56話 昔々のお話


 ハンス皇子が十歳のとき、そして私が八歳のときに、その事件は起こった。


 その時はまだプラチナドラゴンは生まれておらず、けれど王宮の威信のため、父はよく王宮のドラゴン舎に出入りしていた。

 幼い頃からドラゴンが大好きだった私は、父について王宮のドラゴン舎にしょっちゅう顔を出していたから、国王陛下は私の名を覚えて下さるようになった。


「この年にしてドラゴンの扱いが上手いとは、さすがアールトネン家の長女だ。どうだ、ハンスの婚約者にならないか?」


 国王陛下からそう言われて否を唱えられるものはいない。

 婚約者といっても、まだ双方が子供同士の場合は、後々話が立ち消えることもある。それにこちらは貴族とは言え、大した領土も力もない。

 だから父はその話に頷いたのだ。いずれ二人が大きくなったら反故になる話だろうと見込んで。


 けれど幼い私たちにとって、この約束は大きな意味を持った。

 婚約者。将来のお婿さん。

 八歳の私にとって、婚約者は運命の恋人のように見えたものだ。この人と共に生き、愛を交わすのだと、幼心に信じ切っていた。

 それはハンス皇子も同じだったようで、幼い私たちは生真面目に婚約者として振る舞っていた。


 そんな、ある日。


 ハンス皇子の母親――つまりは王妃が、王宮の東の庭でお茶会を開くことになった。

 私はその席に招かれ、ハンス皇子と並んで座り、大人たちのお喋りを聞くともなく聞いていた。

 大人たちは話すばかりで、何も面白いことをしてくれない。

 退屈を持て余したハンス皇子は、私を連れて、お茶会の席をこっそり抜け出した。


『来いよミルカ。こっちでドラゴンと遊ぼうぜ』

『だめですよ、ハンス様。ドラゴンは犬や猫とは違うのですから、尊敬の気持ちを持って接しないと……』

『いいからいいから! 鱗のコレクションも増やしたいし、今日は何が落ちてるかな』


 ドラゴンの体から自然に抜け落ちた鱗の中には、紙せっけんのように透明感のあるものもあって、ハンス皇子はそれを集めるのがお気に入りだった。

 鱗拾いくらいなら危ないこともないだろうと思い、私はハンス皇子と一緒に、こっそりドラゴン舎の近くまで向かった。

 行先を大人に告げずに。二人だけで、こそこそと。


――多分それが、いけなかった。


『わっ見ろよミルカ、白い鱗だ! これはレアだぞ』

『それ、皮膚病になったドラゴンの鱗ですよ』

『汚ねっ。……って言ったら、ドラゴンは怒るんだっけ』

『落ちた鱗は大丈夫です。鱗を引っ張って抜いたらだめですけれど』


 子供らしい素直さで笑ったハンス皇子。

 私は顔を上げて微笑みかけたが――その瞬間、一頭のドラゴンが空から舞い降りてくることに気づいた。


 何か薄黒い靄のようなものをまとった、とても大きなドラゴンが、ハンス皇子に向かってかぎ爪を向けている。

 まるでフクロウが野の兎を狩るように、大きくかぎ爪を広げているのだが、背を向けているハンス皇子は気づいていない。


 あれは野生のドラゴン?

 一体どこから現れたの? どうしてこちらに襲い掛かって来るんだろう?


 そんなことを考えながらも私は、父の言いつけを思い出していた。


『ハンス皇子は将来、この国を導く偉大な王になられるかもしれないお方だ。ドラゴンたちが彼を傷つけることのないよう、よく見張っているんだよ』


 そうだ、ハンス皇子は王族で、将来国を継ぐ重要な存在なのだ。

 野生のドラゴンなどに、傷つけられて良い存在ではない!


 私は反射的にハンス皇子に飛びかかり、押し倒すように地面に伏せた。

 ごうっとすさまじい風圧を感じたかと思うと、背中に熱い焼きごてを当てられたような痛みが走った。


『きゃああああっ!』

『ミルカ!』


 信じられないほどの痛みが全身を襲う。服の生地が濡れて肌に張り付くのを感じ、ああ、血が出ているんだな、とぼんやり思ったことを覚えている。

 たった一度の攻撃でドラゴンが去ってゆくはずがない――そう思った私は、


『すぐにドラゴン舎に隠れて! 私は大人を呼んできます!』


 と叫んだ。

 しかし私の予想に反し、その黒いドラゴンは、空に舞い上がると去って行った。

 変だ、と思ったのもつかの間、私の体を押しのけて立ち上がったハンス皇子が悲鳴を上げたので、そちらに気を取られた。


『ミルカ、背中が酷い怪我だ……! 血もすっごく出てるよ!』

『えっ?』

『俺をかばって、こんな……。ごめんよ……!』


 ハンス皇子は顔を歪め、泣き出しそうな顔で私を見ている。

 彼は無事だ。血の一滴も流していない。

――それなら、全然かまわない。彼を守ることができたのだから。ちゃんと、父に言われたことを成し遂げられたのだから。


 やがて大人たちが駆け付け、私の背中の手当てをしてくれた。

 ドラゴンの爪には毒があるものも多く、私の怪我は酷いものだった。

 背中一面が抉れたようになって、焼け爛れたような赤黒い色に染まってしまった。

 王妃様は怪我の様子を聞くと、


『淑女がこのような傷を負ったなど、表沙汰にしてはかわいそうだわ。ハンスがこの怪我を負ったことにしましょう。ドラゴンからミルカをかばったことにするのよ』

『それは一体、どういう意味でしょう』


 青い顔で私の治療に当たっていた父が尋ねると、王妃は事もなげに、


『傷は男の勲章になるけれど、女にとっては足かせにしかならない。だから、ハンスが怪我を負ったことにするのよ。ハンスとミルカ、どちらにとっても良い話だと思うけれど』

『しかし、怪我をしたのはミルカの方です! そのような嘘は……』

『大丈夫よ、どうせミルカはハンスに嫁ぐのでしょう? 傷の一つや二つ、大したことないわ』


 王妃は、ドラゴンの襲撃を逆手にとって、ハンス皇子の武勇伝を作り上げたのだ。

 女の傷は不名誉だから、と。私の背中に刻まれたドラゴンの爪痕は、こうしてなかったことにされた。


 確かに王妃の手腕は見事だった。

 私とハンス皇子が婚約解消をするという可能性に思い当たらなかったのだろう。

 

 いや、あるいは――最初からそれを見越して、ただ私を利用しただけなのかもしれないけれど。

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