71話 夜明け前のざわめき


「本当に春が近いのね」


 そう呟いたのは、朝起きるといつも雪が積もっている窓辺に何もなくて、朝日が部屋に深く差し込んでいたからだ。

 ぎしぎしと音を立てて押し開けなければならなかった窓が、あっさりと開くのは、不思議な気分がする。


「いやー、冬は社交シーズンで色々なお楽しみがあるとはいえ、春の浮足立つ感じには敵いませんね!」


 うきうきした様子で言うのはタリさんだ。彼女は寒いのが得意ではないらしく、春が近づいていることが本当に嬉しいのだと言った。


「私も春は好き。ドラゴンたちの繁殖期でもあるし」

「ああそうそう、それについてギムリが話したいことがあるって言ってましたよ」

「分かった。朝食を頂いたらすぐ向かうわね」


 朝食にはなんといちごが出てきた。小さくて甘みもまだ少ないけれど、これを見るといよいよ春という感じがして、お腹からわくわくする。

 喜んでいる私を見て、イスクラがいちごを食べてみたいとねだった。


「小さいから味が分かるかしら? はい、どうぞ」

「……『おいしい』!」


 イスクラは尾の周りの鱗を逆立て、しゃらしゃらと音を鳴らしながら、いちごをもっとくれとせっついたので、私はせっかくのいちごを一つしか食べられなかった。

 けれど、これでイスクラが喜んでくれるなら、なんてことはない。

 本格的な春が来たら、二人でいちごを摘みに行こうと約束し、ギムリさんの元へ向かう。


「ああ、来たなミルカ嬢。さっそくだがこのパドックにいるドラゴンについて、卵が産まれそうなんだが」

「産まれそう? どこを見て判断されているのですか」

「ヴィトゥス種の場合は産卵口近くの鱗が赤く変色するから分かりやすいな」


 そう言ってギムリさんは、中型のヴィトゥス種の尻尾の付け根を指さした。

 よく目を凝らすと、排せつ口とは違う穴があって、その周辺の鱗がギムリさんの言う通り赤く染まっているのが見えた。


「なるほど! 王宮のドラゴンは繁殖しなかったので、初めて見ます!」


 知識はあったけれど、実際に見たことがなかったものに触れると、踊りたくなるような喜びを覚える。

 世界がぐんと広がるような気がするのだ。それが大したことないものであっても。


 ドラゴンはどの種も卵生だが、孵化するまでの年月は種によって全く違う。

 ヴィトゥス種はおよそ半年ほどで孵化するが、ブランカの――プラチナドラゴンの卵が孵化するまでは、少なくとも二年以上の歳月が必要だった。

 卵の形だけで種を判別する方法は、今のところ見つかっていない。

 人間が育てているドラゴンは、どの種のドラゴンが卵を産んだのか分かるから、孵化までにかかる時間の予想がつく。

 けれど卵だけを買い取った場合は、どの種が産んだのかは商人の言葉を信じるしかないから、なかなか難しいところだ。


「ここのドラゴンたちは、繁殖に関して何か方針を定めているんですか」

「何も。連中の好きなようにさせとる。もともとドラゴンは多産の生き物ではないし、年に一頭増えるか増えないかといったところだ」

「なるほど。では貴重ですね」

「去年とおととしは卵が産まれなかった。ミルカ嬢が来た途端産まれるというのは、幸先が良いな」

「偶然ですよ。ドラゴンは夫婦で子育てをするんですか?」

「これが個体によって全く違う。儂が面倒を見たマゼーパ種は、雌より雄の方が甲斐甲斐しく世話をしていて……」


 ギムリさんの話は本当に面白い。

 経験も知識も豊富な人と共にドラゴンの世話ができるなんて、何て幸せなことだろう。

 今朝食べた初物のいちごの味が蘇る。


(北方辺境に流刑されると分かった時、死ぬのを覚悟したけれど……。来てみたら、天国みたいな場所だった。こんなに幸せを感じられるなんて思わなかった)


 そう考えていた時だった。


「ミルカ嬢!」


 タリさんが駆け込んできた。ブーツにたっぷり外の雪がこびりついている。


「よかった。ドラゴンのところにいて貰えれば安全です」

「どうしたの、タリ?」

「来たんですよ奴が。ハンス皇子が」


 その名は、浮かれていた私に冷や水を被せるのに十分だった。


「いえ、ハンス皇子が来るのは驚きではないんですが――ちょっとタイミングが想定外っていうか。もっと仕込んでから仕留めるはずだったんですが」

「タイミング? どういうこと?」

「この先はヴォルテール様から聞いて下さい。とにかく物凄い剣幕でクイヴァニールに押しかけて、もうここ――アンドルゾーヴォに向かっているそうですよ。アンナを出せ、とかなんとか」

「アンナ……確か、ハンス皇子の今の恋人のはずだけど。なぜその人を探して北方辺境まで来るのかしら」


 タリさんは一瞬きょとんとして、それからぽんと手を打った。


「ああ! そう言えばミルカ嬢はハンス皇子の婚約者だったんですよね。いや不釣り合いすぎません? 改めて考えると」

「そうよね。ドラゴンのことしか能のない私が、皇子様の婚約者だったなんて、想像もできないわよね」

「いやいやいや。あのバカ皇子にミルカ嬢はあまりにももったいなさすぎる、という話ですよ」


 ギムリさんも深く頷いている。


「ハンス皇子がドラゴンに酷い思いをさせたことは知っている。ミルカ嬢と吊りあうわけがないな」

「でしょ~? っていうかアンナを出せって言ってるってことは、恋人に逃げられたんですかね? 面白すぎ」

「逃げられた……? でも、私が最後に見た時は、仲が良さそうに見えたけれど」


 タリさんは、ちっちっと指を振った。


「私の情報網によりますと、アンナはハンス皇子をお財布としか見ていなかったようですよ。ただ、ハンス皇子が国政に口を出したがるのを止めていたふしがあります。恐らくハンス皇子の実力が分かっていたのでしょう」


 だから、とタリさんは続ける。


「第二皇子ですから、王になる必要はありません。普段はふらふらしていて、たまに慈善事業でもしていればいいバカ息子、のポジションを得られれば、積極的に排除される恐れはないです。そのポジションにハンス皇子を押し込めようとしていたのがアンナで、そのアンナがハンス皇子の側にいないということは――」

「……手に負えないと判断した、ということかしら」


 ハンスはプラチナドラゴンに固執していた。

 つまり、王になることに異様な執着を見せていた。

 その執着が、アンナをしてハンス皇子を見限らせたのだとしたら。


「ハンス皇子は今一人で、誰も止めてくれる人がいないということね」

「ミルカ嬢はそう考えるんですね。やっぱり貴族様は考えることがお上品です。私たち生粋の北方辺境人は、こう考えます――」


 タリさんはにやりと笑った。


「獲物は今孤立して、混乱している。絶好の狩り時だ、ってね」

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