36話 今はまだ、尊敬でしかないけれど
「何しろこれから冬が来る。人手はいくらあっても足りないし、後ろを振り向いている暇はないぞ。ミルカ嬢」
その声には、憎しみの色も後悔の気配もない。
年月が洗い流した――というのは大げさだろうけれど、ヴォルテール様はきっと、打ち込めるものを見つけられたのだ。
北方辺境の領主という仕事は、過去を振り返りながらできるような、簡単なものではないのだろう。
「あの……。話して下さってありがとうございました」
「なに、隠していたわけではないのだが、あまり言う機会もなかったものでな。冬になれば、もっと深い話をする機会も増えるだろう」
「冬になれば?」
「ああ。山は雪に閉ざされ、外出は困難になり、生産的なことは何もできなくなる」
「なるほど。だから今こうしてがむしゃらに働いている、というわけですね」
私は書類を手に取り、お手伝いを再開する。
紅茶を飲み終えたヴォルテール様は、ごま入りのクッキーをつまみながら、
「夜会も多く
「夜会ですか。楽しそうですね」
「何を他人事のように言っている。あなたも出てもらうぞ」
「へっ?」
ヴォルテール様はにやりと笑う。
「冬にしか来られない客人もいる。彼らにあなたを見せびらかしたい」
「私は流罪人ですが……」
「そろそろその肩書は忘れた方が良いな。ここにいる人間は大抵そうだし、北方辺境におけるミルカ嬢の評価はおおむね『仕事が丁寧で早い』『真面目で誠実でおまけに美人』の二つに集約されるのだし」
「それは本当に私の評価ですか」
「無論だとも。胸を張れ」
過分すぎる評価に思わず笑ってしまうと、ヴォルテール様も顔を綻ばせた。
すると、いつもは鋭い眼差しが、眠たげに緩んでいるのが分かった。
見たことのない隙のある表情に、思わずどきっとしてしまう。
「本当にすまないのだが、三十分だけ仮眠を取る。三十分経っても起きなかったら、椅子から蹴り落としてくれ」
「蹴り落としはしませんが、承知致しました」
「……ああその顔は起こすつもりがないな? イスクラ、お前の主が三十分経っても私を起こさなかったら、お前が私を椅子から蹴り落とすんだぞ」
「『分かった』」
イスクラが暖炉の前で鳴いた。
ヴォルテール様はくくっと喉の奥で笑うと、そのまま腕組みをして目を閉じた。
びっくりしたのは、すぐに寝息が聞こえてきたことだ。多分十秒も経っていない。
(余程お疲れだったのね……。せめて一枚でも多く書類を片づけておこう)
ペンを走らせながら、ヴォルテール様が何気なく仰ったことを思い返す。
(ヴォルテール様がマルウィーヤ家のご出身だったなんて、知らなかった。ご親族が毒殺されて、濡れ衣で北方辺境へ流されて……。それでも、北方辺境をここまで発展させた)
王宮に住む人間がイメージする北方辺境は、寒くて寂れていて、あばら家みたいな木造の家に住んで、野生のドラゴンの襲撃に怯えている、といったものだろう。
私もそう考えていた。ぼんやりと、ここに来たら死ぬ運命しかないのだと思っていた。
それがどうだろう。
私は今、火吹き種のドラゴンが暖炉の前で寝そべっている部屋で、北方辺境の領主に代わって書類仕事をしている。
(好きなドラゴンに関わる仕事ができて、私の能力を必要としてもらえるのは……ヴォルテール様がここを統率の取れた美しい場所にして下さったおかげね)
なるほど、周囲の人から慕われるわけである。
(この人のために働きたい。この人はきっと、頼まれなくったって険しい道を行かれる方だわ。だったら、その道のりが少しでも楽になるように、手助けをしたい……。私のできることで)
少しでもこの方への負担を減らすべく、私はペンを握り直した。
――三十分後、イスクラが容赦ない頭突きを浴びせる寸前、ヴォルテール様はぱっと目を覚ました。
イスクラが少し残念そうな様子だったのは、内緒にしておこう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます