、そんな手は使わん。どのみち生殺与奪は私のドラゴンたちが握っている。いいから見てみろ」
億劫そうに背後を示すヴォルテール様の指の先を見た私は。
あんぐりと口を開け、それから反射的に叫んでいた。
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