65話 共に歌う


「気の利いたものはないが、コーヒーでも飲むか」

「いただきます。あ、ミルク入りなんですね」

「あまりブラックを飲みすぎると胃にくるからな……。タリのやつがどんどんミルクの量を増やすから、最近はコーヒーの方が少ないんじゃないかと疑っている」


 ホーローのコップに注がれたコーヒーは、甘くはないけれど飲みやすい。

 少しぬるいのがちょうどよかった。一口すすると、何だかほっとする。


 と、視線を上げた私の目に、ある楽器が飛び込んできた。

 私が抱えられるていどの半円の板に、弦を張ったものだ。

 持ち運びがしやすく、弾きやすい。


「ミニハープですね。ヴォルテール様がお弾きになるのですか」

「いや、私は楽器の方はからきしでな。あれはカイルが前に弾いてくれとねだって持ってきたものだ。ご要望には応えられなかったが」

「触っても良いですか?」

「もちろん」


 私は少し埃をかぶったハープを手に取る。

 ミニハープは、板を抱えるようにして弦を弾き、音を奏でるものだ。

 音は大きなハープよりも少し高くて、川のせせらぎのような穏やかな音を出す。

 北方辺境の街中でも何度か見かけたことがあった。グースリと呼ばれることもある。


 つま弾くとぼやけた音がしたので、弦を調節した。

 ヴォルテール様が独り言のように尋ねる。


「あなたはミニハープが弾けるのか」

「はい。母が弾き方を教えてくれました。もっとも母は、優れた歌い手だったので、歌う方が多かったですが」


 思い出す。まだ両親が健在で、王宮から疎んじられていなかった頃。


「父のピアノに合わせて母が歌うんです。勇ましい歌でも、子守歌のように優しい歌でも、いつも息がぴったりで、素敵でした」


 母は歌い終えたあと、頬を上気させながら、いつも私に言ったものだ。

『あなたも、いつかこうして、大切な人と一緒に音楽を奏でる日が来るのよ。楽しみね!』


(残念だけど、そんな日は来そうもないわね。何と言っても音楽の才能がないんじゃ、どうしようもないわ)


 ピアノもヴァイオリンも一向に上達しない中、なぜかミニハープだけは褒められて、レッスンを続けることができた。

 だから他の楽器に比べれば少し弾けるのだ。

 懐かしく思いながらメロディをつま弾いていると、指先が記憶を取り戻し始めた。

 調弦をしながら、そう言えばあんな曲もあった、こんな曲も好きだった、とレッスンで叩き込まれたメロディをつま弾く。


 穏やかな音が、高い天井に響き渡った。

 すると、横から低いハミングが聞こえて来た。

 びっくりして手を止めそうになったが、それはヴォルテール様の声だった。


 上機嫌な鼻歌のようなハミングは、私の奏でるハープの音色にそっと寄り添ってくる。

 初心者が最初に習うような、単調なメロディだったけれど、ヴォルテール様の声が伴うとなんだか素敵に聞こえる。


 カイルが顔を上げ、音楽に耳をすませるように小首を傾げた。


 私のハープと、ヴォルテール様の小さな歌声。

 二つが静かに絡み合って、部屋を満たしてゆくのが分かる。

 私は神経を研ぎ澄ませて、ヴォルテール様の声を聞いた。

 きっとヴォルテール様も、私の音に集中してくれているのだろう。


 それが分かって、たまらなく嬉しくなった。

 今、通じ合っている。そんな気がした。


(ああ、お母様の仰っていたことが、少し分かったような気がする)


 音楽が終わるのを名残惜しいとさえ思ってしまった。

 最後の一音が消えると、ヴォルテール様がこちらに体を寄せて来た。


「ミルカ嬢はこの歌を知っているか? 王宮で少しはやっていたのだが」


 そう言って口ずさむメロディには聞き覚えがあったので、私は次の音をハープで弾いてみせた。

 ヴォルテール様は微笑んで、では次はそれを歌おうと言った。

 私がつま弾く音に合わせて、ヴォルテール様が静かに歌い始める。

 声を張り上げるわけでもなく、ただ私とカイルにだけ聞かせるように。


 歌詞が次第に、恋に苦しむ男性の心情を吐露したものになってきて、私は遅ればせながら気づく。


(ああ、この歌って確か――恋の歌だったわね)


 妙な感じがする。

 ヴォルテール様が恋の歌を歌っている横で、ハープを弾いているなんて。

 けれど、特等席で聞くヴォルテール様の声は、それはもう見事で。

 時折声が掠れるのも良かったし、低音を響かせるような歌い方は、なんだか腰の辺りがぞわぞわした。


 流行歌らしく、臆面もなく愛を乞う歌詞は、意味だけ聞けば少し軽薄に感じられる。

 けれどそれも、ヴォルテール様の美しいバリトンにかかれば、情熱的に感じるから不思議だ。


(まるで私に向けて歌われているのだと錯覚しそうになる)


 そう思いながらちらりと顔を上げると、ヴォルテール様の濃い灰色の目が、私を見つめていることに気づいてしまった。

 熱烈、といってもいいほどの眼差しに、思わず指が違う音をつま弾く。

 慌ててハープに視線を戻し、正しいメロディを弾くことには成功したが、ヴォルテール様の眼差しを忘れることはできなかった。


(いえ、違うわ……。この歌は、私に向かって歌われているんだわ……)


 照れくさいやら嬉しいやらで、指先が狂いそうになるのを、どうにか踏みとどまった自分を褒めてあげたい。


 やがて歌が終わり、ハープの音色が余韻をたなびかせて空中に消える。

 どちらともなく視線を合わせる。

 ヴォルテール様の手が、私の頬に伸びる。

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